多元の会会報第155号の“七世紀の「天皇」号 新・旧古田説の比較検証”(古賀達也論考)読後感を多元の会の会報に中村通敏名で投稿しましたら、「多元157号」に掲載されました。

 読後感 “七世紀の「天皇」号  新・旧古田説の比較検証“について                          

私にとって古代史に目覚めてくれた古田武彦氏だが、最初の説から後に変った事例は数多くある。今回古賀氏が取り上げた「近畿天皇家の天皇称号」についてもその一つであろう。

特に七世紀後半の、白村江の敗戦以降天武真人が律令制定を発議し、死後六八九年に制定されたとされる浄御原令で「天皇」の称号が定まった、とされるのが通説の定説の様である。このあたりの日本列島の政治権力の推移については未だ明らかになっていないところが多い、というのが実情であろう。

 今回、古賀氏が「天皇称号」についての古田旧説と古田新説について取り上げたこと自体は問題ではないが、論考を読んで気になったところが数点あり、そのうちのいくつか挙げておきたい。

 ①古田説についての説明について。

古賀氏は、古田旧説では、例えば「天武はナンバーツーとして天皇の称号を使っていた」と述べるが、古田武彦はそのように果たして主張していたのだろうか、という疑問が生じる。

その根拠として古賀氏は『古代は輝いていたⅢ』「薬師寺の光背銘」をあげる。そこをチェックしてみた。

そこには「六世紀に至って初めて公権力への流入を経験した近畿天皇家」という古田武彦の表現は存在するが、「天武は九州王朝のナンバーツーであった」という表現は見えない。  古賀氏はどうして具体的に古田説を紹介しないのか。小生の読み方が問題なのだろうか。

小生には古賀氏の誤認識による「古田旧説」に基づいた論難となっているのではないのか、という疑念が浮かぶ。この「不正確性」については、以下の古賀氏の論述にも通じるものを感じるのであるが具体的に見ていきたい。

②古賀論考 六、「飛鳥地名の史料根拠」に見える、古田武彦は「七世紀における近畿の飛鳥という地名を否定している」かのような論調について。

古田説批判のその根拠はどこから来ているのか。この古賀論考には、単に七世紀には近畿に飛鳥という地名が存在していたことを示す物証を並べて見せている。しかし、古田武彦がそのような「七世紀における飛鳥という地名の不在説」をどこで述べているのか、具体的な指摘は見えない。

何も根拠を示さずに、あたかも古田武彦がそのように主張していたのか、と思わせるような論調での古田説批判のように思える。

古田武彦は万葉集批判三部作『人麿の運命』『古代史の十字路』『壬申大乱』の三部作で、万葉集などに見える人麿作歌の「主舞台」は奈良の飛鳥ではなく筑紫である、と論じているのではないのか。

古田武彦は、『明治前期、全国村名小字調査書』第四巻 ゆまに書房 に筑前の小郡の井上地区に小字名「飛鳥」が明治時代には存在し、その後「飛島」と変わったことを述べている。その小字名「飛鳥」に「ヒチャウ」と読み仮名が振ってあり、現在では「飛島」となっている、と書いている。

また、近くの麻氐良布神社の祭神に「明日香皇子」があることを知り、この「ヒチャウ」と「アスカ」を結び付けて、筑紫にも「飛鳥」が存在した、と論じているのである。

近畿の「飛鳥」に関係する文章としては、「飛鳥〈ヒチャウ〉」という地名について、四世紀あたりに地名の移転があったのではないか、という吉田東吾氏の意見があるという地元郷土史研究会の説を紹介しているに過ぎない。

これを「七世紀には飛鳥の地名は存在していない」という古田氏のあずかり知らない古田説に発展させ、あまつさえ、“近畿地域で出土・伝来した金石文に記された「飛鳥」を大和の飛鳥と考えるのが真っ当な史料理解です。遠く離れた筑紫の飛鳥と理解したい方にこそ説明責任が発生します”と述べる古賀氏の主張には、まさに「説明責任」が必要であろうと思われる。

古賀氏が古田説の根拠として挙げる『古田武彦が語る多元史観』ミネルバ書房 にみえる古田武彦の「飛鳥」に関する発言のどこにも「七世紀の飛鳥という地名の存在の否定」の発言はみられないのである。見られるのは、『古事記』序文にある「飛鳥の清原宮」について「浄御原」ではない、という指摘である。

古田武彦が主張していない「七世紀における近畿の飛鳥の地名存在の否定」をあたかも主張したかのように論難している古賀氏に対して、返答できない古田武彦に代わっての反論としたい。

 ③「天皇」という称号に関するいくつかの近畿出土・伝来の金石文を上げ、それらが古賀氏の主張を支持すると述べていることについて。

しかし、この中の「船後王墓誌」についての古田武彦の主張「この墓誌に記されている三天皇は九州王朝の天皇」説(*注1)が不当であれば、古田武彦の主張のどこが間違っているのか、古賀氏が通説を「是」とする理由を述べなければなるまい。

それに、野中寺の台座銘文も近畿出土・伝来としている。この台座銘文については検討し、九州王朝の天皇の可能性がある、とは書いている。

この弥勒菩薩像は一九一八年(大正七年)に蔵の片隅の箱から発見され、その台座に銘文が刻まれていたものである。(Wikipedia

この銘板には、丙寅年四月に「中宮天皇」の病気祈願に、栢寺の住職など百十八名が弥勒菩薩を寄進した、という文章が刻まれている。(*注2)

ところが、文章の解釈についての学者の意見はいろいろと見えるが、この台座に刻まれている「栢〈かや〉寺」についての考察を行った学者は残念ながらいないようだ。小生は残念ながら、古田武彦がこの銘文についての考察を見つけることができないでいる。もし知っている読者があれば教えていただきたい。

「栢寺」については、地元考古学者は、賀陽氏の氏寺と理解していて、備中国に存在した二十四もの廃寺の一つである、とされているだけで、野中寺の彌勒菩薩像の台座銘文の「栢寺」と結び付けてみていない。

しかしながら、この台座銘文をまともに読み、「栢寺」をまともに調べてみれば、「栢寺」が現在は「廃寺」として岡山県に存在していたことを知ることであろう。そうとなれば、「中宮天皇」は近畿王朝の天皇ではない、と感じるのではないか。

このように、この台座は、大阪の野中寺とは関係なく、もともと岡山県総社市の栢寺(廃寺)のものであり、台座にある「栢寺」「「近畿」出土とはとても言えないと判る筈である。

銘文にある「丙寅」に適合するのは、六六六年である。六六六年は天智天皇称制五年にあたり「天武以前」である。また銘文には「中宮天皇」という刻字も存在する。これらの点にも古賀氏は全く注意を向けていないようなのは不審である。

ところで、法隆寺の釈迦三尊の光背銘にある「上宮法皇」を「天子」と理解したのが古田武彦である。中宮天皇・上宮法皇についての古賀氏の見解を明らかにせずに、(八個の七世紀以前の金石文の紹介をしたのに続き)、“このように七世紀以前の「天皇」号史料は全て近畿で出土・伝来したもので、これらすべてを九州王朝のものとすることは困難です。わたしの見る所、野中寺の台座銘「中宮天皇」は九州王朝系の「天皇」(皇后か)の可能性を有していますが、他は近畿天皇家のことと理解する方が穏当です。”と述べる。

小生の判断は、少なくともこの「栢寺の弥勒菩薩」に見える中宮天皇は近畿天皇の誰か、ではありえない、と思われるのです。

古賀氏は、「船王後墓誌」・「栢寺の弥勒菩薩」に見える「天皇称号」について、それが近畿天皇家の天皇であることについてその根拠を論じることなく、七世紀の金石文を全て近畿天皇家の「天皇称号」とするのは、あまりにも粗雑な論証と言わざるを得ない。

 ④その他

「小野毛人墓誌」に見える「天皇」についても九州王朝の天皇とは思えない、九州年号も使用されていない、と古賀氏は主張されているが、古田説の具体的呈示がない。古田説のどこに問題があるのか、具体的に論じるべきであろう。六七七年に歿していることは墓誌の干支からわかる。大委国から日本国へ道中の出来事である。慎重に検討されるべきであろう。

また、古賀氏とは違う筆者の論考であるが、同「多元」155号に清水淹氏の「近畿天皇家の萌芽」にも、野中寺の「中宮天皇」について触れている。これは、「斉明天皇」のことでは、としている、ことにも気になった。

これは、「羽曳野市出土」というところに引きずられてなのか、銘板にある「栢寺」についての検討がなされていないのではないかと思われる。

もしなされていたら、備中国に存在し八世紀に廃寺となった「栢寺廃寺」について知ることができ、少なくとも「羽曳野市-出土の金石文」とはいえないことをご理解していただけたのではないか、ということも申し添えておきたい。

 以上、155号の古賀稿ほかについての、とりあえずの疑問点を上げた。古賀氏は稿末に「古田新説」について稿を改めて論じる、と記している。今回同様の手前勝手に論点の整理をして「古田旧説」「古田新説」などときめつけ、的外れの論述とならないように、と願うのみである。(2020年1月28日記)

*注1 『年報日本思想史』第9号2009「近世出土の金石文と日本歴史の骨格」古田武彦

 *注2 丙寅四月大旧八日癸卯開記 栢寺智識之等詣中宮天皇大御身勞之時誓願之奉彌勒御像也 友等人數一百十八是依六道四生人等此教可相之也(Wikipediaによる)