古田史学に関係あるみなさまへ  古田史学の会会員番号572 中村 通敏

 古田先生に勝手に弟子入りして十年少々の私ですが、古田先生が亡くなられ淋しい思いをされている方は私だけではないと思います。古田先生が播かれた種から芽が出て、ますます伸びていくようであれば、すでに平均寿命に到達して余命段階にある小生にとっては、以って瞑すべし、という心境で、先生のもとに参れる、と思っていました。

 しかし残念ながら事態はそのように動いていないようです。私は、特に古代史に造詣が深いということもなく、古田先生の三部作の精神から、通説によって拡大再生産される種々の著作を、時には身の程知らずに、ある時には自分の知識の無さを嘆きながら、真実の古代史を探求する観点から批評してきました。
その私が、古田先生のご紹介で古田史学の会に入れていただき現在に至っているのですが、最近あまりにも愕然とさせられていることが続き驚いているところです。

 これから述べることは会報などで確認できることです。私がペンネーム棟上寅七の名で古賀達也氏の「孔子の二倍年暦に対しての小異見」を述べました。それは今から十年ほど前のことです。(古田史学会報92号)
それは古賀氏が「『論語』の世界は二倍年暦である。なぜなら『三国志』の登場人物の死亡時年齢を調べてみると平均約五十歳であり、多くは三十~四十台で亡くなっている。これは二倍年暦であったと思われる。その『三国志』の時代を七百年さかのぼる『論語』の時代も、人々が『三国志』の時代よりも長命と思われない、つまり『論語』の時代も二倍年暦である、と論じられていたのです。

 それに対して私が『三国志』の時代と同じ時期の日本の弥生時代の甕棺墓調査の報告では、幼年期を生き延びた人々は、結構長生きで、五十歳以上を生き延びた生存者は20%はある、というのであるから、古賀氏の説はおかしいのではないか、と述べたのです。

 もう一点は『礼記』「夫婦の礼」の記事を二倍年暦の証拠、とされたのはおかしい、ということも併せて異論を述べたのです。それから、数年後、八王子のセミナーでこの件について古賀氏の意見を聞きましたら、弥生時代の調査記録のグラフというものの信用度について納得がいかない、というようなことでした。また、数年して福岡に講演に見えた時に『礼記』「夫婦の礼」について、私の個人的な経験でもあれは一倍年暦の証拠と思われますが、と言いましたら、それは特殊例でしょう、と一言の下に退けられました。

 これはまともに応答してもらえないなあ、と古賀氏が『論語』の二倍年暦の例を無理に引き合いに出されるので、何か『論語』に一倍年暦』の証拠がないか、と『論語』を渉猟し「託孤寄命章」の「六尺之孤」を二倍年暦ではなく「一倍年暦の証拠」として東京古田会ニュースに投稿しましたら、採用いただき178号に掲載されました。そこに、十年前から何ら応答のない古賀氏に何か意見があるなら言ってほしい、と結語したのです。

 さすがの古賀氏もやっと筆を取って東京古田会ニュース179号に、私への反論を寄稿してくれました。一読しただけですと、十年前の私の意見と今回の「六尺之孤」の全体に対して、古賀氏が反論をしているように受け取れる(ような)文章になっていました。ところがよく読みますと、肝心なところでは論点をずらし、自説をすり替えているのです。

 古賀氏の先の「孔子の二倍年暦」という論考では、「『三国志』の登場人物の平均死亡年齢からみてこの時代は二倍年暦である。だから七百年前の論語の世界も二倍年暦だ」という二倍年暦の根拠とされていたものが、今回は『論語』の子罕篇の「後生畏るべし」の文章や、顔回が四十歳で亡くなったのを孔子が夭折と嘆くのは、これも二倍年暦の証拠だ。また周王朝には在位年数が極めて長い王が多い、特に穆王は在位五十五年に及び即位時の年齢は『史記』によれば五十歳つまり百五歳生きている。これは二倍年暦でないと理解できない。というように、十年前の論拠とした『三国志』でなく『論語』それ自体に論拠を移されています。

 また、『礼記』の夫婦の礼については、「これについては説明を要さないであろう、やはり二倍年暦だ」と断定的に述べていたものから、今回は、「医療も生活環境も最高レベルの現代の認識で理解すべきでない」、と百八十度旋回させているのです。

 このような論拠を勝手に移して、小生の意見を、学問的とは言えない論議と退けるのです。これが古田史学なのでしょうか。古田先生も自説をよく「進歩」されました。しかし、こっそり自説をすり替えることなどなさらず、むしろ批判を受けて立つ、という姿が見られたものです。

 古賀氏の場合、おまけに最後には、弥生時代の生存記録を根拠として小生が二倍年暦ではない証拠として呈示したことに対して、「論語の時代と弥生時代という地域も時代も異なるデータを判断材料としたことについて「問題あり」、と結論しています。

 しかし、最初に述べましたように、古賀氏が、『三国志』の時代は二倍年暦とみられる、というところに私は異見を述べたのであり、『三国志』と同じ時代のデータとして弥生時代の生存記録を根拠にしたのです。

 以前の自分の説の根幹をすり替えておきながら、以前の古賀説に反論したことを非難するなど、全く盗人猛々しい、そのものです。人格的に不信感のある人が会長である、そのような古田史学の会の会員であることに私は耐えられません。小生は退会します。

 古田史学の会の沢山の方々にいろいろと教えていただきました。このようにお別れするのは残念ですが、古田先生の精神で共に学ぼう、という考えでは同じくする方も多いと思います。今後共のご厚誼よろしくお願いいたします。     

       二〇一八年六月十二日 

  中村通敏(ペンネーム棟上寅七