鏡王女物語 終章 注書 



注1001)州柔(つぬ)  韓国忠清南道の古跡です。周留(する)城とも云ったようです。百済が滅亡し遺臣と倭国軍が百済復興戦を新羅と唐の連合軍と戦いました。

注1002)転進(てんしん)  進路を変えることですが、軍隊では第二次大戦時「退却」の語を嫌って「転進」が使われました。

注1003)あかがね  銅のことです。金はこがね、銀はしろがねです。

注1004)束の間(つかのま)  ちょっとの間のことで、「束」は刀を握るところの部分で「短い」という意味になります。

注1005)静安寺(せいあんじ) 上海市郊外に静安寺という古刹があります。しかし、この場面に出てくるお寺と同一かどうかは不明です。

注1006)今生(こんじょう) この世に生きている間の意味で、現世のことです。

注1007)算段(さんだん) 苦労して方法ややり方を考え出すこと。金銭などを工面するという意味でも使います。

注1008)庫裡(くり) お寺の人たちが生活するための建物の部分をいいます。

注1009)動転(どうてん) 驚いて気持ちが平静さを失うことです。

注1010)一生の不覚(いっしょうのふかく) 一生涯における失敗

注1011)劉徳高(りゅうとくこう) 日本書紀孝徳紀に「定恵、乙丑の年を以て劉徳高らの船に乗りて帰る。」とあります。劉徳高は、唐の「朝散大夫沂州司馬上柱国」という肩書であったとも書かれています。

注1012)通詞(つうじ) 通訳のことです。古くは曰佐(おさ)といいました。古代の都の近くには「おさ」という地名が残っています。典型的な例は、須玖岡本の王墓墳の近くに「曰佐」という地名(福岡市南区曰佐)が残っています。須玖(春日市須玖)と隣接していますが福岡市なので、関係があることに気付かれないようです。須玖岡本が外来の客が訪れることの多い王宮の近くに存在していたことの傍証と言えるでしょう。

注1013)禅譲(ぜんじょう) 天子が一族でない人物に位を譲ることです。

注1014)吉野の海域  佐賀県の吉野ケ里遺跡がある一帯を古来吉野と呼ばれていました。吉野の海域とは現在の有明海を指します。

注1015)還俗(げんぞく) 僧籍にあるものが俗世間に戻り、俗人になることです。

注1016)風体(ふうてい) 人の見かけの格好のことです。

注1017)因果応報(いんがおうほう) 仏教用語で、人の行いの善悪でその報いがある、ということです。

注1018)天智天皇(てんぢてんのう) 舒明天皇の次男。幼名は葛城王子。次いで大中兄王子。和風謚号は、天命開別尊(あめみことひらかすわけのみこと)。母斉明天皇の後を継いで38代の天皇に即位されたとされます。当時の国際情勢からと思われますが、「大王位」には7年間「称制」と称して「大王位」に就かなかった、と日本書紀は記しています。のち、文武天皇の時から「天皇位」が正式に用いられるようになり、「天智天皇」という漢風謚号が追贈されました。

注1019)モガリ  前出(注431)「殯」と書きます。死者を本葬するまで長期間仮安置しておき、別れをおしむことが古代において行われました。

注1020)大織冠(たいしょくかん) 七世紀中ごろの冠位の最上のもので、藤原鎌足ただ一人が受けたとされます。

注1021)往生(おうじょう) 仏教用語で、現世を去って浄土に生きると云う意味で、死ぬことです。それから転じて、「往生する」というと、もうあきらめておとなしくなってしまう、という意味でも使います。

注1022正気の沙汰(しょうきのさた) 「まともな行い」のいみですが、「正気の沙汰でない」という否定形、つまり「まともじゃない」という形で使われます。

注1023邯鄲の枕(かんたんのまくら)  中国の昔話。邯鄲という地方で老人から枕を借りて昼寝した青年が、短い間に一生分の夢をみた、というお話です。

注1024志しを果たさで・・の和歌  元歌は前出(注202)「故郷」で高野辰之作詞です。前歌が一番で、これは三番の歌詞に基づいています。歌詞は「こころざしを果たして いつの日にか帰らん 山は青き故郷 水も清き故郷」です。