NET版の序文として 

中村通敏著『鏡王女物語』は新宿の原書房から2011年夏出版されました。自費出版で書店店頭に並ぶこともなく終わりました。

著者としては若い読者にも理解してもらえるように柔らかく書いたつもり、なのですが、舞台が古代のことであり若干注釈を入れないと若い方に理解して貰えないかもしれないという憾みもありました。

幸い、この本は好評裡に完売できました。しかし、手元にまったく本が無くなると淋しくなり、ネットで出そうかと思い立ちました。著者の疑似万葉調和歌の注釈に加えて、小中学生など若い読者に理解しにくい言葉の注釈、九州王朝説に基ずく人物設定の説明を各章の末に加えました。 

長文の推薦文を書いてくださった古田武彦先生も2015年にお亡くなりになりました。私もボツボツとその年代に近づいていますが、古代史関係の関係団体の機関誌に研究短文をのせたり、発表したりで時を過ごしています。

この本に中学生のころから協力してくれた「ノリキオ画伯」も、その後、念願の東京芸術大学油絵科に入学し、現在同大大学院に籍を置いて、アート(人生)に精進しています。又、コラボができれば、という夢は無理ですが、『鏡王女物語』のネット版を置き土産にしましょう。

(原本の)はじめに

 この物語を書くに至った動機 

会社を定年となり、趣味の古代史に打ち込めるようになりました。早速邪馬台国問題に取り込まれます。そして古田武彦さんの『「邪馬台国」はなかった』出版以来気になっていた「九州王朝論」に没入します。

 また、九州出身の著者にとって、邪馬台国は九州という思い込みも強く、高校生になった孫たちにそのような話をしてみるのですが、全く乗ってきません。

 古今和歌集にある、♪天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山にいでし月かも♪ という和歌は、九州で詠まれ、歌の中の地名はみな九州の地名だ、と古田武彦さんの説の受け売りをしても、この和歌自体を知りません。

 こりゃだめだ、古代や万葉集などに眼を向かせるにはどうしたらよいか、と頭を捻り、万葉歌人「鏡王女と額田王の恋物語」をジュビナイル風小説に仕立て上げてみようかと大層な目的で取り組んだものです。 

 鏡王女や額田王たちが活躍した七世紀はよく分かっていないところが多いので、それらの謎解きのも取り組んでみました。

 そのために、筑紫君薩野馬と日本書紀に出てくる人物に眼をつけました。このサツヤマ君を筑紫の天子幸山と仮定し、その息子にイキ皇子という人物を創作しました。まあ、物語といってもフィクションですから、歴史的な考証などに縛られず、かつ大枠は、筑紫に倭国王朝があった、というところで押さえました。

 鏡王女の父「鏡王」も記録では由緒がはっきりしていません。鏡王を幸山の異母兄弟で唐津の領主として、鏡王女に和歌の手ほどきをする、という筋立てであす。これだけでは、話がだるいので、サスペンスのスパイスも必要かな、と鏡王女がイキ皇子と結ばれるところを発端に持ってきて、後半に鏡王女の長男定恵がなぜ暗殺されたか、の伏線を張ったりしてみました。

 一番問題だったのは、鏡王女が七歳のころから四十歳のころまでの歌を捻り出すことでした。五十首あまりの和歌ですが、幸い万葉集研究家の上城誠氏に視てもらうことができ、世に出す自信がつきました。

 若者向きにはネット小説がいいかなあ、そのためには挿絵もあった方がよいかなあ、と絵を描くのが好きな高校生の孫にバイト代を出して書かせてみました。出来不出来はあるもののまあまあかなと思っています。その孫の名前をだすのもどうかなあ、と思っていましたら、ペンネームノリキオと自分できめました。本名川村を分解して付けたものだそうです。

 ともあれ、孫と爺のコラボです。今春そのノリキオが東京芸大(油絵)に入学できました。孫がバイト代わりに高校時代に書いてくれた挿絵も、折角だから入学祝もかねて世の中に出してみようか、と思い立った次第です。何はともあれ、古田武彦先生との接点がなければ、この本はうまれなかったでしょうし、まずもって先生にお礼を申し上げる次第です。

 原書房の社長が出版してくださる、というので、古田先生に原稿をお見せし、一言推薦の弁をお願いしてみましたら、びっくりするようなおほめの推薦文を頂きました。