筑紫の歌人が歌で綴る
恋と愛と動乱の七世紀

鏡 王 女 物 語(電子版)   文 中村通敏  挿絵 ノリキオ



電子版の前書き

 この『鏡王女物語』は2011年7月に東京新宿の原書房から頒価1500円で私家版として出版されました。

 小生の小学校以来の友人や、実業に携わっていたときの知人、親せき、特に古代史関係の同学の友のご協力ご援助によって完売することが出来ました。しかし、商業本として文庫本か出来ないかと、いくつかの出版社に当ってみましたが、ジュビナイル向きに書いたといってもちょっと専門的過ぎる(古田説過ぎる?)ということでいずこも食指を動かしません。

 この物語は、「新しい歴史教科書(古代史)研究会」のホームページの「道草」欄に、「真説?鎌足と鏡王女」という題で2008年1月に出した小文がおおもとになっています。

 その後、ジュビナイル風、かつ絵物語風、かつ歌物語風にブログ小説として「十勝村梨実のブログ」のペンネームで発表しています。その後、ブログでは飽き足らなくなり、古田先生の紹介で原書房から本として出してもらうことになりました。2009年1月にこの十勝村梨実のブログは一応閉鎖し、本の原稿の方に注力して2011年の出版となったわけです。

 その後も、本について残部はないかのお問い合わせもありCD版を作製し、お頒けしたりもしました。2015年3月、新しい歴史教科書(古代史)研究会のホームページのプロバイダー変更の機会に、ホームページに「中村通敏著作」の欄を設け、『七十歳からの自分史 私の棟上寅七』をアップしましたので、今回第二弾として『鏡王女物語』をネットに出すことにした次第です。

 なお、本の内容は変わっていませんが、新たに登場人物の紹介をしたり、前書き、目次、推薦文、などは巻末に移していますことをご了承ください。

鏡王女物語表紙表紙

主要登場人物の紹介

鏡王女かがみおうじょ     本書の主人公。幼名「安児やすこ
多賀たが       鏡家のばあや 安児の養育係り
宇佐岐うさぎ     多賀の弟の長男 長じて仏師
久慈良くじら     同じく次男 長じて部将
鏡王かがみおう      国王幸山の腹違いの弟 唐津の領主
息長おきなが      鏡王の妻 豊国領主の縁者
玉島王たましまおう     鏡王の長男
久里王くりおう     鏡王の次男
小夜姫さよひめ     唐津の旧家白宮家の長女
宮姫みやひめ       鏡王の側室の娘 後、久里王の妻
幸山君さちやまぎみ     日の本の国王 多利思北孤の孫
豊后ゆたかのきさき     幸山君の后
一貴皇子いきおうじ    幸山君の長男
中富鎌足なかとみのかまたり    幸山君の家臣から舒明天皇の元に移される
額田女房ぬかたのにょうぼう    夫は加羅で戦死し、額田姫ともども幸山君の奥に入る
額田姫ぬかたひめ      後に鏡王の養女となり中大兄王子と結婚
蘇我大夫そがのだいぶ    大和のうがや王家の大番頭
舒明天皇じょめいてんのう    うがや王家の長
寶女王たからのじょおう     舒明天皇の后
中大兄王子なかのおうえのおうじ   舒明天皇の次男
大海人王子おおしあまのおうじ   舒明天皇の三男
与射女房よさのにょうぼう    鏡王の大和での妻
定恵じょうえ       鏡王女の第一子
明日香姫あすかひめ    鏡王女の第二子
史人ふひと       鏡王女の第三子 後、藤原不比等
花子コッジャ      韓人 宇佐岐の妻



はじめに

家内の産地直販店巡りのお供をして、一休み、と近くの階段に腰を下ろしていましたら、「このおやしろにお参りに見えたのですか」、と突然声をかけられ、びっくりしてみあげますと、ふくよかな顔立かおだちの上品な老婦人でした。

「お参り、というわけででもないのですが、古代史に興味があり、家内のおともで新鮮な野菜や海産物を求めにきた時、ついでに時間を見て古跡こせきやお宮などを訪ねることが多いのです」
「そうですか。私は今、奈良の都の遷都せんと千三百年祭りとやらで、うるさくなったので、この際故郷に、と里帰さとかえりしてきたようなものです」

「ではご実家は、この糸島の近くなのですか?」
「いえ、松浦の方ですけれど、もう誰もいなくなって・・・。丁度よかった、誰かにお話ししておきたいと思っていたところでした。私の話を聞いてくださいますか?年寄りの昔話など、奈良の方ではだれも耳を傾けてくれないお話なのですけれど」

 あなたは同窓会などでも、女性にはすぐサービスするのだから、家内から嫌味いやみをいわれているわたしですので、この時もつい、「是非聞かせて下さい」と答えますと「和歌のことは、おわかりに?」と言いにくそうに続けます。

「こどものころに、百人一首のカルタあそびをしたり、学生時代に万葉集などを読んだくらいですけれど」「それで結構です。私のお話には、幼いころの、和歌の習作みたいなものが沢山入っていますので」家内を気にしながら、「十分や十五分ならば」と答えますと「そんなに時間はかかりません。千三百年も考えようでは、ひと時ですから」と、変な前置きがあって話がはじまりました。

 昔話といっても、せいぜい半世紀前の苦労話あたりか、と思ったのですが、「千三百年以上前のお話ですよ」といわれても、何も不思議に思わずに、その老婦人の話に引き込まれていきました。

「まず、何からお話しましょうか。わたしが一番生きてきてよかった、と思ったことからお話ししてみましょう、けどすぐに一番死にたくなったことにつながっていくのですけれど」と前置きして話し始めました。

みなさんにお聞かせするのに、その老婦人の話を物語風に整理しました。それでもなかなかご理解いただけないと思います。私も聞いた時、「筑紫ちくしに在った都での話、えっ、それって何?」と思ったのですから。しばらく我慢して聞いているうちに、だんだんと引き込まれてしまいました。

 

鏡王女の最初の話

 この十五歳の頃の一番記憶に残っていて、忘れようとも忘れられないのは、舒明じょめい天皇のご葬儀に一貴いき皇子が、筑紫の都から下って見えたことでしょう。久し振りにお目にかかる一貴様は、以前と比べて随分ずいぶんと大人びて、やせられて、遠い旅をされたせいもあるのでしょうおつかれになっていらっしゃるようでした。

 鏡王かがみおうと呼ばれている父上が、筑紫の話を聞かせて貰いたいから、と屋形やかたに泊まっていただくことになりました。朝から昼餉ひるげ過ぎてまでずーっと続いて、筑紫ちくし加羅からのお話をされていらっしゃいました。この間は、お二人だけ水入らずでのお話でした。

 時々お部屋に伺った多賀たがによりますと、高麗こまとか、蘇我そが一党とかなど切れ切れに耳に入ったと教えてくれましたが、どういうことかは分かりませんでした。ず〜と後になって、ああそういうことだったのか、と思いあたることもありましたけれど。

 それよりも、夕刻になって、父上が一貴様とお相伴しょうばんを、と申されてお呼びになったので、お部屋に上がりますと、もうお酒の支度が整っていました。

 気付きますと、いつもと違う三段重ねのさかずきが出ていました。
与射よさ女房殿から、盃を取る様にすすめられ、お父上、一貴様、私の順でお酒を頂きました。お酒が入りますと一貴様もいくらか元気になられたようです。安児やすこももう一つ、など何度もすすめられまして、少しぼーっとなりました。

 父上が、安児やすこも皇子と久し振り会うて、嬉しそうだなあ」などれ言をおっしゃいます。「皇子、今宵こよいはごゆっくりとお過ごしなされ、安児を夜伽よとぎさせますゆえ」
「これ多賀殿、ねやの支度と、安児に心構えなど、よしなに頼む」と、仰られます。
さかずき
 お酒の勢いもあったのでしょうか、こうなる運命と心の奥で思っていたからなのでしょうか、素直すなおに多賀に手を取られて別間べつま退きました。

 多賀から教わりましたことは、以前、額田王から聞かされていたことと同じようなことでしたが、自分のこととなると、もううわそらになりました。


「一貴様に、すべておゆだねなさいませ」
という多賀の言の葉だけが今でも耳に残っています。一貴様が明かりを吹き消される寸前に、らぎの中に、チラッと鎌足かまたりどのらしい人影が頭の奥によぎったような気がしましたが、すぐ一貴様の言葉で我に帰りました。

「世が世なれば、そなたを明日にでもわが妻君に貰い受けるものを。今、百済と新羅の戦がたけなわで、父君がご自身で出馬しゅつばする、というのを皆で止めているところだ。豊国とよくに大分だいぶが、自分が替わりにと言ってくれるが、彼のきみでは皆が従うか疑問だ。結局名代みょうだいで僕が行く。帰ってきたら迎えにきっと来る」と、ささやかれます。

「次のお会いできる時をお待ちします。お会い出来なければそれは運命と思うことにします、お心残りなくお働きを」などと、行っては駄目駄目と思っているのに、心にも無いことを言ってしまいました。

 一貴さまは、それ以上なにもおっしゃらずに、私をぐっと何度も何度も抱きしめてくださいました。“ぬばたまの この夜な明けそ” と上の句が頭に浮かびましたが、このよいは夜の明けるのが本当に早ようございました。

 次の日も鏡王に伝えなければならないことがある、と筑紫にお帰りになる前に又、屋形に寄られました。

 昨日そのように仰っしゃられていましたので、せめてものお守りを、と準備しました。
太宰府天神様のお守り札に、楮紙こうぞがみに「武運長久」安児と書き、堅く観世縒かんぜよりに編みこんで油を塗って、母上を思い出しながら、一心に願いを込めました。

 婢女
はしため
が、まだ日が高いのに、多賀に言われたので、と、閨の支度をしていきました。
 程なく、一貴さまが部屋にお見えになられました。

「鏡王殿に今お願いをしてきたところ」
「何を、でございますか?」

「言わずと知れたこと、そなたを筑紫へ連れていくことです」
「今からすぐにで、ございますか?」

「そうしたいのはやまやまですが、そうもいきません。此度の勤めが一段落したら、大君から鏡王殿に正式に貰い受けのお話をしてもらう、しばらく待っていてくれるね」
「はい」と、小さくうなずき、「このお守りをお持ち下さい」と、首にかけてさしあげますと、そのまま抱きかかえてくださって、後は、言葉は要りませんでした。

 いつ日が落ちたのか、終夜燈しゅうやとうに火がともされたのも気付かぬままの時を過ごしました。

  ぬばたまの この夜な明けそ 赤らひく

朝行く君を 待たば苦しも(*01)

 一貴様の腕の中で、今宵こよいはぐっすりと寝込んでしまいました。朝起きたときには、もう一貴様はおちになられていました。
 

後で、この時の気持ちをんだ、この歌の様に、「待つ」、という苦しみがどのようにつらいものか、しばらくはたましいが抜けた、というのはこのことか、というような日々でした。

「一気にしゃべってしまいましたけれど、お分かりにならないでしょうね。一貴皇子さま、とか、武運長久のお守りを紙縒りで結ぶなど、何のことやら、と思われることでしょうね。やはり回りくどいかも知れませんが、一貴さまと最初に出会ったころに戻って、順を追ってお話しましょう」

「まず、幼い日の思い出話からお話しましょう。年寄りは話がくどい、と思われるでしょうが」、と、くどくどと、前置きしての話でした。

 そのお話は、九州唐津からつ鏡山かがみやまふもとから始まりました。長いお話ですが、私同様に我慢がまんして聞いて下さると、その老婦人、本当かどうか、「鏡のヤスコ」と名乗られましたが、そのヤスコさんも喜んでくれることと、思います。



一、幼い日の思い出

私はまだ六歳で、ばあやの多賀たがと一緒にお弁当を持って、七山ななやまに春の菜摘みに出かけた時のことでした。

 お供は、腕白わんぱく盛りの多賀の小坊主が二人と、お弁当を入れた手桶を下げた、ねえやの江知えちです。蝶々ちょうちょうを追っかけたり、ハヤを追っかけたり、蜂に追っかけられたり、はしゃいでいます。まだ動きの鈍いクチナワを棒で叩いたりするのに忙しいようです。

 私も野の花が綺麗きれいなので摘み始めましたら、「ひめ、その花はアブラナだからその花は摘んではいけません、ツメ草のお花でかんむりをこさえてみては」、と多賀に止められてしまいました。

 多賀は小坊主たちにも、
「そこの茂みにあたりの地面を棒で叩くのじゃ、くちなわを追い出しておかないと小用こようせないから」「そんなに走り回ってアゼが壊れたらどうする。おかかりに見つかったらただじゃすまない、足の一本折られても文句いえないぞ」などと小坊主達に注意しまくっています。

それでもなんとか、小川の岸のせりやナズナやハコベラなどをかご一杯に摘んで、やれやれ昼を使おうか、と下の谷川に江知は水を汲みに、多賀はお皿の代わりになりそうな、ツワブキの葉っぱを探しに出かけました。
ふるさと
 本当にあのような時代があったとは夢のようです。 近頃は、亡き母上に教わった、おまじないをしなくても、昔のことが夢枕に訪れてくれます。

 この地で皆さんから「鏡の殿さま」と呼ばれている、お父様が、手を取り指を折り曲げながら、五・七・五・七・七と教えてくださった頃の、恥ずかしいばかりの幼い歌を思い出します。

夢見ては 思い出づるよ 小鮒こぶな釣り

 を追いかけし、なな山の里(*02)

お皿の代わりになるツワブキの葉を、ばあやの多賀が取りに行っている間に、子供四人がお弁当のおけの包みを広げようとしていました。「お前達は何をしとる、どこの者だ」と突然大声で怒鳴どなられました。

 見れば若い武士が大刀を背負って、矢をたずさえた従者と馬のくつわを引いた供を連れています。江知もちびさんたちも震えて口が利けません。 私が、「そちらこそ何者、われらは、鏡の屋形の安児やすこという名の者」と言えば、「お前達は聞いていないのか、ここらは立ち入ったら殺されても文句を言えないところだぞ」とのこと。

 多賀が騒ぎを聞きつけて、飛ぶように帰ってきました。「これはこれは、若様ではありませんか、何事でございますか?」従者が言います、

無礼ぶれいな!が高い!若君さまに向かってタメ口をきくとは!」

「おう、誰かと思ったら多賀か、まあよいよい。特牛こっといそう怒るな。この者は私の乳人めのとだった、多賀と申す鏡の者だ。何だ、見れば春菜摘みのようだが? もうそんな悠長ゆうちょうなことは出来なくなるぞ」

して、今日は何のご用でこの山中へお見えなので?」
「うむ、ここら一帯にはうろんな者が出入り出来ぬように関を作るべし、との父君のお言葉の指図さしずがどう進んでいるか、調べに来ているのだ。ここらは出入り無用の地のおれをしたはずだが」

「それは迂闊うかつなことでした。お屋形にこの二、三日顔を出していなかったので、ひい様にもこわい思いをさせてしまい申し訳ないことじゃ」
「それにしてもしっかりものの姫御よの。大きい方の小坊主はしょんべんちびらせているのに、お前達こそ何者!とふるえもせず言いよった、ははは。して、この小坊主たちは多賀、おぬしの子か、元気者だなあ」

「何をおおせですか、これはあが弟の忘れ形見でございます。弟が、去年の伽耶かやでの戦で露になり、それを聞いた嫁が、気がふれて死んでしまい、私めが育てているところなのです。もう、子供を作ろうにも相手にしてくれる者もいません、冗談じょうだんにもそのようなことおっしゃらないでください」

「それは悪かった、達者たっしゃで何よりだ。坊主達も何処どこぞへ修行しゅぎょうに行かせねばなるまいて、はて、考えておこう。おおそうだ、多賀や。あくる月あたりに、母上が吉野の湯に入りに参る予定じゃ。あそこの湯は足腰の痛みによく効くそうだ。そなたが案内してくれれば母上もお喜びになるだろう。如何かな」

「もうもう喜んでお供いたします。もう十年以上もお目にかかっていませんゆえ、年取った姿はあまりお見せしとうはございませんが」
「では、近々鏡殿に仔細しさいをお伝えするので、その旨よろしく頼む。そうそう、その姫御も一緒で見えたらよかろう」と言いおいて、颯爽さっそうと馬にまたがり去って行かれました。

そのお姿を後で思い出して、父上におそわった三十一文字に作ってみましたが、父上には、なんだか恥ずかしくて、胸の中だけに仕舞いこみました。

  健夫ますらお騎馬うま立つすがた見てしより馬上の美?少年

         心空なりつちはふめども
(*03)

「さっきの方はどこの若様なの?」と聞きますと、七山から帰りしな、道々多賀が聞かせてくれました。

「あのお方は恐れ多くも、あの多利思北孤たりしほこと名乗られた、満矛みつほこ天皇様のお孫さんに当たられるお方、一貴いき皇子様。今の、幸山天皇様はご先代満矛様の十二番目のお子で、五尺の大剣を執ったら日本でもカラでも誰にも負けぬそうな。じゃが、剣に強いだけでなく、満矛様に習われて、仏法に帰依きえされ、義理人情ぎりにんじょうにも厚い方で、皇太子であらせられる頃は、皆、聖徳太子とお呼びしたものです」

「他の王子様達は?」
上塔かみとうの利 と綽名あだなされた長男の、利皇子は、立派な皇子様でしたよ。次の皇子幸海様ともども、はやり病で亡くなられ、国人くにびとみな嘆き悲しんだものです」

「何人のお子様がいらしたの?」
「全部で十五人の皇子と八人の皇女がいらした。姫のお父様は四番目で鏡にご養子にお見えになったのです」

「では、さっきの若様は・・・」と考えていますと、
「そう、従兄妹いとこにあたるのですよ。沢山の皇子皇女方は、色んな国造くにみやっこに養子やら養女のところに、出されて、いわば、この日の本の国は、満矛一家みつほこいっかといってもよいくらいなのですよ」

「そしてどうなったの?」
「満矛さまが、上塔様に位を譲られ、法王さまとなられて、なぜかそれからいろいろと凶事まがごとが続き、年号を変えてみたり、吉凶を占ったり、いろいろしても効き目がなく、満矛様、鬼前皇后様、上塔様が次々と亡くなられたときには、この国はどうなることか、と思いました」

「でも今はこのようにおちついて・・・」
「そう、お若かった幸山様が、しっかりと差配さはいされたのです。鏡のお殿様も太宰府に上がられてお助けされました。そうそう、姫はそのころお生まれでした。七年の喪が明けて晴れて大君様に即位された時には国を挙げてお祝いしたものです。年号もその時に聖徳と改められたのです」

「そのとき多賀も喜んだのでしょう?」
「伽耶の国に出ている私の夫のことの方が心配で、心配で・・・・それが本当になってしまった」

「ごめんなさい泣かせてしまって」

 一息ついて多賀は言葉を継ぎます。「満矛君さまは無事に幸山君さまに継がせることがお出来になって、安心してあの世でお休みになっていることでしょう。いまの若様が、世継ぎの一貴皇子さまで、お后さまはあまりお体が丈夫ではござらぬので、わたしのお乳を飲んでお育ちになられた」

 さきほどの国の備えを整える、という若様の話を思い出して、「どうして海の向こうにまで戦に出て行くのでしょう?」と聞きますと、
「出て行かないと向こうが攻めて来る。戦で負けると国人くにびとはみな、男はやっこ、女ははしためとされ一生こき使われ、けだもの並みとなる。それだから、戦にいくのは仕方ないかもしれないけれど、なんとかみんな生きて幸せになることは出来ないものか、とつい愚痴ぐちになってしまいます」

「戦で負けると本当にそうなるの?」
「本当ですよ。鏡の殿様にお聞きになったら教えてくださいますよ。満矛君と張り合ったモロコシが、琉球おきなわに攻め入って何千人もの国人が連れ去られ、満矛君は、それにお怒りになってモロコシと国交断絶されたのですよ」

「父上から聞いたのですが、その隋国ずいこくは乱れているとか、とてももう攻めて来れないのでは?」
「おや、その後の話を聞いていらっしゃらないのか。隋の天子の家来が天下を取って唐という国を建て、先ごろ大唐帝国の高なんとやらという使者が都に見えたの。しかし、南カラの新羅しらぎという国がこの際とばかりに百済くだらに攻めてくるので、幸山様は一生懸命なの」

「どうして?」
「それは、幸山様のお妃のお一人は百済から輿こし入れになったのだし、昔からの仲良しの国なので困った時には助けなければ、というお考えからでしょう」

「どうやら、カラの国での戦が激しくなったようだ。ひょっとしたら、この唐津の浦や、裏山一つ隔てた吉野などのお城にも敵が攻め寄ることも考えられる。そうは絶対させん、と村主すぐりもこの前の寄り合いでいっていた」とチビ坊主が口を挟みます。

「確かに、筑紫の里々も一軒一人のようの定めがそれではやっていけないと、年寄りの面倒を見る要のない若者は皆、村主のところに集められているそうな」
大きいほうの坊主の宇佐岐うさぎも云います。「火の国衆、豊の国衆では足らず、播磨はりまの国衆や紀伊の国衆まで合力ごうりきをお願いしているそうな。だからそう心配しなくてもいいんでは?」

「これわっぱたち、一丁前いっちょうまえの口を利きよるが、お前達はひい様のお守りも出来ぬのか。さっきはションベンちびらせて、おさむらいに笑われてくやしくはないのか」
ちびの方が言い返します。「ちびったのは宇佐岐兄者じゃ、わしゃ、何か変なことをしたら、ケツにみつこうと思うとったが」

 多賀が笑って「これ久慈良くじら、お侍にケツ蹴飛ばされずによかったな」宇佐岐の方は下を向いて、「僕はひい様のツメ草の花のかむりが、馬から喰われはせぬかと、そればっかりが心配で・・・」

 チビクジラは、「早く年を取りたいな、南カラだとて北の高麗こまだって、父上の形見の高麗剣こまつるぎがあれば百人力だ。多賀おばさん、若殿に修行じゃなくて、鬼太の兄貴と一緒に、南カラに連れて行ってと頼んで・・・」といい終わらないうちに、「馬鹿云うでない。私を又泣かせる気かえ?」と多賀の声がかすれます。見上げますと、多賀の目は真っ赤になっていました。
高麗剣
 そんなこんな話をしていると、じきにお屋形を囲む森が見えてきました。子供達の喚声かんせいが風に乗って聞こえます。きっといつものように腕白大将の鬼太がチビさんたちを集めて戦ごっこをやっているのでしょう。

 周りの大人たちが、海の向こうでの戦の話を面白おかしく、大げさにするので、男の子たちは、遊びでもするように戦のことを思っているのでしょう。きっとこの時の久慈良は、親のかたきを討ちたいばかりの、この和歌のような気持ちだったのでしょう。

 今思うとあの頃は、国中が戦・戦・戦・戦と熱に浮かされていたようです。

  高麗剣こまつるぎ われにしあれば 百人ももたり

 えびすたりとて 怖れえはせじ(*04)



二、故郷 鏡の里


 屋形やかたは、松浦川に注ぐ鏡の里の小川の近くに立っていました。母屋おもやに私達がすんで、まわりの小屋小屋に手伝いの家族、十家族以上が住んでいます。その内の一つが多賀たがの小屋です。

 他の家族は、田のかかり、綿のかかり、おかいこのかかり、海のかかり、山のかかり、蔵のかかりなどの持ち場があって、外の部落のそれぞれを束ねているということを、大きくなって知りました。

 そのほかに若衆小屋があります。男の子たちは若衆小屋に集まり、女の子たちは、それぞれの母親のところに一緒に住んでいて、田植えや綿摘みなどの忙しい時には皆で手伝いに出ます。

 大きな母屋にはお父様とお母様、それに私の三人です。あと、じいやとばあやと、手伝いが五人ほどいます。二人の兄たちは若衆小屋で寝起きしていますが、父上がご在宅の時には父上の言いつけに従って読み書きなどしています。

 時々父上の声が聞こえます。
「お前達は、もう少し書物に熱をいれたらどうだ、戦物語とか剣の修行には身を入れるが、一度読み聞かせたら覚える安児やすこを見習ったらどうだ。今からは、百済くだらでなく唐国もろこしして行かねばならぬ世になっているのに、読み書きが出来ねば、たとえ一時腕力で勝っても、結局負ける」

幸山さちやま大君さまは剣と義があれば必ず勝つ、義が正しければ邪に必ず勝つと仰っている、と聞きますが・・」と、年上の玉島兄が云います。
「ふむ、それが危ういのじゃ。敵は理と利とかさで来るというのに」とお父様が諭すように仰います。

「父上は、若い頃遣隋使けんずいしで隋に行かれ、かの国の大きさに呑まれてしまったのではないか、と噂するものもいます。もうわが日本も、大和のうがや一統様始め、遠くは毛野の大王様まで一緒になって事にあたろう、という世の中になっています。絶対、隋の一部将の成り上がりの、モロコシずれに負ける筈がありません」と、年若の久里くり兄も一生懸命しゃべっています。

それに対してお父様は、かわずには大海はわからぬ。お前達も、目を広く世の中をみてもらいたいものじゃ」など難しい話が続いていました。

 世の中は激しく動いていたのですが、子供心に映る松浦の里は、穏やかなものでした。

 その頃の里の模様を思い出しながら少しお話しましょう。
舟遊び?
 この松浦の里は大昔から、お父様が仰るには、俾弥呼ひみこ様より古くの時代から栄えていた国だそうです。屋形の裏の鏡の山に上がると、冬の朝など壱岐いきの島影も見えます。眼の下に虹の松原が広がり、カラや外つ国へ行く大きな帆を張った船影が見えます。

 船といえば、松浦の川で、漕ぎ方を教えているのでしょうか、桜の花びらが舞う中を沢山の舟が浮かんでいたのを思い出します。

 その時は、遠い国へ戦に出て行くことの大変さを知りませんでしたから、次の和歌のように、きれいな眺めだ、楽しそうだ、としか感じることが出来ませんでした。

春うらら まつらの川の 舟遊び 

かいのしずくも 花と散るらむ(*05)


この屋形には、元はもう一人の、女御、和多田の女御にょうごが、がいらしたのですが、ゆえあって今は和多田の別宅に住んでいる、と、ねえやから聞きました。


 なんでも私より二つ上の宮姫という女の子がいるそうです。
そこのお子たちは三人生まれて二人が若死にされた、とかで、今親子二人で住んでいるそうです。

母上は「大君さまの御用もなのに、殿はミヤコにすぐ行きたがる」と、父上に仰ったり、「殿は、百済や隋国に学問をしにお出かけになられ、何を学んでこられたのですか。かの国では、男は一人の女子をなごを生涯の伴侶はんりょにする、という定めというではありませんか。このような教えは、習ってお見えにならなかったのですか?」など仰います。
 そうすると父上は、何もおっしゃらずに、お出かけになります。
「また和多田へお行きになられた」と、つぶやかれて、居間に入られます。そして、明かりを灯されて、きれいな二匹の白い龍か蛇のようなものが浮き彫りになった大きな鏡に向かわれて、お祈りを始められます。「このような世は早く終わり、新しい世が来るように」というような言葉を唱えられます。

 お母様は、ずーっと昔、海の向こうから渡って来た息長おきながのご一族ださうで、このような術に息長一族は優れているそうです。
 子供心に、この夜が終わって早く新しい夜がくるように、ということはどういうことだろうか、朝が早く来い、ということだろうな、と思っていました。

 父上は、私がお母様と一緒に、そのようなお祈りをされることをお嫌いになって、何かというと私をお呼びになり、手習てならいや遠いつ国のお話などを聞かせてくださいました。
 私は、お母様と一緒にいて呪文じゅもんの言葉を教えてくださるのを、上の空で聞きながら、安児やすこ、こちらにちょっとお出で」との、父上からお呼びが掛かるのを、いつしかいつも心待ちするようになっていました。

 冬の朝などよく、七つ星に向かってお祈りをされます。
 私が目を覚ましているのを知ると、一緒においでとお呼びになり、一緒にお祈りをしますと、本当に気持ちが晴れやかになります。冬の星座

 そのあと、お星様と運命のお話や和歌の手ほどきをなさってくださいました。いつでしたか、最近ほうき星が太白星たいはくせいに近づいているのが心配、とおっしゃっていらしたのが、後になって当っていたことを知りました。

 やがて自分の身の上に大きな運命の歯車が回る、ということを知らなかっただけ幸せだったのかも知れません。

  冴ゆる空 すしき光 降らせつつ 

しじまの中を めぐり行く(*06)


 もう少し、松浦での思い出をお話しましょう。

 年を取ってくると近間ちかまのことは忘れても、ずーっと昔のことは良く覚えています。きさきさまを吉野のいで湯にお迎えしたときのことを、まず思い出します。

 お后さまがお見えになることが父上に連絡があり、それから父上の指図があったのでしょう、多賀が行儀ぎょうぎのことにうるさくなってたまりません。歩き方・座り方・目の上げ方・物の言い方・ご飯の食べ方、走ったりしようものなら鬼のような顔になって低い声で叱られます。

 父上のように大きな声で叱られるのは応えませんが、多賀の叱り声を聞くと心の臓がギクッとします。お后さまの前で行儀の悪いところをお見せしたら、父上の恥になる、ひいては松浦全体の恥になる、と云われるのですが、なかなか叱られる種はなくなりません。

 お后さまは有明ありあけの海の方から吉野の湯屋に登っておいでになるそうです。鏡の里からは、反対の方向から峠を登り湯屋で落ち合うことになったそうです。
 玉島川を遡り、七山ななやまの新しい関所を通り過ぎて、峠を越すと、吉野川の源です。

 あの春菜摘みの時の若様はどうしているかな、と思い出しましたが、多賀には何となく話せませんでした。そこをだらだら下っていくと、やがて湯煙ゆけむりが見えてきました。

 そうそう、吉野ではなく、今では温泉は熊の湯、吉野川は嘉瀬川と名が変えられたそうですね。吉野の川のせせらぎのすぐ近くに、もうもうと湯気が立っています。岩をきれいに並べて湯溜まりが出来るようになっていて、その周りは石を積んで囲ってあります。

 もうお后さまは着いておいでで、湯にお入りになられているそうです。中に入っていった、多賀からしばらくして声がかかり、湯殿ゆどのにおそるおそる入って行きました。
 多賀がお背中を流し終わったところだったようです。

安児やすこというそうですね。こちらにいらっしゃい。いっしょにお湯に入りましょう」
とお声がかかりました。
 多賀からうるさく教わったとおりに、手桶で体を流して湯溜ゆだまりに入ります。

「ここの湯は女子をなごには天下で一番なの」と、仰いますので、
「何が一番なのですか?」と、お聞きしますと、
はだ綺麗きれいになり、体の内のあちこちの悪いところを直してくれる」と、お答えになりました。

「普通のお湯とどう違うのですか?」と、重ねてお聞きしますと、
「天と地のお恵みが、ここのお湯には入っているのですよ」

「都には天子様がいらっしゃるのに、どうしてお恵みがないのですか?」と、お聞きしますと、
「多賀や、この姫はなかなかの者ですね」と、多賀に仰り、こちらをお向きになり、「安児姫の云うのももっともなれど、都を吉野に持ってくるということも、これまた簡単にはいきませぬ。せめて月一度くらい出かけることを、大君様にお願いしているところなの」

「それでお許しが?」と、多賀が聞きますと、
「都からその吉野の津までの大路おおじが、ちゃんと通れるか見るには良い折だ、ついでによくそのところを見て報告するならば、と仰ってお許しくださいました」

「どういうおつもりで、大君さまはそのようなことを?」と、多賀が又、聞きます。
御笠みかさの御所から高良こうらのお城や吉野の津まで、駅馬はいまが急場にちゃんと走れるか、がご心配なのでしょう」

「では今からは、しょっちゅうお出ましなられますね」
「そう、せめてふた月に一度くらいは湯の香りをぎたいもの」
露天風呂
 豊皇后ゆたかのきさきとよばれるお后様は、ほっそりとして、はだがお湯で火照ほてって桃色に染められて、とてもお綺麗でした。多賀がお体をおぬぐいされている間ずーっと見とれてしまっていました。

「安児姫、湯冷めしますよ」と、お后様に云われてあわてて湯溜まりに飛んで入って、多賀から恐ろしい目でにらまれました。

 お后様は「元気が良いこと」とお笑いになられました。
「都に出ることがあったら、御所ごしょにいつでも遊びにお出で」と、仰ってくださいました、とてもとても嬉しく思いました。

 多賀が「大君様はカラにお出かけが多く、淋しゅうございましょう」と申しますと、浴衣ゆかたを身にまとわれ、お歌い出されました。

  君恋ふは 悲しきものと み吉野に 

      辺巡へめぐり来つつ 耐へ難かりき(*07)


 多賀がそれにつれて歌を歌ったのには、初めて聞いたので驚きました。
多賀が、長年乳人めのととして都に居た事を改めて思い出し、歌ごころがあることに感心しました。

  いにしえも 夫を恋ひつつ 声したふ 

        み吉野の道に 涙落としぬ
(*08)


 白宮一家と豆太を襲った、あの恐ろしい一夜のことを、次にお話しておきたいと思います。
 もう鏡の里の思い出話しには退屈されたと思いますので、切り上げたいと思っていますが、あの嵐の折の悲しい出来事は忘れられません。
 
 夏の終わりころでした。朝早くから中庭が騒々しいのです。沢山の人が集まっています。びっくりしたのは、あの腕白大将鬼太の一の子分豆太が、荒縄あらなわでギリギリに縛り上げられているではありませんか。

「お屋形様、このチビはあろうことか綿畑に忍び入り、二抱えものわた花を摘んで山に隠していたのでごわす。定めによって所払ところばらいで、やっことして売ることでようごわすね」と、人夫頭みたいなのが言います。筑紫の雷山いかづちやまの綿同様、この鏡の綿も、日本中で一番という評判だそうです。

 しらぬひ 筑紫の綿は 身につけて 
    
       いまだは着ねど 暖かに見ゆ
(*09)

という歌が、古歌集こかしゅうに載っていると、父上があとで教えてくださいました。

綿の畑は、綿の花が風に飛ばされやすいので、風があまり通らない場所に作られるので、こっそり出入りしても周りから分かりにくいそうです。
「なぜにそのような盗みを働いた?」と、父上が奴頭やっこがしらに聞きます。

「それが強情ごうじょうなわっぱで、一言も言いませぬ。先々どのような悪事をしでかすやからになろうや知れません。
ご存じないかも知れませんが、こいつの父親は海の向こうで戦さで死んだ、去木さるきの里の兄麻呂えまろです。おっかあも、先年はやり病で死んでしまっていますだ」

父上は、ちょっと考えられて、「兄麻呂の若いころを知っている。なかなか律義りちぎな男だった。定めだから、その息子を奴で売るのが筋ではあろう。しかしのう、父親を海の向こうで苦労させて、母親も死んだとあらば、こちらの面倒見が悪かったとも言える。ここにおいて行け、私に考えもある」

「運のいいわっぱだ。加耶かやの山の板引きかしらが、生きの良い若いやっこを欲しがってたのに」と、奴頭は、憎憎しげに言いました。

 叩かれ、足蹴あしげにされ、泥のかたまりになった子に、「川で洗って来い、逃げるでないぞ、安児、薬箱を出しておきなさい」と、父上が仰いました。
 豆太に軟膏なんこうを塗ってやりながら、「綿花を欲しがったのは誰、絶対に言わないから」と、指きりしました。なんと答えは「小夜さよ姫さま」でした。

 白宮一家は、この地では旧家で、昔は鏡家と同格だったそうです。先代が大君様のご不興ふきょうを受け、鏡の下についているそうです。ご当主は穏やかな人で、鏡王から調つき差配さはいを任されている、ということです。

 一人娘の小夜姫は、なかなかのシッカリ者という評判です。汐汲しおくみやら魚とりなど、男の子以上の腕前だそうです。腕白大将の鬼太も、小夜姫には一目おいています。

 私とは四歳きり違わないのですが、大人と子供くらい違います。けれど、小夜姫は、私が、字が読めたり、和歌が出来たり、ということで、対等に扱ってくれます。でも、あゆが登る季節に、鮎つりを教わったのですが、とても教わったように竿は振れません。見事に竿を振る小夜姫をみて、釣ることよりも、三十一文字に写し取ることに精を出しました。
アユ釣り
鮎を分けてもらい、帰宅しますと父上にばったり会いました。

「また、鬼太と川遊びか?」
「いえ、小夜姫と」

「この鮎はどうした」

「くださいました」

「安児も釣りを?」
「いいえ、ぼーっつとして、小夜姫の釣るさまを、三十一文字に移していました」

「ふーむ。で、どんなのが出来た?」



  松浦川 川の瀬光り 鮎釣ると

         立たせる姉の 裳裾もすそれなむ
(*10)



 お父様から、「安児も、男の子と戦ごっこなどばかりやっているのか、と思っていたが、随分と上達したものだ」、と、褒めていただきました。



 その白宮一家と豆太を襲った、あの恐ろしい一夜のことを、次にお話します。
 その鮎つりの数日後、大風が吹きました。
田の稲がみな吹き倒れています。風がすこし止んだかと思ったら、大雨になりました。

 父上はご不在で、差配の比都自ひつじが指図して回っています。
「明るい内に土手を見張れ」、
篝火かがりびけ」、「松明たいまつの準備をしておけ」、たわらに砂を詰めろ」、川堰せきを皆開けろ」、などと大声が飛びっています。騒々しいことこの上なしです。

 夜になりましたが、雨風は止まず、雷様もゴロゴロピカピカ始めました。土手に見張りに行っていた虎麻呂が、
宇木うきの白宮の近くで水が土手を越しそうだ。白宮殿に早く逃げろと云っているが、荷物が多くてぐずぐずしている」

「誰かおらぬか、荷物を出すのを手伝ってやらねば」、「しかしこの嵐では、どこが土手やら川やら道やらわからず、どうもなるまいて」、など言い合っています。

 流石の元気者の、腕白大将の鬼太も、ためらっていました。その状況を見て取った豆太は、すぐにも飛び出そうとします。

「待て、明かりもなしでは、白宮の家も分かるまいに」
「うんにゃ、おいには分かる、ピカピカが光っとるけん」

 そのころ白宮一家は、家伝来の大きな銅矛や鏡を持ち出そうとして、苦労していたそうです。豆太が、ピカッとする間に、方向を見定め、矛の入った長い筒を抱えて先導せんどうして行ったそうです。小夜姫があとで話してくれました。

「私の菅笠すげがさも飛んでしまい、ぬれねずみになりながら小走りで豆太の後を続き、もうすぐほこらがある森だと安心した時、今までと違った大音声だいおんじょうのピカッが来ました」

 息をんで話しの続きを聞きました。 みんな、地面に叩きつけられたように転がりました。気がついたら、雨も上がり、風も随分収まっています。お父様が、”よかった、もう一安心じゃ”と起き上がっておっしゃいますが、豆太だけは起き上がりませんでした。豆太が持っていた長い筒から煙が出ていたのです」

 この話しをする間、小夜姫は思い出したのでしょう、泣きじゃくっていました。この話を聞いて後で歌につくり父上に聞いていただきました。


   朝顔の 咲くや南風はえ吹き 嵐来つ 

          渡る波波 悲しみめぐる
(*11)


 翌朝は、嵐が通り過ぎ何事も無かったかのような青い空です。幸い、土手はこわれず田畑は無事でした。
今も残る横穴墓
 次の夜、白宮のおじさまが小夜姫を連れて見えて、父上と豆太のおともらいの相談があっていました。洩れ聞こえてくる声はこのようなことでした。

「流れ谷のお穴に納めるのが定めであろうけれど、この度はわがままを聞いていただきたい」と、おじさまがおっしゃいます。
「家に伝わるお宝の佐嘉鉾さかほこをあの子が守ってくれました。せめて亡骸なきがらはわが家の塚に納めたい、それも火葬でなく昔ながらの流儀で」と続けられます。

 父上は、「気持ちは分かるが、身分が違う。定めに従ってもらわないと示しがつかなくなる。確かに近頃は、大君さまがおすすめになるように、火葬というものが都近くでは行われるようにはなっている。しかし、人間は死後、人を含むさまざまな動物に生まれ変わる、この五体ごたいは単なる仮の姿だから惜しむことはない、焼いて捨ててよい、というところまでにはついていけないしなあ」と、仰られます。

勿論もちろんでございます。火で燃してしまうなど野蛮やばんなことは出来ません、何とかそこのところ埋葬のお許しを頂けませんでしょうか」
「たしかにこの豆太とやらは、なりは小さいがしっかりもので、例の綿花泥棒騒ぎの始末に、一貴いき皇子の従者、何と言ったか、そうじゃコットイというものの草履ぞうり取りにでも使ってもらうつもりであった。しかし今はまだ賤奴やっこの身、定めに合わないし」、との押し問答のようです。

 いきなり一貴皇子の名が聞こえてきた時には、この春先の七山でのお姿が目に浮かび、なんだか胸のあたりがドキドキし始めました。
 そこに、か細い声で「わたくしからもお願いします」と、小夜姫が、どうやら顔を床につけてお願いしている様子です。

 おじさまがいいます。「こやつが、あのチビを不憫ふびんがって、”お穴に納めるのなら、私も入る” と言い出し泣いてばかりで困っているのです。家宝のためにとはいえ、二人の命を失うことになろうとは。このお宝なども早くご先祖のところにお納めしておけば、このような目にわずに済んだものを」、と、おじさまが悔やみます。

 それを聞いて、父上が
「そういうことなら、どうじゃ、その家宝の矛を埋納まいのうしようぞ。豆太はそのお宝のお供ということで、棺に二人一緒に入れて納める、ということでどうじゃ、白宮」

 さすが父上と、父上のお知恵を誇らしく思いました。それにしても、小夜姫が後を追うような気持ちになったのか、その時には不思議でなりませんでした。しかし、親しかった人との突然の別れがこのように悲しいものだ、ということはよくわかる気がしました。あとで、この時の気持ちを思い出して詠んだのが、次の和歌です。


   別れそは この人の世の 常なるを

         流るる水は 涙なりけむ
(*12)



 このあと、小夜姫と豆太との意外な関係を知ることになります。

 もう朝夕が涼しくなり始めていました。もう貝拾いもおしまいの季節です。
 いつものように多賀とウサギ・クジラ兄弟と一緒に海辺に出かけました。

 ウサギは、多賀から、「貝殻ばかり拾うのに熱心では、どもならぬ。クジラのように身のある貝を拾わんかい」と叱られつつ、それでもじきに、手桶に抱えられないくらい獲れました。

 松林で一息入れようとしましたら、先客がありました。小夜姫でした。ボーっと夕日を眺めていました。
「あれ、小夜姫、何をしているのですか」

 みれば、肩には見慣れない肩衣かたぎぬがかかっています。
「それ珍しい肩衣ですこと、どこで求めたの?」

 小夜姫が口を重そうに開きました。
「あの豆太のお父様、兄麻呂えまろ様がカラの国から、お母様への土産に、と帰国のかたに託され、届いたカラの羊の毛で織ったものです。承知とは思いますが、豆太のお母様は、流行り病であっという間になくなられてしまいました。あとで、兄麻呂様がカラからお帰りになった時、いろいろ手伝ってくれたそうでありがとう、これはもう着る人がいないから是非貰って欲しい、といただいたの」ということでした。

「豆太も可哀想でしたね、お父様が戦死された後も一人で元気に生きていたのに。しかし立派なおともらいでした、お棺をみんなで担いで、白宮の者同様に扱ってもらって、よかったですね」、と言い、続けて何気なく「もし、あの時あのような大嵐がなかったら、豆太も死ぬようなことはなかったでしょうが、そのかわり、木こりやっこで一生を過ごさなければならなかったのですから」と、言ってしまいました。

「なぜそのようなことに? 私はちっとも知りませんでした」、と小夜姫が聞きます。
綿花泥棒として捕まった時のことの話をしましたら、「そんなこと!」と、絶句ぜっくした小夜姫は「私が悪かった、わがままを言ったばかりに」と、あとは何も語りませんでした。

 ただ海の向こうに沈む夕日を眺めて大きな目を見開いたまま、大粒の涙をこぼしていました。浜辺には、誰が作ったのか砂山一つ、寄せる波に崩れかかっていました。
砂山
 帰り道多賀が言います。「豆太は体は小さかったが、おませな子だった。小夜姫に懸想けそうしていたのでありましょう。もしかしたら小夜姫も悪い気がしていなかったかもしれません。綿の花を何故欲しがったかは、姫もやがてお分かりになります」
 聞いていて何となく、体が熱くなったような感じがしました。

 後になって、砂浜で腹ばいになってそのときの小夜姫の気持ちを思って詠んだのが次の和歌です。


  砂山の 砂に腹ばい 思い出づ 

        幼き恋の その痛みをば
(*13)




 三、太宰府 御笠の都へ


 もう鏡の里の思い出話は聞き飽きたことでしょう。お話を太宰府の都に移しましょう。

 ある秋の日のことでした。父上が、お出かけになっていた都から久し振りにお屋形にお帰りになりました。多賀が言うには、あまりご機嫌がよろしくない、とのことです。

 お屋形の大広間に沢山の人が呼び寄せられました。二人の兄たちも呼ばれています。時が経つにつれて、人々の声が段々高くなっていきます。

「われら鏡一統を幸山君さまは潰そうと思っておられるのか!」

「いや大君さまも今が大変なんじゃ。ここで手を助けておけば松浦は安泰じゃ」

「なにゆえ、大殿様まで、都に上がらねばならぬのか、今まで同様、年に二度ほど年貢ねんぐ納めと、お顔を見せてあげればよかろうに」

「若様たちが鏡に残こされても、われらがお守りすればすむが、大殿様とおひい様のお二人は、誰がお守りするのじゃ!」

 父上の声が聞こえます。
「皆ようく聞け。鏡はあまご一統の幸山大君さまあっての松浦じゃ。カラの国の戦に負けたら、天のご一統、大君様もなく、鏡もなくなる。知ってのとおり、亡き先代大君さまとわしの父上は、母こそ違え血を分けた兄弟じゃ。ご本家の願いであれば、なんで断れよう。皆のもの留守をしっかりして、火の国衆や豊の国衆にあなどられぬように頼む」
と、仰られると、あとは皆、声もなくなりました。

「それよりも皆の者、この機会を良い方に向けようぞ。のう玉島よ、もうお前も十七と立派に一人前じゃ。わしが、遠い都から指図していたのでは、ふるさとの人びとの気持ちも判らなくなることをおそれる。お前が今後は、松浦の頭領かしらじゃ」

 兄、玉島王子はあまりの驚きで、しばらく声がでません。

「でも、差配などのこといかようにすればよいものやら」
「心配は無用じゃ。母御を後見役につけよう。租庸調そようちょうのことなら、わしよりも詳しい」

 続けて、

「久里王子は、外との備え、外への繋ぎなど心して務めるように」
そして大きな声を張り上げられて、
吉日きちじつは、思い立った時が吉日、と昔から言うではないか。明後日は、老いも若きもこぞって集え!みさきの陣屋で祝宴じゃ」

 玉島兄の心情はどのようだったでしょう。世はカラでの戦の話しで持ちきりでした。わが国と仲の良い百済くだら、とそうでない新羅しらぎ百済を何かにつけて攻めてくる新羅。その北の高麗こまは又その北の国々と戦争をしている。百済を助けて戦うわが日本軍。
いくさごっこ
 人びとが口々に語るのは、その戦いでわが軍が断然強いこと。子供心にも私達の国がそんなに強くて、百済の人たちも頼りにしていることなどを誇らしく思っていました。

 戦いで亡くなったり傷ついたりする人も多いのになぜ戦をするの?なぜ仲良くできないの?など女女めめしいことは恥ずかしくて口にも出せなかったころでした。

 玉島兄が、こんな歌が出来ました、と威張って父上のところに見せにきました。


  梓弓あずさゆみ 引きみゆる このますらをの

      心は壱ぞ ちてし止まむ
(*14)

 父上は、戦いの元気付けに和歌を使うのは邪道じゃどうだ、と仰って、兄は可哀想にしょげていました。


 荷物をまとめる指図をしながら、母上は「殿方は都に行っても、すぐ又若くて新しい女房殿を見つけられるであろうから、むしろお喜びでは」などと父上におっしゃって困らせています。

 又、「この度は、もうお目にかかれぬのではないか、と私の占いに出ています。なにとぞ此度こたびは、ご一緒させてくださいませ」
「わがまま申すな、此度のお話は大君様たっての頼みなのじゃ。吉備きび摂州せっしゅうや毛野国などとの折衝役で、場合によっては摂州まで行かねばならないかもしれないのだ」
「それならなおさらのこと」
「しかし、ようく考えてみよ。この松浦の国はどうなる。お前がおれば、豊の国もまさかの時には助けてくれる。玉島にはまだお前の後見も必要じゃ。そうだもう一つ頼みがある。ほかに頼む者もおらず、勝手で済まぬが、和多田の母子の面倒も見てやってくれ」

 母上は気色けしきばんで、「何を仰いますか、とんでもない。向こうもここへは来たがらないでしょう。都に一緒にお連れになられたら如何ですか」
「そうもいかない。あの娘、なんといったか、宮姫といったか、玉島の遊び相手にどうかと思ったりするのじゃが」

「貴方様としたことが、何ということを仰いますか! あの娘は貴方様のお子ではありませんか。兄妹をわせるおつもりか!」
「仕方あるまい、白宮に頼むとするか」などと、二人は、終日ひねもす言い争いながらの引越し作業でした。

さくら貝
 ウサギはこのところ姿を見ませんでした。クジラが云うには「兄者は、丸でうつけになったようでメシもよう喰わん、折角の陣屋でのお祝いも要らん、と云うのでわしが二人分貰えてもうかったけどな」

 出立しゅったつの前の日、ウサギがこっそりと来て、戸の外に包みを置いて逃げるように去っていきました。開けて見ると、きれいな桜貝でした。どのようにして描いたのか判りませんが、貝の内側にはきれいに女の人の顔が書かれていました。

わたしも何か悲しくなり涙に暮れていますと、多賀はわけも知らずに、
「わたしが一緒にいくのだから心配されますな」と云ってくれました。桜貝が多賀の目に留まらなかったのでホッとし、やっと落ち着きました。

 いつあの桜貝を失くしてしまったのでしょうか。その折の気持ちを三十一文字にまとめ、心に留め置いた歌だけは覚えていますが。


  松浦の 玉島浜の 忘れ貝 

      われは忘れじ 年はぬとも
(*15)



 わたしには、あまり御笠みかさの都、太宰府にはよい覚えが残っていませんでした。物心ついた二〜三歳のころ、父上が都に上がられるのに従って、母上と一緒に牛の背に乗って揺られて行きました。今、思い返しますと、幸山さちやま大君の即位のお祝いだったようで、どこもかしこもお祝い気分が満ちていました。

 そのころちまたでは、次のような和歌がよく歌われた、と父上が教えてくださいました。


  もろびとの こぞりて祝ふ 大君の

      待ちにし時は 今ぞ来ませり
(*16)


 都は確かに道も広くて家々も立派なのも多かったけれども、ほこりっぽかったし、匂いも国と違う臭い匂いがしていたのが強く頭に残っています。お屋形の近くに立派なお寺がありました。柱や壁は朱色や金色に塗られ、瓦は薄茶色で、夕日にえてきれいでした。

 そのお寺には大きな鐘があって、近くで、ぐお〜お〜んと鳴った時などびっくりして耳をふさぎましたけど、後で耳からころりと耳垢みみあかが出てきて、何となく恥ずかしい思いをしたこともあります。

 一つだけとっても嫌だった覚えがあります。それはかわやです。国では、厠は流れの上にうまく作られていて、いやな匂いもしません。都ではおまるという桶に用を足して蓋をすると、はしためがどこかへ持って行って洗ってくるのですが、おまるが置いてある厠が、カビやなんぞの入り混じった嫌な臭いで、なるだけ我慢しなくてはいけないのが、とっても嫌でした。

 父上にそのことを言いますと、「もうじき長雨の時期になるから、そうすれば嫌な臭いも一緒に流してくれる。今は雨の少ない季節だからみんな我慢しているのですよ」と教えてくださいました。そのこと一つとっても、都よりず〜っと鏡の里の方が住みよいところと思えました。


  青丹あおによし 加沙の都は 咲く花の

     匂ふがごとく 今盛りなり
(*17)

 昔の都
 このように歌った方がいらっしゃると聞きますが、私には、花の盛りには嫌な臭いも消えて良かったということなのでしょうか、と皮肉っぽく感じてたものです。

 父上が仰るには、「都はしばらく朝倉の方に移っていて、最近又、御笠に戻ってきたのでほとんど皆新しく建替えられているので、綺麗なものだ」とのことで、すこし安心できました。

 このたびの都上りは、荷物も多いので、鏡の浦から船の旅にしようか、ということになりましたが、陸路に変えられたそうです。多賀が次のように教えてくれました。「二十ひろの船二そうが手配できず、十尋船では女子供は乗せられない」、と、父上が仰り、陸路くがじにしようということになったようです。

 二十尋船は、みんな大君さまの主船司しゅせんじが押さえられているそうです。「ここの浦の船だけでなく、松浦全部いや、火の国の船衆みな押さえられたとか。最近は、船の材料のくすまきの木も少なくなってしまって、火の国でも随分奥地に行かぬと見つからない。

 たとい見つけても木挽こびきが最近ではめっきり少なくなったとかで、新しい船は最近見ることができない」などということです。 そして、「物だけが船で都まで運ばれるようになった」と、聞いているそうです。

 しかし、あとでこっそりとこのようなことも教えてくれました。母上が、父上が船での出立ということで、別れの歌をおみになられたそうです。それは、次のような和歌だったそうです。


  君が行く 海辺の宿に 霧立たば

       吾が立ち嘆く 息と知りませ
(*18)


 多賀が云うには「私が思うに、息長姫の伝来の呪術を恐れられ、海路を陸路とされたのではないか」とのことですが、私には、ことの当否は判りませんでした。

「船旅は楽といえば楽だが、一旦荒れたらどうしようもない。また荒津から都までは潮待ちもせねばならぬし、一番確かなのは、わが足、じゃて。幸い、安児やすこは野育ち同様で元気だが、心配は多賀の足だけ。多賀だけ船で荷と一緒に行ってくれれば、荷の見張りなどの心配もなくなる」と、父上は仰られ、多賀のほかは皆、陸路で都に行くことになりました。

 鏡の里から玉島の浜を過ぎ、海辺の崖の上の小道と浜辺とを何度も上り下りを繰り返し、きれいな姿のお山(加耶山という名だそうです)が見えてきました。この加耶の山は、いつぞや豆太が木こりやっことして売られそうになったところです。

 木こりの仕事は大変だそうです。特に、加耶山は元岡の里に設けられた、くろがねの吹き上げ処に使うたきぎをとる仕事が、最近増えて大忙しだそうです。昔は、ここの木は目通りふたひろなければ切ってはならぬ、という定めがあったそうですが、最近ではひと尋の木でも切って元岡に運んでいるそうです。
伽耶山の大木
 父上が仰るには、「このままでは加耶の山は禿山になってしまう、切った後には必ず苗を植えるべし、と大君にあらためてお触れしてもらわなければなるまいて」ということでした。

 そして次の和歌を詠まれました。


  鳥総とぶさ立て み加耶の山に 船木伐り

       に伐りてしも あたら船木を(*19)


「とぶさ」など始めて聞きましたのでその意味をお聞きしました。
「鳥総とは、大地の神様、木に宿った神霊に捧げものをして、伐採するお許しを受ける儀式のおりに、若木の枝を添えてお願いする、その若木のこと。伐採した後、その枝が元の木のように育つようにお祈りするのだ。最近は、そのようなしきたりを守らない杣人そまびとが増えているようでこれも困ったことだ」と、仰いました。

 やがて国境いの関所が見えてきました。関所でお父様が「ご苦労、ご苦労」と、声を掛けられますと、番所の頭領らしいのが、「お殿様の方こそ、本当にご苦労なことでございます」と、平伏へいふくして見送ってくれました。

 関所の先の海を見下ろす小高い岡にきれいなおやしろがあります。「ここのお社は、そなたの母御の祖先をお祭りしてある、鎮懐石ちんかいせき神社だ、ご挨拶していこう」と、父上が仰います。

 社守やしろもりの年寄りの夫婦が、さくら湯と干し柿を出してくれて、「ここのご祭神は、安児姫さまのお母上の八代前の息長おきなが女王様です。とても立派な方だったのです。それでこのように皆がご遺徳いとくしのんでお祭りしているのです」などと説明してくださいました。それを聞いて、すこし誇らしく思いました。

 そこを、過ぎると随分広い国が広がっていました。歩きながらいろいろとお話をしてくださいました。「ここら一帯が一番昔から開けたところで、大君様ご一族、天一族の本貫ほんがんの地とも云える。このいかづちの社が代々の霊をお祭りしているところ。この度は、日も下がってきているし、下宮げぐうからのご挨拶で済ませて、先を急ごう」とおっしゃって、今津いまずの宿に入りました。

「昔はこのような宿はなく、旅は苦渋くじゅうなものとされていた。和歌で、旅には草枕という枕ことばが付くことは、この前教えたので覚えておろう。百済の国に行った時など本当に草を枕に寝たものだ。皆、ほこらや大きな木の下で野宿をしたものだ。そのような経験をすると、家のありがたさがよく判る。今のように、どこにでも銀銭を払うと泊めてくれて、ご飯もいただける世の中は贅沢ぜいたくなものよ」などと、父上はお話してくださいました。
草枕
 その百済への旅立ちの折、母上は、この今津のほんの先の出立地しゅったつち荒津あらつまで、見送りに来られたそうです。そのときのお歌一首も教えてくださいました。


  草枕 旅行く君を 荒津まで

      送りそ来ぬる 飽きたらねこそ
(*20)



 今津の宿で泊まりました。疲れていたのでしょう、床に着いたら、すぐ寝入ってしまい、すぐ朝が来ました。 かゆの朝ごはんが済んだら、宿から、干し柿やかち栗を分けて貰い、それに水筒の水を入れ替えて早速出発です。お昼過ぎには都に入れるそうです。

 父上の前には、金色の大きな槍を持って、何人もの従者が前触れして進みます。周りの景色が珍しく、あっというまにお昼前の一休みになりました。一休み後は大変でした。草履ぞうり鼻緒はなおは切れるし、足は痛むし涙をこらえて足を引きずりながら、遅れないように歩きました。

 多賀だっても、我慢がまんできないのではないか知らん、私も船に載せてもらったらよかったかなあ、など思っていましたら、誰かがお父上に知らせたのでしょう、お父上が行列の後ろの方においでになりました。

「つらいか、よし、こうしよう」と、ぽんと抱えられて気がついたら、父上の肩の上でした。着物のすそがまくれているのに気付き、恥ずかしくてたまりませんでした。
かたぐるま
 もう覚えていないくらい昔に、肩車をしてもらった記憶はあります。こんなに気持ちが良いものだ、と改めて知りました。遠くの山も近くの木々も、ゆっくりゆっくり揺れながら動いて行きます。

「どうだ安児、歌でも詠んでみぬか」と、父上が仰います。しばらく考えて、

  ちちの実の ととさまの背の かたぐるま 

      ふわふうわ揺れ いとおかしけれ


 と詠みました。

 お父上はそれをお聞きになって、「安児、下の句はまあよい、気持ちがそのまま表れているからな。しかし上の句はいただけないなあ。枕詞にこだわりすぎている。確かに、父親の枕詞まくらことばは、ちちの実だが、かたぐるまは、大体父親が子供を肩に乗せる、ということは皆知っていることだろう」と、仰います。

「では父上、どのようにすれば良いのでございましょう?」と、ちょっとねてお聞きしますと、「父の背、は余分というもの。枕詞の練習というのなら、上の句を替えて見たらどうかな。


  久方の 光を浴びつ かたぐるま 

       ふわふうわ揺る いとおかしけれ
(*21)

 と、どうじゃな」真面目まじめ添削てんさくをして下さって、拗ねたのが恥ずかしく思いました。


 都に近くなった時、沢山の人たちがくわかごを持って働いていました。その仕事を指図していた人が、「鏡のお殿様ではありませんか」と、声をかけてきました。

「ああ、中富なかとみ殿か久し振りじゃな、元気そうでなにより。ところで、今日は何をなされてか?」
「ごらんの様に大君のお言いつけで、水堀の仕事のはかどり具合を見にきました」

「それはご苦労な、人手の方は如何かな?」
「ご承知でございましょうに。見てください。人の数はあるものの、年寄り、女子供が殆どです」

「ご苦労なことですね、では、又都でお会いしましょう。ああ、これはわが末娘の安児じゃ、足が痛いというので、この通りの格好で失礼」

 裾をはだけているのを、若い男の人に見上げられて恥ずかしくて目も上げられませんでした。もう朱雀門すざくもんも近くに見えます。

「父上、安児はもう歩けます」と、言って、無理に飛び降りるように、肩から下ろしていただきました。この時、この様に出会った人と、先々、長〜あく、お付き合いするとは夢にも思いませんでした。

朱雀門を入ったところで牛車ぎっしゃが待っていました。お父上が、牛車の中であの若い男の人について話してくれましたのは、おおよそ次のようなことでした。

「あれはな、春日かすがの中富一統の者。中富は、もともと対馬つしまの出と聞く。もう十年ほど前のことじゃが、百済から質としてこられたセシムが、セシムとは向こうの言葉で王子ということじゃが、対馬にまず、滞在されたのじゃ。それに饗応役きょうおうやくを務めたのが、先代の中富殿じゃ。 ひと月ほど対馬滞在して後、都に見えられたのじゃが、そのとき付き添ってきたのが、あの鎌足じゃ」

 言葉を続けられて、「なんでも、先代の中富の殿が、同じ年頃の息子鎌足をセシムのお相手役をさせたら、えらく気に入れられ、また、あの者ももの覚えがよく、すぐにセシムの言葉がわかるようになったそうな。都に来て、大君にもえらく可愛がられ、セシムが国に帰った後も、鎌足を都に留められてあのように、何かと重宝ちょうほうされている」ということでした。

 そして父上が、隋の国は使節としてお出でになった時の、何事も珍しくまた心細くもあったことなどお話してくださいました。ただ、文字を沢山知っていたので随分助かったし、向こうの人も感心してくれたものだ。安児は女子じゃけれど、いつ役に立つかも知れぬゆえ、文字の読み書きだけはおろそかにしないように、とさとしてくださいました。

 外国に行くとふるさとが懐かしくなつかしく思われるものだ、と昔を思い出して、父上は、次の和歌を披露ひろうしてくださいました。


  つ国の 清き川瀬に 遊べども

    加沙の都は 忘れかねつも
(*22)


 都の屋形に着いて、お手伝いが足を洗ってくれてんでくれた後も、しばらくは動けませんでした。船に預けず持って来た袋を広げ、片付けながら寝入ってしまいました。
鎌足の通訳
 夢の中で鎌足どのや幸山大君が出てきて、外国の人と話ししているようでしたが、昼見た顔と違ってなんだか恐い顔に見えました。当時のわたしは知りようもありませんでしたが、当時の都は大変な混雑であったそうです。

 多賀がいろいろと教えてくれます。たとえば、新羅の使いが来て大層横柄おうへいだったことだとか、今までと違って、服装もカラ国風が唐国風に変わってきたので、大君は、お前達は新羅の使者とは認めない、と追い返されたこととか。
 それを根に持って、新羅は唐と組んで、百済と日本をぶっ潰してやる、とほざいて帰ったとか。

 帰さずに斬っておしまいになればよかったのに、と周りが申したが、大君さまは、それは短慮たんりょというもの、戦になればともかく、今は義兄弟を誓った仲、先方が違約すればともかく、日本ひのもとの名にかかわる、と申されたとか、です。

しかし、百済からは、新羅が攻めて来る、何かとノミの食いついた跡みたいな細かい不平を理由に攻めて来る。是非助けの兵を動員して欲しい、と矢のような催促があっているというようなことや、大君さまも高句麗こまに使者をたてて、なんとかこの状態を解決したい、となさっていらっしゃるが思うようには事は運ばないようだ、ということや、高句麗は高句麗で、唐朝と北で戦をしていて、日本に応援を頼みたいくらいだ、ということです。

 後で、父上にもお聞きしましたら、図を描いて説明してくださいました。けれども、どこの国とどこの国がなぜ争うのか合点がいきませんでした。下図が当時の国々の図です。

七世紀 当時の国々

そういうことで、わが国は戦人いくさびとがいくらいても足りることはないようです。生めよ増やせよ、と子宝はいくらあっても良い、とはいえ、悪いはやり病も、外っ国から入ってくるのが最近多いようで、そんなこんなで、みんなが大変だということのようです。

 
特に、戦人でカラの国に出かけ、留守をみどり児と過ごす若女房殿が一番大変のようです。多賀も夫が帰らぬ人になった一人ですが、多賀が昔から懇意にしている、額田ぬかたの女房どのも同じだそうです。

 額田女房は、和歌詠みの名手だそうですが、夫の帰りを願って、このような和歌を詠んだ、と多賀が教えてくれました。


  他国ひとくには 住みしとそ言ふ すみやけ

      早帰りませ 恋ひ死なぬとに
(*23)


 そう聞かされましても、わたしには、遠い国の話で、自分にその火のが降りかかってくるとは、夢にも思えませんでした。

 相変わらず、みそひと文字を習ったり、手習いをしたり、あや取りをしたり、貝合わせをしたり、の毎日でした。年が変って、一つ年を取りました。父上が、年号が仁王におう十年になったから、公文くもんの日付も間違えないように、と係りの祐筆ゆうひつに仰っていました。

 もうそろそろ、鏡の里に帰れないのかなあ、と、夕方、近くの鐘つき堂で薄れいく景色を眺め、鏡の山の上からの海と島々の眺めを懐かしく思いだしていました。そこに多賀が私を探しに来ました。父上が大極殿だいごくでんから下がって来られて、多賀ともどもお呼びになっている、と云います。

 何事かと、お話しを聞きに、家に急いで帰りました。父上が、多賀に言います。
「そろそろ姫も、行儀作法ぎょうぎさほうを修めなければなるまいが、どうか」
「どうか、と仰られましても、もうお決めになられたのでございましょう」

「うむ。奥の額田女房の手元でどうか、ということだが。あそこには、同じ年頃の姫もいることだし、手習いなども一緒にできるし、一挙両得いっきょりょうとくと思うのだが」
「せめて、わたくしを付けてやっていただけませんか。お屋形様のお世話は、それ、ふた月あまり前にお目見えした与射よさの女房がわたしよりもよろしかろう、と思いますが、ふふっ」

「なにをそのような・・・。しかし確かに与射の女房は気が利くし・・・」
「安児姫は、利発りはつといってもまだ幼い子ですから、誰か気心の知れた者がついてあげないと心がふさがってしまいかねません」

「多賀の、わっぱ共の面倒はどうする気じゃ」
「もう上の宇佐岐うさぎは、十歳になります。本人の希望もあり山鹿の絵師のところに今年の初めから出て行きました。下の久慈良くじらは、いつぞや若殿様のりりしい太刀佩たちばき姿を見て、どうしても戦人さむらいになりたいとねだります。お屋形さまにこんなお願いをするのも、と思い、別当殿の伝手つてを頼って当麻たいま一党の手下で修業することになり、春になり阿蘇の山の雪が融ければ、そちらに出かけることに決まりました」

そんな話しがされたそうです。

 当麻一党は阿蘇衆の中でも力士が多いことで有名です。 父上もいつぞや、その昔の、当麻の蹴速けはや出雲いずもの野見宿弥すくねとの展覧試合の話を聞かせてくださいました。
 当麻の蹴速は、野見の反則の蹴技けわざを食らって負けたが、大君は、そのいさぎよさをでられたと聞きます。

 この二人が多賀の元を離れる話しを聞いて、多賀にたずねてみました。「多賀は、ウサギやクジラたちのことは気にならぬのですか」と。

「弟の子とはいえ、親同然に育てた二人、勿論気にはなります。しかしいずれは自分で生きていく。親離れは早い方が良いのですよ。このような和歌もあります。厳しいでしょうがこれが本当の親の愛というもの」と次のように和歌を詠じながらも、目からは涙がこぼれていました。


  垂乳根たらちねの 母にさやあり 聞こえしも

      な帰り来そ 事しなるまで
(*24)




 四、額田姫と一緒に

それからの二年間ほどは大変でした。額田の女房様のご房室の一間に、多賀と一緒に住まわせていただくことになりました。額田姫とは一つ違いです。とっても人なつっこい女の子です。こちらは、ぬか姫と呼び、むこうはヤスコ姫と呼び、まるで姉妹みたいと御殿内でも有名になりました。

 帯の締め方、髪のい方、御殿の中の歩き方にはじまり、座り方、目上の方への挨拶の仕方、戸の開け閉め方、ものの言い方、女奴はしためへの仕事の言いつけ方、手水ちょうずの使い方、沢山のことを多賀から教わりました。

 その合間に、額田の女房様から、ぬか姫と一緒に、もろこしの国の字を習います。字を習うだけでなく、すずり、墨、筆などのご用具の手入れの仕方、しまい方、きちんとできるまで何度も何度もやり直しです。そうしてやっと墨を摺ることを許されます。

 その墨を摺るときの作法も大変です。力を入れて音でも立てようものなら、もうその場で何もさせてもらえません。賢いぬか姫が得意になってすいすいと墨を摺るのをただ見ているだけ、これがとてもつらいのです。

 おまけに墨を磨ると手が黒くなり、磨き粉や糠で洗ってもなかなか落ちません。ハゼの実で擦るとよく落ちるのですが、一度試してみて二の腕までれ上がりました。肌に合わないようです。そんなこんなで、奥のご祐筆のお手伝いを許されるまでに二年以上かかりました。

諳  お習字のお手本は、千字文せんじもんというもろこしのご本から、女房様が木の薄板に抜書きしたものでした。まず、石の板に水で何度も何度も書き試しを繰り返します。一つの文字を何百回も繰り返し空で書けるようになって、初めて木の板に清書させていただけます。

 父上から教わった字が殆どでしたので、私にとっては、これは問題ありませんでした。けれど、いつもお母様の女房様から、この字は何と読みますか?と私には聞かずに、自分が聞かれることが多い、ぬか姫が悔しそうにしています。
お習字
 ある時、「ねえ母上、どうして、お手本の千字文には、十二支じゅうにしの字が入っていないのですか?」とぬか姫が聞きます。
「そんなことはありませんでしょう、ヤスコ姫はどうお思い?」と、こちらにお鉢が回ってきました。

「確かにぬか姫の仰るようになぜか十二支は殆ど入っていません。確か最初の方、四番目の句に辰が入っているだけだったと思います」
 悔しそうな顔は見せませんでしたが、ぬか姫が「じゃあ、十二支のこの字は何と読みますの?教えて?」と、これは難しいだろうとばかりに、いたずらっぽい目をして聞きます。

 石板せきばんに書いた字を見れば、十二支の三番目の字「寅」です。お父様から以前、星座のことを教えてもらいながら、方向方位も教わっていましたので知っていました。「トラと読んでいますけれど本字としては、インだったと思います。意味は確かうやまうという意味」と、答えましたら、「もう降参!やはりお姉さま!」と、平伏されたのにはびっくりでした。

 ぬか姫のことももう少し書かなければならないでしょう。一言ひとことでは言えない方でした。私には親切にしてくださいました。私の方が少しだけ先に生まれたのですが、姫の方が体は大きく活発で、御殿のしきたりもよく存じていましたので、自然私の方が反対に、妹分のようになっていきました。

 ただ、和歌などのこととなると私の方がお父上から教わっていましたので、少しはませていましたが、ぬか姫は負けず嫌いで、おまけに賢いお子なので、お歌など一度聴いたらすぐそらんんじられます。

 
ある時など、次のように大君のお御製の替え歌なども作られ、大声でえいじたりして、額田女房様に、ひどく叱られたこともありました。


  あおによし 加沙の都に たなびける 

        天の白雲 見れば飽かずも(*25)


ぬか姫のことをもう少し続けましょう。 室見川のほとりの、額田ぬかたというところから、大君様の御殿にお見えになったようです。背の君は、七年ほど前に新羅に大君のお使いに行って、事故においになられたそうです。

 若くて賢い額田の女房様の話しを聞かれた大君様が、乳飲ちのみ子だった姫ともども太宰府にお招きになったそうです。御殿の中で女房たちが、「本当に姉妹のよう。賢いぬか田の姉姫さまに、可愛い鏡の妹姫さま」とささやいているのが聞こえたりもします。

 私が、「いいえ違います。わたくしの方が姉さまです。だけれど、賢さも可愛さも妹に負けているけれど」と再々教えてあげたりしました。ぬか姫は本当に賢い方ですが、可愛いと云われる方がお好きのようでした。

 ぬか姫は物知りでいろんなことを教えてくれます。「安児姉さま、そんなことご存知でなかったの?」などいいながら、「昨日の表からのお使者のお名前は○○だとか、あの女御さまと△△の女房様はねやを一緒にしている」などなどです。

 眉のむだ毛の抜き方、眉の引き方、紅の差し方などについても、いろいろと教えてくれました。代わりにこちらからは、父上からいただいたカラ文字のお手本を見せながら、字のくずし書き方を教えて差し上げたりしました。

 毎日毎日遊んでいて、ちっとも飽きないぬか姫でした。松浦の白宮の小夜姫や遊び仲間のことも、最近は思い出すことも少なくなりました。それよりも夢の中までぬか姫が出てきて、幼い子供に戻ってけん遊びをしていたりもします。前世ぜんせからの姉妹なのかなあ、と思ったりもしました。

 あるとき、春の菜の花を摘みに、御殿の近くの石山のふもとの野に出かけたことがありました。豊のお妃さまも話を聞かれて、「是非ぜひに」とお見えになることになりました。そうなりますと、女だけでは心配と、父上も、警護の者を引き連れての参加ということになりました。

 額田女房様、与射女房殿、雑色ぞうしき婢女はしためなど沢山の一行となり、仰々ぎょうぎょうしくて賑やかな菜摘なつみになりました。
 土筆つくしも、そこここに頭を出しています。
つくし摘み
 
ぬか姫が自分の菜摘くしに、きれいな飾りを付けているのを父上がごらんになって、「ぬか姫は賢いなあ、誰から菜摘くしの故事こじをならったの?」
「いえ、ただ、土をほぐしますゆえ、すぐ汚れます。せめて使う前までは、きれいにしてやっておきたく、飾りたてました。お目ざわりに、なりましたでしょうか?」

「ええと、五代前になるか、戸手とで敷名しきな大君様が、野の菜摘する郎女いらつめ郎女(いらつめ)の菜摘くしがきれいな串だったのに目を留められ、どこのお嬢さんかと声をかけられ、そのご縁で、大君様のお側にあげられたという故事が、歌になって古歌集に残っている。ぬか姫のその心がけ、悪くはないぞ」とお褒めになりました。

 わたしは、「いやだなあ、自分を売り込むなんて、どんなお歌ですの?」とお聞きしましたら、歌ってくださいました。

 ♪
きれいな掘り串を持つきれいなお嬢さん、わたしは戸手の敷名と申す者 あなたのお家とお名前をどうぞ教えてくださいな♪(*26)


 という歌でした。

 海の向こうの戦のことは忘れてしまうほど、のどかな春の野に、お父様のお声が遠くまでかすんでいきました。豊のお妃さまも、「とても楽しかった」、と何度も父上に礼を言っていらっしゃいました。

 父上が、お妃は歌のお声がとっても綺麗、とヤスコが言っていましたので、是非に、とお頼みになりました。細く通るお声が、父上のお声を追いかけるようにかすんでいきました。


  菜畑に 入り日薄れつ 鐘のも 

      流れつ おぼろ月夜かな
(*27)



 その翌日のことでした。ぬか姫がお母様から聞いた、といって、「大和のうがや一統のたからの女王さまが、近々筑紫に上ってみえる。なんでも大勢の兵士たちを引き連れてくるから、都も騒々そうぞうしくなるだろう」、ということを教えてくれました。

 なぜか不吉な予感がしました。多賀が教えてくれました。
 うがや一統というのは、大昔はあまの一統と同族だそうです。鵜屋不葺合命うがやふきあえずのみことという将軍の息子達が、東の大和に根拠地を造ったそうです。今では、大和・河内・摂津・近江・山城と大きく勢力を伸ばしている一統だそうです。

 大和の田村王の奥方さまは、寳の女王とまわりから呼ばれているそうです。田村王はのちに舒明じょめい天皇とおくり名されたので、舒明天皇で話を続けましょう。

 舒明天皇との間に、王子や媛子ひめみこを四人お産みになられた。けれど、お体があまりお丈夫ではない舒明天皇の、マツリゴトの手助けをされ、今では大和の実質的な差配をされているそうです。

 もう、四十を過ぎたおばあさんなのに元気が良い方だとか、気が強く男勝りで義理堅い、宝石や黄金つくりの飾り物が好きだし、食べるものうるさい方だ、とか、大奥では噂が噂を呼んで、まるで鬼子母神きしもじん鬼子母神〈きしもじん〉のような、というところまで話はどんどん進んでいっています。

 お子様の王子たちも、親に似て利発で元気だそうです。カラの国の戦の応援を、うがや一統に大君が頼まれたので、義理堅い寳女王さまは、いやがる舒明天皇やその配下を押さえるためにも、自分も筑紫にのぼる、と仰っているそうです。

 しかし、心配する舒明天皇のまわりの人たちが、いろいろと大君さまに条件をつけているそうです。二百艘もの戦船つくりで工匠たくみたちは不足しているのに、寶女王の行宮あんぐう築造で、朝倉あたりの人手はみな借り出されているそうです。

 太宰府の御殿にある、泉水をめぐらした庭の評判を聞きつけた、蘇我大夫そがのだいぶが、女王のために、夜須の行宮にも欲しいと無理を言ったとか、かまびすしいことしきりのこのごろです。いずれにしてもこのような準備に一年以上かかることでしょう、というのが多賀の見通しです。

 ところで、御殿の奥は、女の人ばかりが住んでいます。めったなことでは、この大奥から出ることはありません。そのめったにないことですが、お祐筆ゆうひつが病でせっていたときに、御用が生じ、女房様から墨役に行くように言いつけられました。墨を摺る役として、ということでした。

 以前、墨が手につくと、糠袋ぬかぶくろでこすってもなかなか落ちないので、多賀に頼んで、竹を削って墨をはさむようにさせたら、うまく手が汚れないようになりました。女房様は、それをご存知だったようです。控えの間で墨を磨り、文机ふづくえ文机〈ふづくえ〉までお持ちしました。

 それで帰ろうと目を上げますと、「そなたは、鏡の姫ではないか」と、声が聞こえました。なんと一貴王子が、祐筆の代わりに筆を持っていらっしゃいます。びっくりして物も言えずにいますと、そこにお使者が入ってきましたので、控えの間に下がろうとしました。

 何と、そのお使者までが、「そなたは、鏡の・・・」と、言います。またもやびっくりして、お使者を見上げますと、都に来るときに、父上の肩に乗っていたところを見られた、あの中富の若者ではありませんか。顔が自然と赤くなって、控えの間に下がりました。

 大君が若い二人に、「おまえ達もなかなか隅にはおけんな。ヤスコ、あれはなかなかしっかりものだ。ただ言っておくが、赤めしはまだだからな」、などと、聞きたくもないお話をしばらくなさっていました。

 大君が、「ではこの文を大和の舒明天皇の元へ届けてくれ。あと一貴皇子、向こうの王子兄弟が下見に筑紫に上って来た時に、鎌足と相談してあれらの世話の件よしなに、頼んだぞ」と、お話は終わったようでした。

 この時の情景を、三十一文字におこしてみましたが、ちょっと照れくさくて、お父上にも、ぬか姫にも言えませんでした。


  大君の 大奥の間を かしこみと 

      侍従さぶらふ時に 逢へる君かも
(*28)




 七夕たなばたの節句休みで、久し振りに宿下やどさがりの時のことです。最近、笹に短冊たんざくを掛けると願いが叶うとかで、恋心の和歌などに思いをたくすことが都でははやっているそうです。父上は、「そのようなことは世が厳しいからかえってはやるのだろうな」と仰って、この屋敷では七夕飾りは不要と仰います。

 与射女房や多賀などと、久し振りに鏡の里から届いた長芋で作った、芋粥いもがゆをいただこうとしているときに、突然のお客様です。

「断りも入れずにお訪ねして申し訳ない」
「これはこれは鎌足どの。いやいやこちらも笹の葉もささの相手もいず無聊ぶりょうをかこっていたところ、こちらへどうぞどうぞ。これ与射の、酒の支度をお願いしますぞ」
「いやいや、お構いなく、鏡どののお顔を拝見すれば気も落ち着くか、と参上した次第で申し訳ありません」
と、声は奥の間にと、遠ざかっていきました。

 仕方なく、多賀を相手に芋粥をいただき、寝間に下がろうとした折でした。奥の間からお酒が入ったせいなのでしょうか、父上が珍しく声を高くしておっしゃったのが聞こえてきました。

「確かに、おのれの申すことが理に適っていよう。兵を引けば人々も楽になろう。しかし、われらあま一統はいにしえより大君が仰ることは神の声。たとえ青鷺あおさぎを、鶴、と大君が言われたら、その鷺は、鶴ということになる。これが、天一統の下のわれらの運命というもの」

「しかし、新羅がモロコシと組むと分かって勝てますか?」
「くどい、もう申すな。そのようなこと、滅多めったに他人に洩らすでないぞ」

 あとは声も納まり、どうなることかとちょっと驚いた私でしたが、安心して休みました。

 
 翌朝与射の女房が、「おととい、松浦から長芋と一緒に届いた姫様への小箱」と、言って渡してくれました。包みを開くと、なにやら貝殻が沢山入っています。

 女房が申すには「鏡のウサギなるものが、自分で拾って作った貝合わせだそうで、安児姫に届けて欲しいとのことです。あまりきれいとも見えず、捨てようかと思ったのですが」と、言います。

 折角遠路届けてくれたのだから、と受け取り、あとで貝を一つ一つ開いて見ますと、びっくりするのは、その内側の綺麗なことです。このようなきれいな絵の具を、宇佐岐うさぎはどうやって手に入れたのでしょうか。最近は百済からの渡来人が多いと聞くので、おそらくその方面から、でありましょう。昔もらった桜貝よりも、数段上手な絵でした。
貝合わせ
 二十ほどの、ハマグリ貝の片方の内側に、いろいろときれいな花やら虫などの絵が書かれています。ハマグリ貝は、皆同じようでも、一つ一つが少しずつ違っていて、きっちり合うのは一組きりありません。誰が一番早く合わせられるか、きそうのが貝合わせです。

 けれど、このように絵が描いてある、綺麗な貝合わせは、初めて目にします。おおまけに、アワビの貝も一つだけ混じっています。アワビはハマグリよりも数段大きいので、そこの書かれている絵も飛びぬけて大きいのです。おまけに、その女の人の顔は、自分と似通っているようにも見え、なぜかドキドキッとしました。

 あわびの貝は片方きりありません。いつぞやお父上から教わった和歌を、思い出しました。


  伊勢の海人あまの 朝な夕なに 潜るとう 

      あわびの貝の 片思いにて
(*29)




 長雨が続いた夏が過ぎ、やっと晴れ晴れとした秋が、惜しまれつつ深まったある日、父上からお使いが来ました。「なるべく早く、顔を見せるように」、との伝言です。

 額田女房どのに宿下がりをお願いして帰ってきますと、父上が待ちかねたように仰いました。

「松浦から知らせがあり、息長おきながの具合が良くないそうだ。なんでも半年前くらいから、食べ物がのどを通りにくくなり、薬師くすしさじを投げているそうだ。ついては、是非安児に会いたい、ということだ。船の手配はしている。執事をつけてあげるので出来るだけ早く鏡へ行ってきておくれ」

「父上は?」
「うむ、行ってやりたいのじゃが、このところ御用繁多ごようはんたでな。息長は安児に会いたい、というが、わしに来てくれとは言っていないしな」

 うがや一統の軍勢の応援の話しが遅々ちちとして進んでいない、ということはミヤコの噂となっています。義理がたい寶女王は応援する気、舒明天皇は戦いが苦手、蘇我の大夫も歳を取ってきたので昔のように戦の先頭に立つのはどうも、という立場、ということのようです。

 
しかし、蘇我の大夫の、二番目の息子の入鹿いるか殿が女王様のお気に入りで、と二派に分かれているとかです。そのようなことで、父上が不在だと大君様もお困りになられるのでしょう。



 執事を供に、久し振りに鏡の里に帰ることになりました。御笠から荒津までの大路が、途中でいくつも普請ふしんがなされているので、船で下ることになりました。荒津までは小船でしたが、そこから二十尋の大船に乗り換えましたので、船酔いもせず鏡の里に三年ぶりに帰ってきました。

 母上はすっかり年をとられて白髪のまるでおばあさんのようでした。体全体が細くなられて、床につかれていましたが、私を見るなり起き上がられます。
「どうぞお休みのままで」と、兄達が申し上げてもお聞き入れならず、はしために手伝わせて身支度みじたくされました。
秘儀
 兄達に向かって、「どうしても安児に伝えたいことがある。今から明日の朝まで安児と二人きりにして欲しい、次の間にも人は入れるな、きっとだぞ」と、病人とは思えないくらいの強い口調くちょうでキッと目を光らせられますので、皆の者は何も言えずお寝間から退散しました。

 母上は豊の国から嫁いで見えましたが、元はといえば、母方は息長一統で大加羅の出だそうです。奥の大鏡の前の灯明とうみょうをともされ、練り香草をかれます。勾玉の首飾りを取り出され、ご自分と、わたしにも掛けさせ、一心に呪文じゅもんを唱えられます。

 しばらくすると香草の匂いが体に染み渡り、母上の呪文に合わせて自分も唱えています。夢かうつつか分からぬままに、鏡の中のご神体の白龍がわたしに入ってくるような感じがしました。母上が、叶うことと叶わぬこと、見通せること見通せないこと、について教えて下さいました。

「この秘儀については絶対他言無用。おのれの娘に伝える時以外は」と、くどく念を押されました。



 朝も白々と明けましたが、母上はまだ鏡に向かっていらっしゃいます。呪文が聞こえません。
「お母様」、と声をかけますと、そのまま崩れ落ちてしまわれました。

「誰か!」の声に久里王子が飛んできて、その場を見るなり、「よくもまあ今まで保ったものだ、死後の塚の位置、葬儀の手配り、皆済んでしまっている。モガリを済ませたらその手筈通りにやるだけ。父上にも都から来るに及ばない、と伝えるよう念を押されていた」と、一気に喋り、「ところで、一晩中何を話しされたのか。何処ぞに銀銭の壷がある、など教えてくれたのではないか?」

「何を仰るのですか。一緒にお祈りをしただけです」あとから、玉島兄も加わり、「実のところ、租庸調そようちょうの差配はみな母上がやってくれていた。年々倉の中身が薄うなって、母上が何処ぞに、と思っていたのだが」と、疑いの目で見ます。

 母上の死を悲しむというより、倉の中身のことばかり気になっているようで悲しくなりました。
 
 鏡の里で遊んだ子達も、皆、働きに行っています。ただ残っているのは、白宮の小夜姫だけのようです。執事をやって問い合わせさせますと、「今は綿花をつむぐのに人手が足らず、空の明かりがある間は、つむぎ車を止めるわけにはいきません」とのことです。

 もっと詳しく、と聞き合わせますと、「もうわたしは姫という立場でなく、一家を紡ぎで支えていて忙しい、あなたのような御姫様とは違うのだ、会いたくない」ということのようです。

 折角楽しみにしていた古里の景色も、すっかり色せてしまい、こんな歌しか出てきませんでした。


  ふるさとの 川のせせらぎ 変らずも

        うつし世の声 聞くぞ悲しき
(*30)


 白龍の鏡は、お母様が安児姫に、と前以て形見分けとして皆に伝えていたようで、鏡だけを抱えて都に帰りました。

 
 うがや一統の使節一行が大和からはるばる見えた、という話は都中に広まっていました。総勢二百人以上で、わたしと同じ歳の十二になる葛城かつらぎ王子も連れて見え、とりあえず橿日かしひ宮を行宮あんぐうにされている、ということです。

 葛城王子も後に、中大兄なかのおうえ王子と呼ばれましたので、ここでも中大兄王子として話を進めましょう。いにしえには、幾度かうがや一統とのいさかいがあったと聞きますし、この度もきな臭いという噂も飛んでいるとのことです。

 しかし、使節の主使の蘇我の大夫は、なかなかの人物と父上が何かの折りに仰っていました。父上はこのところ大君様や蘇我の大夫さまなどとの宴席が多いようで、一貴皇子や鎌足どのも、ご接待に大童おおわらわのようです。


 ある宴席で、蹴鞠けまりのことが話題に上がったそうです。蘇我の大夫が、「中大兄王子も大好きなので、筑紫の蹴鞠の名足めいそくの技を見せていただけないものか」と、言い出されたそうです。

「それも面白かろう」、と大君もお許しになり、蹴鞠の会が、表の紫宸殿ししんでんの前庭で行われることになりました。特に奥の女共も苦しゅうない、ということで、最近では珍しく、晴れやかな舞台が出来上がりました。

 蹴鞠の規則はよく分かりませんが、数人で鞠をけ上げて失敗するとだんだんと減っていき、最後に残った人が、第一の名足となり、大君からご褒美をいただく、ということだそうです。

 一番最後に、勝ち進んできた一貴皇子と、鎌足どのが蹴合うことになり、満座がどよめきました。私も、どちらが最後の名乗りを受けるのか、手に汗が出ているのを忘れてしまったくらいでした。しかし、その後に起きたことで、その汗は冷たく凍りつきました。

 結果は、一貴皇子のくつの紐が切れ、鞠と一緒に沓が飛んでしまい、試合は中断しました。見証役の父上の鏡王が、「再度、沓を履きなおしての試合」、と裁定しました。
けまり
 しかし、大君が「いや、装備が悪いのも技量のうち、一貴の負けじゃ、中富、天晴れであった」と、仰いました。「さて中富、褒美には何を望む、何なりと申せ」

しばらく間があって、「本当に望みを申してよろしいのですか」

「くどいぞ」
「それならば申し上げます。カラの地から兵を戻して新羅と和平を・・・」言い終わらない内に大君のお顔が真っ赤になり、「何を申すか!小癪こしゃくな!一貴、こやつを斬れ!」

 あたりは騒然となりました。大君の傍らで蹴鞠を観ていた蘇我大夫が静かに、「大君様」と声を出されました。

「お怒りはごもっともですが、元はといえば、われらが蹴鞠を所望しょもうした故に起きたことで、こちらがお詫びしなければなりますまい」と平伏され、言葉を続けられました。

「われらが斑鳩いかるがの里は、まだまだ化外けがいの国。蹴鞠にせよ、築城ついきにせよ、和歌の道にせよ、いろいろと大君のお教えを乞わなければ、とかねてより思っていたところです。

 本日、このような仕儀しぎに当たり、斬るのはいつでもできることでしょうが、もし、しばし延ばしていただき、この者を飛鳥の里の帰化きか のために使わさせていただくわけにはいかないでしょうか?」


 蘇我太夫の静かな声音こわねに、大君様のお顔の朱色も引いていき、「中富、お前は運の良い奴だ、今日只今から、おのれの身柄みがらを、うがや一統に渡す」と、仰られて紫宸殿の奥へ入られました。

 後で聞きましたところでは、もうふた昔前の新羅との戦に、まだ若かった蘇我の大夫が、満矛みつほこ大君の下で戦った際の、その軍師ぶりが際立っていたそうです。その戦もわが方の大勝利だったそうです。大君も、蘇我の大夫には、一目おかれているそうです。

 それにしても、男が生きるとは大変なことだ、ということが分かったような気がします。鎌足どのも、国を思っての意見でしたでしょうに。

 のちに父上のところに、蘇我の下に心ならずも入ってしまわれた鎌足どのから届いた和歌を、聴かせていただきました。


  春日なる 御笠の山に ゐる雲を 

       出で見るごとに 大君きみをしぞ思ふ
(*31)




 蹴鞠事件の後のある日、百済の客人まろうどが見えて大君様と難しいお話をなさっていると、風が、その噂話を運んでくれました。
 
 額田女房様が、わたしと多賀をお呼びになりました。横には、なにやら不安そうな顔をしたぬか姫が座っています。

「突然の話しだけれど、大君様の御用で海の向こうに行かなければならなくなりました。姫も連れて行きたいけれど、そうも行きません。
わたしの背の君どのも、かの国でお亡くなりになっているし、私は向こうの土になってもそれはむしろ喜ばしいことなのですが、こちらに残る姫が可哀想すぎる」と仰います。

「大君様がどうしてそのようなお仕事を、あなたさまに押し付けるのですか」、と不思議に思いお聞きしました。それへのお答えがある前に、ぬか姫が「額田女房の輿入こしいれ、という噂は本当だったのですね」と言って泣き崩れました。

 横でじっと話を聞いていました多賀が、口を挟みました。「今度いらした百済のお使者に、大君さまが、近頃カラの国から渡来した茶の湯というものを客人に振舞ふるまわれました。その時に、ご接待された額田女房どのをご覧になり、ご執心しゅうしんされたそうです」
 
 わたしが、「ぬか姫が可哀想、お断りできないのですか?」
 
額田女房どのが「私も、その、姫のこともありますし、お話しをお断りお願いできませんか、と申しましたら、大君様もお困りになられ、鏡の殿様にご相談されたのです」

 父上の話が出てびっくりして「それで父上は何と言って、おとりなししてくださったのですか・・・」

 ほかに沢山、若い女御にょうご方もいらっしゃるのに、どうして、どうして、と思ったり、なぜ理不尽りふじんな!と思ったり、ぬか姫の心を思いやり、父上が何とかしてくれるのでは、と期待したりしました。

 しかし、額田女房どのは話を続けられます。
「鏡の殿様は、お国の今後がかかっていることだし、お断りは難しい。姫のことが心配なら、大君様にお願いして、然るべくお取り計らいを頼んでみようと」と、仰って下さいました。

「それでどのようなことに?」
「それで、安児姫にもよろしくお願いしたいのです。大君様は、姫は鏡の家に養女として入れる。扶持ふちも付け、名も額田王ぬかたのひめみことしようぞ、ということに決まりました。私はこれで安心して外っ国に旅立てます」と仰られ、涙をぽろぽろと流されました。

 頼りにしていた父上もどうにも出来ないことがあり、受け入れなければならないのが残念で残念でなりませんでした。世の中には情けというものは無いのでしょうか? 

 
しかも、後の話になりますが、額田女房どのは、新羅の軍勢に追われて、百済義慈王万歳!と、後宮の数百の官女たちの先頭にたって、崖から宮城きゅうじょうの裏の大河に身を投じたそうです。 その場所を後に、新羅の兵士は無情にも落花岩らくかがんと名付けたそうです。このこともあとで時間がありましたら、詳しくお話したいと思います。
お見送り
 慌しく数日後に、荒津までお見送りに行きました。お船が出て行くのに皆手を振りヒレを振り、涙をながし無事を祈りました。船が見えなくなるまで声をらしながら名を呼び続け、千切ちぎれるように手を振っていた額田王のことが今でも目に焼きついています。

 額田王の気持ちはこのようなものでしたでしょう。


  荒津の海 ぬさ奉り 祈りてむ 

       早還りませ 垂乳根たらちねの母
(*32)



 三条のお屋敷に、ぬか姫じゃなかった、今では額田王となった妹と一緒に帰り、今度は本当の姉妹として過ごすことになりました。御所と違って気楽に、お父上がお暇の折には和歌の手習い三昧の、和やかな日々が続きました。

 おんなの子には皆訪れるものが来ました。まず、年下の額田王、すぐにわたくしと、否応いやおう無く乙女になり、与射女房があか飯を配りましたので、都ではちょっとした評判になったようです。

 外に出るのには衣笠きぬがさを被るようになり、供を付けないといけないなど今までのように気ままな外出は許していただけなくなりました。




 普段見ていると、前と変わらないお茶目な額田王です。しかし、額田王は前と違って、嬉しい時と悲しい時の現れ方が大きくなっていっているようでした。あるとき、御所に一緒に出かけて時の出来事をお話ししましょう。

 お客人の接待のお手伝いに上がるように達しがあり、多賀が私達を引き連れて御所の控えの間にて御用を務めることになりました。近頃カラの国から渡来した茶の湯が客人に振舞われます。額田王とわたしが、わんに入れてお持ちしますと、お付の方が受けてお匙で毒見をされて、初めてお客人がお飲みになられます。折角の湯加減がぬるくなってしまう、と多賀はぼやいていました。

「目を上げてはならぬぞ、つまずかないようにすり足で歩め」との指図でした。その通りにしましたので、どのようなお方に茶の湯を差し上げたのかも知りませんでした。額田女房殿が、このような接待の席で異国の客人に見初みそめられた、という前例がありますし、なるたけ顔を見られぬよう、そればかりに気を取られていて、終わってほっとしました。

 しかし、額田王は違ったようです。「あの飛鳥の王子様は利発りはつそうだ、安児姫が差し上げた寶女王さまは、あまりお元気がないようだ」、など云います。どうやら、おぐしの合間からちゃんと見ていらしたようで、驚きました。

 またあるとき、満矛みつほこ大君さまが、それぞれ位を決められて、位に合った冠を被るようになり、殿方のおぐしの姿が昔とは随分ちがってきた」などと父上がお話しをされました。すると額田王が、ちょっとの間に髪をみずらに編んで、「昔はこのように?」、と顔を見せました。

 両耳脇にふっくらとまげを結い、花かんざしが挿してあり、何とも云い表わしようのない美しい姿でした。「そのような姿二度としてはいけませぬ、女子が男のなりをすると災いを招く」と父上がおっしゃいました。

 私は昔、息長女王といわれたお方は、新羅の国に男姿で出征しゅっせいされた、とお聞きしているのにな、と思いましたが、口には出せませんでした。


 先ほど言いましたように、
外出のさいには必ず男衆と共に出かけるよう注意を受けていました。牛車に乗るほどの距離でもないので、以前は、よほどの時でなければ歩いて御殿にも出向いていました。最近は都も荒れてきて、野伏のぶせりとやら山賤やまがつとやらの得体えたいの知れない奴輩やつばらが、明るい内から徘徊はいかいするようになり、お父上も男衆を増やされました。

 松浦の玉島王に頼んで男手を集めようとされましたが、思うような手下が集まらず、多賀の伝手つて当麻たいま一党から五人ほどきてくれました。なんと久慈良くじらとの再会です。久し振りにみるクジラはいっぱしの若武者気取りです。

 しかし、クジラは、顔を見ても目を背けてしまい、なぜか話したがりません。きっと恥ずかしいからだろう、と思いましたら、「当麻一党は衆道しゅうどうだから、兄貴分たちが怖いのだろう」、と額田王が教えてくれました。

 彼女はどこでこんなことを覚えてくるのだろう、と不思議でした。しかし、わたしは額田王の気持ちは、本当はそのように、明るいものではないことを知っていました。それは、あるとき、彼女の和歌の下書きを見てしまったからです。始まりの句、どうでもよいようになれ、という言葉で始まる歌など始めて知りました。

夕日に祈る
  よしゑやし うら嘆げき居る ぬえ鳥の 

       わがおもへるを 告げる如くに
(*33)



 お父上も額田王の気持ちの振れの大きいのを感じられたとみえ、そのようなぬか姫の気持ちを沈めようと思われてでしょう、私達によく仏様のお話をしてくださいました。額田王のお父様がいらっしゃる、夕日が沈む西の浄土(じょうど)の方へ、次の歌のように二人でよくお祈りをしたものです。

心わび なじかは知らね 身に沁みて 

入り日に山も 茜にぞ映ゆ(*34)




 五、風雲急・大和へ


 早耳の額田王が聞き込んできました。百済の武大王が亡くなられて、義慈王が跡をお継ぎになる、というので唐国からも皇帝様からのご使者もみえる。わが方も一貴皇太子がお祝いを述べに行かれるとか。

 
お父上に確かめましたら、その噂は本当のようです。「お祝いに行くだけでなく、お亡くなりになった武大王さまのお墓の手入れや、作りかけの弥勒みろく寺とやらの造作で、わが国も応援の手を出すことになった。軍兵や弓矢などだったら諸国に応援を頼めばなんとかなろうが、仏師をはじめ造作職やら瓦職、諸職の手集めに頭が痛い」、と仰っていました。

父上は、またこんなことも心配されていました。「義慈王は、孔子こうし様の教えが気に入って実践じっせんされる真面目な良い大王だ。特に親に対して孝を尽くされる。ただ、親の敵に対しては徹底的にやっつける、まあ、幸山さちやま大君と良く似た方だ。一貴いき皇子もウマは合うだろうしその意味では問題は無いだろうが・・・・」

「なにかご心配が?」と、お聞きしましたら、「今のところ新羅は、ごたごた続きで百済に押されているが、このままでは済むまい。新羅という国の人々は、力ずくでは治めきれないところ。随分昔、当時大倭国といったわが日の本が、宋朝廷から、新羅の国を治める御璽ぎょじを頂いたのだが、結局かの国の人々を治めきれなかった」

「なぜできなかったのですか?」
「力が強いということだけでは、人は心から信頼してくれない、そのあたりが不足していたということ」

「義慈王さまが、孔子のお教えを守られたら、新羅の人々も治められるのでは?」
「そういけばよいのだが?言葉の取り方には、表裏があるものだて」と、仰って言葉を継がれます。

「何はともあれ、此度は唐国の使者も見えるのだから、一貴殿も唐の軍船や供揃えを見ていろいろ考えることもあろう、百聞ひゃくぶん一見いっけんかず、だ。わしも昔、かの地で、というカラクリ仕掛けの大弓を見たときには驚きあきれたものだ。此度は、鎌足どのも通詞つうじも兼ねて同行ということだから、安心だ」

「ご無事でお帰りになれるのでしょうか」と、思わず口に出しますと、「おや、これはこれは、どちらの殿御をご心配か」
「まあいやなお父上」、と顔が知らずに火照ほてっていました。



 しばらくして、一貴皇子たち、百済へのお使者一行の歓送の宴が、改装がちょうど終わったばかりの、荒津の長柄宮ながらのみやで行われました。御所から遠いし、夜宴になるというので、女抜きの宴であったそうで、随分と騒々しい宴だったそうです。
雲行きの悪い月見
 月見の宴という名目で行われたそうですが、あいにく雲行きが慌しく、なんとなく、三条のお屋敷で見上げた月も心なしか常にないような感じでした。

 宴席では、「義慈王様は二十人以上の子沢山のこと、あれなら他国へ人質に出す王子に困らない、わが幸山君も頑張っていただかなければ」と無礼講をよいことに、大君さまお気に入りの智興ちこう様が、大はしゃぎであられたとか。

 智興さまが、「下手だが一首」と


  のこの浦 夕波小波 きらめきて 

       たからの国へ いざまかりなむ
(*35)


 と、だみ声を張り上げて歌われ、みんなの喝采をお浴びになられたとか。


 しばらくして、多賀のところにも知らせてくれる人がいて、山鹿の工人にも徴用がかかり宇佐岐うさぎも海を渡ることになったそうです。
「あれも、てて親の亡くなったところを、おまいりしておく良い機会にありついたものだ」と、多賀は表面では強がりをいっていました。

 ある日、松浦から玉島兄が、ご機嫌伺いに御所に出てきた、といって三条の屋形に顔を見せに寄られました。久し振りに親子三人で、松浦の話をあれこれお聞きしました。

 最近の変わった出来事の話の中に、“松浦沖の鷹島に船が流れ着いた出来事“の話しがありました。

「越の津を出て荒津に向かうところで、潮に流され松浦に来てしまった、というのだけれどどうも新羅か高麗に向かう途中であったようだ。小さな船で水手かこ三人と乗客が一名。荒津からどこに向かうのか聞いても答えませぬ。少し手荒く責めましたら、何も答えないまま死んでしまいました。

 水手頭かこがしらに改めて聞いたら、越の津から高麗へと命じられていたが、潮を読み間違えた、というので、唐津の水手頭にやっこ奴(やっこ)として使え、と墨を入れて下げ渡しました。

 
客が身につけているものは、銀銭銅銭の入った袋と手拭い、と暑さしのぎのカラスの羽根を細工した扇だけです。衣服や草鞋わらじなど調べましたが、なにも変ったところはありません」

 すると父上の顔が変ります。
「その扇はどうしたのじゃ?」

「執事の玖珂男くがおが欲しがったのでくれてやったのですが、なにか?」
「ともかく、玖珂男めに持ってこさせるように」



 四日ほどの後、玖珂男が扇を持ってきます。「これは安児、他言無用だぞ」とおっしゃって、多賀に手伝わせて、まず炉の火を強くして土鍋に湯を沸かすようお言いつけになりました。次に米の粉を水に溶いて黒い扇に塗られます。お父上は、その扇を湯気にしばらく当てさせます。
 からす文
 するとどうでしょう、黒い羽の上に白い文字が浮かび上がってきたではありませんか。しばらくじっと何かお考えをされていました。

 
わたしがあまりにも怪訝けげんそうな顔をしていたからでしょう、「安児、これはわしもはじめて見るが、話に聞く烏文からすぶみじゃ。この扇を水で洗って、何かの松浦への便で久我男に返すように」と、多賀にお言いつけになり、「玉島にも誰にも、この烏文のこと申すでないぞ」と念を押されました。

 しばらくして、鎌足どのに、「ご用手空きの折にでも、百済のお土産話しを聞かせて欲しい」、と使者を出されましたが、烏文と関係があることかどうかわたくしには分かりませんでした。

 三日の後、鎌足どのがお見えになりました。最初の内はお二人で、穏やかにお話になられていましたので、「百済の国のことなどの見聞のお話しだった、くらいのことしか分かりませんでした」、と湯茶の接待を指揮した多賀の話でした。

 しかし、お酒が入りましたら声も自然高くなり、おおよそこんな事をと、多賀が教えてくれましたが、最後の鎌足どのの祝儀の話にはドキッとしました。

 父上がおっしゃるには、「どうやら大和の内の、いずれかの若頭一派が密かに高麗と密使をやり取りしているのは間違いない。たまたま、潮の加減で露見ろけんしたが、このような連絡は以前からやっていることは間違いない。

他でもない鎌足殿に打ち明けるのだが、百済での唐軍船などの装備なども見てこられたであろうが、勇気だけではわが日本も危ない。じゃが、そのまま意見を言上すれば、先だっての蹴鞠の折の鎌足殿の二の舞になる。

何としてもこの日本を、戦火にまみれさせることは避けたい、と思うのだが。
ともかく、舒明どのに気に入られたようだから、その懐に飛び込み、大きな意味でこの国の行く末を案じてもらいたい」

「いや、実はご報告なのですが、舒明天皇が、姪御を妻に貰い受けて欲しい、と仰られ、否応なしの進めようで」と、鎌足どのが言われ、
「さて、それは重畳ちょうじょう、めでたしめでたし。じゃがこの話、だれぞやには聞かせたくないものじゃて」と、父上がおっしゃられたそうです。

「と、仰せられますと」と、鎌足どのがお聞きになられ、「ほれ、うちのの字じゃ」と、父上が返されたそうです。そして、そのあと、義慈王殿の末っ子の豊章ほうしょう王子が、むかはりとして日本へお見えになる、という話になったそうです。

 こちらからも百済に出さねばならぬし、舒明天皇なり寶の女王が、こちらに来て陣を構えるのであれば、大和にも当方からもだれぞやを、と言ってきているらしい、なども、千切れ千切れにお話しになられていた、と多賀が心配そうに話してくれました。

その多賀の話を聞きながら、終夜燈しゅうやとうのゆれる光の中で、鎌足どのの姿を見かけたように思いました。


  かがり火の 光におどる 現身うつしみ

      微笑む如き 面影ぞ見ゆ
(*36)




 玉島王がまたお見えになりました。今度は久里王も一緒です。父上は二人が来るのをご存知だったようで、早速奥の間でお話し合いを始められました。いつものことですが、玉島の兄は、段々と声が大きくなってきます。それを父上がたしなめられますと、しばらくは声を落とされますが、又自然に大きくなってきます。

 このたびは、玉島王は気も動転という感じでしたので、余計声が大きくなり、私たちの女居間に、嫌でも話が聞こえてきました。切れ切れに聞こえる話がびっくりする話でしたので、こちらも息をひそめて聞き取ろうと努めました。

 多賀と、ぬか姫の三人で集めた話は、おおよそ次のようなことでした。

 舒明天皇は体がすぐれぬので、幸山天子の参軍のみことのりに応じるのは難しいこと。その代わりに寶女王を代表として行かせる。
 中大兄皇子と蘇我大夫が女王を支える。
 兵はおおよそ三万。
 しかし、それだけのことをするからには、女王・皇子と同等の身代わりのしかるべき皇族を保証として大和に来させることが条件。

 ところが、百済からも同じように王子豊章ほうしょうを寄越す代わりに、任那みなま官府へ日本から代表となる王族を寄越すよう義慈王さまからの申し入れがあっている。
 一貴いき皇子は、自ら百済に行ってもよいと言っている。

 しかし大君様が、まだ一貴皇子には、諸国への兵の調達準備に走ってもらわなければならない。そうなると、大和には鏡王にご苦労かけねば、ということであったそうな。豊の国か火の国に人はいないのか、ということから始まって、松浦の久里王という名が上がった。

「父は大和へ、弟は任那へ、と何故大君様はわれら鏡一党を目の敵のようにされるのか、父上は何故このような横暴を見過ごすのか」と、それはそれは、の玉島王の怒りようです。

 父上が仰るには、「今が正念場だ、こちらがそれだけの備えをすれば、それは向こうにもこちらの本気さが伝わる。昔のように大君様が先頭に立って戦うまでもなく、百済や任那への新羅の手出しもなくなろうというもの。大和のうがや一統はもともと吾らと同祖の者たち、いわば親戚じゃ。まだ向こうは先祖供養の大きな墓作りにかまかけて、随分と日本よりいろんな面で遅れているようじゃし、老骨ろうこつのおのれの最後の働き場所も出来たというもの。

 久里もいつまでも兄の手元では先が見えまい。任那みなまに行けば、また道も大きく広がろうというもの。どうじゃな」、ということで、玉島王も「父上がそうおっしゃるのなら」と、不承不承ふしょうぶしょう納得なっとくしました。

 しかし、久里王はお酒が出されてから、やっと言いたいことがいえるようになったのか、「かの国へ渡るのは、一人では心細く、連れて行きたい者がいるが、それをお許しになれば」、といいます。父上が玉島兄と相談されて、「向こうの事情が分かっているものなど数人は必要だろうから」、と了解されました。

 お酒が入ったところで、父上が、安児やすこも呼んで、久し振りに兄弟に安児の歌でも聞かせようか、と仰り、お呼びになられました。ざっと経緯いきさつをお話し下さったあとで、「人生到る処に青山せいざんあり、と古人こじんも言っている。幸いは、山の向こうに住む、とも言うではないか、いざわれら鏡一統も次の日本のために、いまひと働きじゃ。ヤスコ、歌の一つも門出かどでを祝って歌おうぞ」と、仰いました。
ちちの木イチョウ
 とても、その気分には乗っていけず、途方とほうに暮れました。思いがけず、助け船が出ました。「父上、僕だって和歌の一つは歌えるようになっています」と、玉島兄が、次のように歌われました。

  ちちの実の 父のみことは 大君おおきみ

       けくのままに さ出でたまうや(*37)


 太宰府の都に来るときに、父上の肩車で和歌を詠んだことを思い出しました。そのときも枕詞の、「ちちの実」を使って、父上に手直しをされたことを思い出しました。今度も何か、ちちの実のことで言われるかと思いましたが、何にもおっしゃられませんでした。

 随分後に飛鳥の里に届いた風の便りでは、その久里兄の供人にあの、和多田の宮姫が加わっていたそうです。それをお聞きになった父上は、何ともいえないしょっぱい顔をされていました。

 折角太宰府の都の生活にも慣れ、ぬか姫という妹も出来て、楽しく過ごしていましたのに、運命の歯車は思わぬ方向へと回り、大和の飛鳥とやらへ下ることになりました。

荒津から船に乗り、朝のなぎの中の玄海を船は進みます。
大きな船で、総勢三十人ほどの一行ですから、賑やかな船旅です。

 あれが鐘崎、もうすぐ見える沖ノ島は斎宮いつきのみやだから、此度は皆頭を下げて通り過ぎるように、と、父上から皆にお達しがありました。

 
そのころには、うねりに負ける人が多くなったようです。海は穏やかに見えましたが、海には「うねり」というのがあることを知りました。

 遠賀の岡湊に夕方着きましたが、宿でぐったりとなり、食事もしたくなく早々と休みました。今朝早く船出をしましたが、船に泊まったクジラや兄貴分のアバケたちは、うねりに負けたのでしょう、日ごろの元気がなくなっていました。

 アバケとは珍しい名なので、本人に聞いてみましたら、怖い顔が恥ずかしそうな声で「取り上げばばさまが、土地の言葉でアバカン(沢山)毛があるややこだ、といったのでアバケ」と教えてくれました。

 遠賀の海から穴門あなとの瀬戸を通り過ぎますと、そこは別世界のまるで池のような海でした。穴門の瀬戸の潮待ちをしている間に父上が船に積んである瓢箪ひさごについてのお話をしてくださいました。

「瓢箪に酒が入っていることは知っていようが、瓢箪には別の働きもある。もしもだが、船がどうにかなった場合、この空き瓢箪につかまれば沈むことは無い。覚えておいて損はない。まあ、この瀬戸内せとうちに入ればそのような心配は無用じゃがな」

「大昔、海が荒れて船が難破し、乗っていた瓠公ここうという人が、瓢箪を沢山腰に着けていたものだから、無事に上陸できた。その折に人々には、まるで海を歩いてくるように見えた。その国の王様もびっくりして、これは常人ではない、おまけに知恵にも胆力にも優れていたので、大臣にした。このような話が、新羅本記という昔の本に載っている」

 それから、話は瓢箪をどうやって作るか、という方向になりました。二人とも知りません。「人に聞かずに考えてご覧」、と意地悪く教えてくださいません。糸瓜へちまみたいに畑に生るものということは知っています。

 母上が、糸瓜からとれるあくは肌に良い、と集めるのを手伝ったことはあります。でもヒサゴの造り方までは知りません。「降参です、お願いします」と言って答えを教えていただきました。

 なんでも、ひょうたんの頭のところから少し穴を開け、水を加えて二,三日そのまま置いてふやかすそうです。中の種や、わたを、少しずつ細い杓子しゃくしでかき回しては取りだし、又水を入れてふやかす。これを繰り返し、空になったら良く乾かす、と、出来上がりだそうです。

「な〜んだ、そういう簡単なことか」と、ぬか姫が言いますと、「大事なのは自分の頭で考えることじゃ」と、父上が、ちょっと怖い顔をされました。
ひさご
 お話を面白く聞いている内に、まだお日様は随分高いのに豊浦とゆらに入りました。

 
豊浦は、以前、満矛大君の弟君が都を構えられて、東への睨みを利かせていらっしゃったところだそうです。今は豊津の方が便利良い、と豊国の都がそちらに移ってしまい、今は代官が駐在している港になっています。

 なんとなく物寂ものさびしい、次の和歌みたいな感じがしました。ちょっとかび臭い、代官所の宿舎で一夜を明かしました。


 玄海くろうみの 波越え至る 豊浦津とゆらづの 

         秋の日かなし 雲の色かな
(*38)


 父上が、折角じゃから伊予いよの湯岡にも寄っていこう、と船の舳先を東に向けるよう船頭に言われました。なんでも、満矛大君が大のお気に入りのところで、東国巡行の折にはいつもお寄りになっていらっしゃったそうです。父上も小さい時に一度、お許しを得てご同行されたそうです。

「吉野の湯も良いが、ここは格別」だ、と仰っていましたが、そのわけを後で知ることになりました。

 瀬戸内の漁場に恵まれ豊な土地柄で、人々の暮らしも良いようです。どうもそれだけではなくて、豊浦の時と同様に、河野県主こうのあがたぬしの宿坊に泊まりますと、「鏡のお殿様、よくぞお出でになられました。では、ごゆるりと旅のお疲れを・・・」と、県主が先に立って温泉に案内され、その後は着飾った女達が加わって宴会が始まりました。

 多賀や与射よさ女房は、「仕方がない」と、小女に洗濯の指図などのあとは、お湯に何度も入ったり、お互いに肩をもんだり、で時を過ごしました。


 古きより 伊予のえひめに 出づる湯の

      世にもたゆらに こころ満つらむ(*39)

と、お歌いになられる父上の声が、聞こえてまいります。

 父上はふた晩何処かでお泊りになり、三日目になって、やっと出港することになりました。送りに来た人々の群れに、ひときわ目立つ格好かっこうをした娘さんがいました。与射女房どのにも丁寧にお辞儀をしていましたが、与射どのもプイと横を向き、不機嫌そうで、私たちもその娘さんに目を合わせないようにしていました。

 アバケや警護の者たちも、警護の理由で、父上たちと一緒だったようで、白粉おしろいの匂いを付けて船に帰ってきました。額田王は、「あれ達は、をなごには興味ないと思っていたのに」と、ちょっと当てが違った、といった感じのことを言っていました。

 父上が、色紙しきしに何やら書かれて、クジラを呼ばれて、「あの娘に渡してこい」と言いつけられます。額田王が、クジラを物陰ものかげに呼んで何か話しています。後で聞きましたら、父上が書かれて色紙を見せて貰ったそうでした。

「まあいやだ。このような恋の歌でしたよ」と言って、教えてくれました。それは、 
  

  君が目の 恋ひしきからに 泊り居て


        かくや恋ひむも 君が目を(*40)



 父上は誰に聞かせる、というのでもなく、「いざ、というときは、瀬戸内の河野一党の水軍の協力を貰える約束ができたので、上々の首尾しゅびであった」と、言っておられました。「大体、男の口約束など信用できないのに」と、与射どのは不機嫌でした。

 船は吉備の方にむかって、帆をはらませて順調に進んでいます。船の旅は良いものです。これまでこれほど、毎日長い時間を父上と一緒になって、お話を聞かせて頂いたことはありませんでした。吉備きびノ津でも、吉備の国についての、昔話を聞かせていただきました。

 筑紫と大和の間にあって、昔から栄えた国だ、ということ。大王が亡くなった時、大きなお墓を造ることを流行らせたのも吉備だそうで、負けぬ気が強い土地柄だそうです。

 北に山を越えると出雲の地で、こちらともうまくやりとりできていて、駆け引きに優れている。このたびも、軍勢の供出を大君が頼んでいるのだが、大和との話がまとまれば、応分の加勢、などと駆け引きするのでこまる、などとも仰っていました。

 筑紫より出雲の大国が一番早く開けたそうです。鏡も出雲の一族であったことも教えて頂きました。筑紫と出雲の主導権争いがあり、まあ、仲良くやっていこう、ということになり、それぞれからそれぞれへと、人が移ったとのことでした。 私たちの祖先も、出雲から松浦に来て、その土地に鏡と名付けた、などとお話しして下さいました。  

 ヒサゴのお酒を傾けながらのお話ですので、おまけに、冗談じょうだん交じりに面白くお話になるので、どれほど本当のお話が入っているのか、とその時は疑ったものです。そんないい加減なお話はされない父上ですから、大半は本当なのでしょうが、なにしろ、千年近い昔の話だそうですから、確かめようのないお話です。
日本紀
 つい、そんなことを口にしましたら、「亡き満矛大君のご発案で、この国の成り立ちを、多赤麻呂おおのあかまろがまとめ始め、次の蘇麻呂の代に申し伝えられていている。その日本紀もやがて纏まる」と、教えていただきました。出来上がりましたら、是非読んでみたいものと、思いました。

 
 明石あかしの浦から船旅最後の港の住吉までは本当に鏡の上を滑るかのような穏やかな海でした。 住吉の津には社が祭ってあり、筑紫の住吉宮を分社して祭られたそうです。「同じ名前なのは懐かしい」と、ひとり言を言いましたら、父上がこのように教えてくださいました。

「住吉だけではない、沢山の山や川など、筑紫と同じ名前があるのを知って驚くことじゃろう。春日かすが、み笠、平群へぐり山門やまと飛鳥あすか・・・と数え切れぬほどじゃ。

 
と申すのも、舒明天皇の曾祖父に当たるお方が、事情あって筑紫で育たれた。大和に帰られて、一統のおさになられたわけだが、昔を懐かしみ名前を筑紫風にかえられたというわけじゃ。われらが住まう大和の都も、名は、飛鳥という。安児も知ってのように、朝倉の宮の近くに飛鳥という地がある」

「名前を変えられたその土地の人々は、悲しんだことでしょう」
「そう、一方の喜びは、他方の悲しみじゃ。安児は、松浦の鏡の里の名前は、出雲に由来ゆらいしている、ということを聞いたときはどうじゃったな?」

 そう言われてみますと、確かにそのときには鏡の里の人々が、今まで親しんできた土地の名を、勝手に鏡と変えられたときの、人の気持ちのことまでは、考えが及びませんでした。なんとなく、世の中は難しく、いろんなことがからみ合っていることは分かりましたが。


 この半月あまりの旅で、今までにないほど父上と一緒に過ごさせていただきました。和歌についても、ぬか姫ともどもいろいろと教えていただきました。時々、父上がぬか姫の方に力を入れて教えてあげているように思えるときもあり、そのように感じる自分がちょっと情けなく思ったりしたこともありました。

 先日も、私たち二人に、「二人ともよく勉強しているな。もう二人ともこっそりと、恋の歌の勉強もしていることとにらんでいるがどうじゃな。さて、長い旅の徒然つれずれにお前たちに問題を出そう。そうだな、若き、やんごとなき御曹司おんぞうしの訪れを待つ乙女心、を歌にしてみよ。まず、額田が先じゃ、そして、安児がその歌に返す、という趣向しゅこうじゃ。よいな」と、お言いつけになりました。

 次の朝、額田王が、「では一首いっしゅつかまつります」、と低い声で、次のようにみました。


  君待つと あが恋ひおれば 

      わが宿の すだれ動かし 秋の風吹く
(*41)


 父上の顔が、紅潮というのはこのようなことか、と教えてくれるように、お顔にしゅが差してきました。「う〜む。見事じゃ。大君が”ひめみこの位”に取り立てたのは、眼狂いではなかったということか、見事見事。さて、安児もお返しをせねばならぬが、・・・」と、大丈夫かな?というような感じの父上の物言いです。

 母上から教わったように、うろたえないための呪文を心の奥底で唱え、深く静かに大きく息をついて、「しばしのご猶予ゆうよを」とだけ口に出し、瞑目めいもくして考えをまとめました。

 額田王の詠んだ歌の光景を思い浮かべ、部屋の簾を通り抜ける風の気配けはいなどが心に入るまでに、どれくらいたったのか分かりませんが、思いがけなくすら〜っと三十一みそひと文字が出てきました。

  風をだに 恋ふるはともし 風をだに

       来むとし待たば 何か嘆かむ(*42)


「いや〜。お前達二人には恐れ入った。額田も舒明殿のところに、いずれ出仕しゅっしせねばなるまいが、これなら心配いらぬ。いや心配かな。大和の男共が驚くのが、目に見えるようじゃて」と、大仰おおぎょうめて頂きました。




 六、飛鳥の都 


 住吉の津に着き、そこから輿こしに乗って、陸路を大和の都に向かいました。アバケが先触れで歩き、道案内と大きな声で何度も聞き返したりしています。「まるでっ国に来たみたいで言葉がわからん」

 父上の話では、ここは田舎だからで、都に行けば、言葉は筑紫とそう違いはない、ということで安心しました。和歌も、使う言葉は全く同じといって良いそうですから、言葉が分からない時には和歌問答をすれば良いのじゃ、など笑っておっしゃいます。

 
大和の都、飛鳥に着きましたが、太宰府とは随分違う趣です。舒明天皇のお宮も、いらかではなく板でいてあります。緑の苔も生えていて、それなりに趣きは感じられますが、瓦屋根を見慣れた目には、少し重みが薄いと思いました。

 けれど、思ったことをすぐ口に出すのははしたない事、という父上の戒めを思い出し口には出しませんでした。額田王はこっそりと、「なにか田舎に来たみたい、御笠が懐かしい」、と私にささやきました。
鬼がわら
 父上に瓦屋根のことをお聞きしました。
「瓦で葺く方が火事にも強いのだが、それだけついえもかさむ。御笠では瓦を焼くかまも沢山あり、お宮や御殿は瓦が普通となっていて、ほれ、鬼瓦という魔よけの瓦を載せることまで流行りだしたりしている。最近になって、段々と豪奢ごうしゃなものになってきて、幸山大君も禁止令を出されているのだが、”これだけは例外に”と願い出てくるのが多くてなかなか止まらない」

 そして、言葉を継がれておっしゃいました。
「大和の国々は、死後の世界のお墓の方に注力してきたので、街つくりには日本に遅れているが、お墓の方はなかなか立派なものだ。
鬼瓦と同じように、段々と豪勢ごうせいなお墓造りが流行したが、これも舒明殿以降、薄葬令はくそうれいを守るようになられて、いわば無駄な費えも減ったにや聞く。そのうちに連れていって、見せてあげよう」

 何にしても、しばらくは夢に出てくる御笠の都が懐かしく、次のような歌が自然とこぼれて来たものです。


  あさな 筑紫のかたを 出で見つつ 

        のみそわが泣く いたもすべ無み(*43)




 額田王ぬかだのひめみこは大和についてすぐ、予定されていたように、舒明天皇の御殿に出仕することになりました。

 
父上は、「ここの者たちを、田舎者と思う心は、なくすように。それさえ守れば、御身の立居振舞たちいふるまいを目にすれば、この国の男どもはみなひれ伏すのではないかな。妻問つまどいにくる男には、充分注意して吟味ぎんみするのじゃぞ」と、軽口のようにおっしゃいながらも、目には涙が光っているのが見え、ねたましく思う自分が恥ずかしく思われました。

「お言いつけ胸に刻み込みます。長い間有難うございました」と、しおらしく、額田王ぬかひめも涙ぐんで、お迎えの輿こしに乗って、舒明天皇の御殿に向かいました。

 私は、昨夜、額田王が私のところにお別れを、と言って寝間にきました折の、思いがけない出来事の驚きがまだ残っていて、何もお別れらしい言葉も掛けられませんでした。
お話するには、あまりにも恥ずかしいので、これ以上のお話は止めておきます。ただ愛しい妹という気持ちは、より以上のものになった、ということだけは言えますが。


 多賀が教えてくれるところでは、舒明天皇は、このところご病気がちで、外出もままならぬご様子とのことでした。しばらくたって、知り合いの御殿の女中頭から聞いてきた、と、額田王のその後の様子を教えてくれました。

 額田王が出仕してからは、舒明天皇さまは、筑紫の話、大和までの道中の話、和歌の話、と、額田王がいないと日も暮れないといった感じだったそうです。それもしばらくの間で、ご病気が進み、欽明天皇のお相手より、中大兄なかのおうえ皇子や、時には海人あま皇子の、お話のお相手をすることの方が多くなったようです。

 中大兄皇子は、舒明天皇の嫡男ちゃくなんではありませんので、後継ぎはどうなることか、と都雀の噂がかまびすしいものがあるそうです。元の名、葛城王子は、そのような噂に巻き込まれるのを嫌がり、嫡男ではありませんよ、と強調するように、呼び名を「中大兄王子」とされたわけです。弟君も、「じゃあ、僕も変えよう、同じく大をいれよう、」と、大海人おおしあま王子とされたそうです。

 ところである日のこと、屋形に中大兄王子が見えました。名目は、鏡王が、筑紫の珍しい品をお持ちと聞いたので、見せて欲しいとのことであったそうです。由緒ゆいしょある鏡や矛などを、ご覧になっていらっしゃったようですが、その中でも筑紫琴ちくしごとに目をとめられたそうです。どのように弾ずるのか、など詳しく父上に聞かれていました。

「久し振りにわが亡き妻、息長おきながしのぶとしよう」、と父上は仰られて、琴を爪弾つまびかれ、お歌いになられました。筑紫琴


 琴取れば 嘆き先立つ けだしくも 

       琴の下びに 妻やもれる
(*44)


 また、唐国から伝わった時計ときばかりの絵図も、興味深くご覧になっておられたそうです。欲しそうな思いがお顔に出ていた、と後で父上は苦笑にがわらいされていました。大和で世話になる身故、手土産として差し上げた、とも仰っていました。

 父上は、日を定めて舒明天皇一統の方々に、この国の成り立ちやら、国を治める方策、都の測量・縄張り、水漏れせぬ築堤、星占い、和歌の道などを屋敷で講話されることになりました。
その屋敷でのお父様の講話の折、時に私も手伝いにお呼びになられます。

 特に和歌のお話しの時には、「安児、こういう情景の時、どのように詠むか」とご質問があります。一生懸命考えていると、講話を受けている公達きんだちは、自分たちは考えないで、私の考えている姿ばかりを注目しているように感じられて、面映おもはゆい感じもしました。

「額田王の次、誰が鏡王女を妻問いするのだろうか」、という噂が、飛鳥では高くなっていると、心配して、鏡のお殿様に何度もご注進ちゅうしん申し上げた、と後で多賀が話してくれました。

中大兄王子はからくりが好きじゃ、おまけに負けぬ気も強い」と、父上はそうも仰っていました。

 
額田王が宿下がりで屋形に見えた折、「中大兄王子が早速、琴も筑紫に負けぬものを、時計も唐国に負けぬものを、と工匠頭たくみがしらに命じられた」と、話してくれました。

 しばらく経って寶女王から、「中大兄が大和琴を作ったので、是非鏡王殿にお越しいただきご覧に入れたい」、と使いがあり、出かけられました。お帰りになってのお話では、「負けぬ気が良く現れた琴、であった」そうです。弦を増やし、胴も長さも一回り大きく、綺麗な蒔絵まきえが施してあったそうです。

 しかし、本当のお話は、琴にコトよせて、と駄洒落だじゃれではなく、別の話だったそうです。寶女王のお話は、「額田王を中大兄夫人に」、ということだった、そうです。

 つまり、鏡王の養女額田王を、中大兄皇子の正夫人として迎えたい、という話であったそうです。
父上は、それは喜ばしいこと、とご返事されたそうです。

 ご婚儀は舒明天皇のご病気中でもあり、ごく内輪でなされ、父上も「もう、そちらに差し上げた姫なのですから」とご列席になられませんでした。こちらはこちらで、忙しい毎日が続いていたこともあったのですが、お父上は、額田王が中大兄王子のものになることを、見たくないお気持ちも少しあったのではないか、など思ったりもしました。




 額田王が出て行き、静かな日々が二年も続きました。その間に世の中では、いろいろと出来事があったようです。が、その中でも大きな出来事は、舒明天皇が亡くなられ、長男の吉野王子が継がれるかどうかごたごたがあり、結局お妃の寶女王が大王位を継がれ皇極天皇になられたことでしょう。

 中大兄王子を天皇に、という声が高かったようですが、まだ年が若いし、筑紫との談合や加羅の国々との折衝などで、大和に腰を据えるわけにはいかぬ、と鎌足殿と一緒に筑紫との往来に忙しい日々を送っていたそうです。

 時に顔を見せる、額田王の話では、中大兄王子の弟君の大海人王子が、ぐんぐん頭角とうかくをあらわしていて、筑紫との連絡役も充分できるようになっている、とのことです。額田王の性格からして、大海人王子にも興味を持っているのだろうなあ、ということは容易に想像できました。


 多賀から後で聞いたのですが、アバケとクジラの警護の者たちも、加羅へと召集がかかっていたそうです。「後のことが心配」というアバケに、父上は、「当地での警護は、中大兄が絶対責任を持つ、と言っているから心配するな、しっかり筑紫まで一貴様をお護りするのじゃぞ」と言って見送られたそうです。

「しばらくの間でもお前と一緒に住めてよかった、加羅に行ってウサギにもし会えたなら、私も姫も達者で過ごしている、と伝えておくれ」、と多賀がクジラに言ったそうです。「その時クジラが何と言ったと思いますか、こんなこましゃくれたことを言ったのですよ。ウサギ兄は、わしが長いこと姫のところで過ごせたことを、羨ましく思うだろうなあ、と」。


 舒明天皇の跡継のことで、いろいろとゴタゴタがあったそうですが、私達の上には影響無く過ぎていきました。一度鎌足どのが屋形に顔を出され、父上と長いことお話をされたことがありました。

繰言くりごとになるが、お前が男だったらなあ。まあ、一貴どのが無事に今度の勤めを果たせば、お前も正太子妃で、政事まつりごとにも関ることにもなろう。今日の鎌足殿の話のことは、聞きたくないかもしれないが、隣に控えて聞いていよ。聞いたことは他言無用たごんむようじゃ、よいな」と、鎌足どのがお見えになる前に、私を呼んでおっしゃいました。

 今まで、政事まつりごとに関わることについては、何もおっしゃったり教えてくださったりされたことがないので驚きました。一貴妃としての心構えの一つとして、天下の情勢を教えておこうというお心遣いなのでしょう。

 鎌足どのに父上が申されるには、
「政事について、もう私が意見を言うことはない。日の本が、満矛天子のお示しになされた、“世に恥じない道理のある国、日本”として続いて欲しいと願うのみじゃ。筑紫じゃ、大和じゃ、いや、新羅しらぎ百済くだら高麗こまも含めて、それぞれがいがみあっている時ではない。ただ心配は、孝徳殿が中大兄に遠慮勝ちで、結局は寶女王どので持っているようなものだ。まだ、ひと波乱はらんもふた波乱もあるやも知れぬ。だが、今までの鎌足殿の判断をみていると、信じるに足りるものだ。中大兄・大海人の兄弟もシッカリした考えが出来ると見た」

 言葉を継がれて、「そうは言っても、加羅の国々は、こちらより苦労をしている。このたび即位された百済の義慈王殿は、日の本を頼りにしているが、新羅は北の高麗を気にしている。出来れば、北と南の双方から攻められてはかわぬので、日本に百済を応援して欲しくないもの、と思っている。高麗も、日本と大和との間にくさびを打ち込めないかと、虎視眈々こしたんたんという有様ありさまじゃ」

 このように申され、最後に、「中大兄はシッカリ者だが苦労が足らないので、国の外まで目を配る余裕がないようじゃ。中大兄を動かすのに私が要るのなら、私を、お主が使いたいように使えばよろしい」というようなことでした。

 その後もお二人の話は続きます。
「有難いお言葉ですが、高麗と大和が結ぶなどあり得ましょうか?」と、鎌足どのが申されると、

「充分ありえような。元々亡き舒明殿は、それほど加羅には関りたくない、と思っていた。だが、寶女王が幸山大君との義理を大事にされる方なので、今は高麗と結ぶなどは考えられない。しかし、舒明殿所縁ゆかりの者ども〜軽皇子〜蘇我一派の流れがどう考えているか、その辺が問題じゃ」と、父上が返されます。

「新羅はどう動きましょうか?北の高麗、西の百済、南の日本と三方から囲まれていますが」
「新羅も何か手を考えている、と思わねばなるまい。宰相の金春秋は、なかなかの傑物けつぶつと聞こえているでのう。大和も、欽明殿の跡取りのことで、でゴタゴタしている時ではないのじゃが」

「確かに仰せのとおり、筋は中大兄王子なのに、何故か寶女王さまもそのところが煮え切れませぬ。年格好から言っても軽王子かるのみこ、などとおっしゃいますが、中大兄王子も、別に年に不足はないのに、と、弟の大海人王子など大憤慨しています」

「ここは一つ、お主が中大兄王子と力を合わせて、ことに当たらねばなるまい。しかし彼らの力を侮るではない。先方の術にはまったと見せておいて、名を捨てて実を取るのじゃ。力を蓄えておくのが、今は肝要かんようと思うが、な」

 鎌足殿はお話が済まれると、寶女王の御殿に戻って行かれました。一言でも、安児どのはいかがお過ごしか?などお聞きになられるか、など思った私が間違っていたのでしょうけれど、ちょっと淋しい気がしました。

 近頃の中大兄王子は、筑紫とヤマトの往復というより、寶女王の名代という立場で、筑紫に居られることが多くなっているそうです。そして、最初にお話をした、一貴様が飛鳥に下ってお見えて、盃事さかずきごとをした、ということになります。



 外国にお出かけになった、一貴様のことは心配でした。しかし、一貴様は絶対に生きてお帰りになる、ひょこっと元気なお顔を見せてくださる、と信じて、次の和歌の様な気持で、お帰りを待っていましたのに。


  ひさかたの 都を置きて 草枕 

       旅行く君を 何時とか待たむ(*45)


枕詞「ひさかた」を「都に」に掛ける、破格の使い様は、筑紫の御笠の都、あまの都の意味だと、きっと一貴様や父上なら分かってくださることと思います。このところ、中大兄王子が、ご不在がちなのを良いことにして、額田王が時々屋形に遊びに来てくれるのは、とても楽しいひと時でした。

以前、父上が場面を設定して歌問答をさせてくださったように、二人でそれぞれ恋人同士になって、ご披露できないような、たわけ相聞歌そうもんかを詠みあったりもしました。




 七、中大兄王子、そして鎌足のもとへ

 このような穏やかな日々は長くは続きませんでした。ある冬の朝、筑紫から早馬の使いが着きました。幸山さちやま大君からの書状だったそうです。

 書状の封印を外されて、巻紙を広げるなり「そんな!」と、父上が絶句されています。近寄りがたい雰囲気ふんいきです。部屋に籠もられ、しばらくして私をお呼びになられました。
「気を確かに持って聞くように」と前置きされて、文の内容を教えてくださいました。
古戦場
 一貴皇子が大君の名代みょうだいで百済におもむいたら、新羅兵の待ち伏せに遇い、部隊は全滅した、ということ。
 
 一貴皇子の亡骸なきがらは、不明のままであること。

 百済兵の生き残りの言では、逃げ込んだ民家もろとも焼かれた、とのこと。
 
 新羅兵の中に唐兵の装束しょうぞくも見られたとのこと。

 百済は救援を求めていること。
 
 幸山大君が陣頭に立って、乾坤一擲けんこんいってきの勝負をかける、仰っていること。

 幸山大君留守の間の日本の采配さいはいは、筑前の大分だいぶ君に依頼することにした、とのこと。

 此度の一貴皇子の戦死については、蘇我一党の企みがあったと判明、蘇我一党は長柄豊崎の宮で、大君によって成敗せいばいされた、ということ。

 大和一統の後詰ごづめの軍三万は必要であり、至急、寶女王に、東国および吉備の軍勢をまとめさせて欲しい。

 以上のことを鏡王が談判せよ。

 皇国こうこく興廃こうはいは鏡王の交渉にかかっている、が結びの言葉。
 という内容の驚くべきものでした。


 このところ体が優れず、聞いているうちにふわ〜となって、気付いたら寝間で多賀が手拭で頭を冷やしてくれていました。

 父上は?と聞きますと、寶女王の御殿に急の御用と出かけられた、ということでした。

 幸山大君が、お気に入りの歌人大伴家基殿によく歌わせた、あの、「海行かば」で始まる歌、男にはこの歌の気持ちの悪さが分からないのかなあと、あの時には情けなく思われました。

 今、あの歌が脳裏によみがえり、荒涼とした戦場が浮かび上がって、涙が止まりませんでした。


  海行かば 水漬みづかばね 山行かば、草むす屍

       大君の にこそ死なめ かえりみはせじ(*46)


 後は、一貴いき様がお帰りになろうとなられまいと、仏門に入って仏様におすがりして生きる以外は無いだろうと、心に決めました。


 ところが、そのようなことが許されない、とんでもないことが襲いかかりました。寶女王さまと父上がお会いになられた次の日、父上が私をお呼びになりました。

「安児も不憫ふびんな子じゃ。星回りは悪くないと思っていたが、一貴殿のことはこれも運命と諦めて欲しい。良かれと思ってあのような・・・、申し訳ない」

「いいえ、お父様、そのように安児のことを思っていただきありがたく思っています。それよりも、寶女王様との談判の首尾しゅびは如何でございましたか?」と、お聞きしますと、
「寶殿との話は出来た。それがじゃ。えげつないとはこのこと、足元を見おって!」と今までに見たことも無いお父上のえらい剣幕けんまくです。しばらく息を継がれて、思い直したのでしょう、穏やかな声に強いて戻られ、話を続けられます。

「今の、安児に聞かせたくない話だが、聞いて貰わなければならない」
「何事でございましょう?」

「今度の戦の助太刀すけだちの話は、今まで続いてきていた以前からの約定やくじょうゆえ、先方は逃げられない話じゃ。じゃが、いざとなってもう一つ条件を付けてきおった」
「???」

「安児を、中大兄のところに寄越せと言うのじゃ」
「!!!」

「済まぬ」と、いきなり私を抱きしめられました。「考えてみると、寶女王は、安児を息子の嫁に、と以前より目星めぼしをつけていたのかも知れぬ。息子達のために、日の本の血筋が欲しかったのであろう。それならそうと言ってくれば、それなりに対応が出来たものを!」

「・・・・・」何も言えない私でした。

「しかし、考え直してみれば、戦いの場に近い筑紫に、先々戻ることができたとしても、そなたの幸せが待つとはとても言えない今の状態。いぶせき大和の地だが、あの中大兄であればそなたを粗末にはしまい、いや私が生きている限りはさせることはない。・・・・・」

 やっとのことで言葉が出てきました。
「向こうには幸い額田王がいます。心配なさらないでください。仏門に入り尼にとお願いしようか、と思ったりもしました。この世で生を受け、会うは別れの始まりと、お教えいただいた父上のお言葉のように、覚悟は出来ています。これも星回りの運命でございましょう」と声を振り絞りながらも、涙が止めもなく流れてきました。

 父上が、あまりにも落ち込んでしまった私のことを心配して、古くからの気心知れた多賀を付けてくださったので、飛鳥の御殿に向かうのにも非常に心強うございました。

 多賀はこの話を聞いた時に、「姫のお輿入こしいれに付き添えるのは幸せです」と、言ってはくれました。しかし、も少し私に何か言いたそうな素振そぶりを見せましたが、それ以上のことは何も言いませんでした。

 この輿入れの話が進んでいる間も、私には全く他人事のような感じでした。随分前に、額田王が「よしゑやし うら嘆げき居るぬえ鳥の わがおもへるを 告げる如くに」と詠んだ気持ちがわかる気がしました。

 飛鳥の御殿で額田王は私と会うなり、「よく来てくれました」、と、本当に喜んでくれました。これは意外でしたし、ホッとしました。なにか嫌味いやみか皮肉っぽいことを言われることを覚悟していたのですが。

 額田王は賢いので、沢山の大奥のお女中に、どうやれば寶女王様に嫌われないか、どうすれば中大兄王子様のお気にいられるか、など助言して上げているそうです。それがよく的を射ているので、皆の者から好かれているそうですが、気の置けない親しい友は出来ていないようです。

 この飛鳥の中大兄王子の宮殿奥の中でも、いろいろ起きていたようです。後で思うと、ああそうだったか、と思い当たることも随分とあります。額田王の方も私が来てくれたことで、安心して話が出来る者が来てくれて、ホッとしたのかもしれません。矢継ぎ早に、まるで川の水がせきを切った時の様に、御殿内の人々の、もろもろの話を聞かせてくれました。

 額田王は、表には出しませんが感情の起伏がはげしいく、かつ頭の働きが鋭い人です。

 中大兄王子も賢いお方ですから、しばらくしてそれを見抜き、頭の働きの良さ、その機智きちに富んだお話をでられてはいるものの、閨への訪れはいつしか、遠のいていらっしゃるとか、多賀が都雀みやこすずめのさえずりを聞いたといって教えてくれていました。

 中大兄王子の腹違いの弟、大海人王子は、兄と勝るとも劣らぬ出来のよい子で、また、とてもオマセな王子だそうです。

 
額田王よりふたつ年下だそうですから、まだ十四五くらいでしょう。額田王が例の調子で、チョッカイ掛けたのではないかと思いますが、大海人王子が額田王にのぼせ上がっているそうです。若いものですから、外にはすぐわかるようで、御殿内外では噂になりはじめているそうです。

 そのような状態の中で、額田王が「噂に高い安児姫は私よりもず〜とず〜っとすばらしい女性」などとけしかけるように、中大兄王子に寝物語にでも話したのではないでしょうか。鏡王の談判に、これ幸いと、幸山大君の要求に応じる褒美にと、母の寶女王に頼んで私を所望しょもうしたものではないか、と想像できました。

 御殿に上がって三日後に、もう落ち着いただろうから、と、御殿では早速にお祝いのうたげが催されました。

 
正式に夫人としてではなく、また、いわば強引な入内じゅだいなので、都雀のさえずりの種にならぬようにと、ささやかに催されたのは私に取っては幸いでした。 中大兄皇子と並んで、飾りの付いた銚子で御酒を頂きましたら、又この前のように、ふわ〜っとしてしまいました。気付くと額田王がおうぎあおいでくれています。

「お姉さま。どうなさったのですか。お酒にはお強かったのに。何かお具合いでもお悪い・・・」妹同様で、なおかつ気が回る、額田王に嘘もつけず、「実は、このところ月のものが・・・」
「では撫子なでしこせんじ薬をお持ちしましょう」と、ぬか姫が言います。 どなたが詠まれた歌かは存じませんが、次のように秋の七花を歌いこまれています。なでしこの花


  萩 尾花 葛 撫子 をみなえし

      また 藤袴 朝顔の花(*47)(右のなでしこの挿絵は作者の義姉美奈子による)


 撫子の種子は、月のものの不順に薬効やくこうがあることなど聞いて知ってはいましたが、「いやそれには及びませぬ」と、消え入るような声きり出てきません。

「と申されますと、お姉さまにはお心当たりが?」、と、先回りしたような額田王の聞き方です。
「私からは言いにくいのですが、多賀が事情は承知しています。彼女に聞いてください」と、言うのが精一杯でした。


 この話は、額田王から中大兄王子へ伝わりましたが、王子もこれには頭を抱えました。そして、「やはりここは鎌足を」と、鎌足どのを至急呼び寄せられましたそうです。これからお話しするのは、後々、わが夫鎌足どのからお聞きしたことです。

「後宮に入れたをなごが、他所の種を宿していた、それもやんごとなき一貴皇子の種を、となれば、それこそ飛鳥雀のさえずりも、ひときわ騒がしいものになるだろう。また、筑紫との関係もこじらせるわけにもいかぬしな。どのように始末をつけるか、本当にあの時は頭を抱えたぞ」、と、仰いました。

「このようなことで収められないでしょうか」、と、鎌足どのは、中大兄王子に申し上げたそうです。「ここは一つ、寶女王様に一役買っていただくことで如何でしょうか」と。
「具体的には、どういう方策があるのか」と、王子がお聞きになられ、

「寶女王様に、三輪大神の夢のお告げがあった。陰陽師おんみょうじの夢占いで、このたびの妻問つまといはなかったことにしなければ、災いが、うがや一統全体に及ぶ、という筋では如何?」と、鎌足どのが考えたところを申し上げたそうです。

「ふむ。だが、筑紫に返すわけにも行くまい。もう一工夫ひとくふう必要だろう」と、仰って、言葉を継がれたそうです。「おおそうだ。汝の妻人が半年前に難産の末、亡くなったという不幸があったな。まだ嫡子も出来ずにいる、鎌足が私、中大兄に、御殿の女性のどなたか是非わが元へ、と願い出でたことにしようぞ。うむ、これは良い、これは良い、鎌足、異存いぞんはなかろうな!」と、話は進められたそうです。


 時々、妹分の額田王のところに遊びに見える、「鏡王女の安児姫」の才色兼備さいしょくけんびぶりは有名だったと、多賀が後々まで言いました。その王女が、中大兄王子の後宮に入られた、と聞いてがっかりした大宮人も多かったし、それを下賜された鎌足はなんという果報者かほうものよ、と評判になったことなども、後で多賀が教えてくれました。

 流石さすがの知恵者の父上も、今回は、「もしや、と、思わぬでもなかったが、所詮しょせん男の見る目で、女子の微妙な体の変化までは見とれなかった、申し訳ない、逆に中大兄殿に借りができた」と、中大兄王子と鎌足どのに頭を下げられたそうです。

 早速、飛鳥の鎌足どのの屋敷では、盛大な宴が開かれました。屋敷に父上のお話を聴講に見えていた、若公卿衆も大勢見えられ、冷やかしともお祝いともつかぬ言葉を掛けていただいたりで、騒々しいかぎりでした。

 鎌足どのは、一人ではしゃいで、みなさんにお酒を勧められ、ご自分でも何度も同じ歌を歌って、嬉しさを皆に示しました。その歌は丸で、子供が欲しい玩具おもちゃを手に入れた、というような、あからさまな歓喜の歌でした。

花嫁姿
  われはもや 安み児得たり みな人の 

      得難えかてにすとふ 安み児得たり
(*48)



 お酒の匂いを嗅ぐのもいやで、気分優れぬと一通りのお目通りを済ませて、座を引かせていただき、ねやにこもっていますと、多賀が気分は如何と部屋に来ました。本当に多賀の顔をみるだけで、ほっとさせられました。

 まだまだ酒宴は続いているようです。多賀が四方山よもやま話のついで、という感じで思いがけない、宇佐岐うさぎの話をしてくれました。百済での仕事も一段落いちだんらくして故国に帰ってきて、鏡のお殿様にお会いしたいと、飛鳥へ下ってきたそうです。

 父上はお喜びになられ、屋敷に二人を留め置かれて、毎日のようにあちらの国のお話を聞き穿じっていらっしゃる、と話してくれました。

「二人?」と聞き返しますと、
「彼の国で良き女性に出会った、と、嫁を連れてきました」

「どんなひと?」
「ウサギには勿体ないほど可愛らしいひとです」

「どんな感じのひと?」と、重ねてききますと、
「昔の、まだお化粧も知らないころの、安児姫みたいな」

 もっともっと話を聞きたかったのですが、宴も終わったようで、鎌足どのが見えました。先ほどまでの酒宴のときの状態でなく、きちっと相対あいたいされると、頭を下げられ次のようなことを仰られました。

「安児どの、この度の一貴様のご不幸お悔やみ申し上げます。ゆっくりとお話できませんでしたが、此度の無礼千万な振舞いよう、なにとぞお許しあれ。中大兄殿、鏡王殿が、これが一番の上策、とされ、私めが舞台に上って、ひとさし舞う役をおおせつかった次第。

 
ともかく、今は、御腹のやや児の無事出生を第一に念じられることが、一貴様への良い供養くようになることでしょう。一応世の中の雀共の目を逸らすにも、夫婦の形は整えておかなくてはなりませぬ。そこのところを無礼と思われませぬよう、御心得おきくだされ」

「何をおおせです。私は中大兄どの後宮に一度入った女です。本来なら、身籠りを隠していたと、成敗さいばいされても致し方ない身です。思いがけなく、鎌足さまに拾い上げられ、やや児も産めと仰せられる、この上の幸せはございません」

 薄暗いねやのともし火の中で、鎌足どのは「では大事にされよ」と、言い置かれて、すっと出て行かれました。いましばし、ゆっくりとお話をしていただきたい気持ちでしたのに、・・・。

 寝間のしとねに包まれて、鏡の里で忘れ貝をくれたウサギや、七山での一貴いき皇子との出会い、父上の肩車の上での鎌足どのとの出会いなど昔のことを、終夜燈が、丸で走馬灯そうまとうのように、影を浮かび上げてくれるのを感じながら、眠りに落ちました。



 八、鏡王女 母となる

 やがて月が満ちて、ややこが生まれました。幸いお乳はたっぷりと出て、乳母も必要でなく、はしためが近づこうものなら、盗まれるのではないか、と思ったり、ムツキ替えも自分でしようとして女中頭からたしなめられたりもしました。

 天からの恵み、とおもって「メグミと勝手に呼んでいましたら、鎌足どのが、「鏡王殿に名付け親になっていただいた。名はサダメとメグミで定恵じょうえということになった」と仰いました。

 きっと私が恵みメグミと呼んでいるのをお聞きになって、お父上と相談されたのでしょう。それにしても、まだ当歳にもならぬミドリ児に定恵とは、といぶかしく思いましたら、中大兄王子殿のご意見で、僧籍そうせきに将来入れたい、その時は定恵じょうけいとのご沙汰さただったそうです。

 今の世は、明日の命も定まらぬ戦乱の世ですから、仏門に入るのもこれも定めかもしれないと思いました。鎌足殿にお願いして、都の匂いのしない、山城やましろ国の田舎に小屋を建てていただき、定恵と多賀にやっこたち五人、の生活をさせていただくことになりました。

 子供は勝手に育つものか、と簡単に思っていたのですが、いざ生まれてきたら、可愛くて可愛くて、本当に目に入れても痛くない、という気持ちがよくわかりました。又、狼は子供を育てているときには、何が近づいても、たとえ父狼でも容赦ようしゃなく噛み殺す、そうですが、そのような気持ちになっていたように思い出します。

 鎌足どのも政り事でお忙しいのでしょう、滅多にはお見えになりません。まれに父上が訪れて頂くくらいが変化といえば変化です。多賀が飛鳥に出かけた折に、与射よさ女房から聞いた話では、父上は部屋に閉じこもって、書き物をしたりお酒を飲まれたりで、昼夜の区別もつかない生活をされている、ということでした。

 是非山科やましなの里にお出かけになるよう伝えましたら、喜んでお出かけくださいました。少しお痩せにはなりましたが、昔と変わらぬ瀟洒しょうしゃな父上です。それから三カ月に一度くらいは、お見えになるようになりました。

 
かし、私が定恵を他人に触らせたくないような様子を見て取られると、何もおっしゃらず、私たちを見守るかのように、穏やかにひと時ほど過ごされて帰っていかれます。



 和歌の道の修行も何処へやらに飛んで行き、定恵定恵であっという間に、三年の月日が流れました。

 定恵はわが子ながら賢い子供でした。足がシッカリしてくるころには、私も定恵定恵一筋に血道が上った状態ではなくなり、お父上が足を組んで定恵を胡坐あぐらの中に入れ、千字本せんじぼんなどであやしますと、驚いたことにすぐ覚えてしまいました。

 お父上は、安児の子供の時以上だ、と仰って、いらっしゃるたびに、定恵に、私に教えて下さった時以上の熱心さで、五経ごきょうを中心に教えてくださいます。また、定恵も難しい文言もんごんを嫌がりもせず、おとなしく聞いているのにも驚かされました。

 お父上は時折、筑紫や加羅のお話をされることもありますが、殆どは和歌の選集のお話で、父上と大伴家基様とで、和歌集を選歌されていらっしゃるようです。最近は、戦いの歌や挽歌ばんかが多い、と嘆いていらっしゃいます。

 どうやらウサギは、中大兄王子にもお目見えして、その才能を認められたようです。中大兄王子は、からくりとか細工とかがお好きなので、ウサギの向こうで得た知識を知りたかったからでしょう。

 飛鳥の都の話は、多賀が時折仕入れてきて話してくれます。

 額田王ぬかたのひめみこも中大兄王子の元に入って三年も経ち、筑紫の朝廷のご意向で、王位を返すことになり、無冠位となられたとか。それでも、みなは額田王と呼び名していて、御殿内の歌人としての評判は、ますます高くなっているそうです。

 
前にも言いましたように、額田王は、賢く立ち回っていましたが、蘇我大夫の孫娘の、越智おち姫が夫人として入内されてから、どうも大奥内では以前のようには、しっくりいかなくなったとか。それで、中大兄皇子の弟御の大海人皇子が同情されている、と人口に膾炙している、とか聞きました。


  あかねさす 紫野行き標野しめの行き

        野守は見ずや 君が袖振る(*49)


   紫草むらさきの匂える妹を 憎くあらば

       人妻ゆゑに われ恋めやも(*50)

なかでも、この相聞歌そうもんかはちょっと歌いすぎではないか、と御智姫が柳眉りゅうびを逆立てられ、「額田王」と、以後は呼ぶことはならぬ、「采女うねめ」とせよ、と寶女王に、ねじこまれたそうです。

 
御智姫のなだめ方に弱っていたところ、大海人王子の方から、「兄殿のために働いている褒美を、おねだりしてよろしいか」と、采女の額田の所望があったそうです。

 どうやら、機を見るに敏のぬか姫が、今ならチャンスとばかりに、大海人王子に入れ知恵したものと私には思われます。ともかく、私の五年後に、同じように、ぬか姫も中大兄王子の元から外に出ることになりました。これも何かの所縁ゆかりで結ばれているからなのでしょう。

 その後、御智姫もめでたく懐妊かいにんされ、悋気りんきも以前より収まり、月満ちて「ささら姫」を出産されました。その「ささら姫」は、後に大海人王子のお妃になられるわけですが、まさかそのようなことになろうとは、お母様から教わった太占ふとまに方術ほうじゅつでも知ることはできませんでした。

 この五年の間、百済の義慈王も、国内の治世に意を注がれたそうで、百済・日の本連合と新羅の間には小競り合いはありましたが、小康しょうこう状態を保った平和な、つかの間であったにせよ、世に戻っていました。

 幸山大君も一貴皇子がなくなられた時の興奮も収まり、後の、政治・軍事の体制を整えられ、兄の玉島王も一廉ひとかどの将軍位をたまわった、鬼太も徒兵頭かちがしらに取りたてられた、とお父上からお聞きしました。

 新羅の方も戦争好きの王家で、ゴタゴタ続きでしたが、金春秋という傑物が摂政となってから、落ち着いてきたそうです。その金宰相が幸山大君と話し合いをしたい、と言って来たけれど、一貴皇子の戦死の一件があるので、使者を追い返されたそうです。

 その話を鎌足どのが聞かれて、中大兄王子と相談して、大君に「話を聞いてみても損はないでしょう、こちらも戦力を蓄える時間が必要ですから。もし何かあれば、その金春秋を質で押さえたら良いわけですから」と、了解をいただいて、金宰相を飛鳥に呼ばれることになったそうです。

 お父上の言葉ですと、「中大兄の日本に追いつけ追い越せ策は実った」そうです。満矛大君さまの時代は、モロコシに追い付け追い越せと、学問僧を送って学ばせ、父上もその一人であったわけです。

 その後は、加羅の王家の争いに巻き込まれたというのか、出しゃばったというのか、その方面に力を注ぐ有様。というようなことを、鎌足どのは、金宰相の渡来話にかこつけて、珍しくわたくしに愚痴っぽくおっしゃいました。

 新羅の金宰相が飛鳥に来る話を聞かれて、父上の鏡王は、何も仰いませんでした。もう私の役目は終わったようだ、と安心されたのか、最近の不摂生がたたったのか、床に着かれることが多くなり、山城の里にお見えになることもなくなりました。

「薬師の見立てでは胆の病ということで、牛黄ぎゅうおうをお飲みになられていくらか顔色も良くなられた、のだけれど、ご飯は召し上がらずに、お酒ばかりで、日に日にせていっておられる」という与射女房殿から連絡がありました。

 お見舞いに行かねば、と思っているところに、追っかけて、また、与射どのから「中大兄王子様がお見舞いにくるとおっしゃっている」という連絡もありました。

あわび
 久し振りに飛鳥に出かけることにし、もう数えの六歳になった定恵も伴い、初お目見えもさせようかしら、と連れて行くことにしました。

考えてみると、この五年間はまるでアワビのように、殻に閉じこもって、定恵にへばりついて生きていたような気もします。




 久し振りに見る飛鳥のお父上の屋形は、苔むしたいおりに似てきて、物寂しくさえ感じられました。昔、若公卿たちが、集って放歌高吟ほうかこうぎんした時代があったとはとても思えないおもむきです。

 父上は見る影もないほどおも変わりされていて、私は、涙が出て止まらず、お父上の方が私を気遣ってくださいます。

「心配するな、寿命は尽きる時に尽きる。幸いウサギが帰って来てくれたのも、天の配剤はいざいというものであろうて。
中大兄殿もいろいろと気遣ってくれて、遠い国からの底野迦テイヤカとかいう秘薬を届けてくれた。これを頂くと病気を忘れて、天人てんにんになったような心地ここちがする。中大兄殿に頼んで今、墓を宇佐岐うさぎ工人頭たくみがしらとなって造らせているところじゃ。大まか出来たら、連台れんだいにでも乗せてもらって一度見に・・・」

「何故又そのようなお墓を?」
「知らぬかの?生前に墓を作るのは寿墓じゅぼといって、造ることで長生きするという言い伝えがあるのじゃ」ということです。

 屋敷の片隅にこざっぱりとした小屋が建っていて、そこがウサギたちの住処すみかでした。
「今日は鏡王の言付けで、近くの山に行っている、夕刻には帰る」と、花子コッジャと名乗ったウサギの妻が言います。言葉はたどたどしいのですが、言うことの内容は、きちんとしています。

 百済でのお話を聞かせてもらったり、コッジャは、いつもヤスコ姫様のお話を聞かせていただいていたから、始めて会ったとは思えないくらいだ、とも言ってくれます。定恵じょうえもコッジャにすぐなついて、どうしてコッジャという名前なの、などと聞いています。暗くなってウサギは帰ってきたようです。

 父上の居間に仕事のはかどり具合を報告し、傍に付き添っていた私には、平伏して「お久しゅうございます、お元気の様子なりよりでございます」と言っただけで引き下がって行き、何か肩をすかされた気がしました。

「ウサギはなかなかの絵師じゃ。いや絵師以上じゃ。天井てんじょうには天文の図をと言うと、すぐに呑み込んでくれるし、東西南北に神獣を置きたいと言うと、それぞれに見事な絵を描いてくれた。作事場に置いて石壁に描き写さねばならぬゆえ、仕方ないが、仕事が済んだらその絵を、この部屋の周囲に張り巡らせたい、と思ったほどじゃ」と、父上は仰います。

 お墓に飾る絵を居間に置くのは、どうか、と思いましたが、父上が、そうされたいのならそうされるのが一番でしょうから、何も申し上げませんでした。石棺せきかんは、もう筑紫から運ばせることもない、わしは大和の土になる運命であろうから、こちらの石を探させた、などともおっしゃっています。

「もう、筑紫にお帰りにはならないのですか」と、かねてお聞きしようと思ったことをお尋ねしました。

「うむ、寶女王も幸山大君とうまく行き始めているし、わしの知識もほとんど大和一統の若公卿くげ達に伝授でんじゅした。飛鳥の都も、もう太宰府・御笠の都に負けず劣らずの姿になった。筑紫は相変わらず戦の準備に明け暮れているが、さてどうなることか。

 帰りたいといえば、中大兄も帰してくれるかもしれぬが、もうわしもこの有様だ。
幸山大君も一貴殿亡きあと高良こうら偉賢いけん王を養子に迎えて、北の大分君だいぶぎみと南の高良君とでうまく治まっている。今更わしが何を言うこともない、人生到るところ青山せいざんあり、じゃよ」
石棺
 言葉を継がれて、「あと、その墓に入るまでに何とかしたいのが、大伴殿と進めている万葉集まんにょうしゅうじゃ。まあ、こればかりは、終わりがないといえばない仕事ゆえ、致し方ないことではあるが。ま若い人達に任せることにしよう。どうじゃな、最近の作歌は?」と、急にお尋ねになりました。

 これに対して答えようもありません。「このところ定恵の養育にかまかけて、まるで、あわび貝みたいになってしまい、歌を詠う気分にはなっていません」、と正直に申し上げました。

「鎌足殿もよく辛抱しておまえに尽くしてくれる、と感心している。もう一貴殿への義理は果たせたと思うがのう。お前を昔から心憎からず思っているのに、経緯いきさつはともかく夫婦の仲なのに触れようともしない、私みたいなわがままな男にはできない、天晴あっぱれな男じゃ」と、申されました。

 しかし、定恵の顔を見ていると、一貴様の面影おもかげが浮かんできます。この五年名ばかりの夫婦なのを、鎌足どのには申し訳ないことと思ってはいました。

 言いよどんでいますと、話を変えられて、「して、定恵はどうじゃな?相変わらず書経しょきょうに興味をもっているかの?」

「父上がお貸しくださった、四書五経を何度も飽かず読んでいてびっくりします。誰に似たのかわかりませんが、和歌の道には興味示しません。私のあの年頃は、お父様がおっしゃるように、指を折りながら、五・七・五・七・七と三十一文字みそひともじの言葉を探して遊んだものでしたが」

「ふーむ」と父上はおっしゃったきりで、話はそれで終わりました。

 二日ほどして、寶女王名代みょうだいとして中大兄王子がお見舞いに見えました。お付きの人を入れたら五十人位の、大かかりの行列でした。思いがけなくも鎌足どのも一緒に見えられました。

 中大兄王子は定恵を引見いんけんされて、「噂で聞いていたが、このように幼い子が、文字を既にほとんど覚えているというのは驚きだ。このような賢い子であれば、すぐにでも向こうの言葉も覚えるであろう。きっと役に立つ学問僧となろう」、と、びっくりするようなことをおっしゃいました。

 王子のお話では、日の本の遣唐使船は、幸山大君の意見で中止とされたそうです。それを聞かれた中大兄王子が、「大和はまだ遅れているので、こちらの責任で舟を調達して大唐に行かせたいので、お許しねがいたい」と、お願いしたところ、幸山大君も、今は大和の頼みを無碍むげには断れないからと、しぶしぶながら許可されたそうです。

 その夜、しみじみと定恵の寝顔を眺めていましたら、鎌足どのが寝間にはいって来られました。この子がいなくなる、と思うと淋しくなります、と申し上げましたら、すまぬ、このわしが何もしてやられず、と抱きしめてくださいました。もう私も、中老ちゅうろうとでも言う二十七歳です。もう殿方とのかたのおはだに触れることはないもの、と思っていましたので、すっかり上せたような気持ちになりました。

 どなたかにすがりつきたいような気持のところにお見えになり、はしたなくも私の方からおすがり申し上げてしまいました。御笠の都近くでお父上の肩車で裾をはだけた恥ずかしいところを見られたことから始まって、大君の居間で墨を摺っていたときに声をかけられたときの驚きなどが走馬灯そうまとうのように頭を駆け巡り、そなたが元から好きだった、と囁かれて体が燃えた感じがして思わず声を上げてしまったようです。

 
鎌足どのは、なにもたしなめられず、又強く抱きしめてくださいました。このとき二人目の子、明日香あすか姫が宿ってくれました。


 鎌足どのによって再び生きる気持ちを授けていただいたように思います。山科へはそのまま帰らず、鎌足どののもとで過ごすことになりました。やがて定恵が学問僧の一員として唐へ旅たち、明日香が誕生しましても、落ち着いた気持ちで過ごすことができました。

 鎌足どのの大きなお心にすがって、女が幸せに生きる術を知らず知らずに学んでいたのでございましょう、短歌も再び浮かぶようになりました。けれどもう、額田王と張り合って歌を競う気持ちは失せていました。このころの歌で好きなのは、古里の吉野の川を思い浮かべて、鎌足どのの、大きく流れ静かにみ行く愛を詠んだ次の和歌です。

 
  み吉野の 樹の下隠り ゆく水の 

       われこそさめ 御思みおもひよりは
(*51)

 

 幸い父上も、中大兄王子が遠国より到来の秘薬底野迦テイヤカを下さったのが良く効いて、床から離れることも出来るようになり、再び和歌選歌三昧ざんまいをされ、穏やかに過ごされています。



 九、鏡王の死 そして日本の敗戦

禍福はあざなえる縄のごとし、と言いますが、なぜか私には「禍」が巡って来るのが早いようです。一年の誕生祝も待たずに、あの愛くるしい明日香姫は、高熱を出す流行病はやりやまいおかされて一晩経った夜明けに物言わぬ人形になりました。

 母上から、お亡くなりなる前に授かった秘儀を、伝える当てもなくなりました。そのことは、むしろ肩の荷が下りた、という面もありましたけれど。しかし、それにもましての悲しみがやってきました。

 とうとうお父上との別れの日がやってきたのです。もう何年もまえから、病み衰えが目立っていましたので覚悟はできていたつもりでしたが、いざとなると心が潰れる思いでした。与射よさの女房どのからお使いの知らせがあり、取るものもとりあえず、お屋敷に伺いました。

 鎌足どのはじめ、あの宇佐岐うさぎもおとむらいの準備に忙しく立ち働いていました。お父上は取りあえずの白木しらきのお棺に納められていました。お顔を見るなり涙がこみ上げて、棺に取りすがって崩れてしまいました。この数日お書き物に専念されていて、お体に障ると心配していたら、それが現実になってしまった、と与射どのの話でした。

 ご遺言では、是非共に火葬ではなく、かねて宇佐岐が準備してくれた室屋むろやに納めていただきたい。これは、寶女王にも以前からお願いしていてご了解いただいている、とも書かれていました。

 鎌足どのが、「そなた宛てのもの」と、仰って、布で包んだ細長い包みを渡して下さいました。包みには白木の板に、ただ一つの和歌が書かれているだけでした。


  な泣きそ あが墓なれど 吾はおらず

     の風となり 吹き渡りおり
(*52)


 ウサギに頼んで、お棺に母上から頂いた鏡をお父上の傍らに納めてくれるよう頼みました。娘の子が授かりましたが、残念ながら命は長くは与えて頂けませんでした。明日香が生きていれば、母上のお指図に従わなければならないでしょうが。父上も、母上の思い出が一緒にあれば淋しくもないでしょう、と思ってのことでした。

 
鎌足どのも何も詮索せんさくされませんでしたので、ほっとしましたし、肩の荷も軽くなりました。

 宇佐岐うさぎも、今では仏師として名が知られるようになり、立派な名も中大兄王子から頂いているようですが、私にはあの昔の、貝に絵を描いてくれた、私をみる時には、今でもまぶしそうに目を細くするあのウサギです。

 私があまりにも悲しんでいるので、ウサギが心配したのでしょう、お墓の造作用の加耶山の木で仏像を一つ彫ってくれました。お父上にあまりにも生き写しなので、またまた泣き崩れてしまいましたが、それから毎朝毎夕手を合わせるのが日課となりました。

 しかし、泣いてばかりもいられません。その間に世の中は、父上が生きていらしたらどのように言われるか、想像もできない世の中に変わっていました。その中で、鎌足どのは、なき父上の話の通りに中大兄王子と一緒に、この日本の将来のことに動いていらっしゃいます。

 
そんなにお忙しいのに、と言いますと、忙しいからそなたといる時間が貴いものに思える、と仰って、鎌足どのは、以前にもまして、優しくしてくださいます。ただ以前とはちがって、鎌足どのも筑紫など遠国にご自身で出かけられることは少なくなりました。私のことをご心配なのでしょう、中大兄王子から勧められましても、室にお人を入れられることなく、過ごしていらっしゃいます。

 もう授からないと諦めていましたのに、恥ずかしながら三十五にもなって鎌足どのとの間の新しい命が授かり、三度、この子のために、という生活が始まってもいました。

 名前は生前の父上が、次の子供には、と名前をつけて遺してくださっていた「史人ふひと」となりました。
都雀のごと、「今固いもの、糸魚いとい翡翠ひすいか鎌足殿か」などが今流行はしゃ流行っているとか、めっきり歳をとった多賀が教えてくれました。

 その多賀も、やはり故里の鏡のお山を見たい、故里の言葉を聞きたい、と申して暇をいただきたいと願い出がありました。明日香の骨壷も、母上のお墓に入れていただくようお願いし、クジラが、ご用で筑紫に出かけられるのに同行して別れとなりました。



 ある日、鎌足どのが「しばらく家に帰らぬ、留守を頼む」
三月みつきほどもかかるのでしょうか?」


「おそらくそれでは済むまい」
「半年ほども?」
「それで片付けばよいが」、
と出かけられました。

 何故なのかその時には分かりませんでしたが、ウサギもお連れになられました。以前でしたら、多賀が都雀の噂話を集めてきてくれたのでしょうが、今ではほとんど噂話も届いて来ません。

それでも婢女はしためが、寶女王様がお亡くなりになったということを聴きこんできました。彼女の言うことはあやふやでしたが、コッジャが、ちゃんと多賀の穴埋めをしてくれました。

渡来人とらいじんは、彼らなりの連絡網があるようです。それによりますと、おおよそ次のような、びっくりするようなことばかりでした。

「寶女王さまは、その昔の息長姫御子おきながひめみこの新羅征伐に自分をなぞらえて、幸山大君様と一緒にいざ出陣、というところでの食中しょくあたりでの急死だった。銀杏イテフの実の食べ過ぎ、と言われているが、元来、寶女王様は、イテフの実が好物でよくお食べになっていた。今回、特に食べ過ぎ、ということでの食中りとはせぬ、という向きもおられるとか。

 それに輪をかけたような、モロコシのチン毒をイテフに塗って食べさせた、毒見役は逃散ちょうさんした、などという噂もある。中大兄王子が、丁度筑紫に滞在中であったので、その後の処置も幸山大君とすんなりまとまったとのこと。

 その後の処置というのは、うがや一統の大王がなくなったので、配下は喪に服す諒闇りょうあんの間は兵を動かせない。取りあえず、兵を摂津に引き、喪が明け次第参戦したい。幸山大君もそれまでは何としても持ちこたえる。

 

陸だけでなくこのたびは、松浦・河野・雑賀さいがの水軍の軍船四百艘も参戦する。なあに、手柄は全てこちらで頂ける、というので、毛野王・松浦王・日隈ひのくま王などかえって喜んでいるありさまゆえ、孝を尽くされよ」と、いうことだったそうです。



 鎌足どのは、戦いで捕らえ、筑紫に送って寄越された敵方の将兵から、先方の事情などの聴き取りでお忙しい、ということも伝わってきました。海の向こうにお出かけになっていらっしゃらない、と云うことをお聞きしてホッとしました。

 つい、一貴様のことを思い出し、おまけにモロコシにいる定恵の顔を、思い出の中に探している自分に気付き、鎌足どのに申し訳なく思いました。ウサギも筑紫へ出かけているし、コジャも私たちのところに来てもらい、史人ふひとの面倒を見てもらうことにしました。

 史人がコジャになつき、コジャの姿が見えないと、コジャコジャと探すのでねたましくさえ思えます。コジャが言うには、「ジョエ様は賢くて、私の故郷のことや、故郷の言葉を聞きたがります。それに覚えも早いのには驚きます」とのことです。

 私がいくら三十一文字みそひともじを教え込んでも、右の耳から左へと抜けていくのですから不思議なことです。

 そういえば、私もお母様が教えて下さろうとされた、易占ふとまにのことを教わるのが、嫌でたまらなかったことがあったなあ、と思い出し、この相性あいしょうというものには逆らえないものということを知らされました。
しかし、考えて見ますと、私自身が和歌の道のはかなさに、自分の子とはいえ、他人に教える気持ちが薄れていってしまっている、ということにも原因はあったのでしょう。
落花岩
 父上の次に、私に和歌の道を導いてくださった、額田女房の無残むざん末路まつろの話も、それに輪をかけたのです。これも、コッジャが噂を集めてきました。百済の義慈王様の熊津ゆうしん城が新羅兵に破られたときに、沢山の百済の官女が、新羅兵に凌辱りょうじょくされるよりも、城裏の錦江きんこうんだそうです。

 この話は前にお話ししましたね。その先頭には額田女房ではないか、と思われる日本人の女が先頭に立って「義慈王様万歳」と叫んで跳んだそうです。新羅の軍兵は、官女たちが自分たちのものにならなかったのに腹をたて、老若男女を問わず、殺戮さつりくの限りを尽くしたそうです。

 その官女達が身を投げた岩頭がんとうを、新羅兵たちは、「落花岩らっかがん」と名付けたそうです。おそらく、新羅への恨みは、根深く国土の血となって、百済の人々には、いやされることは後世までないのではないでしょうか。

 コッジャの知り合いも随分と亡くなったそうです。話を伝えながら、目を真っ赤にしていました。そういう噂は額田王のところにも届いたようです。彼女は、それから物言わぬ女と化したそうです。大海人王子も筑紫に行っきりで、向こうに屋敷を構えられているとか。今では、話相手もない様子です。

 しかし、私が使いをやっても、使いに返事もくれなくなりました。大海人王子の留守屋形を守る執事の話では、部屋の片隅に一日中こもりっきりの過ごし方になったそうです。十日ほど経って、執事が勧めるかゆもすすられず、丸で幽鬼ゆうきのようになられ、皆が心配していましたが、一夜、誰も知らぬままに消え失せられた、とのことです。

 あとに和歌が一首残されていたそうです。あの飛鳥で一番の和歌詠み人が、どなたにも判読できない歌を残されました。可愛い私の妹の心が、その歌のように、もう読み取ることが出来なくなっていること、別の世界に跳んでいることを知らされました。その歌は、


  莫囂圓隣之 大相七兄爪湯気 吾瀬子之

      射立為兼 五可新何本
(*53)


 というものでした。誇りも自尊心も高かった、額田王ぬかひめでした。彼女が、今の世の中には判ってもらえない歌を残したこと自体が、彼女の気持なのでしょう。




 十、終章 国破れて



鎌足どのが一年ぶりに山科の屋形にご帰還になられました。
お願いして、どんなことになっているのか、お話をお聞きしました。

「新羅との戦が大負けしたこと。新羅兵たちも唐軍の応援を得て、それまでにない戦術で来た。州柔つぬ城も、一日も保たなかった。車で動きまわる大きなを、次から次へと打ちこまれ、火をかけられ、為すすべもなし。野戦になったら、今までにないほどの騎馬武者が出てきた。そうと知っていれば、野に出ず山に籠って戦うべきだったのであろうが。 この野戦で、幸山大君も毛野大王も共に失った。わが軍は指揮官がなく、海岸には日本水軍が来ている筈なので海岸に向かって転進したのじゃが」一息入れられて、

「その、白村江はくすきのえの海戦でも結果は同じだった。四百艘のわれらの軍船も、唐の軍船十艘にかかってやられてしまった。唐の軍船は大きさも倍以上、船べりには、あかがねを張り、機械カラクリ仕掛けの弩の火矢で、日本の矢が届く前に皆やられてしまった。本当に、歯も矢も立たずということだ。一貴皇子がご健在であったら、先方の機械仕掛けの弩への対策も出来たことであろうが。勇気だけで勝てる、という信念だけでは戦は勝てぬ、ということよ」と、珍しくやや自嘲じちょう的におっしゃいました。
弩とはこんなもの?
「鏡の殿さまが御存命だったら、何とおっしゃるやら、この敗戦はとっくに見こされていたのであろう。しかし、繰り言を言ってもどうにもならぬ。次の手を打たなければ、唐と新羅がやってくる。またしばらく忙しくなる。史人を頼む。唐や新羅と対等にこの国を造るには、新しい人が必要だ。古いしきたりは、筑紫とともに滅びるのは止むを得まい。冷たいと世人は言うかもしれぬが」

 私は何にも言えませんでした。ただ「兄の玉島王は無事に筑紫に帰りつけた」、というのを聞いたことがただ一つの救いでした。

 もう一人の兄久里王と、一緒に渡海した宮姫は新羅軍に捕まった、ということまでは聞こえてきたそうです。
恐らくは、と、後の二人の運命の推測をあえてしゃべろうというものはいなかったそうです。

 私たちは何を悪いことをしたのではないのに、百済の多くの官女たちと同じ運命をたどるのでしょうか。もう額田女房も、そしておそらく、ぬか姫も、その先触れであの世に行ってしまって。

 あの堂々として、心配するな、吾は神なり、神は不敗なり、と仰った幸山大君さちやまおおきみ。義にじゅんじるのは満矛みつほこ大君さまのご遺訓いくんじゃ、と高らかに宣言された幸山大君。
一貴様、毛野様、久利王、宮姫、コットイ、アバケ、クジラ、などなど、沢々山々たくたくさんさんしかばねを、海や野にばらまいてしまう結果となりました。

 もし、幸山大君が、お帰りになられることがあったら、地の神さま、先祖の神々に、どのように報告されるのでしょうか。

 

 定恵じょうえが、遣唐使船で出て行き、干支えとも一回りして顔も思い出しにくくなったころ、このたびのモロコシとの戦の後始末の軍使の通詞も兼ねて、帰国してきました。

 
びっくりして喜んだのもつかの間、定恵の驚くべき話で私の頭は半狂乱はんきょうらんになりました。この定恵が絶対に他言たごんしてくださいますな、と念を押されての話、このお話だけで一夜過ぎてしまうかもしれません。

 次のが、定恵が語ってくれた話です。

 唐の都から離れた静安寺というところに、日本僧たちが修業の一環として訪れた時のことです。そこに一人の日本人が居るということでした。しかもその日本人は僧でなく、奴隷だ、とのことです。

 その日本人が私たち日本僧が来ることを知り、近年腎の臓が悪くなり、どうも長くはもたないだろう、今生こんじょうの願いということで、是非会って故郷の話を聞きたい、と寺の和尚おしょうに願い出たそうです。


 奴隷とはいえ真面目まじめに勤めているので、逃げる算段さんだんをせぬようよく言い聞かせ、自分の身の上話は絶対にせぬ、と誓って、そのうえで唐僧と一緒ならば、それも一夜のみであれれば、とお許しがあったそうです。

 庫裡くり囲炉裏いろりを囲み、その奴隷から問われるままに、吉備国人、摂津国人、讃岐国人などが故郷の話をして、定恵が飛鳥の話をしたら、一段とその奴隷の目が光を増したようでした。

 その奴隷は、身なりはやっこですが、身綺麗で、言葉は、母と同じ筑紫訛りがあるようです。

 
横の吉備人が、「この若僧は、中大兄王子のお声掛かりで特に参加した」、などというので、「母御はさぞ心配されているだろう、名は何とおっしゃるのかな」、と何気ない調子で聞くともなく言いますので、安児やすこといいますが」、と答えました。

 すると一呼吸置いて、
「ここのお寺は行路安全にご利益りやくがある、今宵の出会いをエニシとして、今後皆様の行路安全をお参りすることにしよう、ところでお若い方はおいくつになられるのかな?」答えますと、「ふーむ、その若さで大変だろうが修業なされよ」と言います。

 このような話を、会話の間中、一語一語唐語に直して唐僧がうなずいてから、次の話へと、まだるっこしい時間のかかる会談でした。唐僧はどうも日本語も分かるらしいのですが、日本語だけの話にはしてくれません。

 
しかし、その倭人が去る時に、一つのお守りを出して、定恵に「この札は故郷を出るときに無事と戦勝を祈願して頂いたのだけれど、武運つたなく、半分の願いは聞いていただいた訳だ。国に帰った時に、もしこのやしろに寄れることがあったら、お礼にこのお守り札をお宮に納めていただきたい」

「しかし、お名前を伺わなければ・・」と言いかけると、付き添ってきた日本語がわからぬ筈の唐僧が「もうそれまで」と引き立てようとします。


「お願いだ。讃岐さぬき此世去こよさり」の社へ、とお願いいたすだけだ」
と、その日本奴隷が唐僧に申し入れました。

「なんだ、その讃岐の此世去の社というのは」

「小さな鎮守ちんじゅほこらです。讃岐の此世去とこの様に書きます」
その唐人が、そのお守り札を試し眺めて検査して、不審なものではない、と見ておふだを投げ渡すと、「これまで」、と引き立てていきました。



 帰りの行路は海が荒れました。一生懸命お守りを握って天地神仏へお願いをしましたら、やっと収まりました。汗や波で、預かったお守りもすっかり痛んでしまいました。お守りのひもが、湿ったためかゆるんでいます。紐と見えたのは、堅く捩じった紙縒こよりを編んで作ってあったのが分かりました。

 ふと、倭人が「讃岐さぬき此世去こよさりの社へ」という不思議な社の名を言ったのが心の片隅に残っていました。コヨリが現れて、はっと気付きました。サ抜きのコヨサリ、つまり、コヨリと言っていたのではないか、ドキドキしてきました。人目を避けて、少しずつコヨリの紐を解いていきました。

 赤黒い色をした武運長久安児ぶうbbちょうきゅうやすこの六文字が見えてきました。思いもかけない母親の名を見つけ、動転どうてんしてしまいました。人には言ってはいけないことだ、とは、本能的にわかりました。

 一貴いき皇太子が十年前に、カラで戦死した話は聞いていましたが、まさか、と結びつけることが出来ず、帰国して早速、山科の母のところに訪ねていきました。以上が、定恵が母上だけに伝えたい、といって話してくれたものです。

 最初は、こちらの気も動転しましたが、頭の鋭い定恵の追及に、本当の父親をこの子も知るべきか、と思ったのが後で思うと、取り返しのつかない、一生の不覚ふかくでした。父上が存命でしたら、別の解決の策もあったことでしょうが。

 定恵は何も言わず、黙り込み、都へと帰っていきました。これが今生こんじょうの別れになるとは、知りませんでした。知らなかった方が良かったのかもしれませんが、悔やんでも悔やみきれません。

 中大兄王子のところで、劉徳高りゅうとくこうという唐国の代表が談判をすることになり、帰朝報告と通詞つうじを兼ねて、定恵は御所に出かけて行ったそうです。このたびの戦争の結果について、筑紫ですでに、大海人王子と鎌足と唐側の間でほぼ決まっていたのですが、近江おうみで最終の詰めの話だったそうです。

 結論として、筑紫の天一統あまいっとうの国は潰す。しかし、それでは無用の混乱が起きる。混乱を静めるために、形としては日本を大和に禅譲ぜんじょうさせる。そのために、幸山大君をいったん帰国させる。後は、中大兄王子が指揮をとる。これがうまく運ぶように、唐軍も筑紫の吉野の海域に拠点を設け監視する。ということでした。

 公式の話が終わって、中大兄王子が「ご苦労だった、褒美にとらせよう、何か望みのものはあるかな」と仰られ、そこで定恵が申し出たのは、還俗げんぞくでした。

 理由は、と問われても無言だったそうです。
とりあえず三日後にくるように、と帰されたそうです。その後、蘇我太夫を呼ばれたそうですが、定恵とかかわりがあったかどうかは確かではありません。

 出かけるところで不吉ふきつな予感がして、日をあらためたら、と言いました。しかし、新しい門出だ、捨てる過去が不吉なのでしょう、と定恵は言い残して出て行きました。結局物言えぬ姿で帰ってきました。

 コッジャが話を集めたのでは、宇治川のほとりで、人出がかなり多かったのに、旅姿の二人組が「百済のうらみ」といっていきなりりかかってきたそうです。二人は、定恵の死を確かめ、懐中物をみな持って素早く逃げたそうです。

 警固番所けごばんしょから来て調べても、なぜ斬りかかったのか、なぜ百済の恨みと言ったのか、百済人とは見えない風体ふうていだった、ということでした。

 筑紫に知らせを、中大兄王子が出してくれましたが、急を聞いても、すぐには鎌足どのも帰って来れず、ひと月ほど後に戻って、早速、近江の中大兄王子のところにお出かけになりました。


「警固が行き届かず、申し訳なかった」と、自ら頭を下げることの嫌いな中大兄王子が頭を下げられたそうです。

 また、この償いはきっとする、と仰って、早速まだ年端としはもいかぬ史人に、位階乱いかいと名を賜ったそうです。
名は他に比べるものなし、不比等ふひとと名付けて下さった、ということです。

 もう私の涙はれ果ててしまいました。母上の形見の鏡は父のもとで眠っています。宇佐岐うさぎに頼んで持ってきてもらいました。

 本当のことを知りたくて、母上に教わった易占の法を行い、次いで、正邪の法を一心に行いました。
 おぼろげながら、定恵が因果応報いんがおうほうといいながら慰めてくれているようで、眠りこんでしまい、不比等が心配して見にきて起こしてくれました。


 ウサギは、仕事の合間に一貴さまと定恵の二人一体の像を彫ってくれています。その像は、それと分からないように仏像の顔にしているとか。中大兄王子はウサギの作事場にお見えになった時に、いずれ私のも頼む、と笑って何も仰らなかったとか。



 それにしても、和歌の世界とは随分かけ違った世の中になりました。私たちが和歌を詠む世界ではないようです。おまけになんと鎌足どのも、あの世に召されてしまうのです。

 中大兄王子が正式に天皇位に就くことを唐が認めてくれ、天智天皇の即位式もありました。官位などもその折に改めて定められました。不比等ふひと様は中大兄王子の言葉がなくても、当然大臣になった、とウサギはいいますが、十代の若さで大臣にお取立てになりました。

 それを見て安心されたかのように、鎌足どのが筑紫の出先でおなくなりになりました。
モガリも火葬も済ませて骨壷に入ってのご帰還でした。不比等に天智天皇から、「母安児どのに伝えるように」と、次のようなお話があったそうです。

 鎌足殿は、筑紫の地で病を得られて、天智天皇がお見舞いに行ったときには、まだシッカリとされていたそうです。そのときに、このような思いがけない話をされたそうです。

 幸山さちやま大君が出征しゅっせいされる前に、中大兄王子を呼ばれたそうです。後の政事まつりごとの手配りのことでお話があり、鎌足のことにも及んだそうです。

 幸山大君は、
「鎌足のことじゃが、蹴鞠けまりの褒美になんなりと望みの物を申せ、と言って、その答えが気に食わなくて、あのような、大和に追いやる仕儀しぎになった。


「しかし、あれはおのれが間違っていた。

「ただ、一度出てしまった言葉はもう戻せない。


「その後の動きをみても、鎌足の言うことには理があった。

「しかし、それを認めるわけにはいかない、こちらには太古たいこからの百済との義があった。


「以前、世の中がまだこれほどがさついていない折に定めた、冠位があったな。

「あれから鏡王に随分と苦労かけ、大和と筑紫を取り持ってくれた。


「鏡王に、大織冠だいしょくかんをせめて渡そうと思ったが、鏡王は断りおった。

「実のところは、この働きは鎌足こそが褒められるべき、とな。


「それで、わしが海を渡る前に、この冠位を、おぬし中大兄どのに預ける。

「もし、私に何かあれば、私の代わりに鎌足に授けてやって欲しい」

ということでした。

 鎌足どのは、その話を聞かれて、「鏡王どのこそ頂くべきでしたのに。このことは、是非、妻、安児に伝えてくだされよ」と、仰られて、にっこり笑われて往生おうじょうされたそうです。

 そうこうしている間に、幸山大王が唐軍と一緒に帰国された、という話が伝わってきました。そのせいで、荒れていた筑紫の地にも平穏が戻ってきて、さすが天のご一統のご威光はたいしたものだ、という世評だそうです。

 最近は、大伴様が仰るには、柿本人麻呂様みたいな心のしっかりした方でないと、今の世には和歌を詠むのは無理の様です。三十一文字の道を人に教えたことなど、今になって考えると、おこがましく、恥ずかしくさえ感じます。しかも、私の心のなかにはもう和歌を詠もうという気持ちは、これっぽっちも湧いてまいりません。

 
今の世の中は、歌詠みが出来る世の中でしょうか。それでしたら、結構な世の中だと思いますが。


 今は、すべて不比等が取り仕切り、私は仏間でウサギが彫ってくれた、父上と鎌足どのと定恵の三体の木像を拝みながらの毎日になりました。世の人は、鏡王女も気が狂われた、と言っているそうです。そうでないことを知っているのは、コッジャとわが子不比等の二人です。

 木像の前で香を焚き一心に祈っている、と知らない人は思うでしょうが、木像の前に置かれた白龍の鏡のことを知っているのは不比等だけです。

 これからの日本をどうするのか、大海人王子と天智天皇とのはざまにいて、不比等が悩む相談に私が乗っていた、など正気しょうき沙汰さたの話とは思われないことでしょうね。
でも、年端もいかぬ不比等が、よく日本の舵取かじとりができたことよ、と後の世の人が不思議に思われたことだろうとは思いますが。

随分と長々お話をしてきましたとお思いでしょうが、ご心配しなくても結構ですよ。邯鄲かんたんの枕のお話はご存じ?ご存知ならば、お教えしますが、あの術も息長の秘術なのですよ。この母上ゆずりの方術のお陰で、命日にこのような所縁ゆかりの地をあちこちと巡らせてもらえています。
鎮懐石神社
 この鎮懐石ちんかいせきのお社であなた様をお見かけしたのも何かのご縁でしょう。幼いころの思い出話についふけってしまって、どうやら時が過ぎてしまったようです。思いもよらず長生きをしてしまい、世の中の辛い話ばかりを背負ってしまったような気がします。

 まだ沢山お話したいことも残っています。又お会いできお話を聞いていただけたらうれしゅうございます。

 ああ、あなたさまのお連れがお見えになったようです、
ちゃんとお聞き下さってありがとう。歌を忘れた金糸鳥でしたが、お話したお陰で、少しは気持ちも晴れました。

 もうすっかり、耄碌もうろくというのでしょうか、気持ちも子供に帰ってしまっています。
昔と同じように、指を折って数えるような歌になってしまいましたが、最後に一首・・。


  こころざしを果たさで いかに帰れなむ 

        ものみな清き あの故里へ
(*54)



 会社を定年退職し、わが奥様の求めに応じて運転手役を務める傍ら、古代史の謎ときに時間を潰す日々を送っています。今回のお話は、初夏のある穏やかな日の出来事を纏めたものです。

 わが
奥様と一緒に、福岡の糸島半島方面の産地直売店に野菜や魚を求めに行き、わが奥様がお店で買い物をしている間に、近くの小さなお社で、ついまどろんだ時の、夢うつつのなかで現れた上品な老女が話してくれた、お話の記憶を思い出して綴ったものです。

 ほんの十分間くらいの時間の中でよくもこんなに沢山の話を聞けたものだ、と我ながら不思議に思います。その社は神功皇后ゆかりの鎮懐石神社と案内板にありました。

 家内が
「なにをぶつぶつ言ってらっしゃるの? 良い夢でも見れましたか? もう日が落ちますよ、帰りましょう」と、揺り起こしたりしてくれなければ、後のお話も聞けたでしょうに、と残念でした。

 折角聞いた珍しいお話ですので、孫たちに話して聞かせました。画学生の孫が、「絵物語にして皆さんにご披露したらどう、習作として挿絵を協力するよ」と、言ってくれます。ご披露出来る機会があれば、今生一番の喜びとなることでしょう。

 ひょっとしたら、続きの話を聞けるかもしれないと、鏡王女の来年の命日には、是非鎮懐石神社にお参りに行ってみたいと思っています。

(おわり)



和歌の出自について

この物語の筋はともかく、物語の中のこの下手くそな和歌は何だ!と思われた方も多いことでしょう。その五十二首の内の三十六首は万葉集などの古歌からの借用です。下手くそな歌と一緒にされては困る、と万葉ファンからお叱りを受けそうです。

 その他は唱歌や歌謡曲などから、発想を拝借させていただきました。その出自をはっきりさせておく必要もあるでしょう。また、昔は本歌(ほんか)取り、というお遊びもあったようですが、現在でも、このような和歌遊びも出来るのか、読者のみなさんもやってみたいと、思っていただければ幸いです。

 尚、この素人短歌もどきを、万葉集研究家の上条誠氏(多元的古代研究会)に添削をお願いしました。「ほとんどこのままで良いですよ」と、二か所ほどの助詞の使い方についてご助言を頂けました。お陰さまで、この拙いお話しを世の中に出そうという気持ちになれたことを同氏に感謝いたします。


 (*01)ぬばたまの この夜な明けそ 赤らひく 朝行く君を 待たば苦しも

【この和歌は、万葉集巻11第2389番 作者不詳をそのまま借用したもの】

(*02)夢見ては 思い出づるよ 小鮒釣り を追いかけし ななやまの里

【元歌は、“兎追いしあの山 小鮒釣りしかの川”で知られる「故郷(ふるさと」。高野辰之(1876年長野県生まれ)作詞で、1914年に尋常小学校六年制の唱歌に採用された。作曲は岡野貞一(1878年鳥取県生まれ)で、この両者のコンビで「春が来た」、「朧月夜」、「紅葉」などがある】

(*03)健夫ますらおの 騎馬うま立つすがた 見てしより 心そらなり つちは踏めども

【元歌は、万葉集巻12第2950番の「ただ心緒おもいを述べたる歌のなかの一首、詠み人知らずの歌です。“吾妹子が 夜戸出の姿みてしより こころ空なり地は踏めども”本歌取りというよりも、上の二句だけで、あとはそのまま頂いています。詠み人知らずとされている、この歌を詠んだ万葉歌人に申し訳ありません】

(*04)高麗剣こまつるぎ われにしあれば 百人ももたりの えびすたりとて おそれえはせじ

【元歌というほどのものはありません。万葉集には沢山の「高麗剣」の句が入っている歌があります。例えば、万葉集巻12第2983番詠み人知らず“高麗剣 わが心から外のみに・・・”とか、他にも高麗剣の歌があります。無理やり、敵愾心直結の和歌にしましたので、作者の和歌の素養の幼さが出てしまっています】

(*05)春うらら マツラの川の船遊び かいの雫も 花と散るらん

【元歌は言わずと知れた 滝廉太郎(1879年東京生まれ)の「花」。1900年に発表された“春のうららの隅田川 のぼりくだりの船人が 櫂の雫も・・・”は、今でも女声合唱曲として現役を保っています。作詞は武島羽衣(1893年東京生まれ)。田中穂積作曲の「美しき天然」も彼の作詞】

(*06)冴ゆる空 奇すしき光 降らせつつ しじまの中を めぐり行く

【元歌は、中学唱歌に採用されている堀内敬三(1897年東京生まれ)訳詩、「冬の星座」。木枯らし途絶えて 冴ゆる空より 地上に降りしく 奇すしき光・・。より想を借りたもの。元歌というが、原曲は、アメリカの1871年発表のウイリアム・ヘイス作曲「Molie darling」というラヴソングである。堀内敬三はアニーロリーとかドボルザークの交響曲「新世界より」“遠き山に日は落ちて...”などの訳作詞がある】

(*07)君恋うは 悲しきものと み吉野に 辺巡へめぐり来つつ 耐え難かりき
(*08)いにしえも つまを恋つつ 声慕う み吉野の道に 涙落としぬ

【この二つの元歌は、北見志保子(1886年高知県生まれ)が1934年に詠んだ短歌「平城山」。平井康三郎(1910年高知県生まれ)が翌年曲を付け大ヒットした。場所を「平城山」から「み吉野」に変えただけでなく、少しいじってみた。
元歌「平城山」の一番は、 “人恋うは 悲しきものと 平城山に もとほりきつつ・・”で、二番は、 “いにしえも 夫を恋つつ 越えしとふ・・・”である。一番の、“もとほり”は、現在人には理解しにくいこと、二番の、“越えしとふ”は話の筋から”声慕う“に変えてみた。北見さんお許しの程を】

(*09)マツラ川 川の瀬光り 鮎釣ると 立たせる姉の 裳裾もすそ濡れなむ

【元歌は、万葉集巻五第八五五番詠み人知らず “松浦川 川の瀬光り 鮎釣ると 立たせる妹の裳裾濡れなむ” である。物語の筋から、妹を姉に変えみた】

(*10)しらぬひ 筑紫の綿は身につけていまだはねど暖かに見ゆ

【元歌は、万葉集巻3第336番である。これは物語り文中の引用として、そのまま使用させてもらった。詠み人は、筑紫観音寺別当の沙弥満誓、俗名 笠朝臣麿 である】

(*11)朝顔の 咲くや南風はえ吹き 嵐来つ 渡る波波 悲しみめぐる

【元歌は、THE・BOOMの宮沢和史(1960年甲府市生まれ)作詞作曲の「島唄」“デイゴの花が咲き 風を呼び嵐が来た”である。

(*12)別れそは この人の世の 常なるを 流るる水は 涙なりけむ

 【元歌は、島崎藤村(1872年木曾馬籠生まれ)の「若菜集高楼」、“別れといえば昔より この人の世の常なるを・・・”である。小林旭が1961年にレコードを出し、翌年、日活映画「惜別の歌」で主題歌となり、大ヒットした。作者のカラオケ十八番でもある】

(*13)砂山の 砂に腹ばい 思い出づ 幼き恋の その痛みをば

【元歌は、言わずとしれた石川啄木(1885か6年岩手県生まれ)の詩集「一握りの砂 」“砂山の 砂に腹ばい 初恋の 痛みを遠く・・・”より想を拝借しました】

(*14)梓弓 ひきみゆるこの 健夫ますらおの こころはいつぞ ちてしまむ 

【元歌は、万葉集巻11第2640番詠み人知らず ”梓弓ひきみゆる”、の冒頭句と、『古事記』の神武紀にある古歌のリフレイン“ちてし止まむ”を結びつけたもの】

(*15)まつうらの  玉島浜の忘れ貝 われは忘れじ 年はぬとも

【元歌は、万葉集巻11第2795番詠み人しらず “紀の国の 飽等あくらの浜の忘れ貝 われは忘れじ年は経ぬとも”の場所を変えてみたもの】

(*16)もろびとの こぞりて祝ふ 大君おおきみの 待ちにし時は 今ぞ来ませり

【元歌は、賛美歌の内でもかなり有名な歌、“もろびとこぞりて歌いまつれ、久しく待ちにし 主は来ませり:::”で始まる、讃美歌第112番を翻案したもの】

(*17)青丹よし 加沙かさの都は 咲く花の 匂ふがごとく 今盛りなり

【元歌は、万葉集巻3第328番 大宰少弐小野老朝臣の“青丹よし寧楽の都は咲く花の薫ふがごとく今盛りなり”の寧楽を加沙に変えた。「加沙」は、太宰府がある地域現在の地名「御笠」の意味で造った。また、「寧楽」は、奈良という解釈が一般的だが、太宰府説もある】

(*18)君が行く 海辺の宿に 霧立たば 吾が立ち嘆く 息と知りませ

【元歌は、万葉集巻15第3580番詠み人しらず。そのまま使った。前書きに「新羅に遣はされた使人らの、別れを悲しんて贈答し、海路にして情をいたましめ思を陳べたる、あわせて所に当りて詠える古歌」、とある】

(*19)鳥総とぶさ立て み加耶の山に 船木伐り に伐り行きつ あたら船木を

【元歌は、 万葉集巻3第391番で、詠み人は、前出(九)「筑紫の綿」の沙弥満誓。 “鳥総立て 足柄山に船木伐り 樹に伐り行きつ あたら船木を”の場所を変え、物語の筋から「薪」に変えてみたみたもの。一句目の「鳥総」とは、講談社文庫 万葉集 中西進さんの注でもはっきりしない。”梢をもって鳥の総状のものを作り、山神に供えたものか”、とある】

(*20)草枕 旅行く君を荒津まで 送りそ来ぬる 飽き足らねこそ

【元歌は、万葉集巻12第3216番詠み人しらず。 元歌そのまま使用。「荒津」は、現在の福岡市中央区荒戸の港(現博多漁港)と思われる。近くには、古代からの外交・交易の拠点、「鴻臚館」跡もある】

(*21)久方の 光りを浴びつ かたぐるま ふわふうわ揺る いとおかしけり

【元歌は、童謡 田中星児作曲作詞「かたぐるまのうた」“パパの肩車は気持ちがいいんだよ パパが歩くとふわふわゆれる ララララランランラン”の想を拝借した】

*22)外つ国の 清き川瀬に 遊べども 加紗の都は 忘れかねつも

【元歌は、万葉集巻15第3618番。“山川の清き川瀬に遊べども 奈良の都は忘れかねつも”を若干変えて使った。この和歌は、都から来た一行が、安芸国長門で磯遊びの折詠んだ5首のうちの一首。一行のうちの一人は写経生の大石蓑麿ということは判っているが、この歌の作者は不明】

(*23)他国ひとくには 住みしとそ言ふ すみやけく 早帰りませ 恋ひ死なぬとに

【元歌は、万葉集巻15第3748番。狹野茅上娘子が、夫、中臣宅守が罪を得て、越前の国に流罪されたおり、詠んだ歌が万葉集に23首載っているが、これは、その内の一首。この歌をそのまま使わせてもらった】

(*24)たらちねの 母にさやあり 聞こえしも な帰り来そ 事し成るまで【元歌は、万葉集巻十一「正に心緒を述べたる」歌のなかの一首 第二五一七番。詠み人不明 元歌、“たらちねの母に障らばいたづらに 汝もわれも事は成るべし”の下の句を、物語の筋に合わせて変えて使った】

*25)あおによし 加紗の都に たなびける 天の白雲 見れば飽かずも

【元歌は、万葉集巻15、遣新羅使の旅の折に詠われた「古歌」として、第3602番に載せられている。“あおによし奈良の都にたなびける 天の白雲見れど飽かぬかも”の、「奈良」を物語に合わせて「太宰府・御笠」に変えた】

(*26)きれいな掘り串を持つきれいなお嬢さん、わたしは戸手の識名しきなと申す者 あなたのお家とお名前をどうぞ教えてくださいな

【元歌は、万葉集巻1の一番初めに載っている歌。雄略天皇の御製とされる。「籠もよ み籠持ち 掘串もよ み掘串持ち この岳に 菜摘ます児 家聞かな 名告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて われこそ居れ しきなべて われこそ座せ われこそは 告らめ 家をも名をも」】

(*27)菜畑に 入り日薄れつ 鐘の音も流れつ おぼろ月夜かな

【元歌は、文部省唱歌。前出(*02)「ふるさと」と同じように、高野辰之作詞、岡野貞一作曲のコンビの作の内の一つ、「おぼろ月夜」“菜の花畑に入日薄れ 見渡す山の端霞み深し・・・”から、そっくりその想を借りたもの】

(*28)大君の 大奥の間を かしこみと 侍従さぶらふ時に 逢へる君かも

【元歌は、万葉集巻11第2508番の柿本人麻呂作の、“皇祖の神の御門をかしこみと 侍従ふ時に逢へる君かも”を物語の筋に合わせ少し変えて使った】

(*29)伊勢の海人あまの 朝な夕なに 潜るとふ あわびの貝の 片思ひにて

【元歌は、万葉集巻11の「物に寄せて思いを述べた歌」の内の一首、第2798番。作者は不明。“伊勢の白水郎〈あま〉の朝な夕なに潜くとふ 鰒〈あわび〉の貝の片思にして”のほぼそのまま使った。「白水郎」とは、中国白水地方の漁民を、「漁師の代名詞」として、古代より使われたそうである。「伊勢」は、この物語の場所、筑紫の志摩町に同地名があるので、そのまま使った】

(*30)ふるさとの 川のせせらぎ 変らずも うつし世の声 聞くぞ悲しき

【元歌は、文部省唱歌。 犬童球渓1879年熊本県生まれ)訳詞、「故郷の廃家」。“幾とせふるさと来てみれば 咲く花鳴く鳥そよぐ風 窓辺の小川のせせらぎも過ぎにし昔に変わらねど・・・”の内容を物語の筋に合わせて三十一文字に仕立てた。アメリカのウイリアムヘイス(一八三七年生まれ)の「My dear old sunny home」が原曲】

(*31)春日なる み加沙の山にゐる雲を 出で見るごとに 大君きみをしぞ思ふ

【元歌は、万葉集巻12の中の、「別れを悲しびたる歌」31首の内の一首、第3209番、“春日なる三笠の山にゐる雲を 出で見るごとに君をしそ思ふ”。詠み人は不明。元歌は、女性が彼の君を思っての歌であるが、物語の筋に合わせて、「君」を「大君」に変え、男性の歌として使った。元歌の枕詞「春日なる」は、筑紫にも太宰府の近くに春日市というように「春日」の地名があり、「御笠」の枕詞としても不思議ではない、と思ってそのまま使った】

(*32)荒津の海 ぬさ奉り いのりてむ 早還りませ 垂乳根たらちねの母

【元歌は、万葉集巻11第3217番、詠み人しらずの和歌。“荒津の海われ幣奉り斎ひてむ早還りませ面変りせず” という太宰府官人の出張時に遊女?が詠んだ歌という説があるが、この歌を、物語の筋により、娘が母の帰りを祈る歌に変えた】

(*33)よしゑやし うら嘆げき居る ぬえ鳥の わがおもへるを 告げる如くに

【元歌は、万葉集巻12第031番 詠み人知らず (よしゑやし 直ならずとも ぬえ鳥の うら嘆け居りと告げむ子もがも)を借用し少し変えたもの】

(*34)心わび なじかは知らね 身に沁みて 入り日に山も 茜にぞ映ゆ

【元歌は、文部省唱歌 ローレライ (なじかは知らねど心わびて・・・)の想を借用したもの】

(*35)のこの浦 夕波小波 きらめきて たからの国へ いざ罷りなむ

【元歌は、歌謡曲 山上路夫作詞 瀬戸の花嫁 より想を得たもの】

(*36)
かがり火の 光におどる 現身うつしみの 微笑む如き 面影ぞ見ゆ

【元歌は、万葉集巻11第2642番 詠み人知らず ”燈の 影にかがよふ 現身の 妹が笑まひし 面影に見ゆ”を女性が詠んだ歌に変えたもの】

(*37)ちちの実の 父のみことは 大君の けくのままに さ出でたまうや

【元歌は、万葉集巻19第4146番 大伴家持 の防人の歌(長歌)の一部分を、ほぼそのまま借用】

(*38)玄海くろうみの 波越え至る 豊浦津とゆらづの 秋の日かなし 雲の色かな

【元歌は、与謝野鉄幹 人を恋うる歌9番 ”四度玄海の波を越え 韓の都に来てみれば・・・”より想を借りたもの】

(*39)古きより 伊予のえひめに 出づる湯の 世にもたゆらに こころ満つらむ

【元歌は、万葉集巻14第3368番 作者不詳 足柄の土肥の河内に出づる湯の世にもたゆらに子ろが云わなくに を借用し場所を変えたもの】

(*40)君が目の 恋ひしきからに 泊まり居て かくや恋ひむも 君が目を欲り

【元歌は、日本書紀斉明紀に、母を偲んで中大兄皇子が詠んだ、と掲載されている。これは誤伝という説が多い】

(*41)君待つと あが恋ひおれば わが宿の 簾動かし 秋の風吹く

【この歌は、万葉集巻4第488番 額田王の歌そのまま 意味は あなたが私の部屋に来るというので、今か今かと、静かに待ってるのにあなたはなかなか来ない。あなたが来ずにただ秋風だけがスダレを揺らして来てくれている】

(*42)風をだに 恋ふるはともし 風をだに 来むとし待たば 何か嘆かむ

【この歌も、万葉集巻4第489番 鏡王女の歌そのまま 意味は 風を恋しいと思うとは羨ましいものです。風を恋しいと待つ心を持てるならば 何で嘆く事がありましょう 私にはそういう心さえ持てないのですから】

(*43)あさな 筑紫のかたを 出で見つつ のみそわが泣く いたもすべ無み

【この歌は、万葉集巻11第3218番 作者不詳 ほぼそのまま借用 意味は 毎朝家を出て筑紫の方角を眺めては、どうしようもなく私は泣きに泣きます】

(*44)琴取れば 嘆き先立つ けだしくも 琴の下びに 妻や籠もれる

【この歌は、万葉集巻7第1129番 作者不詳 ほぼそのまま借用 意味は 琴を手に取ると、嘆きが先にたつ  おそらく、琴の表の下の胴の中に亡き妻が隠れているのだろう】

(*45)海行かば 水漬く屍 山行かば、草むす屍 大君の 辺にこそ死なめ かえりみはせじ

【この歌は、万葉集巻18第4014番 大伴家持。第二次世界大戦中に、信時潔のぶとききよしの作曲で出征軍人を送る歌として愛唱されたという】

(*46)ひさかたの 都を置きて 草枕 旅行く君を 何時とか待たむ

【この歌も、万葉集巻13第3252番 柿本人麻呂 を借用したもの】

(*47)萩 尾花 葛 なでしこ をみなえし また 藤袴 朝顔の花

【この歌も、万葉集巻8第1538番 作者不詳 そのまま借用したもの】

(*48)われはもや 安み児得たり みな人の 得難えかてにすとふ 安み児得たり

【この歌は、藤原鎌足が中大兄皇子から妻を下賜された喜びを歌った、とされる。万葉集巻2第95番  私はやっとヤスコを自分の物にできた。みんながとても得がたいと言うあのヤスコをだぞ】

(*49)あかねさす 紫野行き標野行き 野守は見ずや 君が袖振る

【この歌は、万葉集巻1第20番に出ている、天智天皇一行が蒲生野に遊んだ時に、という前書きの後にこの歌と次の(*50)が載っている。大海人皇子に額田王が詠んだ大胆で有名な歌である】

(*50)紫草むらさきの匂える妹を 憎くあらば 人妻ゆゑに われ恋めやも
【この歌は、万葉集巻1第21番 (*49)歌の返歌で、おおらかな時代の歌の典型とされる、大海人皇子が額田王に返した歌。どちらもそのまま使った】

(*51)み吉野の 樹の下隠り ゆく水の われこそさめ 御思よりは

【万葉集巻2第92番の、天智天皇が鏡王女に賜ったとされる“妹が家も継ぎて見ましを大和なる大島の嶺に家もあらましを”の返歌として 鏡王女が返した歌。“ 秋山の樹の下隠り逝く水のわれこそ益さめ御思よりは” を物語にあわせ一部変えて使った】

(*52)な泣きそ あが墓なれど 吾はおらず 千の風となり 吹き渡りおり

【元歌は、シンガーソングライター新井満(1946年新潟県生まれ)が、2001年に、アメリカ人マリー・エリザベス・フライ(1906年生まれ)の詩に、訳と曲をつけて私家版として出したもの。原詩は(Do not stand at my grave and weep。“私のお墓の前で啼かないで下さい そこには私はいません 眠ってなんかいません 千の風となって あの大きな空を・・・”の想を借りて三十一文字にしたてた】

(*53)莫囂圓隣之 大相七兄爪湯気 吾瀬子之 射立為兼 五可新何本

【この歌は、万葉集巻1第9番に、額田王が紀の温泉に行った時の歌、と記されているが、いままで解読されていない歌として有名】

(*54)志を果たさで いかに帰らなむ ものみな清き あの故里へ

【元歌は、(*02)と同じ “兎追いしあの山 小鮒釣りしかの川 ”で知られる「故郷」の三番。高野辰之作詞で、作曲は岡野貞一】

                                  (「和歌の出自について」おわり)




この物語を書くにいたった動機(前書き)

 会社を定年になり、趣味の古代史に打ち込めるようになりました。早速邪馬台国問題に取り込まれます。そして、古田武彦さんの『「邪馬台国」はなかった』出版以来気になっていた「九州王朝論に没入します。

 また、九州出身の著者にとって、邪馬台国は九州という思い込みも強く、高校生になった孫たちにそのような話をしてみるのですが、全く載ってきません。

 古今和歌集にある、♪天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山にいでし月かも♪という和歌は、九州で詠まれ、歌の中の地名はみな九州の地名だ、と古田武彦さんの説の受け売りをしても、この和歌自体を知りません。

 こりゃだめだ、古代や万葉集に目を向けさせるにはどうしたらよいか、と頭を捻り、万葉歌人「鏡王女と額田王の恋物語」をジュビナイル風小説に仕立て上げてみようかと大層な目的で取り組んだものです。

 鏡王女や額田王たちが活躍した七世紀はよくわかっていないところが多いので、それらの謎時にも取り組んでみました。

 そのために、筑紫君薩夜馬と日本書紀に出てくる人物に目をつけました。このサツヤマ君を筑紫の天子幸山と仮定し、その息子にイキ皇子という人物を創作しました。まあ、物語といってもフィクションですから、歴史的な考証などに縛られず、かつ大枠は、筑紫に倭国王朝があった、というところで抑えました。

 鏡王女の父「鏡王」も記録では由緒がはっきりしていません。鏡王を幸山の異母兄弟で唐津の領主として、鏡王女に和歌の手ほどきをする、という筋立てです。これだけでは話がだるいので、サスペンスのスパイスも必要かな、と鏡王女がイキ皇子と結ばれるところを発端にもってきて、広範に鏡王女の長男定恵がなぜ暗殺されたか、の伏線を張ったりしました。

 一番問題だったのは、鏡皇女が七歳のころから四重歳のころまでの歌を捻りだすことでした。五十首ほどの和歌ですが、幸い万葉集研究家の上城誠氏に視てもらうことができ、世にだす自信がつきました。

 若者向きにはネット小説がよいかなあ、そのためには挿絵もあった方がよいかなあ、とと絵を描くのが好きな孫にバイト代を出して書かせてみました。出来不出来はあるものの、まあまあかなと思っています。その孫の名前を出すのもどうかなあと思っていましたら、ペンネーム ノリキオ と自分できめました。本名河村を分解して付けたそうです。

 ともあれ孫と爺のコラボです。今春そのノリキオが東京芸大(油絵)に入学できました。孫がバイト代わりに高校時代に描いてくれた挿絵も、折角だから入学祝いも兼ねて世の中に出してみようかと思い立った次第です。名にはともあれ、古田武彦先生との接点がなければ、この本は生まれなかったでしょうし、まずもって先生にお礼申し上げる次第です。

 原書房の社長が出版してくださるというので、古田先生に原稿をお見せし、一言推薦の弁をお願いしてみましたら、びっくりするようなおほめの推薦文を頂きました。





 推薦文   古田武彦

 

 驚きました。一読してひとたび驚き、再読して、さらに驚きは深まりました。三読すれば、さらに無限の世界が拡がるでしょう。著者の中村通敏さんとは、歴史学上の本や論文を通して、繰り返しおつきあいのあった方なのですが、小説の世界にまで、これだけ自由自在の筆をふるわれるとは、全く予想しなかったのです。

 わたしは論文などのなかで、しばしば次のような「せりふ」を使うことがあります。「それは小説にすぎない」と。

 事実を積み重ね、人間の納得できる論理でそれを推し進める。それが学問です。歴史上の文献、また考古学的な出土物、さらの現地伝承など、いずれにせよ、眼の前にある「過去の遺物」を大切にし、それを自分勝手に』変更しない。これを無上の「おきて」と考えてきたのです。ですから、研究者が勝手に、眼の前の文献を書き直したり、考古学上の出土物やその分布を無視したりしたとき、「それは小説にすぎない」そう言ってきたのです。

 

 では、小説は無価値でしょうか。いや、マイナスの意味、「ペケ」の世界なのでしょうか。とんでもない。全く逆です。小説こそ人間の独創や創造に必要不可欠の「思う」という、人間の大切な世界を養ってくれるものです。「考える」力も、そこから出てきます。

 わたし自身も、青年時代に読んだ、日本や外国の詩歌や小説類、その読書を抜きにして、現在のような「学問」の世界を目指していたとは、到底考えられません。

 たとえば、ゲーテの詩や「ファウスト」、たとえばシェークスピアの「リア王」、たとえば田宮虎彦の「足摺岬」など、わたしの空想と想像の世界を、限りなく、伸ばしてくれたこと、まちがいありません。

 けれども、自分で「小説」を書くなど、とてもそんな力は、夢にもありませんでした。

 しかし、中村さんは、ぐいぐいと筆を書きすすめ、一大小説世界を展開されました。畏敬の念を深くする他、ありませんでした。本当に驚いたのです。


 

 日本の歴史の本にふれた人には、よく知られている言葉があります。「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子にいたす、恙なきや」 これは日本の推古天皇が中国の天子だった煬帝に贈った「国書」に書かれた言葉だとされています。本当でしょうか。

 なぜなら、日本の歴史の古典とされている古事記や日本書紀には、右の「迷文句」は全く出ていないからです。

 こちらの日本側から贈った「国書」なら当然、さしだした側、日本の天皇の「自署名」つまり“自分の名前”があるはずです。

 確かに「それ」が書かれているのですが、それが「推古天皇」ではなく「多利思北孤(タリシホコ)」と書かれています。

 推古天皇は女性ですが、この「タリシホコ」は男性です。「キミ」と呼ばれる奥さんがいる、と書かれています。

 しかも、中国側(隋朝)の使者は日本列島に来て、彼(タリシホコ)に会って、会話しています。「まちがえた」どころの“騒ぎ”ではありません。

「事実は小説よりも奇なり」という言葉がありますが、どうも本当の事実は、中国側の歴史書、隋書の方にあるようです。

 このようにして、明治維新以後、現在まで、教科書に書かれ、()まった「歴史事実」とされていた根本の事実には、大きな「?」がある。これが三十数年来主張してきた「九州王朝説」です。

 わたしには「女性と男性が同一人」だとは到底信じられなかったのです。中村さんは、この道理を久しく肯定して下さった方でした。

 四

「では、なぜその“タリシホコ”が九州の王者だと判るのか」そのように「問う」方がありましょう。その通りです。しかし、その理由は簡単です。この「日出ずる処の天子」の「名文句」の直前に、「阿蘇山あり、その石、故(こ)なく、火起こりて天に接す。」とあります。有名な九州の阿蘇山です。「故なく」というのは“古い石がなく、絶えず新しい石を噴き上げている”という意味です。あの活火山、阿蘇山の噴火の実際を見ずには書けない、生き生きとした「達意の名文」です。

 ところが、これに対して推古天皇のいた「大和(奈良県)」なら、出ていい「大和三山(香久山・畝傍山・耳梨山)もなく、大和盆地をしめす、「山迫りて、天狭し」といった形容も、全く「なし」です。それどころか、九州から大和へ至るための途中にある瀬戸内海をしめす、たとえば「一海あり、湖水のごとし」といった「せりふ」もまた皆無なのです。

 やはり、この「タリシホコ」の都は、「大和」ではなく、九州にあった。そう考える他、道はない。わたしには、そう思われるのです。

 五

「では、その九州王朝の歴史は、どうなっているのか」

 そういう質問がでましょう。当然ですが、残念ながら、その解答はストレートには出しにくいのです。なぜかといえば、ズバリ、九州王朝自身が作った「歴史書」が残されていないからです。確かに、現在の日本書紀は、今問題の「九州王朝の歴史書」を再利用し、「リフォーム」して、近畿天皇家(大和朝廷)用に“作り直され”た形跡が十分です。

「リフォーム」といえば当世流行。“かっこいい”ひびきですが、残念ながら実はスッキリしていません。」なぜなら、いさぎよく「九州王朝」の存在を認めた上で、それを「リフォーム」に使ったのなら立派です。文字通り「安心:なのですが、実際はそうではありません。あたかも「九州王朝はなかった」という“立て前”をとり、はじめから「自分中心の歴史」があたかも一貫していたかのようにした、いわゆる「偽造」です。ハッキリいえば、「盗用」の形なのです。

 それをスッキリととり除き、九州王朝そのものの歴史と、その「分家」だった筋だった、近畿分王朝との“かかわり方”を考える。これが今回の、中村さんの企てられた壮大なイメージだったのです。それが「小説」という形をとって、自由に、自在に、そして伸び伸びと書きすすめられているのです。

 わたしには、敬服する他はありませんでした。

 

 もちろん中村さんは「これがまちがいない史実だ」、そんなことを言っておられるのではありません。全くありません。
 架空の人物を何名か“独創”し、彼等を登場させて、人間くさい恋や悩みがつらねられます。その人々の間で「歴史」が進行するのです。時代が次々と展開してゆくのです。見事な腕前です。
 それだけではありません。それらの物語の節目々々に、自作の歌が“はめこまれ”ています。それも万葉風の「古代」めいた歌なのに、その「物語の中の登場人物」の恋や悩みや時代の移り行きに対する感慨などが生々しく“ひそめ”られ、歌われているのです。

 小説家が自分の作品の中に、あたかも「昔から伝承された歌」の形をした、実は「自作のウタ」を“引用”して使う。これは「あぶない」方法です。うまく作ってあればあるほど、読者がそれにだまされやすいからです。

 たとえば、深沢七郎の「楢山節考」には古い民謡が呪文のように散りばめられていて、それが「子が親を捨てにゆく」話が実際にあったかのような迫力を生んでいます。

 しかし、実際はこれらの一見「古い民謡」とは、実は作者の深沢七郎が自分で作った「新しい民謡」だったのです。しかし、特別の「ことわり」がないために、本当に昔からあった民謡だと思い込んでいる読者も、少なくありません。つまり、「子が親を捨てる」という風習が信州(長野県)に実際に存在した、今でもそう思っている読者、また評論家さえいるのです。

 これは「罪」なケースです。いうなれば、アン・フェアーな“やり口”です。

 しかし、中村さんの場合は、全く違っています。ハッキリと、自作の歌であることをことわった上、他の方(上城誠氏)の「査閲」つまり“見直し”を受けたことまで明記しておられます。まさにフェアーそのものです。驚嘆しました。

 これなら、あの折口信夫以上に、「古代風の歌」で満たされた「古代歌謡」つまり新万葉集をお出しになることも、ありうるのではないか、そういう」「畏れ」と期待すら、持たされました。

 

 鏡王女と額田王、いずれも輝かしいイメージは残しながらも、その人生の輪郭のハッキリしていない、二人の女性。この恋物語として今回の物語は展開されてゆきます。

 七世紀の後半、六六二年ないし六六三年に行われた、白村江の戦いで、敵軍の唐側の捕虜になった、筑紫の天子薩夜馬(サチヤマ)を中心軸におきながら、この物語は展開されています。
 その上、イキ皇子という“独創の人物“を投入して、物語全体に”人間らしい息吹き“を与えようとしている。さすが「小説」の醍醐味です。

 わたしは最近、この白村江の戦のときの「倭国の天子」は斉明(サイミョウ)天皇とされた、「九州王朝の天子」だと考えています。「サチヤマ」は、その摂政です。彼女の次代の「天子」になった人物と考えています。

 しかし、それは「小説」の上では“些少のくいちがい”にすぎません。先ずは中村さんのくりひろげられる人間模様の絵巻物、それを繰り返し堪能させていただいています。

 

 もう一つ、けっして忘れられない、この物語の特色があります。ノリキオ画伯の存在です。

 まだお会いしたことはありませんが、中村さんの従来の作品、歴史学上の論稿にも、時々「姿」を見せていました。従来の作品に、その華やかなスケッチと美しい色彩感をもつ「画」が出されていたからです。

 二〇〇九年の二月に原書房から中村さんが出した『七十歳からの自分史 わたしの棟上寅七』にも好筆をふるっていました。

 先日、三・一一のさい、宮城県の被災地で長期間を生きのびた「祖母と孫」のニュースがありましたが、日常時でも「祖父と孫」のむつまじい共同作業は存在するようです。

 

 最後に、わたし自身の思い出を書かせていただきます。

 少年時代夢中になって読んだのは、ジャンヌ・ダルクとナポレオンの物語でした。歴史学などというものではなく、まさに子供向けの物語にすぎませんでしたが、わたしの心を完全に「占領」し、少年の心に「歴史をやりたい」という思いを結晶させました。それが八十四歳の今に至ったのです。

 今回の中村さんの力作が、少年や少女の心の一端の灯火(ともしび)をつけたら、たとえそれが一人であっても、すばらしい人類の「事件」です。わたしはそれを疑いません。

            二〇一一年四月二十五日




 まだ見ぬあなたに・・・・・・   上城 誠



 中村通敏さん、それともインターネット上の「棟上寅七の古代史本批評」と題したブログで辛口のコメントを発信し続けている棟上寅七さんと呼ぶべきでしょうか。

 どちらにしても、氏は「学問」に対して極めて誠実な研究者です。 それは『「奴」をどう読むか』(古代に真実を求めて・第十二集)、『短里によって史料批判をする場合の問題点について』(古田史学会報・102号)等にみれるように、そして氏が主宰する「新しい歴史教科書(古代史)研究会」のホームページで発表する研究論文を読んでも、ただちに判ることです。

 そこには、誠実な「学問の方法」が実践されています。例えば“使用する史料・資料を吟味し、客観性のある信頼しうるものにのみ依拠して立論する。自己の思い込み、あるいは自説に都合の良い資料のみを用いた解釈をしない”等々です。 誠実さとは「学問の方法」に対する氏の厳格さの発露なのでしょう。

 そんな中村さんが『鏡王女が歌で綴る動乱の七世紀』という小説を上梓される。唐と倭国との一大決戦「白村江の戦い」を中心に据え、近畿大王家と、その主人たる九州王朝との関わりを解きあかす壮大な歴史絵巻を、あたかもNHKの大河ドラマのように鮮やかに私達の眼前に描き出して見せたのです。

 小説というジャンルを活用して、論文では触れ得ない禁断の領域に歩を進めたのです。 鏡王女という可愛らしい万葉歌人が物語り、また歌〈うた〉で語〈かた〉る、読者をして自分の言葉で誰かに話し語りたくなる、そんな歌物語として完成させたのです。 その想像力と創造力の広大さには、中村さんの創作された万葉風短歌ともども驚嘆の二字しかありません。

 「歴史事象は物語られて初めて歴史になる」と云う人もいます。 中村さんの書かれたこの小説が多くの読者によって語られ、語りつがれ、その遠くない未来「太宰府政庁跡」「水城」「大野城跡」「筑紫小郡明日香の地」で、「九州王朝」を議論しあっている第二、第三の棟上寅七・寅子の姿に連なっていくことを、私は信じています。


参考図書

 『「邪馬台国」はなかった』  古田武彦

 『失われた九州王朝』    古田武彦

 『壬申大乱』        古田武彦

 『謡曲の中の九州王朝』   新庄千恵子

 『古代史の真相』      黒岩重吾

 『異議あり日本史』     永井路子

 『韓半島から来た倭国』   兼川晋/李錘恒

 『万葉集』全訳注      中西 進  

                                  (完)

出版書の目次

前置き この物語を書くにいたった動機

推薦の言葉  古田武彦

はじめに

鏡王女の最初の話
一、   幼い日の思い出 
二、   故郷 鏡の里 
三、   太宰府 御笠の都へ 
四、   額田姫と一緒に 
五、   風雲急・大和へ 
六、   飛鳥の都 
七、   中大兄皇子、そして鎌足のもとへ 
八、   鏡王女 母となる 
九、   鏡王の死 そして日本の敗戦 
十、   終章 国破れて

和歌の出自について 

あとがきにかえて まだ見ぬあなたに  上城 誠

参考図書




雑書き

使おうと思って作った歌の中で使わなかった歌の一首

青垣の 山のあなたに 幸住むと 訪ね行きしも 涙溢れつ

元歌は、ドイツ人カールブッセ(一八七二年生まれ)の「Ueber den Bergen」という詩を、上田敏(一八七四年東京生まれ)が訳した「山のあなた」。

“山のあなたの 空遠く 「幸」住むと人のいふ ああわれひとと尋めゆきて 涙さしぐみかへりきぬ”この名訳によりカールブッセは本国でより、日本で有名になった、といわれる。この詩の想を借りた。