鏡王女物語(二)幼い日の思い出

 

私はまだ六歳で、ばあやの多賀と一緒にお弁当を持って、七山(ななやま)注201に春の菜摘みに出かけた時のことでした。

 お供は、腕白盛りの多賀の小坊主が二人と、お弁当を入れた手桶を下げた、ねえやの江知です。 蝶々を追っかけたり、ハヤを追っかけたり、蜂に追っかけられたり、はしゃいでいます。まだ動きの鈍い蛇を棒で叩いたりするのにも忙しいようです。

私も野の花が綺麗なので摘み始めましたら、「姫、その花はアブラナだからその花は摘んではいけません、ツメ草のお花で冠をこさえてみては」と多賀に止められてしまいました。

多賀は小坊主たちにも、「そこの茂みにあたりの地面を棒で叩くのじゃ、くちなわを追い出しておかないと小用も足せないから」「そんなに走り回ってアゼが壊れたらどうする。おかかりに見つかったらただじゃすまない、足の一本折られても文句いえないぞ」などと小坊主達に注意しまくっています。

それでもなんとか、小川の岸の芹やナズナやハコベラなどを籠一杯に摘んで、やれやれ昼を使おうか、と下の谷川に江知は水を汲みに、多賀はお皿の代わりになりそうな、ツワブキの葉っぱを捜しに出かけました。 

本当にあのような時代があったとは夢のようです。近頃は、亡き母上に教わった、おまじないをしなくても、昔のことが夢枕に訪れてくれます。

この地で皆さんから「鏡の殿さま」と呼ばれている、お父上が、手を取り指を折り曲げながら、五・七・五・七・七と教えてくださった頃の、恥ずかしいばかりの幼い歌を思い出します。

 

夢見ては 思い出づるよ 小鮒釣り  

()を追いかけし、なな山の里注202

 

 お皿の代わりになるツワブキの葉を、ばあやの多賀が取りに行っている間に、子供四人がお弁当の桶の包みを広げようとしていました。

十勝村梨実のブログ「お前達は何をしとる、どこの者だ」と突然大声で怒鳴られました。見れば(わか)武士(さむらい)が大刀を背負って、矢を携さえた従者と馬の(くつわ)を取った供を連れています。()()もちびさんたちも震えて口が利けません。

私が、「そちらこそ何者、われは、鏡の屋形の安児(やすこ)という名の者」といい返しますと、「お前達は聞いていないのか、ここらは立ち入ったら殺されても文句を言えないところだぞ」と怒鳴られました。 

多賀が騒ぎを聞きつけて、飛ぶように帰ってきました。「これはこれは、若様ではありませんか、何事でございますか?」

従者が言います、「無礼な!頭が高い!若君さまに向かってタメ(ぐち)をきくとは!」

「おう、誰かと思ったら多賀か、まあよいよい。特牛(こっとい)そう怒るな。この者は私の乳人(めのと)だった、多賀と申す鏡の者だ。何だ、見れば春菜摘みのようだが? もうそんな悠長なことは出来なくなるぞ」

「して、今日は何のご用でこの山中へお見えなので?」

「うむ、ここら一帯にはうろんな者が出入り出来ぬように関を作るべし、との父君のお言葉の指図がどう進んでいるか、調べに来ているのだ。 ここらは出入り無用の地のお触れをしたはずだが。」

「それは迂闊(うかつ)なことでした。お屋形にこの二、三日顔を出していなかったので、ひい様にも怖い思いをさせてしまい申し訳ないことじゃ」

「それにしてもしっかりものの姫御よの。大きい方の小坊主はしょんべんちびらせているのに、お前達こそ何者!と震えもせず言いよった、ははは。して、この小坊主たちは多賀、おぬしの子か、元気者だなあ」

「何をおおせですか、これはあが弟の忘れ形見でございます。弟が、去年(こぞ)伽耶(かや)注203での戦で露になり、それを聞いた嫁が、気がふれて死んでしまい、私めが育てているところなのです。もう、子供を作ろうにも相手にしてくれる者もいません、冗談にもそのようなこと仰らないでください」

「それは悪かった、達者なのは何よりだ。坊主達も何処ぞへ修行に行かせねばなるまいて、はて、考えておこう。おおそうだ、多賀や。あくる月あたりに、母上が吉野の湯に入りに参る予定じゃ。あそこの湯は足腰の痛みによく効くそうだ。そなたが案内(あない)してくれれば母上もお喜びになるだろう。如何かな」

「もうもう喜んでお供いたします。もう十年以上もお目にかかっていませんゆえ、年取った姿はあまりお見せしとうはございませんが」

「では、近々鏡殿に仔細をお伝えするので、その旨よろしく頼む。そうそう、その姫御も一緒で見えたらよかろう」と言いおかれて、颯爽と馬にまたがり去って行かれました。

十勝村梨実のブログそのお姿を後で思い出して、父上におそわった三十一文字に作ってみましたが、父上には、なんだか恥ずかしくて、胸の中だけに仕舞いこみました。

 

  健夫(ますらお)の 騎馬(うま)(すがた) 見てしより

        心(そら)なり (つち)はふめども注204

 

「さっきの方はどこの若様なの?」と聞きますと、七山からの帰りみちに多賀が聞かせてくれました。

「あのお方は恐れ多くも、あの多利思北孤(たりしほこ)と名乗られた、満矛(みつほこ)天子(てんし)のお孫さんに当たられるお方、()()皇子様。今の、幸山(さちやま)天子様はご先代満矛様の十二番目のお子で、五尺の太刀を取ったら日本(ひのもと)でもカラでも誰にも負けぬそうな。

じゃが、剣に強いだけでなく、満矛様に習われて、仏法に帰依(きえ)され、義理人情にも厚い方で、皇太子であらせられる頃は、皆、聖徳太子(せいとくたいし)とお呼びしたものです」

「他の王子様達は?」

上塔(かみとう)()綽名(あだな)されたご長男の、利皇子
注205は、立派な皇子様でしたよ。次の皇子(さち)(うみ)ともども、はやり病で()くなられ、国人みな嘆き悲しんだものです。」
「何人のお子様がいらしたの?」

「全部で十五人の皇子と八人の皇女がいらした。姫のお父様は四番目で、鏡にご養子にお見えになったのです」

「では、さっきの若様は・・・」と考えていますと、「そう、従兄妹にあたるのですよ。沢山の皇子皇女方は、色んな国造(くにみやっこ)
注206に養子やら養女にお出しになられて、いわば、この日本(ひのもと)の国は、満矛一家といってもよいくらいなのですよ」

「そしてその後どうなったの?」 

「満矛さまが、上塔様に位を譲られ、法王さまとなられて、いろいろとまが事が続き、年号を変えてみたり、吉凶を占ったり、いろいろしても効き目がなく、満矛様、鬼前(おにさき)皇后様注207、上塔様と、次々と亡くなられたときには、この国はどうなることか、と思いましたよ」

「でも今はこのようにおちついて・・・」

「そう、お若かった幸山様が、しっかりと差配されたのです。鏡のお殿様も太宰府に上がられてお助けされました。そうそう、姫はそのころお生まれでした。七年の喪が明けて、晴れて大君様に即位された時には国を挙げてお祝いしたものです。年号もその時に聖徳
注208と改められたのです。」

「そのとき多賀も喜んだのでしょう?」
「伽耶の国に出ている私の夫のことの方が心配で、心配で、・・・・・それが本当になってしまった」

「ごめんなさい泣かせてしまって」 一息ついて言葉を継ぎます。「満矛大君さまは、無事に幸山大君さまに継がせることがお出来になって、安心してあの世でお休みになっていることでしょう。いまの若様が、世継ぎの一貴皇子さまで、お后さまはあまりお体が丈夫ではござらぬので、わたしのお乳を飲んでお育ちになられた」 

さきほどの国の備えを整える、という若様の話を思い出して、「どうして海の向こうにまで戦に出て行くのでしょう?」と聞きますと、

「出て行かないと向こうが攻めて来る。戦で負けると国人はみな、男は奴〈やっこ〉、女は婢〈はしため〉とされ一生こき使われ、けだもの並みとなる。それだから、戦にいくのは仕方ないかもしれないけれど、なんとかみんな生きて幸せになることは出来ないものか、とつい愚痴になってしまいます」

「戦で負けると本当にそうなるの?」

「本当ですよ。鏡の殿様にお聞きになったら教えてくださいますよ。満矛大君さまと張り合ったモロコシが、琉球に攻め入って注209何千人ものくにびとが連れ去られ、満矛大君さまは、それにお怒りになってモロコシと国交断絶されたのですよ」

「父上から聞いたのですが、その隋国は乱れているとか、とてももう攻めて来れないのでは?」

「おや、その後の話は聞いていらっしゃらないのか。隋の天子の家来が天下を取って唐という国を建て、先ごろ、その大唐帝国の高なんとやら
注210という使者が都に見えたの。しかし、南カラの新羅という国がこの際とばかりに百済に攻めてくるので、幸山様は一生懸命なの」

「どうして?」
「それは、幸山様のお妃のお一人は百済から興し入れになったのだし、昔からの仲良しの(くに)なので困った時には助けなければ、というお考えからでしょう」

「どうやら、カラの国での戦が激しくなったようだ。ひょっとしたら、この唐津の浦や、裏山一つ隔てた吉野などのお城にも敵が攻め寄ることも考えられる。そうは絶対させん、と村主(すぐり)もこの前の寄り合いで云っていた」とチビ坊主が口を挟みます。

「確かに、筑紫の里々も一軒一人の庸注211の定めがそれではやっていけないと、年寄りの面倒を見る要のない若者は皆、村主のところに集められているそうな」

大きいほうの坊主の宇佐岐〈うさぎ〉も言います。「火の国衆、豊の国衆では足らず、播磨の国衆や紀伊の国衆まで合力〈ごうりき〉をお願いしているそうな。だからそう心配しなくてもいいんでは?」

「これわっぱたち、一丁前の口を利きよるが、お前達はひい様のお守りも出来ぬのか。さっきはションベンちびらせて、お侍に笑われて悔しくはないのか」

ちびの方が言い返します。「ちびったのは宇佐岐兄者じゃ、わしゃ、何か変なことをしたら、ケツに噛みつこうと思うとったが」

多賀が笑って、「これ久慈良〈くじら〉、お侍にケツ蹴飛ばされずによかったな」 

宇佐岐の方は下を向いて、「僕はひい様のツメ草の花の冠が、馬から喰われはせぬかと、そればっかりが心配で・・・」
チビクジラは、「早く年を取りたいな、南カラだって北の高麗だって、父上の形見の高麗剣があれば百人力だ。 多賀おばさん、若殿に修行じゃなくて、鬼太の兄貴と一緒に、南カラに連れて行ってと頼んで・・・」

といい終わらないうちに、「馬鹿云うでない。私を又泣かせる気かえ?」と多賀の声がかすれます。見上げますと、多賀の目は真っ赤になっていました。

そんなこんな話をしていると、じきにお屋形を囲む森が見えてきました。子供達の喚声が風に乗って聞こえます。きっといつものように腕白大将の鬼太がチビさんたちを集めて戦ごっこをやっているのでしょう。

周りの大人たちが、海の向こうでの戦の話を面白おかしく、大袈裟にするので、男の子たちは、遊びでもするように戦のことを思っているのでしょう。きっとこのの久慈良は、親の仇を討ちたいばかりの、この和歌のような気持ちだったのでしょう。

今思うとあの頃は、国中が戦・戦・戦・戦と熱に浮かされていたようです。

高麗剣 われにしあれば 百人(ももたり)の  

(えびす)たりとて 怖れえはせじ 注212

 

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屋形は、松浦川に注ぐ鏡の里の小川の近くに建っていました。母屋に私達が住んで、まわりの小屋小屋に手伝いの家族、十家族以上が住んでいます。

その内の一つが多賀の小屋です。 他の家族は、田のかかり、綿のかかり、お蚕のかかり、海のかかり、山のかかり、蔵のかかりなどの持ち場があって、外の部落のそれぞれを束ねているということを、大きくなって知りました。

 そのほかに若衆小屋があります。男の子たちはこの小屋に集まり、女の子たちは、それぞれの母親のところに一緒に住んでいて、田植えや綿摘みなどの忙しい時には皆で手伝いに出ます。  

大きな母屋にはお父様とお母様、それに私の三人です。あと、じいやとばあやと、手伝いが五人ほどいます。二人の兄たちは若衆小屋で寝起きしていますが、父上がご在宅の時には、父上の言いつけに従って読み書きなどしています。

時々父上の声が聞こえます。「お前達は、もう少し書物に熱をいれたらどうだ、戦物語とか剣の修行には身を入れるが、一度読み聞かせたら覚える安児を少しは見習ったらどうだ。今からは、百済でなく唐国と伍して行かねばならぬ世になっているのに、読み書きが出来ねば、たとえ一時腕力で勝っても、結局は負ける。」

「幸山大君さまは剣と義があれば必ず勝つ、義が正しければ邪に必ず勝つと仰っている、と聞きますが・・」と、年上の玉島兄が言います。

「ふむ、それが危ういのじゃ。敵は理と利と嵩で来るというのに。」とお父様が諭すように仰います。

「父上は、若い頃遣隋使注213で隋に行かれ、かの国の大きさに呑まれてしまったのではないか、と噂するものもいます。 もうわが日本も、大和のうがや一統様注214始め、遠くは毛野の大王様まで一緒になって事にあたろう、という世の中になっています。絶対、隋の一部将の成り上がりの、モロコシずれに負ける筈がありません。」と、年若の久利兄も一生懸命しゃべっています。

それに対してお父様は、「蛙には大海はわからぬ。お前達も、目を広く世の中を見てもらいたいものじゃ」、など難しい話が続いていました。

世の中は激しく動いていたのですが、子供心に映る松浦の里は、穏やかなものでした。 その頃の里の模様を思い出しながら少しお話しましょう。

 

この松浦の里は大昔から、お父様がおっしゃるには、俾弥呼(ひみか)注215より古くの時代から栄えていた国だそうです。 屋形の裏の鏡の山に上がると、冬の朝など壱岐の島影も見えます。

眼の下に虹の松原が広がり、カラや外つ国へ行く大きな帆を張った船影が見えます。船といえば、松浦の川で、漕ぎ方を教えているのでしょうか、桜の花びらが舞う中を沢山の舟が浮かんでいたのを思い出します。 その時は、遠い国へ戦に出て行くことの大変さを知りませんでしたから、次の和歌のように、きれいな眺めだ、楽しそうだ、としか感じることが出来ませんでした。

 

春うらら まつらの川の 舟遊び 

櫂のしずくも 花と散るらむ注216

 

 

この屋形には、元はもう一人の、女御、和多田の女御注217がいらしたのですが、故〈ゆえ〉あって今は和多田の別宅に住んでいると、ねえやから聞きました。なんでも私より二つ上の宮姫という女の子がいるそうです。そこのお子たちは三人生まれて二人が若死にされた、とかで、今親子二人で住んでいるそうです。

母上は「大君さまの御用もないのに、殿はミヤコにすぐ行きたがる」 と、父上に仰ったり、「殿は、百済や隋国に学問をしにお出かけになられ、何を学んでこられたのですか。かの国では、男は一人の女子を生涯の伴侶にする、という定めというではありませんか。このような教えは、習ってお見えにならなかったのですか?」など仰います。そうすると父上は、何も仰らずに、お出かけになります。

「また和多田へお行きになられた」と、つぶやかれて、居間に入られます。そして、明かりを灯されて、きれいな二匹の白い龍か蛇のようなものが浮き彫りになった大きな鏡に向かわれて、お祈りを始められます。 「このような世は早く終わり、新しい世が来るように」というような言葉を唱えられます。

お母様は、ずーっと昔、海の向こうから渡って来た息長(おきなが)注218のご一族だそうで、このような術に息長一族は優れているそうです。子供心に、この夜が終わって早く新しい夜がくるように、ということはどういうことだろうか、朝が早く来い、ということだろうな、と思っていました。

父上は、私がお母様と一緒に、そのようなお祈りをされることをお嫌いになって、かというとをおびになり、手習(てなら)いや()のおなどをかせてくださいました。 はお母様一緒にいて、呪文(じゅもん)言葉えてくださるのを(うわ)きながら、 「安児、こちらにちょっとお出で」との、父上からお呼びが掛かるのを、いつしかいつも心待ちするようになっていました。

冬の朝などよく、七つ星注219に向かってお祈りをされます。

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私が目を覚ましているのを知られると、「安児、こちらにおいで」とお呼びになり、一緒にお祈りをします。そうすると、本当に気持ちが晴れやかになります。 そのあと、お星様と運命のお話や和歌の手ほどきをなさってくださいました。

 いつでしたか、最近ほうき星が太白星に近づいているのが心配、とおっしゃっていらしたのが、後になって当っていたことを知りました。 やがて自分の身の上に大きな運命の歯車が回る、ということを知らなかっただけ幸せだったのかも知れません。

 

冴ゆる空 奇すしき光 降らせつつ 

           しじまの中を ()は廻り行く注220                    

 

もう少し、松浦注221での思い出をおしましょう。 年を取ってくると近間のことは忘れても、ずーっと昔のことは良く覚えています。 お后様を吉野のいで湯にお迎えしたときのことを、まず思い出します。

 吉野の湯も吉野の川も今では名前が変わってしまっているそうですね。今は熊野湯などとひどい名に変えられて、川も嘉瀬川と変わってしまい、大和の吉野に本家を取られてしまったようですね。


 お后さまがお見えになることが父上に連絡があり、それから父上のお指図があったのでしょう、多賀が行儀のことにうるさくなってたまりません。 歩き方・座り方・目の上げ方・物の言い方・ご飯の食べ方、走ったりしようものなら鬼のような顔になって低い声で叱られます。

 父上のように大きな声で叱られるのは応えませんが、多賀の叱り声を聞くと心の臓がギクッとします。お后様の前で行儀の悪いところをお見せしたら、父上の恥になる、ひいては松浦全体の恥になる、と言われるのですが、なかなか叱られる種はなくなりません。

お后さまは有明の海の方から吉野の湯屋に登っておいでになるそうです。 鏡の里からは、反対の方向から峠を登り、湯屋で落ち合うことになったそうです。 玉島川を遡り、七山の新しい関所を通り過ぎて、峠を越すと、吉野川の源です。

あの春菜摘みの時の若様はどうしているかな、と思い出しましたが、多賀には何となく話せませんでした。そこをだらだら下っていくと、やがて湯煙が見えてきました。

露天温泉 

吉野の川のせせらぎのすぐ近くに、もうもうと湯気が立っています。岩をきれいに並べて湯溜まりが出来るようになっていて、その周りは石を積んで囲ってあります。もうお后様は着いておいでで、湯にお入りになられているそうです。

 中に入っていった多賀からしばらくして声がかかり、湯殿におそるおそる入って行きました。多賀がお背中を流し終わったところだったようです。

「安児というそうですね。こちらにいらっしゃい。一緒にお湯に入りましょう」 と、お声がかかりました。多賀からうるさく教わったとおりに、手桶で体を流して湯溜まりに入ります。 

「ここの女子(おなご)には天下一番なの」 と、いますので、 「一番なのですか?」 と、おきしますと、 「(はだ)綺麗になり、(なか)のあちこちのいところをしてくれる」と、おえになりました。

普通のおとどううのですか?」 と、ねておきしますと、 「のお(めぐ)みが、ここのおにはっているのですよ」
にはがいらっしゃるのに、どうしておみがないのですか?」 と、おきしますと、

多賀や、このはなかなかのですね」 と、多賀り、こちらをおきになり、

安児(やすこ)うのももっともなれど、吉野ってくるということも、これまた簡単にはいきませぬ。せめて一度くらいかけることを、大君(おおぎみ)においしているところなの」

「それでおしが?」 と、多賀きますと、 「からその吉野までの大路(おおじ)が、ちゃんとれるかるには(おり)だ、ついでによくそのところを報告するならば、とっておしくださいました」

「どういうおつもりで、大君さまはそのようなことを?」 と、多賀きます。

御笠(みかさ)御所から高良(こうら)注222のお吉野まで、駅馬(はいま)注223急場にちゃんとれるか、がご心配なのでしょう」

「ではからは、しょっちゅうおましなられますね」

「そう、せめてふた一度くらいはりを()ぎたいもの」

 

 豊天后(ゆたかのきさき)とよばれるおは、ほっそりとして、おがお火照(ほて)って桃色()められて、とてもお綺麗でした。多賀がおをお(ぬぐ)いされている、ずーっととれてしまっていました。

安児湯冷(ゆざ)めしますよ。」 と、おわれてあわてて()まりにんで(はい)って、多賀からろしい(にら)まれました。

 おは 「元気いこと」とおいになられました。ることがあったら、御所にいつでもびにおで」 と、ってくださいました。とてもとてもしくいました。


 多賀が「大君はカラにおかけがく、(さび)しゅうございましょう」としますと、浴衣(ゆかた)にまとい、おされました。

 

  (きみ)()ふは しき ものと み吉野に 

         辺巡(へめぐり)()つつ ()(かた)かりき注224a

 

多賀がそれにつれてったのには、めていたのできました。 多賀が、長年乳人(ながねんめのと)としてたことをめてし、ごころがあることに感心しました。

 

いにしえも (つま)ひつつ 声慕(こえした)

          み吉野に 涙落としぬ注224b

                                      

白宮(しらみや)一家った、あのろしい一夜のことを、におしておきたいといます。 もう出話しには退屈されたといますので、げたいとっていますが、あのしい出来事れられません。 

わりころでした。くから中庭騒々(そうぞう)しいのです。沢山(たくさん)まっています。 びっくりしたのは、あの腕白大将子分(こふん)が、荒縄(あらなわ)でギリギリに(しば)げられているではありませんか。

「お屋形、このチビはあろうことか綿(しの)り、(ふた)(かか)えものわた(ばな)んでしていたのでごわす。めによって(ところ)(ばら)いで、(やっこ)としてることでようごわすね」と、人夫頭(にんぷがしら)みたいなのがいます。

筑紫雷山(いかずちやま)綿同様、この綿も、日本中(ひのもとじゅう)一番という評判だそうです。

しらぬひ 筑紫綿は につけて 

            いまだはねど かに注224

 

 というが、古歌集(こかしゅう)っていると、父上があとでえてくださいました。

綿は、綿ばされやすいので、があまりらない場所)られるので、こっそり出入りしてもりからかりにくいそうです。 

「なぜにそのようなみをいた?」 と、父上奴頭(やっこがしら)きます。

「それが強情なわっぱで、一言(ひとこと)いませぬ。 先々どのような悪事をしでかすやからになろうやもれません。 ごじないかもれませんが、こいつのこうでさでんだ、(さる)()部落()麻呂(まろ)です。 おっかあも、先年はやりんでしまっていますだ」

父上は、ちょっとえられて、 「麻呂いころをっている。 なかなか律儀(りちぎ)だった。 めだから、その息子でも(やっこ)るのがではあろう。

しかしのう、父親こうで苦労させて、母親んだとあらば、こちらの面倒かったともえる。 ここにおいていけ、えもある」

のいいわっぱだ。加耶(かや)のお注225板引(いたび)(がしら)が、きの(やっこ)しがってたのに」 と、奴頭は、憎憎(にくにく)しげにいました。

 

(たた)かれ、足蹴(あしげ)にされ、(かたまり)になったに、 「い、げるでないぞ、安児薬箱しておきなさい」 と父上いました。

軟膏(なんこう)ってやりながら、 「綿花(わたばな)しがったのは絶対わないから」 と、きりしました。

なんとえは「小夜(さよ)さま」でした。

白宮一家(いっか)は、このでは旧家で、同格だったそうです。 先代大君のご不興(ふきょう)け、についているそうです。ご当主やかなで、から調(みつき)注226差配されている、ということです。

一人娘小夜は、なかなかのシッカリという評判です。 (しお)みやら(うお)とりなど、腕前だそうです。 腕白大将も、小夜には一目(いちもく)おいています。

とは四歳きりわないのですが、大人子供くらいいます。 けれど、小夜は、が、めたり、和歌出来り、ということで、対等ってくれます。

でも、(あゆ)季節に、つりをわったのですが、とてもわったように竿れません。 見事竿小夜をみて、ることよりも、三十一文字(みそひともじ)ることにしました。けてもらい、帰宅しますと父上にばったりいました。

「また、びか?」「いえ、小夜と」

「このはどうした?」 「さいました」

安児()りを?」 「いいえ、ぼーっつとして、小夜るさまを、三十一(みそひと)文字していました」

「ふーむ。で、どんなのが出来た?」

 

松浦川(まつらかわ) 瀬光(せひか)り ると 

    たせるの ()(すそ) ()れなむ 注227
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父様から「安児も、(いくさ)ごっこなどばかりやっているのか、とっていたが、随分上達したものだ」、とめていただきました。

 

その白宮一家った、あのろしい一夜(いちや)のことを、におします。

 そのつりの数日大風きました。 がみなされています。がすこしんだかとったら、大雨になりました。

父上はご不在で、差配比都自(ひつじ)指図してっています。

るい土手見回れ」、「(かがり)()け」、 「松明(たいまつ)注228)の準備をしておけ」、「(たわら)めろ」、 「川堰(せき)けろ」、 などと、大声()っています。騒々しいことこのなしです。

 

になりましたが、雨風まず、(かみなり)もゴロゴロピカピカめました。

 土手見回りにっていた麻呂が、 「宇木(うき)白宮くで土手しそうだ。白宮殿げろとっているが、荷物くてぐずぐずしている」

かおらぬか、荷物すのを手伝ってやらねば」、「しかしこのでは、どこが土手やらやらやらわからず、どうもなるまいて」、 などっています。

流石(さすが)元気者の、腕白大将も、ためらっていました。 その状況ったは、すぐにもそうとします。

て、かりもなしでは、白宮かるまいに」「うんにゃ、おいにはかる、ピカピカがっとるけん」

そのころ白宮一家は、伝来(でんらい)きな(ほこ)そうとして、苦労していたそうです。 白宮一家は、小高(ほこら)避難しようとしていました。

が、ピカッとするに、方向見定め、った(かか)えて先導してったそうです。

小夜があとでしてくれました。 「菅笠(すげがさ)んでしまい、ぬれねずみになりながら小走(こばし)りでき、もうすぐがあるだと安心したまでとった大音声(だいおんじょう)のピカッがました」

んでしのきをきました。

「みんな、地面きつけられたようにがりました。がついたら、がり、随分まっています。おが、”よかった、もう一安心じゃ”とがっていますが、豆太だけはがりませんでした。っていたからていたのです。」

このしをする小夜したのでしょう、きじゃくっていました。このいて、につくり父上いていただきました。

 

朝顔の くや南風(はえ)き ()つ 

波波(なみなみ) しみめぐる注229

 

 

翌朝(よくあさ)は、何事かったかのようなです。 い、土手はこわれず田畑無事でした。

白宮のおじさまが小夜れてえて、父上のおともらいの相談があっていました。 こえてくるは、このようなことでした。

のお(あな)めるのがめであろうけれど、このはわがままをいていただきたい」 と、おじさまがいます。

わるお()()(ほこ)注230をあのってくれました。せめて亡骸(なきがら)はわがめたい、それも火葬でなくながらの流儀で」とけられます。

父上は、 「気持ちはかるが、身分う。めにってもらわないとしがつかなくなる。 かに近頃は、大君さまがおすすめになるように、火葬というものがくではわれるようにはなっている。しかし、んだのち、むさまざまな動物まれわる、この五体なる姿だからしむことはない、いてててよい、というところまでにはついていけないしなあ」 とられます。

勿論でございます。してしまうなど野蛮なことは出来ません、とかそこのところ埋葬のおしをけませんでしょうか」

「たしかにこのとやらは、なりはさいがしっかりもので、一貴皇子従者ったか、そうじゃコットイというものの草履(ぞうり)りにでも使ってもらうつもりであった。しかしはまだ(やっこ)めにわないし」との問答のようです。

 

いきなり一貴皇子こえてきたには、この春先七山(ななやま)でのお姿かび、なんだかのあたりがドキドキしめました。 そこに、かい声で 「わたくしからもおいします。」 と小夜が、どうやらにつけておいしている様子です。

 

おじさまがいます。 「こやつが、あのチビを不憫(ふびん)がって、”おめるのなら、る” といてばかりでっているのです。 家宝のためにとはいえ、二人うことになろうとは。このおなどもくご先祖のところにおめしておけば、このようなわずにんだものを」 と、おじさまがやみます。

それをいて、父上が、 「そういうことなら、どうじゃ、その家宝(まい)(のう)しようぞ。 はそのおということで、一緒(ひつぎ)ってれてめる、ということでどうじゃ、白宮」。

さすが父上と、父上のお知恵らしくいました。

それにしても、小夜うような気持ちになったのか、そのには不思議なりませんでした。 しかし、しかったとの突然れがこのようにしいものだ、ということはよくかるがしました。

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(今も残る熊本県鹿央町の横穴墓群)

 

あとで、この気持ちをしてんだのが、和歌(うた)です。

 

れそは このの (つね)なるを 

          るるは (なみだ)なりけむ注231

 

このあと、小夜との意外関係ることになります。

 

 

もう朝夕しくなりめていました。もういもおしまいの季節です。

いつものように、多賀宇佐(うさ)()久慈(くじ)()兄弟一緒浜辺かけました。

宇佐多賀から、「貝殻ばかりうのに熱心ではどもならん。久慈のようにのあるわんかい。」とられつつ、それでもじきに、手桶(たおけ)えられないくらいれました。

 

松林一息いれようとしましたら、先客がありました。小夜でした。ボーっと夕日めていました。

「あれ、小夜をしているのですか?」みれば、には見慣れない肩衣(かたぎぬ)注232)がかかっています。

「それしい肩衣ですこと、どこでめたの?」

小夜そうにきました。

「あののお父様()麻呂がカラのから、お母様への土産にと、帰国されるされいたカラのったものです。承知とはいますが、のお母様流行(はや)であっというくなられてしまいました。あとで麻呂がカラからおりになった“いろいろ手伝ってくれたそうでありがとう、これはもういないから是非ってしい”といたの。」ということでした。

可哀想(かわいそう)でしたね、お父様戦死された(あと)も、一人元気きていたのに。しかし、立派なおともらいでした。おをみんなでいで白宮同様ってもらって、かったですね」、とい、けて何気(なにげ)なく、「もし、あののような大嵐がなかったら、ぬようなことはなかったでしょうが、そのわり()こり(やっこ)草履りで一生ごさなければならなかったのですから」とってしまいました。

「なぜそのようなことに?はちっともりませんでした」と小夜きます。

綿花(わたばな)泥棒としてまったのことのをしましたら、「そんなこと!」と絶句(ぜっく)した小夜は、「かった、我儘ったばっかりに」とって、りませんでした。

ただこうに夕日めてきな見開いたまま、大粒をこぼしていました。

浜辺には、ったのか砂山つ、せるれかかっていました。

 

多賀います。

は、さかったが、おませなだった。小夜懸想(けそう)(注233)していたのでありましょう。もしかしたら小夜がしていなかったかもしれません。綿何故しがったかは、もやがておかりになります」

いていてとなく、くなったようなじがしました。

になって、砂浜ばいになって、その小夜ちをってんだのが和歌(うた)です。

 

  砂山の ばい 

       ひの そのみをば(注234)

 

 

 

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