(五) 風雲急・大和へ

 

早耳(はやみみ)額田王(ぬかひめ)んできました。百済大王くなられて、義慈をおぎになる、というので唐国からも皇帝からのご使者もみえる。

わが一貴皇太子(いきひつぎのみこ)がおいをべにかれるとか。 

 お父上かめましたら、その本当のようです。

「おいにくだけでなく、おくなりになった大王さまのお手入れや、りかけの弥勒寺(みろくじ)注501とやらの造作(ぞうさく)で、わが応援すことになった。

軍兵(ぐんぴょう)弓矢などだったら諸国応援めばなんとかなろうが、仏師をはじめ造作やら諸職めにい」、と、っていました。

 父上は、またこんなことも心配されていました。

義慈は、孔子えがって実践される真面目大王だ。

してくされる。ただ、しては徹底的にやっつける、まあ、幸山(さちやま)大君だ。皇子もウマはうだろうしその意味では問題いだろうが・・・・」

「なにかご心配が?」と、おきしましたら、

のところ新羅は、ごたごたきで百済されているが、このままではむまい。新羅という人々は、ずくではめきれないところ。随分当時大倭(だいゐ)注502といったわが日本(ひのもと)が、朝廷から、新羅める御璽(ぎょじ)注503いたのだが、結局かの人々めきれなかった」

「なぜ出来なかったのですか?」

いということだけでは、から信頼してくれない、そのあたりが不足していたということ」

義慈さまが、孔子のおえをられたら、新羅人々められるのでは?」

「そういけばよいのだが?言葉には、表裏(おもてうら)があるものだて」

と、って、言葉がれます。

はともあれ、此度(こたび)使者えるのだから、一貴殿軍船供揃(ともぞろ)えをていろいろえることもあろう、百聞(ひゃくぶん)一見(いっけん)()かず注504、だ。わしも、かので、()というカラクリ仕掛けの大弓(おおゆみ)たときにはれたものだ。

此度は、鎌足どのも通詞ねて同行ということだから、安心だ」

「ご無事でおりになれるのでしょうか?」と、わずしますと、「おや、これはこれは、どちらの殿御をご心配か」

「まあいやなお父様」、と、らずに、火照(ほて)っていました。

 

しばらくして、貴皇子たち、百済へのお使者一行歓送が、改装がちょうどわったばかりの、荒津長柄宮(ながらのみや)注505われました。

御所からいし、夜宴になるというので、きのであったそうで、随分騒々しい(うたげ)だったそうです。

月見という名目われたそうですが、生憎(あいにく)雲行きがしく、なんとなく、三条のお屋敷見上げたなしかにないようなじでした。


十勝村梨実のブログ 宴席では、「義慈王様二十人以上子沢山のこと、あれなら他国人質(むかはり)注506王子らない。わが幸山君頑張っていただかなければ」と無礼講(ぶれいこう)をよいことに、大君さまおに入りの()(こう)注507が、はしゃぎであられたとか。

 

さまが、「下手だが一首」と

 

(のこ)注508 夕波小波 きらめきて 

(たから)へ いざ(まか)りなむ 注509

 

と、だみげてわれ、みんなの喝采をおびになられたとか。

しばらくして、多賀のところにもらせてくれる人がいて、山鹿工人(たくみ)にも徴用がかかり宇佐岐(うさぎ)ることになったそうです。

「あれも、ててくなったところを、おまいりしておく機会(おり)にありついたものだ」と、多賀表面ではがりをいっていました。

        

ある松浦から玉島が、ご機嫌伺いに御所てきた、とって三条屋形せにられました。りに親子三人で、松浦をあれこれおきしました。最近わった出来事に、“松浦鷹島(たかしま)いた出来事“のしがありました。

(こし)注510荒津かうところで、され松浦てしまった、というのだけれど、どうも新羅高麗(こま)かう途中であったようだ。さな水手(かこ)注511三人乗客一名荒津からどこにかうのかいてもえませぬ。手荒(てあら)めましたら、えないままんでしまいました。水手頭(かこがしら)めていたら、から高麗へとじられていたが、間違えた、というので、加羅津(からつ)水手頭(やっこ)として使え、とを入れてしました。

につけていたものは、の入った手拭い、とさしのぎのカラスの羽根細工した(おうぎ)だけです。衣服草鞋など調べましたが、なにもったところはありません」

すると父上ります。「そのはどうしたのじゃ?」

執事玖珂男(くがお)しがったのでれてやったのですが、か?」

「ともかく、玖珂男めにってこさせるように」

 カラス文?

 四日ほどの(のち)玖珂男ってきます。「これは安児他言(たごん)無用だぞ」とって、多賀手伝わせて、まず()くして土鍋(どなべ)かすようおいつけになりました。いてられます。

 お父上は、その湯気にしばらくてさせます。するとどうでしょう、文字かびがってきたではありませんか。しばらくじっとかおえなされていました。

があまりにも怪訝(けげん)注512そうなをしていたからでしょう、「安児、これはわしもはじめてるが、烏文(からすぶみ)注513じゃ。このって、かの松浦への便久我男すように」と、多賀においつけになり、「玉島にもにも、この烏文のことすでないぞ」とされました。

しばらくして、鎌足どのに、「ご用手きのにでも、百済のお土産しをかせてしい」、と使者されましたが、烏文関係があることかどうかにはかりませんでした。

 

三日(のち)鎌足どのがおえになりました。最初はお二人で、やかにおになられていましたので、「百済のことなどの見聞(けんぶん)のおしだった、のことしかかりませんでした」、との湯茶接待指揮した多賀でした。

しかし、おが入りましたら自然くなり、おおよそこんなをと、多賀えてくれましたが、最後鎌足どのの祝儀にはドキッとしました。

父上がおっしゃるには、「どうやら大和の、いずれかの若頭(わかがしら)一派かに高麗(こま)密使をやりりしているのは間違いない。たまたま、加減露見注514したが、このような連絡(つなぎ)以前からやっていることは間違いない。でもない鎌足殿だからけるのだが、百済での軍船などの装備などもてこられたであろうが、勇気だけではわが日本(ひのもと)ない。

じゃが、そのまま意見言上(ごんじょう)すれば、だっての蹴鞠(けまり)(まい)注515になる。としてもこの日本を、戦火にまみれさせることはけたい、とうのだが。ともかく、どのにられたようだから、そのみ、きな意味でこのじてもらいたい」

「いや、はご報告なのですが、どのが、姪御けてしい、とられ、否応なしのめようで」と、鎌足どのがわれ、「さて、それは重畳(ちょうじょう)注516、めでたしめでたし。じゃがこの、だれぞやにはかせたくないものじゃて」と、父上られたそうです。

「と、せられますと」と、鎌足どのがおきになられ、「ほれ、うちのじゃ」と、父上されたそうです。そして、そのあと、義慈殿(ほう)(しょう)王子注517が、(むかはり)として日本へおえになる、というになったそうです。

こちらからも百済さねばならぬし、明天皇なり(たからの)女王が、こちらにえるのであれば、大和にも当方からもだれぞやを、とってきているらしい、なども、千切(ちぎ)千切れにおしになられていた、と多賀心配そうにしてくれました。

その多賀きながら、終夜燈(しゅうやとう)のゆれるで、鎌足どのの姿かけたようにいました。

 

かがり()の におどる 現身(うつしみ)の 

微笑(ほほえ)き 面影(おもかげ)ゆ 注518

 

 

玉島がまたおえになりました。今度久利一緒です。父上二人るのをご存知だったようで、早速でおいをめられました。いつものことですが、玉島は、段々きくなってきます。

それを父上(たしな)められますと、しばらくはとされますが、自然きくなってきます。

 

このたびは、玉島動転注519というでしたので、余計声きくなり、たちの女居間おんなのいま)に、でもこえてきました。れにこえるがみなびっくりするでしたので、こちらもをひそめてろうとめました。多賀と、額田王(ぬかひめ)三人めたは、おおよそのようなことでした。

 

舒明天皇がすぐれぬので、幸山天子参軍(さんぐん)(みことのり)じるのはしいこと。

・そのわりに(たからの)女王代表としてかせる。

中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)蘇我大夫(そがのたゆう)女王える。 

)はおおよそ三万。 

しかし、それだけのことをするからには、女王皇子同等身代わりのしかるべき皇族保証として大和させることが条件

ところが、百済からもじように王子寄越わりに、任那官府(みまなかんぷ)注520日本から代表となる王族寄越すよう義慈さまからのれがあっている。

 一貴皇子は、百済ってもよいとっている。

しかも、大君が、まだ一貴皇子には、諸国への調達準備ってもらわなければならないとせられる。

そうなると、大和にはにご苦労かけねば、ということであったそうな。

(とよ)()はいないのか、ということからまって、松浦(まつら)久利王(くりおう)というがった。

大和へ、任那(みまな)へ、と何故大君はわれら一統(かたき)注521のようにされるのか、父上何故このような横暴見過ごすのか」、

と、それはそれは、の玉島(いか)りようです。

父上るには、

正念場(しょうねんば)注522だ、こちらがそれだけのえをすれば、それはこうにもこちらの本気さがわる。のように大君先頭ってうまでもなく、百済任那への新羅手出しもなくなろうというもの。大和のうがや一統はもともとらと同祖(どうそ)たち、いわば親戚じゃ。まだこうは先祖供養(くよう)きなりにかまかけて、随分日本(ひのもと)よりいろんなれているようじゃし、老骨(ろうこつ)のおのれの最後場所出来たというもの。久利もいつまでも手元ではえまい。任那(みまな)けば、またきくがろうというもの。どうじゃな」ということで、玉島も「父上がそうおっしゃるのなら」と、不承不承(ふしょうぶしょう)納得しました。

しかし、久利は、でおされてから、やっといたいことがいえるようになったのか、「かのるのは、一人では心細く、れてきたいがいるが、それをおしになれば」、といます。父上玉島相談されて、「こうの事情かっているものなど数人必要だろうから」、と、了解されました。

ったところで、父上が、安児(やすこ)んでりに兄弟安児でもかせようか、とり、おびになられました。

ざっと経緯(いきさつ)をおさったあとで、「人間(じんかん)(いた)(ところ)青山(せいざん)あり注523、と古人(こじん)っている。いは、こうにむ、ともうではないか、いざわれら一統日本(ひのもと)のために、いまひときじゃ。安児つも門出(かどで)っておうぞ」と、いました。

とても、その気分にはっていけず、途方(とほう)れました注524いがけず、ました。「父上だって和歌(うた)つはえるようになっています!」と、玉島が、のようにわれました。

 

ちちの()の (みこと)は 大君(おおきみ)

 ()けくのままに さでたまうや 注525


 太宰府るときに、父上肩車和歌(うた)んだことをしました。

そのときも枕詞の、「ちちの」を使って、父上手直しをされたことをしました。

銀杏の実ギンナン

今度か、ちちののことでわれるかといましたが、にもられませんでした。

 

随分後(ずいぶんあと)飛鳥(あすか)いた便りでは、その久利供人にあの、和多田わっていたそうです。それをおきになった父上は、ともいえないしょっぱいをされていました。

 

折角太宰府生活にもれ、額田王(ぬかだのひめみこ)という出来て、しくごしていましたのに、運命歯車わぬ方向へとり、大和飛鳥とやらへることになりました。

荒津からり、(なぎ)玄海(げんかい)みます。きなで、総勢三十人ほどの一行ですから、やかな船旅です。

あれが鐘崎、もうすぐえる斎宮(いつきのみや)注526だから、此度(このたび)皆頭げてぎるように、と、父上からにおしがありました。

そのころには、うねりにけるくなったようです。やかにえましたが、には「うねり」というのがあることをりました。

遠賀(おんが)(おか)(みなと)注527夕方きましたが、宿でぐったりとなり、食事もしたくなく早々(はやばや)みました。

 
 今朝船出をしましたが、まった久慈良兄貴分のアバケたちは、うねりにけたのでしょう、ごろの元気がなくなっていました。

アバケとはしいなので、本人いてみましたら、ずかしそうなで「げばばさまが、土地言葉でアバカン(沢山(たくさん)()があるややこだ、といったのでアバケ」とえてくれました。

遠賀から穴門(あなど)注528瀬戸ぎますと、そこは別世界のまるでのようなでした。穴門瀬戸ちをしている(あいだ)に、父上んであるヒサゴ(瓢箪(ひょうたん))についてのおをしてくださいました。

瓢箪(ひさご)っていることはっていようが、瓢箪にはきもある。

もしもだが、がどうにかなった場合、この瓢箪につかまればむことはい。えておいてはない。まあ、この瀬戸内(せとうち)ればそのような心配無用じゃがな」

大昔れて難破(なんぱ)し、っていた瓠公(ココウ)注529というが、瓢箪沢山けていたものだから、無事上陸できた。その人々には、まるでいてくるようにえた。その王様もびっくりして、これは常人(じょうにん)注530ではない、おまけに知恵にも胆力にもれていたので、大臣にした。このようなが、新羅本記(しらぎほんき)注531というっている。」

ヒサゴの効用とは

それから、瓢箪(ひさご)をどうやってるか、という方向になりました。二人ともりません。「かずにえてご」、と、意地悪えてくださいません。

糸瓜(へちま)みたいに()るものということはっています。母上が、糸瓜からとれる(あく)い、とめるのを手伝ったことはあります。でもヒサゴのまではりません。「降参です、おいします」、と、ってえをえていただきました。

なんでも、瓢箪のところからけ、えて三日そのままいてふやかすそうです。や、わたを、しずつ杓子(しゃくし)でかきしてはりだし、れてふやかす。これをし、(から)になったら(かわ)かす、と、出来上がりだそうです。

「な~んだ、そういう簡単なことか」、と、額田王(ぬかひめ)いますと、「大事なのは自分えることじゃ」と、父上が、ちょっとをされました。

 

面白いているに、まだお随分いのに豊浦(とゆら)注532りました。豊浦は、以前満矛(みつほこ)大君(おおきみ)(ぎみ)えられて、への(にら)みをかせていらっしゃっただそうです。

豊津注533便利い、と豊国がそちらにってしまい、代官(だいかん)しているになっています。なんとなく物寂(ものさび)しい、和歌(うた)みたいなじがしました。ちょっとかびい、代官所宿舎一夜かしました。

玄海(くろうみ)の 波越る 豊浦津(とゆらつ)の 

かなし かな 注534 

 

父上が、折角じゃから伊予(いよ)()(おか)注535にもっていこう、と舳先(へさき)けるよう船頭われました。なんでも、満矛大君のおりのところで、東国(とうごく)巡行(じゅんこう)にはいつもおりになっていらっしゃったそうです。父上さい一度、おしをてご同行されたそうです。 

吉野いが、ここは格別(かくべつ)」だ、とっていましたが、そのわけをることになりました。ここは瀬戸内漁場まれ土地柄で、人々らしもいようです。

どうもそれだけではなくて、豊浦同様に、河野県主(こうののあがたぬし)注536宿坊(しゅくぼう)まりますと、「のお殿様、よくぞおでになられました。では、ごゆるりとのおれを・・・」と、(あがた)(ぬし)どのがって温泉(いでゆ)案内され、その着飾(きかざ)ったわって宴会まりました。

多賀与射女房(よさのにょうぼう)は、「仕方がない」と、小女(こおんな)洗濯指図などのあとは、お何度ったり、おいにをもんだり、でごしました。

 

 (ふる)きより 伊予(いよ)のえひめに づる

        にもたゆらに こころつらむ 注537

と、おいになられる父上が、こえてまいります。

 

父上はふた何処(どこ)かでおりになり、三日目になって、やっと出港することになりました。りに人々れに、ひときわ目立格好をしたさんがいました。与射女房どのにも丁寧にお辞儀をしていましたが、どのもプイとき、不機嫌そうで、たちもそのさんにわせないようにしていました。

アバケや警護たちも、警護理由父上たちと一緒だったようで、白粉(おしろい)いをけてってきました。額田王(ぬかひめ)は、「あれは、おなごには興味ないとっていたのに」、と、ちょっとてがった、といったじのことをっていました。

 父上が、色紙(しきし)注538やらかれて、久慈良ばれて、「あのしてこい」といつけられます。額田王が、久慈物陰(ものかげ)んでしています。きましたら、父上かれた色紙せてったそうでした。

「まあいやだ。このようなでしたよ」とって、えてくれました。それは、

 

  の ひしきからに 

        かくやひむも ()り 注539

 

父上かせる、というのでもなく、「いざ、というときは、瀬戸内河野(こうの)一統水軍協力える約束ができたので、上々首尾(しゅび)注540であった」と、っておられました。「大体口約束など信用できないのに」と、与射どのは不機嫌でした。

 

吉備(きび)にむかって、(はら)ませて順調んでいます。いものです。これまでこれほど毎日時間父上一緒になって、おかせていたことはありませんでした。吉備でも、吉備についての、昔話かせていただきました。筑紫(ちくし)大和にあって、からえただ、ということ。大王くなったきなおることを流行(はや)らせたのも吉備だそうで、けぬ土地柄(とちがら)だそうです。

えると出雲(いずも)で、こちらともうまくやりとりできていて、きにれている。このたびも、軍勢供出(きょうしゅつ)大君んでいるのだが、大和とのがまとまれば応分(おうぶん)加勢、などときするのでこまる、などともっていました。

筑紫(ちくし)より出雲大国(おおくに)一番けたそうです。出雲一族であったこともえてきました。筑紫(ちくし)出雲主導権(あらそ)いがあり、まあ、仲良くやっていこう、ということになり、それぞれからそれぞれへと、ったとのことでした。たちの祖先も、出雲から松浦(まつら)て、その土地名付けた、などとおししてさいました。

十勝村梨実のブログ ヒサゴのおけながらのおですので、おまけに、冗談(じょうだん)じりに面白くおしになるので、どれほど本当のおっているのか、とそのったものです。

そんないい加減なおはされない父上ですから、大半(たいはん)本当なのでしょうが、なにしろ、千年だそうですから、かめようのないおです。 

つい、そんなことをにしましたら、「満矛(みつほこ)大君のご発案で、このちを、多赤(おおのあか)麻呂(まろ)注541がまとめ始め、次の麻呂えられている。その日本(にほん)()注542もやがて(まとま)まる」と、えていただきました。出来上がりましたら、是非んでみたいものといました。

明石(あかし)からこの船旅最後住吉(すみよし)までは、本当るかのようなやかなでした。住吉には(やしろ)ってあり、筑紫(ちくし)住吉宮(すみよしぐう)分社してられたそうです。

名前なのはかしい」と、いましたら、父上のようにえてくださいました。

住吉だけではない、沢山など、筑紫(ちくし)名前があるのをってくことじゃろう。春日(かすが)、み(かさ)平群(へぐり)山門(やまと)飛鳥(あすか)・・・と(かぞ)れぬほどじゃ。とすのも、明天皇曾祖父たるおが、事情あって筑紫(ちくし)たれた。大和られて、一統(おさ)になられたわけだが、かしみ名前筑紫風(ちくしふう)にかえられたというわけじゃ。注543われらがまう大和も、は、飛鳥という。安児ってのように、朝倉くに飛鳥というがある注544

名前えられたその土地人々は、しんだことでしょう」

「そう、一方(いっぽう)びは、他方(たほう)しみじゃ。安児は、松浦名前は、出雲由来している、ということをいたときはどうじゃったな?」

そうわれてみますと、かにそのときには人々が、までしんできた土地を、勝手えられたときの、気持ちのことまでは、えがびませんでした。なんとなく、しく、いろんなことが(から)っていることはかりましたが。

この半月あまりので、までにないほど父上一緒ごさせていただきました。和歌(うた)についても、額田王(ぬかひめ)ともどもいろいろとえていただきました。

時々父上額田王(ぬかひめ)れてえてあげているようにえるときもあり、そのようにじる自分がちょっとけなくったりしたこともありました。

先日も、たち二人に、「二人ともよく勉強しているな。もう二人ともこっそりと、勉強もしていることと(にら)んでいるがどうじゃな。さて、徒然(つれずれ)注545に、おたちに問題そう。そうだな、きやんごとなき御曹司(おんぞうし)注546れを乙女、をにしてみよ。まず、額田じゃ、そして、安児がそのすという趣向(しゅこう)注547じゃ。よいな」と、おいつけになりました。

額田王(ぬかひめ)が、「では一首仕(いっしゅつかまつ)注548ります」、とで、のように()みました。

 

つと あがひおれば  

      わが宿の (すだれ)かし く 注549

 

父上が、紅潮(こうちょう)というのはこのようなことか、とえてくれるように、お(しゅ)してきました。「う~む。見事じゃ。大君が”(ひめみこ)(くらい)注550てられたのは、眼狂(めくる)いではなかったということか、見事(みごと)見事(みごと)

「さて、安児もおしをせねばならぬが、・・・」と、大丈夫かな?というようなじの父上物言(ものい)いです。

母上からわったように、うろたえないための呪文(じゅもん)奥底え、かにきくをついて、「しばしのご猶予(ゆうよ)を」とだけし、瞑目(めいもく)してえをまとめました。

額田王(ぬかだのひめみこ)んだ光景かべ、部屋(すだれ)ける気配(けはい)などがるまでに、どれくらい()ったのかかりませんが、いがけなくすら~と三十一文字(みそひともじ)てきました。

 

をだに ふるはともし をだに 

()むとしたば かむ 注551

 

「いや~。お前達二人にはった。額田(ぬかだ)殿のところに、いずれ出仕(しゅっし)注552せねばなるまいが、これなら心配いらぬ。いや心配かな。大和男共くのが、えるようじゃて」と、大仰(おおぎょう)注553めてきました。

 

 その(六)につづく    ( トップページに戻る