白村江の戦いのあとの唐軍の代表者郭務悰と壬申の乱について   2018・11・13   棟上寅七

本論考は、2018年11月11日「古田武彦記念古代史セミナー2018」で中村通敏名で発表した「郭務悰はどこにいたのか」を基にして、発表時間の制約で端折った部分を補ったものである。

◆はじめに

古田武彦先生は、1980年代後半から、古今和歌集や万葉集についての研究を深められ、その第一が1990年の市民の古代別巻2として出された『君が代は九州王朝の賛歌』であり、1994年の『人麿の運命』であり、2001年4月に観光された『古代史の十字路ー万葉批判』でした。

これらの和歌を深く追求することによって、日本国の一大転換期の事件「壬申の乱」にメスを入れられたのが、今回小生が取り上げる『壬申大乱』です。2001年10月に東洋書林から出されました。先生の油が乗り切っておられたころの作品と言えましょう。

古田先生は著書『壬申大乱』で万葉集にある25番歌と27番歌を特に取り上げて、大海人皇子、のちの天武天皇が、有明海沿岸に居た唐軍代表の郭務悰に会いに来て、のちに「壬申の乱」と称される内乱について同意してくれた、という驚愕の仮説に至った、と述べられています。

それが次の二つの天武天皇の和歌です。【25番歌】み吉野の 耳我の嶺に 時なくそ 雪は降りける 間なくそ 雨は零〈ふ〉りける その雪の 時なきが如 その雨の 間なきが如 隈もおちず 思いつつぞ来〈こ〉し その山道を、という歌と、

【27番歌】淑人乃 良跡吉見而 好常言師 芳野吉見〈与〉良人四来三(よき人の よしとよく見て よしと言いし 芳野よく見よ よき人よく見)の二首の和歌です。

古田先生は、【この25番歌の「み吉野」は大和の吉野ではなく、九州佐賀の吉野であると考証され、つづく27番歌の意味不明の歌とされて来たものは、この「与」は原文が改訂されている。原文は「芳野吉見 多良人四来三」で「多良人よく見」である】と指摘されました。

そして、【「元暦校本」その他、各本(類聚古集、紀州本)ともそうだ。その「多」を「与」と直し、一段と珍妙な、「土地勘」を削り去った歌としてしまったのである】と考証されました。(第四章天武天皇の秘密第一節)

引きつづき先生は、【では、「多良」とは何か。もちろん、地名だ。同じ「芳野の国」(佐賀県)だ。だが、(吉野ヶ里、ミミガの嶺、宮處などの)基肆郡や三根郡、神崎郡とは、だいぶはなれている。有明海の対岸だ。すなわち、「天武の視点」は、ただに有明海の北岸部(右の三郡)にだけ、とどまってはいなかった。その西岸部の「多良」にも注がれていた。その視野は「有明海」そのものに広がっていた】(第一章まぼろしの吉野第七節二)と述べています。

そして、【白村江の敗戦後、天武は吉野にいる淑人〈よきひと〉に、みぞれの山道を越えて会いに来た。大友皇子との対立についての自分の「決断」を唐軍の代表に示し、「淑人」は同意してくれた、その喜びを意味不明の形の暗号文的な和歌として仲間に伝えたのではないか】(第四章天武天皇の秘密第二節十一)と推量されています。

この論証は、郭務悰は「占領軍の代表者、倭国消滅の任務で多数の唐軍を何度も、率いてきた人物」という、古田先生を含め、一般的な見方と相反する形容「淑人」ではないでしょうか。また、なぜ「多良」という場所に、「淑人」は居たのでしょうか。古田氏は、有明海が半島出兵の軍事基地であったから、とします。この疑問を解くために行った作業とその結果について今回報告するものです。


◆何故淑人は「太良」にいたのか

ではなぜ「多良(太良)」なのか。古田先生は、なぜ郭務悰が有明海にいたのか、それも有明海北端部の吉野には遠い、有明海の西端ともいえる「太良」に、ということについて、次のように述べます。

【白村江の戦いに沢山の軍船が九州に集まり出港していったはず。博多湾では敵国の眼があり軍事上無理だ。有明海・佐世保湾・大村湾・伊万里湾であろう。郭務悰は九州王朝の軍事拠点を制圧するために有明海に来たのではないか】(第四章天武天皇の秘密第二節十一)と。


また、『壬申大乱』の出版以前に大阪北市民教養ルームで「壬申の乱の大道」というタイトルで講演しています。(2000年1月22日)そこではこのように述べています。

【九州王朝の百済復興水軍の集結地は、鴻臚館の存在もあり外国の目に触れるし、対馬海流の関係からも博多湾ではありえない。有明海・大村湾・佐世保湾・伊万里湾などが適地である。また、おつぼ山神籠石山城や帯隈山〈おぶくまやま〉神籠石山城などの目的は、太宰府をめぐっての九州王朝の本拠を守る山城施設の一環という認識は間違っていて、吉野ケ里などの有明海北部の防御拠点であったと思われる】と。

基本的には『壬申大乱』とは違っていませんが、神籠石山城との関係や久留米方面が九州王朝の軍事上の中心ではなかったのかなどの興味深いことを述べています。


しかし有明海は国内第一の干満差のある水域として知られています。大型軍船が自由に動き回れる水域ではありません佐賀県鹿島市のガタリンピックというイベントをTVでご覧になった方は理解できると思いますが、有明海の北部沿岸は砂浜がありません、「ガタ」なのです、泥なのです。とても干潟は人が歩行できないのです。

現地に出かけてみました。太良町に竹崎港があり、近くに竹崎城という復元施設がありました。そこにあった太良町の説明文を読み、ひょっとしたら、『壬申大乱』での郭務悰が太良に居たという謎が解けるのでは、という気がしました。

また、朝鮮半島から対馬を経て、40隻以上の軍船団が筑紫にやってきた。人数は二千人、それも2回も、と『日本書紀』に記されていますが、この船団がどこに停泊していたのか、も、記録や伝承は残っていません。

戦勝国側の首領郭務悰が、なぜ有明海のそれも太良という辺鄙なところにいたのでしょうか


この袋小路的な海域を拠点にしたら、被占領地の反乱分子によって、場合によっては殲滅される危険性があるのに、何故?という謎が残ります。

これらの謎についてのうち、海域の特性については、国土交通省のこの水域の海底地形図によって、太良町の竹崎港の付近が有明海北部で唯一の自然良港ということが理解できました。

近くには、竹崎城(行基開設伝説もある)復元施設もあります。また、駐留軍の司令官郭務悰がこの袋小路的なところに駐留できたのか、当時の東アジア情勢と唐軍の百済統治政策を調べてみて、理解することができたと思います。後程報告します。


ところで、有明海北部水域は、弥生時代以前の小型の船ならばともかく、7世紀の4,50人も乗れるような大型船では、吃水1メートル程度を確保できる接岸施設の確保は難しかった、と思われます。干潟が5メートル以上に及ぶことや、吉野ケ里遺跡の最盛期のころには有明海は遺跡近傍まで海が迫っていた、という報告がなされています。(古田史学会報44号下山論文)

幕末に、最近文化遺産登録がされた「三重津海軍所」というドライドックが建設されていますが、そこへの接岸は満潮時のみ可能という条件があり、常時接岸可能港湾としては、明治41年に完成した三池炭鉱の石炭積出港としての、三池港ドックができるまでは、有明海北部沿岸には大型船舶が直接接岸できる港は、太良町の竹崎港以外はなかったのです。

以上の事柄、干潟になる海域・古代諸施設など関係個所を地図に表わしてみました。

海底地形については、国交省九州地方整備局がネットで公表している有明海北部の海底地形図を参照し、大汐時に干潟となる地域を示しました。その地図には7世紀初頭の事件に関係する、神籠石山城や吉野ケ里遺跡なども記入しました。また、竹崎港と熊本県側の対岸との横断図も作成してみました。


この有明海横断図に見られるように、太良町の竹崎港の突端で、有明海の海底は、大きくまるで崖のように落ち込んでいますなぜこのような地形ができたか、というと列島創成期の火山活動の火口壁の名残だそうです。
その結果竹崎港前面には幅3キロ長さ10キロメートルに及ぶ船舶停泊可能水域が存在していることが分かります。


現地には竹崎城址として小ぶりの櫓を持つお城の復元施設があり、太良町の説明版には、南北朝時代に南朝に味方した島原の有馬康孝が築城した、とあります。竹崎城の特徴として、自然の地形を利用して、水陸両面に備えた山城と水城の性格を持つ築造形式であり、石垣の規模からみて、佐賀県内では名護屋城、唐津城に比すべきもの、ともありました。


現地には竹崎城址として小ぶりの櫓を持つお城の復元施設があり、太良町の説明版には、南北朝時代に南朝に味方した島原の有馬康孝が築城した、とあります。竹崎城の特徴として、自然の地形を利用して、水陸両面に備えた山城と水城の性格を持つ築造形式であり、石垣の規模からみて、佐賀県内では名護屋城、唐津城に比すべきもの、ともありました。

復元竹崎城




近くに、竹崎城展望台という広場があり、そこにも表示板があり【ここは竹崎観音寺の「拝み堂」の跡地と伝えられていて、和銅年(709年)に行基菩薩によって開基されたと伝えられる】と、ありました。

行基伝承は近畿地方中心で、各地に多いのですが、この地域に行基が来たという記録は残っていません。行基は集団で寺院の建立をしていた、ということですから弟子が来た可能性はありますが、郭務悰の痕跡を消したい人々が、一般に通り易い「行基開基」という伝承を作ったということも考えられましょう

推定ですが、その観音堂址と伝えられるところが郭務悰の滞在地であったと思われます。(竹崎島の地図・竹崎城復元写真参照ください)


「太良」というところは、反乱軍の可能性を除外し、九州王朝と唐との協力体制が確認できれば、郭務悰が停泊地と選定しておかしくない場所であった、といえると思われます。ところで、


◆郭務悰とは何者なのでしょうか。「占領軍司令官」と「淑人」とのイメージとはうまくかみ合わないのです。

古田武彦氏は、天武が「淑人」と形容したことについて、『壬申大乱』で概略次のように説明しています。

【『詩経』に「淑人」の言葉が「淑人君子」という熟語で用いられることから「淑人」は「単に善人の意味ではなく、きよくふかく、国政を正す人」を意味する】と『壬申大乱』第四章天武天皇の秘密 第二節で述べられます。

しかし、古田氏は『壬申大乱』で同じところで、次のようにも述べているのです。

郭務悰らの駐留軍の目的は、【第一、唐のみが「天子」であるという大義名分。第二、ふたたび、唐に対して敵対しないような「軍事的制圧」体制の安定化。この二点にあったこと、およそ疑いえないところではあるまいか】(第四章第二節)とされますが、この見方と「淑人」とはイメージがうまく噛み合わないのです。小生の感性が狂っているのでしょうか。

もし、郭務悰が唐軍の司令官の職務に忠実であったとすれば、大海人皇子の反乱に対して、積極的に介入したであろう、と想像するのが当たり前でしょうし、その反乱の成否を確かめることなく、反乱の前に帰国する、という行動は理解しかねます。

郭務悰の行動や考え方を探るために、当時の朝鮮半島をめぐる動きを探ってみました。


この時期の東アジア及び国内の主な事件を時系列に記載してみました。

660年 唐が百済を滅ぼし、百済に熊津都督府など5都督府を置く。8月斉明天皇没。
663年4月 新羅に鶏林都督府を置く。都督は新羅文武王が任じられる。

663年9月 白村江の海戦(異説もある。662年説 青木英利 古田史学会報102号「白村江の会戦の年代の違いを検討する」がある。古田氏は、671年に既に失脚した劉仁願が李守真を派遣したのはおかしい、と三年のズレがある、とされる。ミネルヴァ版『失われた九州王朝』「補章 九州王朝の検証」。この件は、今回の論考にはあまり関係ないので、今回は深入りしません)

664年5月 郭務悰の第一回目の渡来。表函と献物を進じ、同年12月帰国。


665年9月 劉徳高・百済禰軍・郭務悰渡来(254人)。表函を進ず。12月帰国 帰国時に守大石・坂合部石積らが(遣唐使として)派遣される。
666年10月 高宗の泰山封禅のイベント(劉仁軌が半島及び倭の使者を従え参列)

667年11月 司馬法聡が渡来、遣唐使坂合部連石積を筑紫に送還。
668年 唐と新羅が共同で高句麗を滅亡する

668年1月 天智天皇即位。
669年 郭務悰ら2000人渡来

669年 河内鯨らの遣唐使派遣。
670年頃 新羅の唐への反乱が始まる。

671年1月 李守真らが渡来し、表を上る。 同年7月李守真と百済の使人ら帰国。
671年11月 薩夜馬ら対馬に到着し、郭務悰ら六百人と沙宅孫登ら千四百人渡来。

671年12月 天智天皇没。
672年3月 郭務悰に天皇崩御を告げる。

672年5月12日 郭務悰にふとぎぬ1673匹などを賜る。
672年5月30日 郭務悰ら帰国。

672年夏 壬申の乱。
676年 新羅が唐を完全に追い出し三国統一。(678年 百済禰軍没)

683年 九州年号白鳳 朱雀に改元
683年12月 唐高宗没。

690年 唐は武則天即位。
698年 渤海建国

701年9月 大宝律令発布。日本国誕生


◆664年5月の第一回の使節団は

第一回の使節団は、郭務悰が、唐の劉仁願(劉仁軌?)の代理として渡来しています

『日本書紀』によれば、唐の代表として劉仁顔が差し向けた、としていますが、中国の史書によれば、劉仁願は既に左遷されていて仁願の後任の劉仁軌であった筈という意見があります。劉仁軌の誤りと思われますが、いずれにせよ、郭務悰という人物が、戦勝国の唐軍の代理代表者として渡来しています。

この、最初の折衝役に抜擢された郭務悰という人物は、百済鎮将の信頼厚い人物であったことは間違いないことでしょう。この第一回の使節団が、九州王朝の留守居役に対して、今後の交渉団の受け入れ態勢などの話し合った筈です。注目すべきは、『日本書紀』によれば、唐軍の代表団は常に「表函」を持参していることです。

もちろん筑紫君薩野馬が虜囚として唐に生存していること、薩野馬から留守居役への戦後処理についての指示文書ももたらされたこと、などは間違いないでしょう。その事前交渉に従って、翌665年9月 第二回目の、劉徳高・百済禰軍・郭務悰らの渡来(254人)となります。

トップの劉徳高は唐人と思われますが、百済禰軍は近年発見されたという墓碑銘で百済人であることは間違いなく、三番目に上げられている郭務悰は不明ですが、百済人の禰軍の次に書かれていることからしますと、唐人ではなく熊津都督府の百済官人である可能性が高いでしょう。

この二回目の劉徳高らの使節団が、唐の対倭国基本方針を九州王朝留守居責任者に呑ませたものでしょう。この二百五十四人という人数が間違いなければ、「軍団」とか「武力による威嚇」という表現にはとても合わないでしょう。


近年、日中歴史共同研究報告書が外務省から発表されました(2012年)が、中国側委員王小甫北京大学歴史学教授は、百済復興戦後の状況について、次のように述べています。

①白江口の海戦の後に、唐が倭国に使節を派遣したことは中国の史書には見えない。郭務悰の名前も見えない。

②劉仁願の後任、劉仁軌の上表の中に、我々は1年分の装備できたが、既に2年過ぎ、この冬が過ごせるか心配、などと書いている。

③西嶋定生の『日本歴史の国際環境』には遣使団は二千人を数え、決して和平の使者ではなく、威嚇のために完全武装していたとあり、高宗の泰山封禅までも白江口の戦勝と関連づけている。こうした見方は、敗戦側の倭国の感覚から生じたもので、客観的に事実を求める姿勢とはいえない。

④当時、唐軍は疲弊していて、百済に駐屯していたが、高句麗の勢力の反撃を恐れていたのに、わざわざ遠方の倭との間に波風を立てるわけがない。

というように、百済復興戦後の状況については、『旧唐書』『資治通鑑〈しじつがん〉』などの百済鎮将劉仁願・劉仁軌などについての記事を検討して、唐は倭国を経略する意図はなかった、と結論付けています。(『「日中歴史共同研究」報告書第1巻古代・中近世史篇 北岡伸一・歩平【編】 勉誠出版2014年10月』)

そこで『資治通鑑』の関係記事を読んでみました。『資治通鑑』は編年体で記述されています。同じ時期の『旧唐書』は紀伝体ですので、列伝の「劉仁軌伝」では、当時の全体の流れと切り離されて記述されています。その点、『資治通鑑』では、全体の流れの中での、劉仁願や劉仁軌の動きが見えますので理解も進むようです。

例えば、百済の義慈王達が降参した後の戦後処理に、唐軍がどのような政策を取ったかについて、龍朔3年(663年)の記事には大略次の様に記されています。【戦場を片付け、野ざらしになっている死体を埋葬し、村長を選び、道路・堤防を修復し、国境を警備し、孤老を養い、貧乏には施し、民業を復し、百済の民衆みんなが喜んだ、「百済大悦」】とあります。

占領地の民を自立させ、それを間接支配する、という政策であったようです。特に「百済大悦」という語が目を引きました。


千三百年後、マッカーサーが日本占領軍司令官として数々の施策を行い、将軍の離日にあたって、羽田までの沿道に、20萬人の日本人がマツカササンありがとうと見送ったニュースを映画館で観た記憶があります。調べてみたら、1951年にトルーマン大統領に解任されました。当時の日本国国会も6年間の彼の統治に、感謝決議をしたことも改めて知りました。

後年、歴史家が、アメリカ軍の戦後政策について、「Every Japanese Thanks USA」と書かれてもおかしくありません。

実は『資治通鑑』には『旧唐書』の記事が沢山、殆どそのまま転載されています。この記事もほとんど同じです、が、この「百済大悦」の語は『資治通鑑』独自に追加されています。


◆中国史書に見える士大夫の「君子」像。

同じ時期の『資治通鑑』の記事で、劉仁願が高宗に帰国報告をするときのやり取りがあります。

高宗が劉仁願に対して、「卿は本もと武人なのに、戦後の政策立案実行も、また、その報告書も見事なものだ。どうしてそんなにうまくやれたのか」と聞かれ、「あれは全て仁軌がやってくれたこと。私は彼の資質を見出しうまく使っただけ」と答えます。

このやりとりを聞いていた侍従の上官儀という人物――調べてみたら、この「上官」は二字姓でした――が「仁軌は官職を外されたのに、よく忠義に徹し、仁願は規律正しく統率し、良く賢人を見出した、両人、君子なるかな」と評した、とあります。

このエピソードは『旧唐書』にも同様の記事があります。古田武彦氏も当然読んだと思います。しかし、郭務悰との関係までは、思考が及ばなかったか、と思われるのは残念です

このように劉仁願・劉仁軌の「士君子精神」が、倭国への派遣者選任にあたっても適用され、「郭務悰」という人物が適任とされたものと思われます。そして、任地先で郭務悰も「大海人皇子」という人物を見出し、その重責を果たした、と言えるのではないでしょうか。

ところで、劉徳高を団長とする、第二回目の交渉の結果が、どのようなものであったかは不明ですが、その後の半島情勢の変化によって変動はあったものの、唐の方針の大枠は変わらなかった、と思われます。結果論ですが、九州王朝の消滅(日本国へ吸収)が天武天皇の出現によって完成します。

第二回目の劉徳高らの交渉団は、筑紫君薩野馬などの虜囚となった九州王朝幹部との、九州王朝の将来についての方針の下話が、ついての上の交渉であったことは想像に難くありません。

また、『日本書紀』にも多数の唐人の捕虜が半島から送られていたことが記されています。これら捕虜の送還や、新羅の百済支配を嫌う、百済や旧加羅諸国の難民の処置についても当然話し合われたと思われます。

当時の朝鮮半島情勢は、唐軍の旗色が悪くなりつつあるときであり、しかも近江に引きこもっていた天智も亡くなったときであり、大海人皇子の政権奪取プランは渡りに船であった可能性が高いと思われます。



◆二千人の二度の渡来は?

669年に郭務悰ら二千人の渡来を『日本書紀』は記しています。

先ほど日中歴史共同研究での中国側委員王小甫氏が『資治通鑑』などの記事を引用して、とても当時の唐にはそのような余力はなかった、との主張を紹介しました。

確かに中国の史書によれば、当時は半島における対新羅・対旧高句麗問題の方が焦眉の急であり、又、高宗の体調も悪く武皇后の垂簾政治の状況下であり、日本列島まで足を延ばす余力はなかった、という可能性が高かった、と思われます。

最初の二千人の渡来については、単に二千人として、その内容については何も述べていません。最初に二百人余、その後、四年たって二千人、又二年置いて二千人というように、郭務が連れてきた集団が兵力だとしたら、このような兵力の逐次投入、ということはあり得ないと思います。

蘇定方は、水陸10万という軍勢を引き連れて朝鮮半島に出征しています。翌年には四万が援軍としておくられたことが「資治通鑑」には記載されています。とても二千人という軍兵で倭国を攻略できる、と思うはずがないと思います。

ところで、二年後二回目の二千人の渡来については、郭務悰担当の六百人と、送使沙宅孫登(百済人)の千四百人と『日本書紀』にあります。沙宅孫登は、斉明紀6年10月に唐の捕虜百余人を連れてきた、と記事中に見えます。沙宅孫登は、百済の義慈王とともに蘇定方将軍につかまって、唐に送られた人物です。郭務悰が軍関係、沙宅孫登が難民関係というような役割分担などがあったことをうかがわせます。

ミネルヴァ書房から最近刊行された『なかった別冊2 「日出処の天子」は誰か』大下隆司/山浦純共著は、「真実の古代史教科書」とも称されるべき出版物と言っても過言ではない、と思います。そこには、「郭務悰らに率いられてきた四千人の兵の来日の目的は不明」としています。今後、果たして全員が「兵」なのか、については今後の検証が必要となりましょう。

つまり、唐の基本政策は、「唐に逆らわない体制をその地に作り、間接的に支配する」ということにあった。壬申の乱は、唐公認の九州王朝消滅の大方針に合う方向であり、旧百済国官僚や九州王朝留守居軍の協力によってなされたと思われます。つまり『壬申大乱』の古田説「天武と九州王朝(大分君)との共同作業で勝利した」と同じ結論となりました。


話は若干余談になりますが、この「大分君」は豊国の大分の豪族、というのが定説となっています。しかし、当時「大分」という地名が現在の大分県に果たしてあったのか、ということには大いに疑問があります。当時「オオキタ」と呼ばれていたようです。

筑前に「大分<ダイブ>」とよばれる地があるのです。「大分<ダイブ>廃寺」の遺跡もあり、「大分<ダイブ>八幡宮」もあります。現在でも、「筑前大分<チクゼンダイブ>」というJRの駅や「大分<ダイブ>小学校にも遺存している地名です。装飾古墳で有名な王塚古墳もあります。

一方、豊後の大分は「地名」としては残っていません。「豪族」と言われますが、「大分<オオイタ>という姓は現代の稀少姓の一つと言われています。この話は、生前古田武彦氏に直接話してみたことがあります。「おもしろいよ、あなたが調べてみたら」、と言われたことがあります。

この余談はさておき、
先ほど述べましたように、古田武彦氏は『壬申大乱』で郭務悰らの駐留軍の目的は、【第一、唐のみが「天子」であるという大義名分。第二、ふたたび、唐に対して敵対しないような「軍事的制圧」体制の安定化。この二点にあったこと、およそ疑いえないところではあるまいか】とされるのですが、この見方と「淑人=君子」との違和感が残るのです。

もし、郭務悰が唐軍の司令官の職務に忠実であったとすれば、大海人皇子の反乱に対して、積極的に介入したであろう、と想像するのが当たり前でしょうし、その反乱の成否を確かめることなく、反乱の前に帰国する、という行動は理解しかねます。このような疑問がどうしても残るのです。


◆唐軍の倭国破壊説について

ところで、古田先生は、九州年号についての研究の進展によって、九州年号に磐井の乱に関しての痕跡が見えないことから、乱そのものが架空で、磐井の墓などの破壊は継体軍によるものではなく、白村江敗戦の後に占領軍として渡来した唐軍によるものではないか、と変わられました。(『古代に真実を求めて第八集「磐井の乱はなかった」2006年4月)

しかし、この古田説は『壬申大乱』の「郭務悰=淑人」のイメージとは相いれないものと思います。古田先生の諸著作の中で、天武紀の筑紫大地震が九州王朝に与えた影響について述べられているところは見当たりません。
前述のミネルヴァ書房から最近出ました『「日出処の天子」は誰か』では、この天武期の筑紫地震が九州王朝の黄昏に追い打ちをかける出来事だった、というように述べられています。


文部省の「地震調査研究推進本部地震調査委員会」が平成16年(2004年)に「水縄(みのう)断層帯の評価」という報告書を出しています。

骨子として、【天武7年(679年)の筑紫地震は水縄断層帯の最新の活動である可能性があり、1万4千年周期で発生している。その地震はマグニチュード7.2程度の地震を発生し、岩層が水平面で2メートル程度ずれると推定される】と結論しています。

年半前、熊本地震が発生し、熊本城が大きく崩れたことをTVなどが報じていました。その地震の大きさはマグニチュード7.3であったそうです。先ほどの有明海周辺の地図を提示しました。そこに、水縄断層帯や岩戸山古墳などの位置を書き込んでいます。

水縄断層近傍の磐井の墓の周囲の石人石馬などの建造物が、継体軍の破壊に耐えても、唐軍の破壊の手が及ばなかったとしても、この地震によって倒壊を免れなかったのは間違いないと思われますし、既に世は天武天皇の時代であり、九州王朝ゆかりの人々には、破壊された墓域を修復する力もなかったことでしょう。



◆結論

古田武彦先生の唐軍の暴虐説の唯一の物証ともいえる、磐井の墓の唐軍による破壊説の根拠が消えると、郭務悰=淑人のイメージがピッタリと収まるのではないでしょうか。唐軍の大規模九州王朝破壊行動はなかったのではないか。というのが私の仮説呈示です。

尚、『資治通鑑』の記事から、唐軍(劉仁軌)の百済占領地統治政策や君子と言われたことについては、当ホームページの「郭務悰は淑人君子であったのか」を参照ください。   おわり



【参考資料】
・『壬申大乱』古田武彦 ミネルヴァ書房
・『万葉集(一)』中西進 訳注 講談社文庫
・古田武彦講演「壬申の乱の大道」http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kouen5/jinsin.html
・古田史学会報44号(2001年6月)「古代の佐賀と有明海」下山昌孝
・『日本書紀(四)』及び『日本書紀(五)』 ワイド版岩波文庫
・国土交通省HP九州地方整備局諫早湾近傍海底地形図
・続国訳漢文大成資治通鑑第十一巻 加藤繁ほか訳註 1922年 国民文庫刊行会
・白村江の会戦の年代の違いを検討する 青木英利 古田史学会報102号
・『「日出処の天子」は誰か』大下隆司/山浦純 ミネルヴァ書房2018年8月
・古田史学会報111号(2012年8月)「百済禰軍墓誌について」阿部周一
・『古代に真実を求めて第八集』「磐井の乱はなかった」2005月
・日中歴史共同研究報告書 北岡伸一/歩平編 2014年 勉誠出版
・地震調査研究推進本部地震調査委員会「水縄断層帯の評価」2004年