国生み私論                  中村通敏

 はじめに

 このところ、会報に於能碁呂太郎氏の古事記の国生み神話関係の論文が出ています。以前には、相良裕二氏の「天国はどこか」の考証もあります。これらに触発されて、考えをまとめてみました。

 国生みの神話の中の、大八島の国生みが終わって筑紫へ帰るときに最後の国生みをした、と古事記が記す次の六国(両児島を一対の島とすると七島)です。

 それらは、吉備児島(建日方別)・小豆島(大野手比賣)・大島(大多麻流別)・女島(天一根)・知訶島(天之忍男)・両児島(天両屋)ですが、天国の領域と思われる、亦の名「天の」が付く、女島・知訶島・両児島の三島について取り上げてみたいと思います。

 古田武彦氏も相良裕二氏も、「天の」という亦の名が付いているのが天国の領域であろう、とされます。この、「天の」という亦の名がついている女島(天一根)・知訶島(天之忍男)・両児島(天両屋)の三国(四島)について、これら諸氏の説を一覧で示すと次の様です。

 これらのうち、議論が大きく分かれる「知訶島」と「両児島」について私論を述べ、女島については比定についての問題点について、気付いたところを述べます。

     通説    古田説    相良・灰塚説  於能碁呂説   私説

女島   大分姫島  白島の女島  筑前姫島    筑前姫島    ―

知訶島  五島列島   ―     志賀島     志賀島     旧志摩郡

両児島  男女群島  沖ノ島    旧志摩郡    二見が浦    志賀島と大岳


 まずは両児島から

基本的に国生み(島生み)と古事記が記しているのは、島を生むと云う意味は「人々が生活する一定領域」を確保した、ということ、ということを前提にして話を始めなければならないのではないでしょうか。

 この条件を認めるとしたら、上記の内、両児島に「クニ」とはいえない岩礁を「島」に当てる、古田・於能碁呂説はアウトです。

【国生み神話ではOO島を生んだと書いてあるが、国生みは「クニ生み」であって「島生み」ではない。クニは限定された「一定領域」をさす言葉である】、と『盗まれた神話】第六章「蜻蛉島とはどこか」で論証されていまが、この両児島の比定ではその原則を無視されています。

 イザナギは大八島の国生みを終え、筑紫に還って来て最後の国生みを行います。その島々は古事記によれば、吉備児島・小豆島・大島・女島・知訶島・両児島です。通説では、吉備児島は岡山県の児島半島、小豆島は淡路島の西の小豆島、大島は山口県の大島、女島は大分県の姫島、知訶島は長崎県の五島列島の値賀島、両児島は、長崎県の男女群島、とされてきました。

 古田武彦氏は、【通説の比定地は、吉備児島は吉備の子クニで吉備の一部の地域、大島は「大くに」で出雲、であるが、その殆んどは疑う余地がない。しかし、両児島は”不安定な比定”だ。】(『盗まれた神話』第十三章天照大神はどこにいたか)と仰います。

 古田武彦氏は、同書で、両児島が男女群島に比定されていることについての疑問点を挙げられ、次の点に目を向けなければ、と指摘されます。

【しかも、大切なことがある。それはこの島が国生みの”最後”に書かれている点だ。イザナギ・イザナミはオノゴロ島に降り立ち、東端の淡路島からはじめて、点々と西の方へと国生みしつつ帰ってきた。主要な国々を生み終ったところで、次の句がはさまれている。「故(かれ)、此の八島を先に生むに因りて、大八嶋国と謂ふ。然る後、還り坐せし時・・・・」そしてさらに吉備児島をはじめとして次々と国生みし、その最後(知訶島のあと)に、この両児島(天両屋)を生むのだ。つまり、イザナギ・イザナミにとって出発点付近に”還ってきた”最後の島だ。その点、きわめて重大な島なのである。】

 そして、「天の岩屋」の形容にピッタリの沖ノ島があった、ということで沖ノ島と小屋島を両児島に比定されたのです。

 この点について、相良裕二氏は、【沖ノ島と近くの小屋島・御門柱とよばれている岩礁を一対にして天両屋とみなすのはいかにも強引過ぎはしないか。普通一対といえば、大きさも揃ったものを指す。しかるに、この一対は片や周囲四kmの島、片やはるか一km沖にある無人の岩礁である。】(ニュース79号)と、まともな疑問を提示されています。

 ところで、以前から不思議に思っていたことがあります。神話の舞台は筑紫、しかも海岸部が主なのに、志賀島が全く出てこない、ということです。この点、九州古代史の会では、知訶島=志賀島説です。私もそのように思っていた時期があります。古田先生が数年前、志賀島に金印シンポジウムをお聴きにお見えになった時にその疑問を口にしました。

「先生、志賀島は知訶島ではないでしょうか?言葉の感じが似ていますが」「単に語感が似ているだけでは弱いですね」とい

うようなことで終りました。


 今回、「両児島(ふたごのしま)」を考えていて、これは「志賀島+大岳(西戸崎)」ではないか、という仮説が頭に浮かびました。


「両児島」が志賀島と砂洲で繋がっている西戸崎と呼ばれている大岳(標高41m)が存在する地域、これも砂洲で筑紫本土の和白と繋がっています。(志賀島と西戸崎(大岳)地図参照)

【図ー1 志賀島と西戸崎の平面地形】

 

「両児島」を、「ふたごのしま」と解すると、対になった島(クニ)ということになります。双子は二卵性双生児の場合は男女が生まれたり、生まれた二人が必ずしも相似形でもないし、一卵性双生児の場合でも、胎盤からの栄養補給に障害があって片方が小さく生まれる場合もあるそうです。

そう思って博多湾を守る形の志賀島と西戸崎(大岳)島を眺めると、イザナギ・イザナミが最後に生んだ双子の島(クニ)としてふさわしく思えます。それぞれは砂洲で筑紫本土と繋がっています、まるで臍の緒で母体につながっているかのように。

以上の両児島=志賀島+大岳(西戸崎)島の仮説によって、

①国生みされたのは「クニ」であって島ではない、特に人も住めない岩礁などではない。②また、此の事によって、筑紫の博多湾岸の重要な島が国生みに係わっていない、という非合理を解消できた、と自賛するものです。

 

しかし問題は、それでは亦の名「天両屋」という名前との整合性はどうか、ということです。

天両屋「天のふたつの屋」と形容される島(くに)です。「屋島」は香川県の屋島が有名ですが、「屋島」とは、家の形をした、という形容の島でしょう。

志賀島は東西の方角からみると立派な屋島型をしています。大岳の方の島はゴルフ場が造成されたときに変容したかと思いますが、大岳の西側にショートコースのゴルフ場(小岳)があり、東側には本格コース「西戸崎カントリークラブ」がありますので、なだらかな最高四一mという低い岡を中心にした丘陵であったと推定されます。

今、西戸崎方面から見た志賀島は、屋島というにピッタリの形をしています。

【写真―1 海の中道から志賀島を望む】

一方、志賀島から見た西戸崎(大岳)の姿は次のような現状です。

【写真―2 志賀島より西戸崎(大岳)を望む】


 西戸崎の方は志賀島に比べると、標高も低く、「屋島」と言えない事はないという程度です。屋島という形容には百%OKとは言えませんが、沖ノ島や二見が浦などの岩礁を含む案よりもベターな案だと思いますが如何でしょうか。また、於能碁呂氏説の糸島半島説には「両屋島」についての考察は欠けているのか、無理だから無視されたのでしょうか、何も述べられていません。

西戸崎(大岳・小岳)の島を昔の姿を復元するのは難しいと思いますが、天両屋の表現に全く合わないとは言えないと思います。


【写真―3 海の中道 GOOGLE EARTH より作成】 

次に知訶島の検討です

 知訶島は通説では、五島列島の中の島の一つ「値賀島」がその発音の類似から比定されています。

 志賀島説の場合、チカからシカに地名の読みが転訛した、というところから、知訶島=志賀島説と思われるのですが、そのような変換がありうるのか、という例示とか論証はなく、感覚的に語感が似ている、というところでの比定かと思われます。

 しかし、これもチカノシマではなく、チカノクニと読めば別の展望が見えてきます。現在では遠くの親類より近くの他人、というように「遠くの」と「近くの」が対語となっていますが、太宰府がかって、「遠の朝廷」と呼ばれていたように、「遠の」の反対語、「近い」は「近の」と言われていたのではないでしょうか。

 古田武彦氏は、コレクション版17の『失われた日本』「生きた日本の歴史17」に、九州の小郡
の「飛鳥」についての論証のところで、「近つ飛鳥」と「遠つ飛鳥」についての考察が述べられています。
近つ」と「遠つ」を対語とされています。しかし、この読みは本居宣長の読みによるもので、原文を見ますと、「近飛鳥」・「遠飛鳥」であり、「近の飛鳥・遠の飛鳥」と読むのを排除はできないのではないか、と考えます。

 私見では知訶島=(筑紫本土に最も)近い、「近ノ島(クニ)」である志摩半島(福岡県糸島市)で落ち着くのではないかと思います。

 相良氏も「島生み」の島に気を取られたのか、糸島の古代は島々の集合であったようにされます。しかし、これは吉備の児島は吉備の児クニと解した古田武彦説の方が論理的と思われます。

相良氏のように、無理に糸島半島の古代の状況を島々の集合と想定せずとも、糸島の半島部分を「チカノクニ」と解すればよいと思います。


 女島はどこか

 さて、最後の「女島」ですが、天之比登都柱(あまのひとつはしら=壱岐)と天一根(あまのひとつね=女島)との関係で、本国と分国の関係、と解された灰塚照明氏の筑前姫島が有力と思います。

古田武彦氏は、最初『盗まれた神話』1971年では、女島は黒曜石の産地、大分県の姫島、とされましたが、2010年ミネルバ書房コレクション版では補章の追補では灰塚照明及び鬼塚敬次郎両氏の調査結果から、「糸島の姫島」に訂正されています。

しかし、後年、糸島の姫島を訪れてみて、標柱などは本居宣長説に基づく明治時代の復元であり、北九州市の響灘の白島の女島が該当するのではないか、という説に転じられています。白島の女島が対馬海流の分岐点に位置しているその重要性からそこをイザナギ軍団が押さえたのだ、とされます。

女島に関しては、他のクニグニに比べて非常に小さいということと、また、比定されたのが「姫島」の場合、原文には「女島」とあるのに比定地は「姫島」です。

姫島を比定地とした場合、「女」が「ヒメ」と読まれていた、という論証が必要ではないかな、とも思われます。

古田武彦氏は、【本居宣長が、「女島は日女島〈ヒメジマ〉なるを、日ノ字の脱〈オ〉ちたるなり。」(『古事記伝』)と勝手に読み変えたのが原因。日女なる言葉は、九州の神社にもなく、すべて「比賣」とかかれている。】と。また、【しかも、古田武彦氏は、【天比登都(ひとつ)柱と天一〈イチ〉根とは違う、「一」と書かれていたら「ひとつ」とは読めない】、ともいわれます。(古田史学会論集第十六集「最近の話題から」)

 女島に関しては、他のクニグニに比べて非常に小さいということと、また、比定されたのが「姫島」の場合、原文には「女島」とあるのに比定地は「姫島」です。

 姫島を比定地とした場合、「女」が「ヒメ」と読まれていた、という論証が必要ではないかな、とも思われます。

 以上のことから、私論としては、女島の比定地についてはもう少し勉強しなければと思っているところです。読者諸兄姉のご意見をお聞かせ頂ければ幸いです。        (以上)

                               

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

以上

 

古田先生より電話9・21

ノ国の件

前提① 倭人伝という限られた情報源なので書かれていることは判るが、それ以上は判らないこと。

②しかし、狗奴国のように『後漢書』に違った情報が書かれていると、倭人伝だけでは判らなかったことも判ることがある。

投馬(ツマ)国のように、方角と水行の日程が分かり、サツマという類似地名があると比定はしやすい。

ところがノ国の場合、戸数と方角だけである。邪馬台国や投馬国と違って分かり難いケースだ。

③段階として、

天孫降臨・ニニギの侵略という日本の伝承を合わせて考える立場に立つと、吉武高木の室見川中流域についてもう一歩進めることが出来る。

「野」は何処にでもある地名であること。室見川流域の地名に「野」があっても、それは決めてにはならない。

この問題について、「学問論」に書くか、八王子セミナーの話題にするか、など考えているところ。

隋書の阿蘇の形容についての問題、古代の阿蘇について、どこの研究機関にj峰方があるのか判ったことを知らせて欲しい。

                   

 

定説では、知訶島は長崎県の値賀島に当てられています。単なる音当て以外には理由は無いようです。

 

ところで、太宰府は何と呼ばれていたか、「遠(とお)の」朝廷(みかど)、でした。そこで、はっとひらめきました。チカノシマは、近い島(近い国)ではないでしょうか。本国にもっとも近い島(クニ)、という意味で糸島半島部が「知訶島(チカノクニ)」となったのではないでしょうか。

 

「遠い」が「遠の」という形容詞として使われていたのであれば、「近い」も「近つ」という形容詞以外に「近の」という形容詞が存在した、という可能性は充分ありましょう。

そうすれば、イザナギが淡路洲・伊予二名洲・吉備児洲のあと筑紫に帰り、国生みを終了させた島々(クニグニ)は、ヒメシマも、フタゴのシマ(志賀島と西戸崎の大岳小岳島)も博多湾近傍の島(クニ)となります。

 

古田先生のコレクション版17の『失われた日本』「日本の生きた歴史17」に、「近つ飛鳥」と「遠つ飛鳥」についての考察が述べられています。ただ、この読みは本居宣長の読みによるもので、原文は「近飛鳥」・「遠飛鳥」であり、「近の飛鳥・遠の飛鳥」と読むのを排除は出来ないのではないか、など考えています。


糸島半島チカノシマ説を唱えた先人がいらっしゃると思いますが、ネットで検索し手見ましたが、今のところ見当たりません。