句読点一つで倭人伝の謎が解けた     福岡市 中村通敏

 

コロナ禍で蟄居を余儀なくされ「倭人伝」を読み返していました。読書百遍意自ずから通ず、ということで百一遍目だったのか、あっと気付かされたことがありました。

随分昔、浮世の生業で中華圏に五年ほど過ごしました。同じ漢字圏なので、中国の現代漢字にもそれほど困難もなく、昔習った漢文よりも理解しやすいところがありました。漢文の「白文」には手古摺ったものでした。句読点が無いことがその原因でした。しかし、「倭人伝」を読むにも現代では、ちゃんと立派な和訳が付いています。中世からわが国でも「倭人伝」の和訳が、多くの才人によってなされていて、現代人にとって何の苦労もなく、二千年前の中国の史書を読めることはありがたいことです。

 

ところが、この「倭人伝」には“読めても理解できない”箇所が小生にとっては、少なくとも三か所ありました。

一つは「奴国」という国がどうやら二つあること。二つ目は、二つ目の「奴国」の南に「狗奴国」があって、卑弥呼の国と戦争しているのにその在所が不明なことです。三つ目は、魏朝に朝貢する倭人国は三十か国とあるのに、日本列島からアメリカ大陸に出かける出発点の国「侏儒国」を入れると三十一国になることです。

その三つの謎が、倭人伝の記事に一か所句読点を入れることによってすべて謎が解消できたのです。まさか!と諸兄姉は思われると思いますが、眉に唾をつけてお読みください。

 

「倭人伝」の記事のその部分は次です。【女王国以北其戸数道里可得略載其余旁国遠絶不可得詳次有斯馬国次有巳百支国次有伊邪国・・・・(と列挙し)次有烏奴国次有奴国此女王境界所尽其南有狗奴国・・・・】とあるのです。

従来は、例えば岩波文庫では【女王国以北、その戸数・道里は得て略載すべきも、その余の旁国は遠絶にして得て詳かにすべからず。次に斯馬国あり、次に巳百支国あり、次に伊邪国あり・・・次に烏奴国あり、次に奴国あり。これ女王の境界の尽くる所なり。その南に狗奴国あり、・・・】とあります。

 

このように和訳してしまうと先ほど言った謎が生じるのです。小生が気付いたのは、すでに「倭人伝」で紹介済みの「奴国」の前で旁国の紹介は終わっているのではないか、ということです。現在の中国文ならそこに句読点が入る所なのです。そうすると次のような訳文となるのです。

【(烏奴国の)次が(行路記事で紹介した)奴国です。ここが女王国の(南の)境界が尽きる所です。この(奴国の)南に狗奴国があるのです。】という文章になります。

 

このことから判断できることは、魏使たちの行路記事は現在の福岡市のあたりまでの行路を記していると判断して間違いないことでしょう。この北部九州には、福岡平野以外にも多くの弥生遺跡があります。それぞれに「旁国」が存在していたことでしょう。

宗像大社のある宗像地方・『記・紀』にもよく出てくる遠賀地方・飯塚立岩遺跡・嘉麻の彩色壁画が残る王塚古墳や大分廃寺跡・環濠集落朝倉川添遺跡 などなどが当てはまるのではないか、と思われるのです。

古田師は想像の翼を広げられて「旁国」を列島全体に展開されます。しかし小生には福岡市から九州島の北部方面を、西から東に一巡りした国々であろうと思われるのです。

 

旁国の最初に出てくる「斯馬国」は後年の「筑前国志摩郡」と思われ、それから北東にむかい、それから南下して「烏奴国」に至るのです。小生の考えは「烏奴国」は「ウノクニ」つまり「鵜の国」の可能性もあろうかと思います。土井が浜の弥生遺跡から鵜を抱いた女性の人骨が出土しています。古代には「鵜」を特殊な鳥であった可能性が高いと思われます。ともかく、ここで「倭人伝」の「旁国名の紹介」の文章は終わるのです。現代文なら句読点が入るのです。

 

残念ながらこのような目で「倭人伝」を読むことができなかったので、我が国の碩学の誰一人「狗奴国」の位置を正しく比定できていないのです。

それは、江戸時代の学者も明治~昭和の学者も、奴国を「ナコク」と読み「儺縣」の那珂川流域に充てていることに原因があり、「邪馬台国は大和」とすることで、論理的に狗奴国の比定までできないのです。熊襲とあればまだしも、尾張地方に「狗奴国」を比定する大先生もいらっしゃいます。

 

小生は「奴国」についても三年前の古田武彦記念八王子セミナーで「奴」の読みについて、【「奴」の「ナ」読みはあり得ない。プリミティブな考えだが、“「奴」を倭人の「ナ」の表現”とすると、倭語の「ヌ」に宛てる漢字がなくなる】という主張をしました。世の中は、古田史学関係者も含め、全く反応してくれていないのは残念です。

 

ところで、古田師は「邪馬台国」は存在しない、邪馬壹国が博多湾に面する平野部に存在した、とし、奴国は糸島平野に存在したとしました。

小生は、魏使の行路を厳密に検討したら、奴国は室見川流域に存在したと『奴国がわかれば「邪馬台国」が見える』を二〇一四年に海鳥社から出版しました。

つまり、奴国は福岡平野(従来説)、・室見平野説(中村)・糸島平野説(古田説)の三説があることになります。

 

その南に狗奴国があるということになります。従来説では漠然と九州中南部方面となります。

では、寅七説及び古田説ですとどこになるのでしょうか? 古田師の『吉野ケ里の秘密』59ページの地図に見える福岡―佐賀両県国境の背振山脈上にある背振山を記入して紹介します。

この略図に見える福岡と佐賀の県境には天然の要害、背振山脈が存在しているのです。グーグルマップで確認してみてください。福岡市早良区の室見川流域に存在していた「奴国」の真南に背振山脈を挟んで吉野ケ里遺跡が存在しているのです。奴国の南に接している国は吉野ケ里に存在した国だったのです。古田説でもすこしずれますが、同じく狗奴国=吉野ケ里説を満足できることでしょう。

 

「狗奴国」は邪馬壹国と戦ったのですから、従来説では大和とどこかの南国とが戦った、ということになります。古田・中村説では、奴国に接した地域にあった吉野ケ里を狗奴国に比定しても「位置」という点では問題ないと思われます。

前述のように、「倭人伝」には“奴国が女王国の南限”と書いてあります。「親魏倭国」でないのが「狗奴国」なのです。“卑弥呼と狗奴国王卑弥弓呼とは素より和せず”と倭人伝にあり、魏朝は卑弥呼を応援します。狗奴国は親呉国であった可能性が高いのです。第一親魏倭王が戦っている相手の国の所在を陳寿が書き洩らしているはずはないのです。

 

古田師の「狗奴国」について著書で意見を述べている生前の最終意見と思えるのが、『古田武彦古代史コレクション 失われた九州王朝』にみえる「日本の生きた歴史(二)」の「第六 拘奴国 論」と思われます。そこには次のように述べられています。

【『三国志』の魏志倭人伝では「狗奴国」の位置は明確ではありません。(中略)次に奴国あり。これ女王の境界の尽くるところなり。その南に狗奴国あり、男子を王となす。という、女王国に対する敵対国ですが、「女王の境界の尽くる所」の「南」というのですから、その位置がはっきりしないのです】と。

それに続いて『後漢書』が「女王国より東、海を渡ること千余里、拘奴国に到。皆倭種なりといえども、女王に属せず」とあることを述べられ、東なら遺跡の銅鐸文化中心地であり、北部九州の「三種の神器」の文明圏の敵対国ではなかったか、というように論を進めています。どうやら「陳寿を信じ通す」ということで始められていた当初の方針に自信が持てなく師はなられたようです。小生は陳寿を信じます。

 

ではなぜ親魏倭王卑弥呼と狗奴国の卑弥弓呼とは「素不和」(素より和せず)だったのか、は、その名「狗奴国」から知ることができます。

陳寿は「狗」の字を、倭語の「コ」に宛てています。対海国や一大国の長官は「卑狗」と書いています。倭語の「彦〈ヒコ〉」の音訳でしょう。「素より和せず」という親魏倭王の仇敵は当然「親呉倭国王」ともいうべき人物でしょう。

卑弥弓呼の国は「親呉国」であった、とすれば「狗奴国」のネーミングの謎は解けます。「われわれは呉の配下の国」つまり「呉の国」と称したのでしょう。

呉は「ゴ」(漢音)、「ク」(呉音)ですが親魏倭国に対抗し魏音で「ゴノクニ」と倭人が魏使に説明し、その倭人の発音をきいて「コノクニ」と聞き取り「狗奴国」という表記になったものでしょう。

尚、「奴」を「ナ」と読み狗奴国を「クナ国=クマ国=熊襲」とする従来説の方々には思いもよらぬ発想と批判すると思いますが、「奴=ド/ヌ/ノ」読みとする古田師は支持してくれるものと確信します。

 

ところで、古田師は、吉野ケ里遺跡の環濠が埋められていたことについて、「呉軍に対しての防御が不要になったから」と解釈されていました。(古田武彦古代史コレクション17『失われた日本』ミネルヴァ書房 p89~94)

小生の意見では、親呉国の狗奴国に戦勝した邪馬壹国が環濠を埋めた、ということになります。古田武彦を師と仰ぐ小生の立場からは残念な結果ですが、師の説に、な、なずみそ という師の教えには沿っての結果ですから師の了承はいただけるのではないか、と思います。

 

この小生説に対して、奴国が二回出ているので女王国を構成する国は三十国となり、倭人伝の冒頭にある「今、使訳通ずる所三十国」と数が合うのだが、という反論もあろうかと思います。しかし、倭人の国としてもう一つ述べられている国があります。本論の冒頭で述べました侏儒国です。

 世の中には邪馬台国吉野ケ里説の方も多いと思いますが、その方々にとっては、それこそ天地がひっくり返る本論です。反論を期待しています。(以上)