道草その20 崇神以前は母系社会だったのか?  棟上寅七 2010.7.15

はじめに

安本美典氏『大和朝廷の起源』(勉誠出版)という本を読んでいて、古代天皇の在位年数のことを調べていて、崇神天皇以前は母系社会ではなかったのか、という仮説を得ました。

読んでいて不思議に思ったのは、安本氏の説“卑弥呼=天照大神”の基本をなす、「古代天皇平均在位年数」というところの説明が、『大和朝廷の起源』にはほとんどないことです。

“第一章 2 邪馬台国の問題“という項で(p82~83)次のように、おおまか論じています。

【31代用明天皇以後の、天皇の平均在位年数は11~15年程度である。この平均在位年数を使って、『古事記』・『日本書紀』の天皇の代数をもとに、推定の誤差計算を行いながら、邪馬台国の卑弥呼の活躍していた3世紀初頭は、わが国の史料に記されている誰の時代か推定してみた。結果、卑弥呼が比定されることの多い、神功皇后、倭姫、モモソ姫などは年代が重ならず、年代的に近いのは神武天皇から5代前の天照大御神だけ、ということが明らかになった。卑弥呼=天照大御神という仮説を立ててみる。天照大御神は九州で活躍している。従って卑弥呼が活躍する邪馬台国は九州である、ということが導き出される。これは仮説である。】と。(『大和朝廷の起源』p8283

ところが本を読み進めますと、この平均在位年数が、11~15年が、いつの間にか10年になって論を進められます。それで、安本氏の過去の著書を調べてみましたら、1972年に講談社現代新書として出された『卑弥呼の謎』が、「古代天皇平均在位年数」についての説明の基になっている、ということがわかりました。

又、神武~崇神間の10代について、安本氏は単に、【古代諸天皇の代の数は信じられるが、父子継承は信じられない、とする。】(p173)といいます。その理由とは、古代の天皇の父子継承率が、後世に比べ高すぎるから(p94)、ということを上げられます。

記・紀でも記すように、いわゆる古墳時代、大王期から、勢力争いなどで、継承の順位が乱れ、兄弟間継承、夫婦間継承などが現れます。この変化が多い時期の在位年数を、結束が必要な族長期にも同様に、兄弟間・夫婦間の権力継承があった、とする根拠は薄いのではないでしょうか。地域のいわば族長クラスの場合は、結束を固めるために、むしろ何らかのルールに副って後継者が決められていた、と考えるのが合理的推量ではないでしょうか。権力争いをする余裕はなく、記・紀が記すように、父子継承が行われた、という伝承を否定する積極的理由は、見当たらないのではないでしょうか。

安本美典氏の平均在位年数

天皇の父子継承の場合、安本氏は、平均在位年数は18.6年と計算しています。(卑弥呼の謎p104)それなのに、安本氏は、崇神以前の継承についての記紀の記録は、作為や創作でなく「訛伝」による(卑弥呼の謎p102)とされ、平均在位年数は約10年とされます。“「訛伝」による”という一言で、文献数理学的理由も示さずに、兄弟間や夫婦間の継承も行われたとされます。

古事記の伝承と、日本書紀(参考にされた一書群)の父子継承伝承が合っているのに、それを覆すだけの、安本氏が良く使う「有意性」のある、論証ができているとはとても思われません。いずれにしても、文献数理統計学を押し立てて論ずる安本氏にしては、あまりにもお粗末な論旨の展開なのです。

尚、それに加えて、古代にさかのぼるほど在位年数が短くなる傾向がある、という一般論を持ってきて、綏靖~崇神間の9代は、1代9年(『卑弥呼の謎』p134~135)とします。つまり、ここで、父子継承の場合の、自分で計算した「18.6年」を約半分に減らすことに成功しています。なぜ、父子継承の場合の1代18.6年ではダメなのか、それは、そうすると、「卑弥呼=天照大神が成り立たなくなるから」、としか思われません。この「古代天皇平均在位約10年説」については、「槍玉その41」で詳しく論じるつもりですので、ここではこれに止めておきます。

安本美典氏は、なぜか、仮説系IIとして、父子継承の場合として、データから得られた、18.6年でなく、父子継承の場合の平均在位を14年とするのが妥当ではないかと提案されます。(卑弥呼の謎p169)まあ、これでいくと「卑弥呼=天照大神説」が成り立つギリギリの値なのでしょうか?

しかし、平均在位14年での父子継承は、生物学的に続くわけはありません。仮に初代が20歳で嗣子を得て、在位14年経て34歳で死ぬという仮定でスタートします。そのとき2代目は14歳で即位することになります。その子が在位14年を経て28歳で死ぬと、その2代目が17歳で嗣子を得たとしても、その子、つまり3代目は11才です。11才での幼年君主となります。その3代目が在位14年を経て死ぬ。同様に17才で嗣子を得ていたとして、その4代目はそのとき8才である。このように、4~5代で生物学的に連鎖は止まってしまう。やはり父子継承の平均在位年数は、20歳近くに設定し20歳近くで嗣子を得る、ということでないと続かない。その意味での「父子継承の場合の平均在位年数18.6年」は下限に近い値と思われます。

伝承にしたがって父子継承とし、神武~崇神間を検討してみます

在位年代という一見、数理統計的に取り扱えるかのようなに見えますが、歴史上の人物と、その年代とを照合するのなら、在位年数でなく、記・紀の伝承記録から、まともに「世代」を検討してみたら、その方がより科学的は結果が得られるのではないだろうか、と思われます。そこで、記紀の神武~崇神間9代の継承を、伝承のように父子継承とした場合、どのような結果が得られるだろうか、と検討してみました。

条件として、

①各天皇の生存年齢は、古田武彦氏が「失われた九州王朝」で、二倍年暦はいつ終わる、の表によりました。

②生物としての人間は、ミニマムとして、13歳以降で生殖能力を発揮し、14歳以降で子を得る事は可能だろうが、常識的に、成人するのが15才、嗣子を得るのは17才位とした。

③天皇が歿し嗣子が継ぐが、在位は2~3年は最低あったとする。(1年程度であれば、伝承ではオミットされたと思われる)

④幼年での継承も可能とした。(妻や、その他の後見人がいたとする)

⑤古事記と日本書紀、それぞれの検討をしてみた。

条件が沢山あるので、棒グラフを作って、いろいろトライアルに動かしてみて、上記条件に合う図を作りました。

記・紀の神武~崇神間9代の継承を図にしてみたのが次の図-1です。

図―1 神武~崇神 継承年代図

神武~崇神 継承年代図

 

また、綏靖~安寧~懿徳~孝昭~考安は古事記によると、若年で没していて、純然たる父子継承が連続した、というには無理があるようですので、詳細に検討しました。それが図-2及び-3です。

 古事記による継承年代表

日本書紀による継承年代表

以上の結果から言えることは、

 ①神武歿年~崇神即位まで、古事記の数字からは、140年(平均在位17.5年/代)

②日本書紀からは160年(平均在位20年/代)という値がえられた 

③古事記によると、安寧・孝昭の両天皇は幼年即位(10才未満)となる 

④古事記によると孝霊天皇は極めて短期間在位(5年位)になる 

⑤日本書紀の記述に従えば、幼年即位、短期間在位もない(平均在位が古事記に比べ長いから当然であろうが)

ということでした。

  崇神以前は母系社会だったのか?

古事記の伝承による検討結果の継承図によりますと、安寧、懿徳、考昭は、幼年継承とならざるを得ないようです。そのことは、閨閥によるバックアップがあったのではないか、母系社会であったのではないか、という可能性がでてきます。

ところで、日本書紀によりますと、綏靖天皇の寿命が古事記に比べ非常に長くなっています。(古事記は44年、日本書紀は84年、いずれも2倍年歴)このせいで父子継承としても無理なくつながります。

 これから引き出される仮説として、日本書紀の編集者は、古事記の伝承をそのまま用いると、母系社会的な相続であったことが明らかになることを嫌って、綏靖の年齢を引き伸ばしたのではないか、という疑いが出てきます。

これは、日本書紀の編集者は、太陰暦の2倍暦という古代の日本の暦の存在を知っていた、という仮説にたっての話となりますが。(注)

 以上の、神武~崇神の継承図による検討結果は、“神武~崇神の継承の系譜は信じられるが、父子継承は信じられない”、という安本美典氏の説を支持するものではなく、父子継承を強調したい日本書紀編集者の意向があったのではないだろうか、ということになります。

(注)      この古代の暦については、日本書紀の記述に、月の後半の日付が殆んどない事に着目して、1月=15日暦説を唱えている、アマチュア古代史家、貝田禎造氏の「古代天皇長寿の謎」の“日本の古代に太陰暦渡来以前に独特の暦”説は説得力があります。

                    (以上)