道草その22 『偽書「東日流外三郡誌」事件』の批評断片集その2  

 棟上寅七の古代史本批評 ブログの記事 2010.12.22~2011.1.30
 

斎藤光政著『偽書「東日流外三郡誌」事件』(人物往来社 新人物文庫)を槍玉に挙げるべく準備をしています。対象が手に余るほど大きく、参考図書も増え、それらの読み込みにも時間がかかっています。着手して4カ月になりますが、まだ全体の60%程度の進捗です。取り上げる項目が増えていくのでまだしばらくかかるようです。

棟上寅七の思考経路というか、アルコールが入った時のいい加減な思い込みなどをご覧いたくと、これでまともな批評などできるのか、というご心配をおかけするかもしれません。

折角取り掛かったものなので、自分の能力範囲でできるだけのことはやろうと思っています。読者の方より色々と、ご助言などもコメントその他で頂きありがたく思っています。ネット誌上を借りて御礼申し上げます。



                     2011年1月31日         棟上寅七

12.22 クジラの化石

『偽書「東日流外三郡誌」事件』で、「クジラの化石」ということを斎藤光政さんが書いています。 和田喜八郎さんが所蔵している、前九年の役で戦死した安倍頼時の遺骨というものが、鑑定の結果クジラの骨だ、と分かったと書きます。その化石の写真が『東日流日下王国』にある、と書いてありました。

Amazonde検索してみましたら、古本で安い値段でありましたので、注文しました。しかし、その本は増補版ということで、既にその写真は削除されていました。しかし、和田喜八郎氏が、結構文才があることが(寅七よりも)は分かる本ではありました。


12.24筆跡

古田先生からも電話がありました。今日は、学研都市での維新の志士たちの筆跡を見て来た、最近も沢山の発見があって、それらを整理するのが大変、と言うような話が済んだら、寅七の斎藤光政さんの『偽書「東日流外三郡誌」事件』批判が出来上がるのを楽しみにしている、とおだてられました。先生が期待される物に仕上がるかどうか、ちょっと自信はありませんが。

ところで、『偽書「東日流外三郡誌」事件』の筆跡についての原稿を読み直していて、斎藤光政さんは、自分ではどう思ったのかなあ、と思いました。著作権侵害裁判が始まり、和田さん側の弁護士事務所で和田家文書を見せてもらったときの感想が、他社の若い新聞記者の感想で代弁させられているのです。

『東日流外三郡誌』というタイトルの文書が見当たらなかったことについて、【隣に座る中央紙の二十代の記者が口をとがらせ、ぼやいた。「こんな関係ないもの見せられても、しょうがないよな」】(p43)しかし、和田家文書は全て和田喜八郎氏の創作、という本書全体の筆跡問題の主題からすれば、そこで見せられた10種類の和田家文書の筆跡についての、斎藤さん自身の感想があって然るべきではないのかなあ、と思いました。


12.25学問のすすめ

今日は、ホームページの原稿書きにほぼ費やしました。『東日流外三郡誌』の著者、秋田孝季について、古田武彦さんがその人物像を描き出している、『なかった 真実之歴史学 第3号』2007年5月 の「秋田孝季論」を改めて読み直してみました。

また、同号に、西村俊一さんが寄せている論文中に、「福沢諭吉の学問のすすめ」についての、丸山真男の解釈に問題がある、という安川寿之輔の論文を紹介していたことに気付きました。このあたりももう少し調べてみたいと思っています。安川寿之輔氏は「福沢諭吉 アジア蔑視広めた思想家」という論文を2001年に朝日新聞に寄稿して、慶応義塾側と論争を巻き起こした方だそうです。

12.26 学問のすすめ

『なかった 真実の歴史学 第3号』の西村俊一教授の「福沢諭吉の学問のすすめ」についての論文をホームページ原稿に移す作業などをしました。その文章は次のようなものです。【(前略)ついでながら、筆者は、公共哲学京都フォーラムにおける議論の中で、福沢諭吉の『学問のすすめ』の冒頭の一文「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと云えり」は、米国の独立宣言」からではなく、『東日流外三郡誌』を含む一群の『和田家文書』からの借用であるとの説もあることに言及した。ところが、即座に丸山真男門下の平石直昭が侮蔑的な言葉でそれを遮ったのであった。それは平石直昭・金泰昌編『知識人から考える公共性』(東京大学出版会、2006年)にも記録されている。

しかしながら、筆者は平石直昭が前期文書を実地に考証したことを寡聞にして知らないし、何よりもこのような応接は極めて無礼であった。最近、安川寿之輔は、その著『福沢諭吉の戦争論と天皇制論』(高文研)において、この一文を福沢諭吉の思想であると誤解させたのは丸山真男が創作した「丸山諭吉」神話であるとし、むしろそれは『和田家文書』からの借用である確度が高いと論じている。

丸山真男は、吉本隆明がまさに指摘するように、「方法の原理的な一貫性と整序性」に拘泥するあまり、福沢諭吉を新たな時代の生んだ近代的知識人の典型として過度に理想化した。そして、それを平石直昭がこの旅の「寛政原本」の発見にどのように対応するか見守りたい。(後略)】

「偽書」と決めつけて、「寛政原本」が出た、といっても知らんぷり、で済むのかなあ、と偽書説を煽った方々に聞きたいものです。


12.28 市民の古代16集

1994年の「奉納額」の発見で、秋田孝季の実在が証明された、と古田先生が発表されたことに関連して、色々と古代史関係者には議論が巻き起こったようです。古代史関係者の機関紙「市民の古代」もその煽りを受けて、その後18集を最後に休刊になったようです。

『市民の古代 16集』に、「東日流外三郡誌」を巡ってについて、という特別企画の頁があります。主な内容は、「寛政奉納額もにせものだった」、という斎藤隆一さんの発表が主なものです。この号を古田さんが読まれたら、さぞ頭に来たであろうことは間違いない事でしょう。

しかし、和田家文書というか、東日流外三郡誌というか、それの内容がいい加減ということと、それが伝承されてきたこと自体が嘘なのか、と言うことは違うと思います。古事記や日本書紀の内容にもいい加減さも沢山ありあますが、伝承されてきていたということは嘘ではない事と思います。


12.29 雑感

『偽書「東日流外三郡誌』事件』批評文のコピーを、買い物ツアーで、わが奥様が買い物をしている間に、変換ミスやテニヲハなどをチェックしました。テニヲハよりも文章の不備に気付いたところが多く、まだまだ完成までには道遠し、で年内完成は無理のようです。

古田史学の会のホームページは依然文字化けしたままです。会員の方々は、メールや、口コミその他で文字化けていても、対処法がお分かりでしょうから読めるでしょうが、一般の訪問者は、「こらなんじゃい」と思うことでしょう。一日も早い回復を願っています。


12.30 高木彬光

『偽書「東日流外三郡誌』事件』で斎藤光政さんは、高木彬光さんの『古代天皇の秘密』もこの『外三郡誌』に触発されて出た、とも取れる様な書き方をされています。この高木さんの本は「槍玉その6」にあげましたが、東北との絡みが書かれていたことは記憶にもう残っていませんでした。

読み直してみました。神武に追われたといわれる安日彦・長髄彦長髄彦兄弟は、神功皇后に討たれたと云われる、香坂王・忍熊王の兄弟であろう、と『東日流外三郡誌』を自説の、応神天皇東征説の補強に使われていました。「槍玉その6」では、高木さんの謎解きテーマとして説明だけで留まっていました。日本の古代史の中での、東日本の果たした役割を軽視していた、と反省させられています。


12.31

『偽書「東日流外三郡誌』事件』批評は、まとめきれず、年を越してしまいました。年が明けたら、もう一度関係資料を読み直して、自分の意見をまとめなければ、と思っています。今年はこのブログにお付き合いいただいた読者の皆さんに感謝しつつ、新しい年に向かいます。来年もよろしくお願い致します。


1.02 膨大な文書量

『偽書「東日流外三郡誌』事件』批評の原稿を読み直していて、「和田家文書は合計四千巻以上に達するとも言われ、そんな大量の文書を一人で書くことができるのか」という問題が、まだまとまっていない事に気付きました。

まず、偽書派の意見を纏めていますが、和田家文書の内容を知っている方には、ちょっと信じられないように、古文書の偽造が出来るように主張されているように感じています。仏教関係の文書など、もし偽造したとすれば、その種本があって然るべきでしょうが、偽書派の方々は、頬被りされているように思います。(まだ、寅七の偽書派の方々の意見渉猟不足なのかもしれません)


1.03 学文の進め

今日は、偽書偽書と責められている、和田喜八郎氏の言い分を見ていっていました。古田史学会報30号で、喜八郎氏の文章に【安本美典もまた自己讃美の他に、学文の道にそれた凡夫であり、私を裁判に提訴した野村も然りである。】と書かれていました。

論旨はともかく、「学文の道」というところで、斎藤光政さんが『偽書「東日流外三郡誌」事件』で、「福沢諭吉の学問のすすめ、のパクリ問題」と言うことを上げられています。その理由の一つに、「福沢諭吉が自分の本の書名を、学問のすすめでなく、
学文の進め、などと間違うはずがない」ということが上げられています。

この会報30号の文章の中の「学文」も、和田喜八郎氏にとって、福沢諭吉のパクリの証拠になるのかなあ、と、まず思いました。ところで、「学文」とは喜八郎氏の造語かなあ、と調べてみましたら、【中世・近世には「学文」とも書かれた】と大辞林にありました。元の諭吉の原稿は「学文のすすめ」であったものが、本が世に出る時点で「学問のすすめ」、になった可能性もあるのかなあ、と思ったりしています。

蛇足ですが、箱根駅伝で頑張った、上武大学、という大学は、株式会社「
学文館」というところが経営しているそうです。


1.04  トンデモ偽書の世界

『東日絵流外三郡誌』偽書派の論客、原田実氏の本も読んでおかなければ、とAmazonから取り寄せた本に『トンデモ偽書の世界』という本があります。まあ、古今東西の偽書についていろいろと蘊蓄を述べられています。

古田武彦さんへの、チクリチクリの批評もかなりな量入っています。それはともかく気になったのは、ネット情報をそのまま情報として取り上げていることです。「情報の質」ということをあまり気にされない人なのかなあ、などと思ってしまいました。

その個所は、古田武彦さんが、古代日本人が南米大陸に渡航したという傍証に、「南米のミイラや糞の化石から、アジアと共通の寄生虫、ズヒニコウ虫の卵が検出されている」ということへの反論のところです。

原田さんは、「コウ虫の世代交代は早いので、何年もかかる陸地での異動で運ばれることは考えにくい」、と一応古田説の根拠を認めるようなことを述べたあと、次のように続けます。「ところが、インターネットで検索すると複数のサイトが、卵の状態では、ズビニコウ虫とアメリカ産のコウ虫との鑑別は不可能だと明記しているのだ」とされます。その情報の詳細については口を閉ざしておられます。

インターネット情報で、自分の結論に合うものが、複数あれば、それを採用する、という恣意的叙述でなされる方だなあ、と思われても仕方ないのでは、と思いました。


1.06 偽書論

東日流外三郡誌偽書騒動とは何だろうか、と思う時があります。偽書派の皆さんは『東日流史と三郡誌(古代史)』北方新社刊を読んだ上で、「偽書だ!」、と主張されているのでしょうか。

この本に、秋田孝季・和田長三郎連名で次のように言っている、と編者は書いています。【「凡そ本書は史伝に年代の相違なる諸説多しとも、一編の歴史と照会して事実錯誤の発見あれども、私考して訂正するは正確とぞ認め難く、訂正の労は後世なる識者に委ねたり。」とか、「本書をうのみに史実とすべからず、外三郡誌は諸説不漏に綴りたる歴書なりせば是を究明の要あり」】などと述べているのです。

編者の小館衷三さんは、ちゃんと、うわべ丈読んで早飲みこみをする偽書派のような方々が生じることを予感したのでしょうか、その様に秋田孝季などが警告していることを知らせた上で、出版されているのです。(同書p17~18)

つまり、史実でないところもあるかもしれない、間違っているところがあれば後世の識者にその判断は委ねる、とも言っているわけです。偽書派の方々が、『外三郡誌』などの和田家文書を、「真実の史書」と著者が主張しているという取り方をされているのを見て、あの世で秋田孝季・和田長三郎両氏は苦笑しているのではないでしょうか。


1.07 膨大な文書量

『東日流外三郡誌』問題で、このような大量のものを、和田喜八郎個人で書けるものかどうか、ということが、偽書派と真書派の間で論争になっています。和田家文書の総量は、『和田家文書』の中の北斗抄二十七に「総4817冊」と出ているそうです。(新古代学第1集 和田家文書概観 古田武彦)

そしてその文書は、和田末吉が書いたもので、その息子の長作(喜八郎氏の祖父)が昭和7年に書き留めたものだそうです。ところで、和田喜八郎氏本人によると、「『東日流師と三郡誌』関係に公開したもの以外に、和田家文書は約一万三千冊ある」と書いています。(古田史学会報30号 「極北東の古代文化波及」 1999年2月2日)

そうなると、「明治写本までが4817冊なので、大正昭和期の写本や新たに加わったものが九千余冊ある」という計算にもなるのです。しかし、ここらの説明が古田史学会報などのどこかにあるのかなあ、と思って探していますがまだ見つけていません。


1.08 キリストの墓伝説

『偽書「東日流外三郡誌』事件』の原稿に目を通していて、斎藤光政さんが偽書のタネ本として書かれている、「戸来のキリストの墓」や「ムー大陸説」などについて触れていない事に気付きました。一般の読者にとりましては、特にこの辺が、「やはり偽書!」と思わせるところでしょう。古田史学会報でこの件に触れられていないようです(あるのかもしれませんが)。

蛮勇を揮って和田喜八郎氏の代弁をしてみましょう。まず、「戸来のキリストの墓」の問題です。これは、斎藤光政さんがいうように、和田家文書「奥州風土記」に、【戸来邑にてはキリストの墓など奇相な遺跡ぞ存在す。寛政六年七月二日秋田孝季】とあります。

斎藤光政さんは、【これは、元はと言えば、「竹内文書」に基づいて竹内巨麿が「この盛土がキリストの墓」と選定したのが始まりだ。それが1935年のことだ。つまり、キリストの墓伝説は、1935年以降和田家文書取りいれたということになる。和田喜八郎作成の偽書だ。】と言うような論法で書かれます。

しかし、その前提の「竹内文書」に描かれていた「東北地方のキリスト渡来伝説」はどのようなものであったのか、和田家文書の「奥州風土記」との関係はどうなのか、その辺の解明がなされないことには、「タネ本」と断定はできないでしょう。

同様に、「ムー伝説」をチャーチワード氏が1931年に発表されるのに、どのような伝説などを資料としたのか、そのあたりの解明ないままでの、齊藤光政さんの和田さんへの断罪は、ジャーナリストとして如何なものかと、断罪される和田喜八郎氏の身になって考えると、そう思えますが。


1.09 ムー大陸の謎

旧制高校の寮歌祭が去年が最終だったとか、一昨日旧制山口高校出身のAさんからその雰囲気のお話を聞きました。旧制五高出身の兼川晋さんの消息をききましたら、一時体調を崩されたようで、欠席だったけれど、もう恢復して、お酒も少しずつOKということをお聞きし、ホッとしました。


昨日ムー大陸説について書いたので、確か寅七も昔ムー大陸読んだことがことがあるなあ、と書棚を探してみました。金子史朗さんという方が現代新書で『ムー大陸の謎』(1977年)という本を出されていました。改めて30年ぶりに読んでみました。

金子さんは、なぜチャーチワードがムー大陸のなどを知ったのか、ということから入ります。そして、チャーチワードがインドに陸軍士官で駐在時に、ヒンズー教の高僧と知り合い、夥しい粘土板の古文書を見せられ共同で研究し、7年の歳月後、ムー大陸の存在を知った、という事を書いています。

ムー大陸の伝説は、マヤのトロアノ古写本、チベットのラサ文書にも残っている、などと書かれます。著者は、地質学者で、ムー大陸の水没について、太平洋の地質について調べ、そのような形跡が見えるか、ということについても言及します。太平洋に無数にある「ギョー」と呼ばれる海山の地質調査の結果から、これらのギョーが古代(白亜紀)海面上にあった、ということは間違いない、といいます。

ともかく、『偽書「東日流外三郡誌」事件』で、斎藤光政さんが、ムー大陸説自体がチャーチワードが作成の偽書、という立場から和田喜八郎氏を断罪するのは、ペンの暴力と言われても仕方がないと、寅七は思います。

1.11 著者論


『偽書「東日流外三郡誌」事件』を読んでいて、著者の斉藤光政さんは、そもそも『東日流外三郡誌』という本を読んだ上でこの本を書いたのだろうか、と疑問に思えるようになりました。

安本美典さんや、原田実さんの解説をそのまま自分の判断基準に取り入れた、というように思われます。寅七自身も、『東日流外三郡誌』自体を読むまでは、この本がどういう本なのか、分かっていなかった、というように思います。「偽書」という一言で片づけてよい問題ではない、ということだけは間違いないと思います。


1.12 雑感

『偽書「東日流外三郡誌』事件』の原稿に目を通し、全体の構成を見直すことにしました。それにしても、文章全体の構成力が落ちたものだなあ、と感じています。ところで、『和田家文書』を擁護していた方々の中に、和田喜八郎さんが発見したという石塔山の洞窟の再発見に、トライされる方はいないのでしょうか。


1.13 現況

『偽書「東日流外三郡誌』事件』の全体の構成、つまり目次をほぼ確定させ、それに添って原稿を再配列し始めました。パソコンでの原稿書きはその点便利です。しかし、細部を見ると不備があちこちみつかり、書き直しがどんどん出てきています。いつまでかかるものやら、前途遼遠の感です。


1.14 裁判

『偽書「東日流外三郡誌』事件』で、斎藤光政さんは、著作権裁判の判決について、判決に「偽書とする説にはそれなりの根拠がある・・・」と書いています。

一応、判決文を確かめてみました。斎藤さんは「・・・それなりの根拠がある・・・・」としているところは、判決文では「・・・それなりの根拠があると窺われるものの、」と続いています。「ある」とあたかも断定されたかのような書き方と、「あると窺われる」とでは随分とニュアンスが違います。斎藤さんは流石新聞記者で、うまく編集するなあ、と感心しました。などなど細部にこだわると、なかなか原稿は進みません。まあ、時間に区切られた作業ではないから、と遅筆の自分を慰めています。


1.15 レプリカ作成依頼事件

今朝、ゴルフにいく途中、大学同級のFさんの家に寄り季刊邪馬台国を数冊お借りしました。『偽書「東日流外三郡誌」事件』という本には『季刊邪馬台国』からの引用が多いので、全体を見たいと思ったからです。持つべきは友です。Fさんは『季刊邪馬台国』のバックナンバーを揃え持つ古代史愛好家なのです。

95号を見ると唖然としました。「疑惑の古田元教授」特集号でした。200万円で外三郡誌のレプリカ作成依頼事件、があたかも事実いのような書かれようです。

『季刊邪馬台国55号』で週刊アサヒ芸能で報じたものを増幅して取り上げています。

当然それに古田武彦さんは、新古代史学第一集で反論しています。桐原氏に200万円払った事情を述べた後、「古田が外三郡誌関係の作成依頼をした、というならば、依頼状もしくは依頼した音声録音テープなどの証拠を出せ。出せぬのなら、その雑誌は犯罪的雑誌だ。」と。

これが1995年のことです。それには頬被りして、2007年になって、古田武彦さんを再度同様な名誉毀損の記事を掲載するなど、『季刊邪馬台国』の編集者の品格の問題でしょう。

斎藤光政さんはこの品格のない偽書派について、新聞記者としてどう感じたのでしょうか?



1.16 筆跡


『偽書「東日流外三郡誌』事件』では、筆跡問題が大きなポイントとなっています。偽書派の方々の偽書の根拠の一つに癖字というか誤字というか、「於」という字が、『和田家文書』では特有の文字であり、全て同一人が書いた証拠、と主張されます。

それに対して、擁護派の方々は、和田家文書は書写され続けている、「長く祖先伝来の文書をみていると、同じような字になる」とか、「昔から親の字を手本にすると似てくる」とか反論されています。

も少し何かないかなあ、と思っていたところに、正月の新聞の折り込みに、日本書道協会のCMが入っていました。「なぞり書きがキレイな字への近道です」という書道講座のCM文です。

少しは擁護派への援護射撃になるかなあ、と思ったりしています。

1.17 国史画帖大和桜

『偽書「東日流外三郡誌』事件』では、挿絵が、『国史画帖大和桜』という本からの盗用ではないか、ということが偽書の証拠として挙げられています。その16枚とも言われる挿絵について、古田武彦さんが一つ一つ検証されています。結論的には、和田家文書の絵の方がどちらかと言うと古形を保っている、ということなのです。

そこまではよいのですが、三上重昭さんという方が、『季刊邪馬台国95号』で、「和田喜八郎氏が『国史画帖大和桜』という本を持っていた。彼が関係する出版物の表紙に『国史画帖大和桜』の写真が使われている」、と書いています。さて、これをどう擁護派は反論できるのか?持っていたからといって、盗用したとは必ずしも言えない、と強弁するのかなあ、古田先生に直接聞くのもどうかなあ、などと立ち止まって悩んでいます。


1.18 国史画帖大和桜

三上重昭さんが、「和田喜八郎氏が『国史画帖大和桜』という本を持っていた。彼が関係する出版物の表紙に『国史画帖大和桜』の写真が使われている」、と書いています。さて、これをどう擁護派は反論できるのか?と昨日書きました。

今日探してみましたが、古田史学の会の関係者の、この件についての発言を、見つけ出せないままです。強いて和田喜三郎氏の身になって、寅七が弁明するとすれば、次のようなことぐらいかなと思います。

「古田先生が和田家文書の挿絵は『国史画帖大和桜』の盗作でない、と証明してくれた。幸い手元に『国史画帖大和桜』がある。わが和田家の文書の挿絵よりもキレイなものだ。今度の冊子の表紙には、この絵を使おう。なにかまうものか、この『国史画帖大和桜』は、和田家文書の挿絵を取り入れた盗作みたいなものなのだから」ということでしょうか。

地下に眠る和田喜八郎さんのご意見をお聞きしたいものですが。

1.20 雑感

4年ほど前、古田先生と初めてお会いしたころ、お話していて、東日流外三郡誌のことになりました。先生に三郡誌の方に話を振りましたら、「あの人たちは、私の研究時間を取り上げるために、三郡誌にことかけて、私を引き出そうとしている。」というようなことを話されました。寅七も、昨秋から三郡誌に懸りきりです。まあ、寅七の場合は、古田先生のように他の主要な研究目的があるじゃなし、慌てずに三郡誌を整理したいと思っていますが。

1.21 ビッグバン

宇宙創成のビッグバン説が『和田家文書』にある、というところの真贋論争を見て行っています。古田先生の説明はどうか、と見てみましたら大まか次のようなことのようです。

【この和田家文書の宇宙原素大爆烈のところを読めば、まさしくビッグバンの考えを表している。1940年ビッグバンの理論が提起されて、1970(昭和45年)年になって認められた学説である。『太古代絵巻』は昭和40年~50年ごろに世に出ているから、そういう意味での判断からは「現代人の書いた偽書」となるだろう。】と古田武彦さんも言います。

ちょっと調べてみましたら、「ビッグバン」説を提唱したのはベルギーのルメートルで1927年とされます。秋田孝季がオランダ人ボナパルドから受講したのが1797年ですから、130年前です。 >この差について古田武彦さんは、理論物理学者はやしはじめさんの意見を引いて次のように説明されています。

【日本の理論物理学者が、この『ビッグ・バン』の説に関心をもち出したのは、昭和二十年以後、つまり戦後。それも、ごくわずかの人々でしょう。 昭和四十年代になると、理論物理学者なら、もう誰でも知っています。しかしその前には、「ビッグバン説」という精華を得る前の、それを生み出した背景、つまり、ヨーロッパやアメリカなどの、広い教養世界の歴史が必ずあるはずです。それを、わたしたちは知りません。『宇宙大爆発』という、ビッグ・バン的な説が(和田家文書に)書かれていたとしても、とてもわたしには、それを『にせもの』だ、と言う気にはなれません。】

この説明では、「秋田氏が宇宙創成説をボナパルドから聞いたということはありえた」、ということは言えるようです。でも、ルメートルの発表の130年も前ということを考えると、100%偽書説をやり込めるには、至っていないように思われ悩んでいるところです。


1.22 明治写本の紙

『東日流外三郡誌』が偽書とされる方々の主張の一つに、「明治の写本に大正3年の紙が使われている」という問題があります。この件を擁護派側の主張を見ますと、偽書派の勇み足というか、返り討ちにあっている事件なのです。斎藤光政さんは偽書派に不名誉なことの詳細は書かずに、題名だけを上げて、「さも偽書説が突きつけた問題点の一つ」、ということを狙っているように思われます。

『季刊邪馬台国54号』に掲載された、偽書派の主張内容は次のようなものです。「大正3年の文書が書かれている反故紙の裏を使って、明治33年の古文書を偽造した」という事件で文書の写真付きです。

【『和田家文書』の『陸奥古事抄全』のなかの『因果応報』の末文。『大正三年の鏡字がかなり読みとれる。和田喜八郎氏が、『大正三年銘』の反故紙を入手し、不注意にそれと気づかず、『明治三十三年』と書いたと見られる。粗雑な偽書作成である。本文の斉藤隆一氏『荒覇吐神の幻想』参照。『大正三年』『明治三十三年』を長円でかこんだのは編集部。】というものです。

添付写真を見ると良く分かるのですが、鏡文字の『大正三年』『明治三十三年』が薄く見えています。この『季刊邪馬台国』の指摘に古田武彦さんが、「これこそ偽書でない証拠」と以下のように反論しています。

【その証拠は、この冊子の裏にある。そこには「大正六年、和田家蔵」の年時が記載されている。その一枚前にも、やはり「大正六年」の年時署名があり、その上、本文中に「寛政二年より大正六年に至る」云々の文言さえ出現する。すなわち、当冊子は「大正六年」時点の執筆であり、『季刊邪馬台国」で指摘した部分は「明治三十三年時点の末吉の文章の再写」にすぎなかったのである。

このようなケースは、よくあることだ。わたしが親鸞の教行信証後序を分析したとき、「流罪中(三〇年代後半)の自分の文章を元仁元年(五二歳)の親鸞自身が再写している」という視点に立ったとき、従来の研究史上屈指の難問が解決したのであった。

末吉の明治写本の場合は、何回もこの類のケースに出合った。その上、偶然にも、当冊子がわたしの手元にあった(今年五月以来)から、その実物によって、右の事実が確認されたのである。】なお、古田武彦さんは、【当冊子の筆跡は(末吉晩年に多く見られるように)末吉の子、長作(喜八郎氏の祖父)の筆跡である】と拡大写真のコピーを掲載されています。

それを見ますと、偽書派が言う末の字が未になっていませんし、右肩上がりの癖字でもないようです。そして古田さんは次のように弾劾します。【このような「あやまち」がなぜおこったか。『季刊邪馬台国』は責任をもって追跡し、公表すべきである。なぜなら、当冊子の史料状況(くりかえし「大正六年」が出ている)から見て、少なくとも「原資料提供者」が「事の真相」を知悉していたこと、疑いがたいからである。 

当誌がこのような、「責任」ある者として当然なすべき「追跡」「公表」「謝罪」を行わないとすれば、すでに「事の真相」を知りつつ「偽妄の論証」を行わせたのは、当誌の責任編集者自身である。そのようにわたしたちは了解せざるをえないであろう。そのさいは、「責任編集」とは「犯罪的編集」の別名となろう。】と。

しかし、『季刊邪馬台国』編集責任者安本美典氏は、それを一顧だにせず、再び『季刊邪馬台国95号』に、「疑惑の古田武彦元教授」の特集号を組んでいます。鉄面皮とののしられても仕方ないのではないでしょうか。ただ、古田さんの反論の文章は、棟上寅七などの素人には分かり難いので、リライトしなければ、と思っています。


1.23 発掘物

『東日流外三郡誌』について調べていて分からない事の一つが、和田喜八郎氏が発掘された、という発掘物の行方です。文献関係は藤本光幸さんが引き取られた、ということですが、出土品はどうなったのだろうかなあ。古田先生も、『真実の東北王朝』の口絵の「遮光器土偶」の写真には和田喜八郎氏所有の物を出されていませんし、石塔山神社に盗賊が入った、と喜八郎さんは言っていますが、その犯人は捕まったそうですし、罰金未払いで差し押さえられた、とも聞きませんし、もう少し調べてみなければ、と思っているところです。


1.24 改元と日付

『偽書「東日流外三郡誌』事件』では、丑寅日本記に天皇記・国記の記述がある、ということについて、安本美典氏の意見を聞いています。

【「竹内宗達なる人物が記した日付に注意してください。文正丙戌年は寛正から文正に改元した年で、二月二十八日から始まります。したがって、『丑寅日本記』にある文正丙戌年の二月七日という日付は歴史上、存在しないのです。和田家文書の特徴の一つとしてこのような年号の単純ミスが多いことが挙げられます。】(同書p197) そして、この改元された年号の記述法が間違っているから「偽書」だ、となっています。

この天皇記の事を藤本光幸から聞いたのが、1994年5月と斎藤光政さんは書いています。さて、古田武彦さんは、『季刊邪馬台国52号』(1993年)に掲載された「安日彦長髄彦大釈願文の中の文明元年正月元旦問題」で、同様な偽書派の主張に対して、次の様に述べられています。

【季刊邪馬台国は文明元年は四月二八日の改元であるから、この年時は不成立とする記事を掲載している。しかし、例えば親鸞の教行信証後序には「承元丁卯歳仲春上旬之候」と明記されている。ところが、建永二年十月二十五日に承元と改元された。従って仲春(二月)は建永である。しかるに、改元後は、年頭にさかのぼって「その新年号下と見なす」このルールによって、親鸞は書いている。著名の例だ。その著名のルールを知らないのであろう。】というように述べています。

それなのに、その後も古田さんの意見も馬耳東風で、同じ理由で偽書とされています。斎藤光政さんも、古田武彦さんのこの問題に対する反論を知っていて知らぬ顔の半兵衛をきめこんだのでしょうか、それとも不勉強だったのでしょうか?。


1.25 発掘物

一昨日和田喜八郎氏の発掘品の行方について書きました。古田史学会報をチェックしていきました。100号分をチェックするだけでも結構時間がかかりましたが、あまり成果はありませんでした。それでもいくつかの関係すると思われる記事を見つけました。

一つは尾張旭市の斎田幸さんが、平成七年七月に「多元的古代研究会・関東」主催の古田武彦先生と行く「青森遺跡めぐりの旅」に同行した際の見聞です。石塔山荒覇吐神社と、隣接する収蔵庫を拝観し、遮光器土偶、仏像、少女立像などが雑然と保管されていた、と書かれていること。また、その年エバンズ夫人来日の折の記念講演会で、秋田孝季蒐集のギリシャの壷、エジプトのスフィンクス像等が会場正面に展示されていた、と書かれていること。(会報64号)

もう一つは会報17号に、裁判の行方についての記事の後に付けられた編集部の「注」です。【<編集部>和田家収蔵物や和田末吉に関する貴重な発見と調査が現在進められているが、いずれ、詳細な報告がなされるであろう。】その他にも古田先生や古賀達也さんが発掘物について言及されていますが具体的な内容はありません。この発掘物についての性急な結論づけは慎まなければならないかな、と思ったりしています。


1.26 新・古代学

斎藤光政さんの『偽書「東日流外三郡誌」事件』の書評を思い立って、結局、斉藤さんが主張する「偽書である」というのが正しいのか、ということを検証する、という大仕事になってしまいました。擁護される側の意見は、いろいろと古田史学の会の「会報」に出ていますが、論拠の根拠に「会報」ではちょっと弱いな、と思っていました。会報の主な記事は、『新・古代学』にまとめて新泉社から公刊されていますので、そちらに準拠することにしようと思いました。

古田史学の会でネットで記事は検索できますが、公刊された実物も見なければ、と幸いAmazon書店に安く中古本が出ていましたので取り寄せました。ネットで横書きの文章を読むより、縦書きの本で読む方が頭に入りやすいようで、やはりこれも年齢のせいなのでしょう。


1.27 ビッグバン

先週金曜日にも書きましたが、和田家文書に近代の知識が書かれていることが偽書の理由の一つとして挙げられているのです。その内の一つに宇宙創成時の描写で、ビッグバンを思わせるような描写があるということです。ビッグバン説がベルギーのルメールトルにより1927年に提唱される、その130年前に秋田孝季と和田末吉が長崎出島で記録したなどおかしいと偽書派は言い立てます。

擁護派の古田武彦さんは、物理学者兼翻訳家の林一(はやしはじめ)さんの意見「学説が出来上がるまでにはそれ以前に長い揺籃期みたいなものがあるのは当然」という意見を紹介されています。この宇宙創成仮説の生みだされた過程には、長い年月のヨーロッパでの学者の間での抱卵期というか揺籃期があったと、古田史学の会の上条誠氏が『新・古代学 第1集』(1995年7月創元社)で「西欧科学史と和田家文書」というサブタイトルの「進化論」をめぐってという報告がなされています。

秋田孝季と和田末吉が長崎出島で、紅毛人やら中国人からいろいろな新知識を聞き取って記録していて、その中に、宇宙創成説やら進化論などの新知識を書き取っているわけです。秋田孝季はフランスの博物学者ビュフォン(1707~1788年)の説を聞いた、とされます。

ビュフォンは生命の発生進化についても述べているし、また、ビュッフェの影響を受けたエラズマス・ダーウイン(1731~1802年)が、『ゾーノミア』を1789年に、『自然の殿堂』を1803年に出版し、生物の進化について説いている。時間的に秋田孝季が、その様な新知識を聞き取ることがおかしいことはないというわけで、この面からの偽書説は成り立たない、ということになります。


1.28 著者論

ぼつぼつと『偽書「東日流外三郡誌」事件』の原稿書きを再開しています。結局、新聞記者斎藤光政氏がこの問題に、社命で担当させられた時に、「安全保障」問題が専門だったのに、とぼやいて、古代史にも筆跡鑑定にも詳しい、という安本美典氏の意見を聞き、それに全面的に依拠した新聞記事作成になっていったところに、この本の問題点の原点があるようです。 ご本人は「偽書派」と名付けられてご不満のようですが。


1.29 論戦

『偽書「東日流外三郡誌」事件』の批評をしようとして、資料を読みこんでいきますと、「偽書派」と「擁護派」の論戦というか争闘の激しさに驚かされます。

「擁護派」は古田武彦さんを中心とする方々で、1977年に発足した「古田武彦を囲む会」が母体の、「市民の古代」という機関紙を中心とするグループです。「偽書派」は古田武彦さんの業績には何から何まで何でも反対の、安本美典氏が編集責任者の「季刊邪馬台国」グループでした。

「擁護派」の拠点と思われた「市民の古代研究会」が1994年11月発行の第16号で、「東日流外三郡誌」を巡って、という研究集会の論争の記事を出します。発表者は、斎藤隆一・永瀬唯・原田実の各氏で、基本的に「偽書説」に軸足を置いていた方々でした。

斎藤隆一氏は元々、古田武彦さんの多元的古代王朝論に共鳴した「市民の古代研究会」のメンバーでした。原田実氏は、昭和薬科大学で古田武彦教授の下で助手を務め、古田氏の研究の(東日流外三郡誌も含め)手伝いをしていた方です。それが古田教授と何かのきっかけで袂を分かち(原田氏の身分に関することで古田教授が冷淡であったという説もあるようですが)、古田説に反対する立場に回った方です。永瀬唯氏はSF作家で「と学会」(トンデモ本学会)の幹事をされている方です。

この16号の記事をきっかけで古田武彦さんは、「市民の古代研究会」と絶縁し、古田史学の会・多元的古代研究・東京古田会など各地に新しい研究グループを立ち上げます。古田武彦さんは『新・古代学』という不定期刊行雑誌を新泉社から1995年7月に刊行を始め、2005年の第8集まで刊行されています。

原田実・斎藤隆一の両氏は、以後「三郡誌」関係のの論文を『季刊邪馬台国』に発表を続け、安本美典氏の反古田論陣の強力なスピーカーの役を果たしています。このような背景を理解していないと、常識では考えられない、誹謗罵詈雑言が入る、論争が理解できないことでしょう。


1.30 発掘物

和田家文書や所蔵出土品の多くが洞窟から、を裏付ける話しが、『東日流六郡誌絵巻』山上笙介編に出ているそうです。ネットで調べたら中古本で一番安いので3500円でした。その部分については、古賀達也さんが古田史学会報で報告されているので、わざわざ大枚をはたくこともないかな、と思っているところです。

とりあえず、まとめてみた前半部分を読み返しているところです。説得力があるかなあ、と自問自答しながらの推敲ですので、なかなか前へ進みません。この分だと1月末目標も無理で、道草その22B『ブログ断片集その2』をを出さなければならなくなりそうです。

(この項おわり) 
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