道草その24 大津教授へのボヤキ集 2012・2・02~2013・1・16  「棟上寅七の古代史本批評」ブログより

(注:この道草24は、以前の道草24「大津教授へのボヤキ集その1(2012年9月16日アップ)」、および「道草その25ボヤキ集その2」とをまとめたものです。2015年11月10日))

大津透東大(国史学)教授『天皇の歴史 神話から歴史へ』講談社201年11月刊 という本の批評をしようとしています。

このホームページに『槍玉その45 倭人伝を読みなおす』森浩一著の批評がおわったころ、古田武彦先生に何気なく、次の対象が見つからない、とお話ししましたところ、大津さんという東大教授の『神話から歴史へ』は読みましたか?三角縁神獣鏡について小林行雄説を全面的に取り上げるなど驚きますよ。などとのことで、早速取り寄せてみたものでした。

実際読んで見て、あまりのその著述の論拠のなさに呆れて、ブログにぼやき続けているところです。

この「ボヤキ」は、ホームページ批評の前面に出すと、「新しい歴史教科書(古代史)研究会」の品位にかかわると思います。せめて読んだ時の気持ちを記録しておきたいと「道草」としてまとめてみました。

24.02.02                                          
文芸春秋社から出ている『神話から歴史へ 天皇の歴史01』大津透著を読み始めています。読むほどに古代史学会に通説が根強くはびこっていることを、改めて感じさせられています。

「倭人伝の行路記事の南は東」・「三角縁獣神鏡は魏朝からの下賜品」・「大宝以前は評が用いられていたが日本書紀には郡で統一されて記されている」・「神武およびその後は架空」、などなどです。

大津透東大教授の沢山のお弟子さん達は、このレールを大幅に踏み外すことは出来ないのだろうな、可哀想になあ、と思いました。本当に可哀想なのは国民の皆さんなのでしょうが。

24.02.03                                          
大津透さんの『神話から歴史へ』を読んでいて、東大現職教授の本を読むのは初めてだと気づきました。 大津透教授は東大文学部国史学科卒業です。

今まで取り上げた古代史本で、東大国史学科を出られた方を探してみました。佐伯有清・亀田隆之・吉田孝・大山誠一の四氏が見出されました。他にも東大出の方は、騎馬民族国家の江上波夫(東洋史学科)、岡田英弘(東洋史学科)、小島毅(中国哲学専修)がいらっしゃいました。

大津さんの本にはこれらの国史学科卒の先輩学者の説(石母田正氏も含め)が、東大出でも他の学科の卒業の方や、他の大学卒業の古代史専門家よりも、はるかに数多く引用されているように思われました。

24.02.19                                           
大津透さんの『天皇歴史 神話から歴史へ』を読んでいて、「やっぱり」と思ったのは、学閥というか学科閥のことです。本の中で肯定的に紹介されるのは、国史学科の先輩、吉田孝・大山誠一氏などで、東洋史学科の大先輩文化勲章受章者江上波夫氏は影も見せていません。

それにしても『天皇の歴史』という表題に関係ないのか、銅鐸関係は殆んど無視のようです。弥生期の重要遺跡「唐古・鍵遺跡」「東奈良遺跡」の銅鐸鋳型の出土と、その鋳型で作られた銅鐸の分布など、古代の王権と関係ある事柄と思うのですが完全に無視されています。

ネットサーフをしていて見つけたのは、「サワラ」という古語は銅器を意味する、とありました。福岡の「早良」もその意味と関係あるのだろうか、地名研究会のFさんにでも聞いてみたいと思っています。

24.02.24                                          
大津透さんの『神話から歴史へ』を読んでいます。 が、魏から貰った鏡を卑弥呼が配った、と断定的に述べられるのには驚きます。そして自分は考古学には素人だが、と言われるのにも再びビックリです。それで東大国史学科の教授なのかよ、とビックリを通り越してしまいます。

24.02.25                                          
大津透さんの『神話から歴史へ』を読んでいますと、いろいろ知らない歴史学者さんなどの名前が出てきます。

今日は、「高群逸枝」「洞富雄」「小林敏男」「和田萃」さんなどをネット検索してみました。 倭人伝と国家形成関係で、小林敏男さんの影響があるように思いましたので、その著書『日本古代国家の形成』をAmazonで調べました。

新品9975円、中古本6500円でした。 小林さんは大東文化大学の歴史学の教授だそうですが、これらの高価な著書を副読本として買わなければならない大東文化大学の学生さんも大変だろうなあ、と思いました。勿論寅七は買う気は全く起きませんでした。

24.02.27                                          
大津透東大教授の『天皇歴史 神話から歴史へ』を読んでいると気分が滅入ります。またしても邪馬台国=ヤマト国説です。

【邪馬台国はヤマタイコクと訓(よ)むが、これは便宜的にそうしているので、本来ヤマトに中国人が邪馬台の字をあてたもので、ヤマト国である。そのヤマトは、大和国の中の地名ヤマトに起源があり、おそらくは山(三輪山)のト(ふもと)の意だろう。】と大津教授は書きます。(同書p52)

このフレーズの中に沢山の意識的と思われる誤った記述があります。その前半の、【ヤマトに中国人が邪馬台の字をあてた】というのには呆れます。 

倭人伝には卑弥呼が上表した、とあります。国書を渡しているのに自分の国を書いていない筈がないでしょう。その中国人陳寿は、倭人伝の中で邪馬壹国と記していますが、卑弥呼が出した国書にはヤマイチ国に近い言葉で書いてあったことは間違いないでしょう。

もし、「ヤマト」に近い言葉で書いたとすれば、倭人伝の中の表記に従えば「邪馬都国」となった蓋然性が高いのです。倭人伝の中で「ト」に当ると思われる字は、「伊都国」、「都支国」、「好古都国」等に使われている「都」、その他地の文には、「度」、「渡」などがあります。(南宋紹熙本 二十四史百納本 による) 

このように「都」が一般的に「ト」を表す表音文字として使われています。おまけに、大津教授は、倭人伝には邪馬壹国と、「臺」でなく「壹」とあることを一言もいいません。こんな文章を読んでいますと、東大の国史学科を率いる教授が、こんな非論理的文章を公にすることに腹立たしくなります。

24.03.02

『天皇の歴史 神話から歴史へ』という本には、雄略天皇の甥及び従兄弟殺しについては書いています。が、記・紀には「天皇の歴史」に関係すると思われる、は物凄い量の皇位争奪が記せられています。

万世一系を保持するため?何のために日本書紀の編者は書き記し、それを舎人親王が何故認めて元正天皇に奏上したのでしょうか?是非【天皇の歴史 神話から歴史へ』の著者大津透東大教授にお聞きしたいものです。

皇位競争者排除の主な例は次のようなものがあります。綏靖天皇の異母兄、崇神天皇の庶兄、垂仁天皇の妻の兄、景行天皇の長男、応神天皇の異母兄弟、仁徳天皇の異母兄弟、履中・反正両天皇の弟、安康天皇の兄・叔父、天智天皇の異母兄弟などなどが目に付きますが、ほかにもあります。

大津さんは、都合の悪いから言えないのか、理解できないから言えないのかどちらなのかなあ、と素人古代史学徒は考え込まされてしまいます。

24.03.03

大津透さんの『天皇の歴史 神話から歴史へ』をホームページで槍玉に上げようか、と思っているのですが、どうもうまい切り口が見つかりません。 万世一系と連綿と続いている、と一般にはいわれますが、天智天皇の7年にも及ぶ「称制」、これは見方によっては「天皇制」の中断とも云えると思うのですが、大津教授は全く問題視していません。

太安万侶の墓碑銘が出土して、古事記の序文偽書説が消えた、とはいわれますが、古事記が何故正史とならなかったのか、14世紀に発見されなかったら闇に埋もれていたわけです。が、この問題も大津教授の興味は引かないようです。

また、日本書紀には白村江の戦いのあとに、唐軍が2000人来航、47艘の船で、それも2度も、など書いているのですが、大津教授は全く無視されています。大津教授が無視されている事柄に、大津史観が現われている、と言うことなのでしょう。そのような角度からもう一度読み直してみようか、と思っています。

24.03.05

『天皇の歴史 神話から歴史へ』という大津透さんの古代史のあらすじを書きあげてみます。

3世紀の倭人伝と三角縁神獣鏡の分有関係から、卑弥呼は纏向にいたとわかる。九州説は成り立たない。しかし、卑弥呼の前後の即位状況は世襲制ではないから、大王王権が確立されていたとは言えない。

4世紀の好太王碑文から、記紀の神功伝承は史実の反映と言える。

5世紀の宋書の倭の五王記事から、倭国がそれまでの中国世界から離れたと言える。国内の二つの「ワカタケル」の金石文から、「治天下」というように独自の天下を作ったと言える。

7世紀の隋書などから、煬帝の怒りで国内体制を改めたが、日本書紀にはこのあたりの事情(「王子と礼を争ったり」「第一次遣隋使派遣」など)を隠している。

8世紀の旧唐書と日本書紀の記事から、日本が白村江の敗戦からうまく社稷を安んじることができた事情がわかる。 ということの様です。

400頁弱の大著作を400字弱で書きあらわして申し訳ありませんが、結局古代史全般全て問題ありなので、批評するのも草臥れそうです。

24.03.06

好太王碑文について、大津透教授は、熊谷公男著『大王から天皇へ』の意見に従うというようにいわれ、古田武彦さんの努力を全く無視しています。

Amazonで調べたら¥1 送料のみ だったので注文しました。 佐伯有清『邪馬台国論争』をあらためて読んでみて、千田稔著『「邪馬台国」と日本人』を、かなり佐伯有清氏が評価していることに気付きました。 千田氏は本居宣長の卑弥呼=熊襲偽僭説を「破天荒」な言説としてしりぞけた、と佐伯さんは評価しています。間接的に古田武彦説も「破天荒」と暗に言っているようにとれました。この本も¥66と安かったのでついでにAmazonに注文しました。

24.03.10

大津透教授の『天皇の歴史 神話から歴史へ』には古田武彦は全く顔を見せません。九州王朝説も出てきません。

「邪馬台国論争」での近畿説に対する九州説という説明の中では、九州から畿内へ遷都する、という九州説とされます。東遷したのは倭国(邪馬壹国)のいわば分派であって、倭国本流は北部九州に依然として存在した、という古田説は、まるでそんなもの存在していないかのように全く説明されません。

しかし、大津教授の頭にはこびりついているのではないか、と思われます。その例が、宋書の倭王珍が「倭隋等十三人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍の号に除正せんことを求む・・・」の記事の「平西将軍」について、大津教授は次の様に書きます。

【注目すべきは、倭隋以下13人に、平西以下の将軍号の授与を求め認められたことである。(中略)なお平西将軍を求めたことについて、武田幸男氏が、この人物は倭国王より西方に置かれていたからで、北九州あたりにおかれたのだろうと指摘している。倭は北部九州にあったとする説は成り立たない。】

と、ここで初めて、「倭国=北部九州説」という大津さんが隠しておきたかったフレーズが現われます。衣の袖のほころびが見えた、ということでしょうか。大津教授は古田武彦さんがこの「武田さんの説」について『邪馬一国の道標』講談社1978年刊で詳しく述べられて論駁されていることを、ご存知ないのでしょうか、そんなことはないでしょうね。

24.03.12

大津透さんの『天皇歴史 神話から歴史へ』を読んでいて、批判するには、古代史について一からやらなければならないかな、と思いはじめています。古田武彦さんの『古代新史』を読んだら良い、の一言で済むのかもしれませんが、ここは素人論議を挑む以外はないかな、ということです。

角縁神獣鏡のところを読んで見ると、【小林行雄氏による三角縁神獣鏡の同笵鏡の分有関係の研究が重要である】などと臆面もなく仰っています。 自分の知識を整理するために古田先生やら佐原真氏・森浩一氏の本をめくって日を過ごしました。

三角縁神獣鏡が卑弥呼が魏から下賜されたものである、ということへの疑問の主なものは次の五つ位にまとめられるかな、と思います。

既に発掘された三角縁神獣鏡は550面を越えるという。発掘されていない同様の鏡はその数倍乃至十倍はありうる。魏から倭国への特注品としても無理な数ではないか。

黒塚古墳が顕著な例だが、三角神獣鏡は棺外に多数配置され、中国鏡(後漢鏡)が棺内に置かれている。このような状況は、三角神獣鏡がそれほど崇拝に値する物ではなかったのではないか。

中国にも朝鮮半島にも三角神獣鏡が出土しないこと。つまり国産である可能性が非常に高いこと。

当時の倭国の技術では鏡を鋳造出来ないというが、弥生期の代表的な青銅器の一つ銅鐸はどうなのだ。大型銅鐸を鋳造できた当時の技術レベルを軽視しているのではないか。

三角神獣鏡が出土する古墳は四世紀の物が多く、三世紀の古墳からの出土はみられない。(最近の古墳時代の繰り上げが、この「無理」を修正したいという勢力の願望による圧力でなければよいのだが。)

大津透教授が、以上の疑問に満足に答えることの出来ない「小林行雄説」にしがみついているようですと、東京大学国史学科の将来は、残念ながら暗いといえましょう。

24.03.14

大津透東大教授の『天皇歴史 神話から歴史へ』を読んでいると、いろいろと参照された本やその内容の引用が出てきます。井上光貞・直木孝次郎・土田直鎮・吉田孝・熊谷公男などの各氏などです。

それらの方々が、今回の大津教授の本と似たような本を出されています。井上・直木・土田の各氏は中央公論社の『日本の歴史』シリーズ(中公文庫)の執筆者、熊谷さんは講談社のシリーズ『日本の歴史03 大王から天皇へ』などと。

参考のために古本で200円以下でしたので、Amazonから購入して読んでみていますが、いずれも同工異曲の歴史を語られている感じです。 このようにして、わが国の歴史学者が再生産されていくのだなあ困ったものだ、と改めて感じ入りました。

24.03.15

大津透教授の『天皇歴史 神話から歴史へ』の好太王碑文の所を読んでいて、熊谷公男『大王から天皇へ』 とか、西嶋定生氏の論文「広開土王碑文辛卯の条の読み方について」やら、韓国学会のこの問題の取り上げ方とかネットで調べて、古田先生の『失われた九州王朝』を読みなおしたりしています。

倭人伝でもそうですが、句読点のない中国白文の解釈は難しい。またこの碑文の場合は欠落字がありますので、特に難しいと思いますが、文全体の本質を掴んだ理解が必要でしょう。

24.03.16

大津透教授の『天皇歴史 神話から歴史へ』の読み進めもやっと、倭の五王のところにやって来ました。 大津先生は、宋書の倭王武の上奏文を一応流麗な文章と評価されながらも、【帰化人が外交文書の作成にあたったのだろうが、その「自ら甲冑をまとい云々」の文章は『左氏伝』の文を引用しているから割引く必要がある。】と言われます。

遠い倭国の地で、中国最古の詩篇「詩経」や「左氏伝」を読み、その教養が滲み出る名文だったから、宋書にも特筆掲出された、と思うのが自然なのではないでしょうか。夷蛮の王が千年以上前の書物を読んでいる、ということだけで驚いたのではないでしょうか?

上奏文の最初の出だしに、「自ら甲冑をまとい、山川を跋渉し」という『左氏伝』のフレーズを使ったことは、先方、宋の朝廷に、「ああ、こやつナカナカの男だ」と思わせたことでしょう。出だしに続く、全体の文章を見事にまとめあげている名文、となぜ評価できないのでしょうか?

『左氏伝』とか『毛詩』とか大津教授が引用されますので、こちらは調べるのにも結構手間がかかります。結局は我々が「四字熟語」を文章に使うのと同様なことなのです。大津先生の言いたいのは【倭王武の言っていることは誇張に満ちている。なぜならば、日本書紀などにその様な大規模な半島侵略の歴史が書かれていない。】ということなのかな。

24.03.18

大津透教授の『天皇歴史 神話から歴史へ』の参考に、井上光貞『日本の歴史1 神話から歴史へ』を読んでみています。 同じようなテーマでの古代日本の歴史を叙述しているのですが、両者には大きな違いがあります。

大津さんは、津田左右吉氏の記紀についての見解を紹介され、【「神功皇后の新羅遠征」から遡り「神武東征」迄の物語について、観念的モチーフによる述作だとした。】p119とされ、自身の考えは述べられません。井上さんは、理由を上げて、「だから私はこう思う」というような叙述です。

神武天皇架空説でも、【大和朝廷の領域にはいっていなかった未開地の日向がどうして皇室の発祥の地でありえようか】、とか【東征説話は神威の話や地名説話、歌物語の寄せ集めであり、それらを取り去り人物を取り去るとこの東征物語は殆んど内容のない輪郭だけのもの】(『日本の歴史1 p254)などと理由を上げていますから、その理由に根拠がない事や認識に誤りがあるのではないか、などと反論の手掛かりがあります。

ということで、大津透教授の本を批評しようとするのは、引用されている本を調べなければならず、正直疲れます。

24.03.20

佐伯有清『邪馬台国論争』の後書で、「最近邪馬台国論争に変化が見える」として、千田稔『邪馬台国と近代日本』NHKブックス2000年12月刊を上げられていました。大津教授の『天皇の歴史 神話から歴史へ』の参考になるかと思い、Amazonから取り寄せ読んでみました。

予想してはいたのですが、ここでも古田武彦はもとより安本美典も出てきません。しかし、『季刊邪馬台国』は行基図関係で何度も出てきますが、巻末の参考図書には上げられていないのもおかしなことです。

 この本の「はじめに」に千田稔さんは、【邪馬台国についての研究者の歴史叙述に「近代の中の古代」を発見しようとするのが、本書の試みである。】と述べています。

「大和王朝と同時に多くの王朝が存在していた」などとする研究者をはじめから排除して、「近代の中の古代」は見つかる筈がありません。もし「古田武彦」を入れたら、途端に歴史学界の中の専制主義が顕わになることを恐れているのでしょう。

24.03.2
                                          

大津透教授の『天皇歴史 神話から歴史へ』は、やっと「倭の五王」まで辿りつきました。倭讃の宋への遣使の前に、倭が東晋に朝貢したことを次のように説明されます。【『晋書』に、413年に倭国と高句麗が東晋に方物を献じた記事もあるが、倭の貢物が貂皮・人参であったと記され日本産でないので、高句麗が倭国の使者を随伴した、あるいは高句麗が倭国を従属させたことを示すため倭の使者と称して戦いの捕虜を連れて来たと推測されている。】

しかし、 好太王碑文で見られるように、当時の倭は、高句麗と半島で覇権争ってきています。412年に好太王が亡くなっています。その翌年に、倭と高句麗が一緒に東晋に朝貢してきた、というのは半島で一時的にかどうか分かりませんが、平和が訪れていたことを示すことだと思います。倭が朝鮮北部の産物を貢物としたのは、半島北部にも倭の勢力範囲が存在するということを、中国皇帝に認識させたかった、ともいえるのではないでしょうか。大津教授の見方は被虐史観から来ている、といったら言い過ぎでしょうか?

24.03.22
                                          
倭王武が雄略天皇だとすると、日本書紀によると456年に即位し没年が479年です。中国史書の記事によれば、479年に南斉、502年に梁が、倭王武に征東大将軍などを授けています。雄略天皇の歿後23年経って、梁朝が授号する、古田武彦さんが『失われた九州王朝』で「武の亡霊」として指摘されている問題があります。その点を大津教授がどのように説明されるのか、と興味を持って『天皇の歴史 神話から歴史へ』の「倭の五王」のあたりを読んでみました。

大津教授の説明では、【普通は「朝貢=地位の要求=授号」という手順なのだが、今回はその朝貢記事が無い。新しい帝国の設立により、夷蛮王達に従来同様、乃至、上位号への授号となったのであろう】、と言うことのようです。 北方の蛮族それを押さえる駒としての倭国など、それらの周辺諸国の王たちの生死の情報もないまま授号したりして、それで中華帝国の運営が出来る筈がないと思います。それが、「出来た」と言えるかのような書き方がどうして出来るのか不思議です。これが東京大学歴史学の教授の判断とは恐れ入ります。

24.03.24                                          

倭王武が雄略天皇だとすると、日本書紀によると456年に即位し没年が479年です。中国史書の記事によれば、479年に南斉、502年に梁が、倭王武に征東大将軍などを授けています。雄略天皇の歿後23年経って、梁朝が授号する、古田武彦さんが『失われた九州王朝』で「武の亡霊」として指摘されている問題があります。その点を大津教授がどのように説明されるのか、と興味を持って『天皇の歴史 神話から歴史へ』の「倭の五王」のあたりを読んでみました。

大津教授の説明では、【普通は「朝貢=地位の要求=授号」という手順なのだが、今回はその朝貢記事が無い。新しい帝国の設立により、夷蛮王達に従来同様、乃至、上位号への授号となったのであろう】、と言うことのようです。 > size=3>北方の蛮族それを押さえる駒としての倭国など、それらの周辺諸国の王たちの生死の情報もないまま授号したりして、それで中華帝国の運営が出来る筈がないと思います。それが、「出来た」と言えるかのような書き方がどうして出来るのか不思議です。これが東京大学歴史学の教授の判断とは恐れ入ります。

24.03.25                                           
今までの教授の論述の中では、「倭は北部九州にあった」とする説について、「倭人伝」でも「好太王碑文」での各説の説明でも一度も出てきていないのです。古田武彦説は知っているが触れたくない、とここまで来ていて、「平西将軍」でやっと古田説を否定できる証拠が見つかった、という喜びが滲み出ている文章と思うと情けなくさえ感じます。

「倭国」=「古代より日本列島を一元的に支配していた大和政権」という思い込みが、怜悧な頭脳の持ち主である筈の、大津透教授の判断を誤らせているのでしょう。

24.03.27                                          

『天皇の歴史』と銘うっている本なのにこんないい加減なことで良いのかなあ、と思いながら大津透教授の考えを追っています。

つまり、宋書にある五人の倭王達は、応神天皇から雄略天皇までの7人の天皇の内誰かだ、雄略だけは間違いない、ということで問題解決というような書き方なのです。それに、なぜ『日本書紀』の編者が「倭の五王」の華麗なる叙爵記事を書かなかったのか、ずっと昔の倭の女王の西晋への朝貢記事は載せてているのに、なぜ?という疑問は、大津教授には起きなかったのでしょうか。

「倭の五王」の『宋書』の記事について、このように大津教授の問題意識がないことには驚きます。周りが雄略=倭武王で、倭王讃は応神天皇でも仁徳・履中でもよい、というようないい加減なことでまかり通っているのでしょうね。「倭の五王」の次は、「阿毎多利思北孤」ですが、大津教授のあまりにものガチガチの定説主義者ぶりには、きっと辟易させられることでしょう。

あまりにも取り上げる所が多く、半年も取り組めば終わるか、という目論見は崩れています。が、ボヤキ録はこれで終わりにすべく原稿書きを進めたいと思っています。

24.4.01
                                            
久し振りに大津透教授の『天皇の歴史 神話から歴史へ』を開いてみました。稲荷山古墳から出土した鉄剣銘文から、ワカタケル=雄略天皇とされます。

そして、その鉄剣に刻まれた代々の名前から上祖(かみつおや)オオヒコ=記紀の大彦命だ、とされます。 記紀の大彦命が実在として、崇神天皇は実在したのか、欠史八代の実在の説明にはならない、などと、「実」の無いところから大彦命という「花」を咲かせてはみたものの、井上大先輩の「欠史八代説」には抗しえない、という茶番ストーリーです。

このような話に読者は引きずり込まれるだろうか、と思ったら、葛城ソツヒコの話しとなり、この方は記紀にいろいろと挿話があるので、何となく大津教授の話に内容があるような錯覚を与えているようです。

24.4.02

今日の朝日新聞朝刊文化欄に「本当にいたの?聖徳太子」という記事が出ています。(宮代栄一記者) 何をいまさら大山誠一説を取り上げるのだろうか、と思いました。その詮索はさておき、今検討中の大津透透教授の『神話から歴史へ』での厩戸説を見てみました。

【『隋書』倭国伝には、「太子を名づけて、利(和)歌弥多弗利と為す」とあり、唐代の類書『翰苑』に「王の長子を和哥弥多弗利と号す。華言の太子なり」とあり、厩戸がワカミタフリと呼ばれていたことがわかり、それが太子に相当するので一定の政治的地位であったといえる。】p235

じゃあ、その父親「阿毎多利思北孤」は誰というのだろう、と思えば、欽明説・用明説など男王を上げています。阿輩鷄弥(アハキミ)=オホキミという君主号が天皇号に先だって存在していた、などと説明に苦労しているようです。厩戸皇子が推古女帝の摂政であったことは、日本書紀に書かれているのですが、その辺は全く無視されています。全くいい加減なものです。

しかし、流石に聖徳太子架空説には組みし得ないようです。学習指導要領「中学校の歴史」のそのあたりの「要領」をみてみますと、【大陸の文物や制度を積極的に取り入れながら国家の仕組みが整えられ,その後,天皇・貴族の政治が展開されたことを,聖徳太子の政治と大化の改新,律令国家の確立,摂関政治を通して理解させる。】とありますから、東大国史学教授としては、聖徳太子は実在、となるのでしょう。

24.4.04                                            

家内が入院している病院で、持参した大津透教授の『神話から歴史へ』を読んでいました。稲荷山鉄剣銘文の読みについては、単に通説通りだろう、と思っていましたが、「ウジ」の所での話で、「ヲワケの臣は中央豪族である」と説かれていました。 中央豪族が東国で亡くなって、おまけに、稲荷山古墳でも副墓的な墓域に埋葬されている不思議さ、これについて一言も述べていません。こんなんでよく大学教授が勤まるなあ、と呆れます。

24.4.05                                            

大津透教授の『天皇の歴史 神話から歴史へ』を読み進めて、7世紀初めの「タリシホコ」の『隋書』の記述の解釈について見ていっているところです。

余りにも沢山の問題があります。列挙してみます。
タイ国を説明抜きで倭国としている問題
阿毎多利思北孤・阿輩?彌問題
国書問題
天皇号成立問題
天武の真人問題
法隆寺釈迦三尊光背銘問題
王子と礼を争った問題
第一回遣隋使が隋書にない問題
旧唐書の倭国と日本国書き分け問題
元号大化開始と年号中断問題
大化の改新と公地公民問題
郡評問題
遣唐使が蝦夷人を連れて行った問題
白村江の戦いの見方
白村江後の戦後処理問題
泰山封禅儀式参加問題
天智称制についての解釈
壬申の乱の解釈
日本国号の成立問題

これらを一週間に一つずつ片付けても、半年近くかかる勘定になります。まあ、やりかけたのでボチボチでも進めて行くしかないな、と思っています。

24.4.07                                            大津透教授の『神話から歴史へ』に「利歌弥多弗利」は厩戸皇子である、と次のように書かれています。

【『書紀』は推古天皇即位元年(593年)に「厩戸豊聡皇子を立てて皇太子とす。仍(よ)りて録(つぶ)さに摂政(まつりごとと)らしむ。万機を以て悉に委ぬ。」と聖徳太子が皇太子について、摂政となったと明記する。(中略) 『隋書』倭国伝には「太子を名付けて、利(和)歌弥多弗利と為す」とあり、唐代の類書『翰苑』に「王の長子を和歌弥多弗利と号す。華言の太子なり。」とあり、厩戸がワカミタフリと呼ばれていたことがわかり、それが太子に相当するので、一定の政治的地位であったといえる。】

この論理はおかしいと思いませんか。 太子の時の「大王」が誰なのかを、検討しないまま、『日本書紀』に「厩戸を皇太子に立てた」という記事があり、『隋書』に「利歌弥多弗利という名の太子がいた」と言う記事があることで、「厩戸=利歌弥多弗利」の証明にはならないでしょう。厩戸皇太子の当時の天皇が、推古天皇であったことは著名です。その「女帝と皇太子」と、「多利思北孤(男王)とその太子利歌弥多弗利」との関係を解明しなければ、証明ならないことは中学生にも分かる論理でしょう。

24.4.13                                            

文芸春秋5月号の随筆欄の江崎玲於奈博士の「人の心」という小文が心に残りました。人間の心はハートとマインドの両面がある、というようなことを論じていらっしゃいます。 夏目漱石の「こころ」を英文に訳すと、The mind of Things である。

そして、定冠詞The と不定冠詞Aの話から、欧米人は会話の中でも「何が新しいか」を常に意識していることになる。 研究発表でも「A超格子を論ずる」というのと、「The超格子を論ずる」では大きな違いがある。つまり、リーダーは前者で後者はフォロワー(追従者)とされる。サイエンスは「A」を追及してやまないことは周知のとおりである。などと論じられています。

歴史学も社会科学の一部門と名乗っているようですが、日本古代史の分野では「サイエンス」には程遠いなあ、せめて魏の時代の「里」とか「歩」の、学際的な研究プロジェクトでも立ち上げればサイエンスに近づくのになあ、などと、東京大学大津透教授の『神話から歴史へ』を読んで感じているところです。

24.4.1                                             
大津教授の『天皇の歴史 神話から歴史へ』の批判を書き始めると、きりがないくらい問題点だらけです。今日は裴世清を出迎えた「大河内直糠手」問題に引っかかりました。

大津透教授は、かなり問題がある「定説」を無批判に取り入れて、その「定説」を基に史料を解説されます。例えば、多利思北孤の号「阿輩雞彌」の解釈では、【オホキミとよむ説と、アメキミと読む説がある。(中略)天皇ないし大王の意味を説明したものだろう。同じ『隋書』に「小徳阿輩台」に迎えさせたとあるのが、「大河内直糠手(おおしこうちのあたいぬかて)」の姓を記していることなどから、やはりオホキミで、当時の日本の君主号大王を記しているのだろう。】というように。

大津教授は、「阿輩雞彌」の解釈に、阿輩台=大河内直糠手という前提で、阿輩台は大河内直糠手の姓を記している、したがって阿輩?彌はオホキミで当時の日本の君主号を記している、とされます。大河内云々の姓がなぜ阿輩台と結びつくのか、という説明はどうなっているのでしょうか。普通に考えても、『隋書』が小徳という冠位を付けて紹介している人物を、出迎えた日本側の位からみても第三番目の人物と、字の一字が似ているから、とその人物とすること自体がまず問題でしょう。おまけに難波吉士雄成はその後、裴世清を隋まで送って行った人物です。当然隋側にも知られていた人物ですから、出迎えにその「乎那利」が居たら書かないわけがないでしょう。

岩波文庫『隋書』倭国伝石原道博訳には、注として、【『北史』には何輩台とする。『日本書紀』巻22にみえる掌客のひとり大河内直糠手(オホシカウチノアタイヌカテ)の音の一部をあらわしたものか。難波雄成か。不詳。】とあります。「不詳 分からない」というのを、 『北史』に阿輩台でなく何輩台とあることで、接待役の三番目の人物の名前のうち、読みが同じ「河」があるからといって、同一人と決め込んでしまう。その上でこれを「阿輩?彌」の意味するものの解釈に発展させる、この大津教授の論理思考回路の粗雑さに呆れます。

24.4.2                                             

大津透教授の『天皇の歴史 神話から歴史へ』で、古代の男女政権について次のように述べられます。

卑弥呼も男弟がいて「男弟ありて国を治む」と倭人伝にあることを紹介し、記紀や風土記などから、宇佐の 阿蘇の 吉備の例などから男女二重政権だっただろうとされます。そして神功皇后と仲哀天皇の夫妻が、卑弥呼と男弟と同様の二重主権だったと考えられる、とされます。その後の、推古天皇が神祗を祭った記事、皇極女帝の雨乞いの記事などを上げ、天皇には卑弥呼以来の呪術の能力を、おそらく男帝も、継承している、と話を進められます。

それでは卑弥呼が天皇系譜に位置づけられるのか、というとそこまでは言えないとされます。纏向に卑弥呼が居た、とおっしゃりながら、天皇家とは繋がらないようだ、とされます。何を大津教授は言いたいのでしょうか、ただ「わからない」と言えばいいのにと思います。それにつけても、この男女政権の話題であるにもかかわらず、隋書にある多利思北孤の兄弟政権の記事について、大津教授が何も語られないのは不思議です。

24.4.30                                            

大津透教授の『天皇の歴史 神話から歴史へ』の、史資料の見方についての検討を読みかえしています。 いまのところ、「倭人伝」「後漢書」「銅鐸」「好太王碑銘文」「江田船山鉄剣銘文」「稲荷山鉄剣銘文」「宋書」「七枝刀銘文」「百済記」くらいまで一通り書いてみました。あと「隋書」「旧唐書」です。

まあ、通説を古田説で批判するのですから、大津教授の著書からの該当箇所の抜き出し、そして古田先生の著書からの反論の抜き出し作業が9割方の作業で、無味乾燥にならないようにするにはどうしたらよいか、ということに頭を痛めています。

24.5.04                                            

襲津彦と沙至比跪は同一人物とされる大津教授への疑問をまとめようとしています。古代の百済では「跪」を「コ」と読んでいたのだろうか、ということについて調べてみました。清朝時代の三跪九叩頭の礼、明朝時代の小説、水滸伝で跪伏礼などの使用例がありましたが、いずれも「キ」という発音のものです。

もっと古い用例はないかと調べましたら、高句麗の好太王碑文「永楽六年丙申」の条にありました。 好太王が百済を討伐し、百済王を跪王とし奴客として仕えさせた、というような記事です。朝鮮半島での用例で「跪王」とあります。これも文章の意味からして読みは「キ」でしょう。岩波文庫版『日本書紀』が、跪の読みを「コ」だ、としていることを、大津教授のように無批判に引用し続けますと、新しい漢和辞典にも「跪」の読みが加わってしまうのではないでしょうか。それを疑問に思った人が、その漢和辞典の編集者に問い合わせると、「岩波書店がコとしていて、学者さん達も皆さん同意されているので」という返事、というマンガ的な状況も生じるのではと危惧します。

24.5.07                                            

大津教授のいわゆる「邪馬台国」への行路図が『天皇の歴史 神話から歴史へ』の中に出ています。

倭人伝の行路記事は、 状況が良く分からない中国の皇帝たちに上程する歴史書です。未知の女王国への行程の説明には、どれくらいの距離があるか、どれくらい日数がかかるか、この二つが絶対必要条件でしょう。帯方郡から、一万二千余里の距離で、日数にしたら水行十日陸行一月というところに女王国はある、と陳寿ははっきりと書いていのです。

大津教授は、この理屈が理解できないので「南を東に読み代える」などと邪道に走って、「卑弥呼は纏向にいた」というとんでもない方向に走ってしまう。四世紀の中国史官の文書を、二十一世紀の東京大学の現役歴史学教授が理解出来ないことを、江湖に示している大失態です。

24.5.10                                            

旅の間、大津教授の本の検討した原稿のプリントを持参し、暇があれば読みなおしてみましたが、どうもうまく書けていないなあ、という印象だけです。大津教授は、諸種の史料をいわゆる通説を「定説」とされてそこから持論を展開されます。持論の切り口は、王権(レガリア)の象徴の二種の神器や氏姓論です。

ともかく、中学生とはいかぬまでも高校生には理解できる程度に噛み砕いて、なおかつ、大津教授の手の込んだ目くらまし的論議にも反論していくには、まだまだ時間がかかるなあ、と感じているところです。

24.5.12                                           

『隋書』にある「阿毎多利思北孤」について『天皇の歴史 神話から歴史へ』で、大津教授は次のように書いています。

【六〇〇年、推古八年は、隋の文帝の開皇二十年にあたるが、『書紀』には記載がないものの『隋書』に記述があり、それによれば倭がはじめて隋に遣使朝貢したのである。(中略)六〇〇年の第一次遣隋使は、『隋書』に、倭王、姓は阿毎、字は多利思比孤、阿輩?弥と号す。使を遣はして闕に詣らしむ、とある。アメとタリシヒコを姓と名とするが、これは受けとった側の解釈で、本来「アメタリ(ラ)シヒコ」という倭王の称号と考えられる。意味は天の満ち足りた男子の意で、欽明天皇の謚号にも「天〈あめ〉を含むことから、この時「アメタラシヒコ」という称号があった。大王を天つ神の子孫とする思想が成立していたことをも傍証するというのが通説であろう。】

正史の『隋書』に、姓は「阿毎」と書いてあるのに、間違いではとされて推測の自説を述べられています。しかし、大津教授は書かれませんが、『隋書』だけでなく、次の正史『旧唐書』にも「姓は阿毎」とあります。大津教授の国内の史学仲間には通じる議論なのかも知りませんが、国際的にはとても通用しない議論ではないでしょうか。

24.5.14                                            

大津教授の『天皇の歴史 神話から歴史へ』も7世紀あたりになると、大和王朝一元論では説明が苦しくなってきています。

遣隋使、遣唐使でも、中国史書にあって日本の史書にないもの、またその逆に日本の史書にあっても中国の史書にないもの、などの大津教授の説明は、苦しんで答えを何とか見つけようとしてもうまくいっていません。

『唐会要』などの記事を引っ張り出して次のように書きます。 【百済遺臣の救援要請をうけて、倭は出兵し、唐・新羅軍に敗れるが、どうして百済復興に大軍を出兵したのだろうか。改新政権は、親新羅・唐と明瞭にいえるかは別にしても、唐留学経験者をブレーンとし、新羅を経由して唐との関係改善を試みている。東アジア情勢を熟知していながら、なぜあえて戦ったのだろうか。白雉五年(六五四)の第三次遣唐使は『唐会要』巻九九に記事が残る。

使を遣はして琥珀・瑪瑙を献ず(中略)。高宗、書を降して之を慰撫し、仍りて云はく「王の国は新羅と接近す。新羅素と高麗・百済の侵す所となる。若し危急有らば、王宜しく兵を遣はして之を救ふべし」と。 (中略)前年の第二次遣唐使が百済経由で、今回は翌年に新羅経由で派遣されていて、外交方針の乱れも感じられる。もし戦いになったら新羅を助けて出兵せよとの高宗の言葉は、結果としては黙殺された。しかし政権としてはある段階まではどちらにもつかず、中立または不介入の立場だったように思う。】同書p310~311

このように、高宗が、百済が新羅を攻めたら新羅を助けよ、といった記事まで出して、結局、外交方針の乱れ、ということで済ませています。

24.5.25                                            

今回の上京時に長男宅に行ったところ、たまたま高校2年生の孫の日本史Bの教科書が机に拡げられていました。手にとって古代のところを見てみました。 倭王武・雄略天皇・稲荷山鉄剣銘の三題噺が出ているかと思ったら出ていません。出版社は三省堂でした。寅七が今までいわゆる「定説」の参考にしていた高校教科書は山川出版のもので、そこにはしっかりと「三題噺」が書き込まれていたのです。

だとすると、雄略=倭王武説に疑いを持つ執筆者グループもいるのだろうか、と思いましたが、甘いでしょうか? ちなみに山川出版の方は東大系、三省堂は学芸大+私学系の執筆者陣でした。

24.5.27                                            

ゴルフ後の温泉場で一泊に、『倭国とは何かII』九州古代史の会編を持って行き、一通り眼を通しました。地名研究・神社等の伝承調査・現地踏査などいろいろ教えられるところの多い本でした。

『旧唐書』の「倭国」と「日本国」の書き分けの件で、「鑑真上人の『唐大和上東征伝』にその書き分けの事実が鑑真上人の言葉として出ている」、という荒金卓也氏の言が出ていました。帰宅して早速ネットで検索したら、写本のコピーと原文が見つかりました。大津教授の本の批判の傍証として使えるなあ、などと、頭はすぐその方に向かってしまいましたが。

24.5,31                                            

大津教授の本のも、『記・紀』の物語の真実性、というあたりになってきました。 その例として、「神武東征」について、大津教授の見方と古田先生の見方を並列に置いて検討すればよいかな、と思ったのですが。古田先生の「神武東征」の神武の出発点について、『盗まれた神話』『日本列島の大王たち』『日本古代新史』(1991年4月刊)あたりまで、「神武は宮崎(日向)から出発」とされています。高千穂宮は筑紫の日向にあり、とはされているのですが。

どこから出発点が変わったのかと調べてみましたら、『神武歌謡は生きかえった』(1992年6月新泉社刊)でした。

24.6.02                                            

大津教授の本は『天皇の歴史』というタイトルなのですが、なぜか年号の話が全くありません。日本の年号についての『日本書紀』の記述には沢山の?があります。

まず、年号開始の記事がない。『日本書紀』に記述されている年号は大化・白雉と続き、中断して朱鳥という年号が出て、また中断して大宝となり、以降連続する、その理由。『続日本紀』に「白鳳・朱雀」などの年号が突如出てくること。などがあります。隣国の新羅では、6世紀に真徳女王が、「建元」という年号を始めるというそのものの年号を開始し、7世紀半ばまで、開国・大昌・鴻済・建福・仁平・太和と続き、唐の横槍で、以後は唐の元号を使用するようになった、と三国史記などで明らかにされています。

『天皇の歴史』に大きな意味がある「元号」の歴史の解明もできなくて、なんで『神話から歴史へ』など言えるのか、など毒づきながら、ぼちぼちと大津教授批判の筆を進めているところです。

24.6.02                                            

大津教授の『天皇の歴史 神話から歴史へ』の「即位儀礼」というところで引っかかっています。

昭和から平成に替わり、大嘗祭が行われました。昔から、天皇の代替わりの時の最初の新嘗祭は大嘗祭として大掛かりに行われるそうです。大津教授はこの「大嘗祭」については何となく気分が乗らないのか、即位儀礼の説明でも素っ気ない感じです。大津教授は「神武紀」などは6世紀の創作とされるのですが、この大嘗祭については、神武即位の時の大嘗祭について述べられます。『日本書紀』には記載されていませんが、『古語拾遺』という9世紀初頭の史料にあるといわれます。『古語拾遺』を読んでみなければならなくなりましたが、幸い、Amazonに岩波文庫本が二百円少々で古本が出ていました。

24.6.06                                            

少しは『天皇の歴史』批評の原稿を書こうと、今日は継体天皇の「皇統断絶」問題についてボツボツ進めていました。古事記によると43歳で亡くなっています。即位して25年ほどで亡くなっていますし、日本書紀では即位後20年程樟葉あたりにいて、大和には入いれていません。

この継体紀は二倍年歴での伝承で書いてあるのではないかなあ、などと思ったり、応神天皇五世の孫ということは、武烈天皇の悪逆非道ぶりだけでなく、仁徳・履中・反正・允恭・安康・雄略・清寧・顕宗の各天皇方の悪行が書かれている場合も、そういう見方をしなければならないのだな、と改めて思いました。 午後、岩波文庫『古語拾遺』がAmazonから届きました。

大津教授は「神武紀」などは6世紀の創作とされるのですが、この大嘗祭については、『古語拾遺』に神武即位の時に行われた、とあるとされます。 ざっと読んで見て気づいたのは、孝徳天皇の所に、「白鳳四年に、小花下諱部首作斯を以て云々」、とあります。大津教授は『古語拾遺』の大嘗祭については述べますが、白鳳年号については無言です。

24.6.10                                            

大津教授の『天皇の歴史 神話から歴史へ』の検討を進めているのですが、かたい文章の羅列でこれでは読む人に迷惑だろうなあ、と思い、年表にしてみることにしました。大津教授が遣隋使について、中国の史書にあれば日本書紀に無くても「大和朝廷」が送ったと云える、とされています。

年表にしてみましたら、高表仁が、礼を争ったのに、日本書紀では舒明紀には双方穏やかに応対した、という一見矛盾に見えることが、実は二つの別な出来事であった、ということが分かりやすいように思うのですが、一人よがりでしょうか。

24.6.12                                            

大津教授の『天皇の歴史 神話から歴史へ』の検討を進めているのですが、なかなか筆が進みません。大津教授が沢山和歌を引用しているので、今日はその内の「雄略の籠もよの歌」「舒明天皇の国見の歌」「景行天皇の国のまほろばの歌」の古田先生の解釈と対比させる作業をしています。

いつもぼやいていますが、大津教授は、史料の検討が不十分なまま、次のステップ、王権・レガリア・即位儀礼などに進むので話に論理性がありません。

『魏志』倭人伝では、考古学的整合性はゼロなのに卑弥呼は纏向に居たと断定、『宋書』では、雄略の即位時には倭王武はまだ即位していないのに、武=雄略とする、『隋書』では、多利思北孤を時代が全く合わない欽明天皇にあてて、全く説明不能状態、『旧唐書』では、倭国と日本国の区別を無視する、 というように、全くお粗末な史料批判の上での大津教授の『天皇の歴史』の叙述です。これでは「天皇のご先祖」が可哀想です。

24.6.14                                            

今日、トロイ遺跡の事を調べていて、現在トルコ共和国があるアナトリア半島の名前の由来も、東ローマ帝国コンスタンチヌス七世の時代にこの地方に軍管区を置き、「アナトリコン」(ギリシャ語で日出づる処の意味)と名付けたことによるそうですから、洋の東西を問わず言えることのようです。

24.6.20                                            

大津教授の『天皇の歴史』について批評の原稿を書き始めています。大津教授の本を読んでいて気付いたのは壬申の乱についての評価が全くないということです。

天武天皇が壬申の乱で勝利して、カリスマ性のある天皇、現人神の天皇になった、というようなことは書いていますが、叔父が甥の現天皇を殺した、という「天皇の歴史」に大いに関係あると思える事件に対して、「何故」という視点が大津教授さんにはないのには驚きます。

単に「皇は神にしませば云々」の歌を紹介し、現人神の天皇になったのは天武天皇だけの特異性であって律令国家となってからの天皇にはそのような現人神の思想は見られない(戦前の昭和天皇も例外だ)などと書いています。「皇は神にしませば云々」の歌の古田先生の解釈からみれば「何をとぼけたことを言っているの」ということになるでしょう。

24.6.22                                           

『大津教授』は神武即位は紀元前660年、という「辛亥」という革命が行われるとされる干支に合わせて創作され、それに合わせて天皇の寿命を荒唐無稽な年齢に伸ばしたり八代の天皇を創出した、などと書いています。

しかし、古代の倭国では「倭人伝」にも書かれているように倭人は「二倍年歴」で生活していたのですから、天皇の伝承も「二倍年歴」によって記憶されていたことでしょう。

ともかく、継体天皇あたりまで二倍年歴が使用されていたとすれば、神武の即位は紀元前1世紀となり、神武東征神話が記しているさまざまな器物・社会状況などと合致することになり、何も「荒唐無稽」ということでなく、われわれの祖先は忠実に伝承を後世に伝えていることを評価し尊敬しなければならないでしょう。

24.6.23                                           

『天皇の歴史 神話から歴史へ』の中で、『古事記』については、大津教授はご自分の考えを概略次のように述べています。 まず『古事記』編纂の経緯について、太安麻呂の序文にしたがって説明します。

しかし、大津教授はこの『古事記』を史料として取り扱うのに、基本的なことを忘れていらっしゃるように思います。それは、そのような経緯で生まれた史書がなぜ日の目を見なかったのか、改めて『日本書紀』が編纂されねばならなかったのか、ということについての判断をなされた上での『古事記』の内容の引用がなされる必要があると思います。

例えば、大津教授が引用される『古事記』の記事、ヤマトタケルの「国偲びの歌」にせよ、『日本書紀』では景行天皇の歌となっているように、『記・紀』両書で大きく違います。『古事記』では、雄略天皇は朝鮮半島と全く関係がないようですし、武烈天皇も別に悪逆非道な天皇と書かれていません。

このような、史書の基本的な検証なしに、安易に引用されて、その上で『天皇の歴史』を構築される大津教授の姿勢で本当の『天皇の歴史』となるのかな。

24.6.24                                          

 
『天皇の歴史 神話から歴史へ』の中で、大津教授は『万葉集』についてはいくつもの歌が引用されていますが、『万葉集』自体の史料批判はされていません。 その辺をどう扱おうか、と『万葉集』巻一の一番歌「籠よ」の雄略天皇御製とされる歌について考えているところです。

何故雄略と舒明の歌が一番歌二番歌という配列になっているのか。大津教授はこの二人の天皇がそれぞれ画期を作った天皇だから、というように解説されます。しかし、まず一番歌は、後の整った五七五調でなく破格の長歌ですから、時代的には雄略の時代としおかしくはないでしょう。思えば『日本書紀』と同時代に『万葉集』は編纂されています。『古事記』での雄略天皇は【天下(あめのした)誹謗(そし)り言(も)うさく、「大(はなは)だ悪(あ)しくまします天皇なり」とまうす。】と書かれています。

『万葉集』 第二番歌の舒明天皇の「国見の歌」とは大違いで、どこででも娘を見かけたら声を掛ける色好みの雄略と、国見をする真面目な舒明、という対比を『万葉集』のはじめに持ってきているという見かたの方が素直な取り方ではないでしょうか。このような見方があるのか調べているところです。ご存知の方がいらっしゃったらお教え頂きたいものです。

24.6.27                                            

大津教授の本にはあまりにも問題点があり過ぎです。「天皇論」「日本国名論」「マヘツキミ論」「大化改新批判」などがまだ控えています。二倍年歴に関係して、継体天皇の伝承が『記・紀』で大きく違っていることについて年表をつくって眺めていますが、筋が通る仮説が浮かんできません。せめて仮説の仮説、小説タネになるような仮説でも思い浮かべれば、と暇があれば眺めています。

24.6.30                                           

『天皇の歴史』の大津教授は「マヘツキミ」について次のように述べます。

【崇峻即位前紀(五八七)には、「炊屋姫尊と群臣と、天皇を勧め進りて、天皇の位に即かしむ。蘇我馬子宿禰を以て大臣とすること故のごとし。卿大夫の位、また故のごとし。」と即位に伴って馬子の大臣再任とともに「卿大夫」(マヘツキミ)の位の再任が見えている。】p207~208

そして【関晃氏の「『日本書紀』をみると、大化のころに「大夫」と記される一定の上流豪族層があったことは確かであるが、「大夫」の語があてられるマヘツキミ(マチキミ)とよばれる実体があり、一定の政治的地位を示す語であることを論じたのである。(中略)その地位は冠位十二階の大徳と小徳の者によって占められ、『翰苑』に引用される括地志に、十二等の官の第一に「麻卑兜吉寐 華言に大徳」とあり、大徳冠がマヘツキミ(大夫)に対応することを示すと、今から五〇年前に論じたのである。】と述べられます。

今まで大津教授が難しい「史書」を引用されるときには、我田引水の傾向があるように感じていましたので、チェックしてみました。 まず『翰苑』という史料は、太宰府天満宮に「巻卅夷蕃伝倭国」のみが残っていて、貴重な史料として国宝に指定されていますが、『翰苑』全体は残っていません。この『翰苑』に引用されている『括地志』は唐代に編集されている大規模な地理書です。 このところの原文は次のようなものです。

「因禮義而標?即智信以命官 括地志曰 倭国 其官有十二等 一曰麻卑兜吉寐 華言大徳 二曰小徳 三曰大仁 四曰小仁 五曰大義 六曰小義 七曰大礼 八曰小礼 九曰大智 十曰小智 十一曰大信 十二曰小信」と、このように、倭国の冠位について述べています。

この中の「一曰麻卑兜吉寐 華言大徳」というところを大津教授は取り上げて、マヘツキミ=大徳=大夫という論法で、中国の史書にもこのようにある、マヘツキミ=大夫だ、とされるのです。しかし、「麻卑兜吉寐」=マヘツキミでしょうか。そう読みたいという心がそう読ませているのではないでしょうか。

「麻卑兜吉寐」をそのまま読めば「マヒトゥキッミ」=「まひときみ」ではないでしょうか。つまり「真人君」といっているのでしょう。八色の姓で「真人」姓があり皇族とされているのです。 このことだけでも我田引水ですが、上記のように、この『括地志』の十二階の冠位は、『隋書』が伝える順序であり、『日本書紀』が記す順位とは違っています。『括地志』を引用されるのであれば、その史書批判をおこなった上でやっていただきたいと思います。

24.7.08                                            

古田先生の本を書棚から取り出して改めて読んでみますと、いろいろと大津教授批判のタネが出てきます。『失われた日本』『吉野ヶ里の秘密』『多元的古代国家の成立 上下』をこの二日で目を通しました。 倭建命の「国偲びの歌」については書きなおさなければならないかなあ、大津教授が取り上げていない『新唐書』も取り上げなければ、などと思っています。

『倭国とは何かII』で見かけた荒金卓也氏の、鑑真上人の『大和上伝』の「倭国」と「日本国」の書き別け、という報告は、確かにその通りです。然し、大津教授の、「倭国」から「日本国」に国号が変わったのだ、という主張を打ち消す力は残念ながら乏しいようです。

24.7.11
大津教授が『天皇の歴史 神話から歴史へ』で、わが国の文字文化の始まりについてどのように認識しているのかと、この本の中を探してみました。

大津教授は、「歴史は文字に書かれて初めて歴史になる」、というように言われ、「倭人伝」から始められています。


ですが、その「倭人伝」に既にこの国では文字が普及していたことが記されているのにご存知ないのでしょうか。「倭人伝」は三世紀の状況です。既に一世紀に「漢委奴国王」という金印を貰ってその意味をわれらが祖先は読み取れなかったのでしょうか?既に上部階層は文字社会になっていたと思われます。なぜなら、三世紀の「倭人伝」が描くのは文字社会だからです。


第一に「正始元年太子弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭国拝假倭王(中略)倭王因使上表荅謝詔恩」とあり、倭王が魏皇帝の詔書に対して上表で礼を述べた旨書いてあります。


第二に「自女王国以北特置一大率検察諸国畏憚之常治伊都国(中略)王遣使詣京都帯方郡諸韓国及郡使倭国皆臨津捜露傳送文書賜遣之物詣女王不得差錯」と一大率のことが書いてありますが、その中に「伝送文書」という言葉があるように、諸国との文書外交が行われていたことを示しています。


大津教授も、大先輩の判断に盲目的に従わずに、また、自分は文献学者ではない、などと逃げることなく、せめて自分で「倭人伝」を読んでいただきたいものです。既に三世紀以前にわが国が文字社会であったという認識に立てば、『記・紀』が伝える内容が単に言い伝えでなく「文字化」されていた、という認識が得られる筈です。

●24.7.12

大津教授の『天皇の歴史 神話から歴史へ』の批評もなかなか片付きません。いちおう出来上がった部分のコピーを旅の間にチェックしようと思っています。ホームページも〉アップをしていないので、「大津教授へのボヤキ集(その2)をとりあえず道草で上げておきます。

●24.7.22

トルコの旅行中に、大津透教授の『天皇の歴史 神話から歴史へ』の読後感想のコピーを持って行って一応目を通して読んでみました。

いろいろと不備ばかりが目立って、メモ書きだけは沢山集まりました。今日は早速、大津さんの「隅田八幡人物鏡」についてのいい加減なというか曖昧なことについて、どのように取り上げようか、と考えていました。

大津さんは「日本書紀」にこの鏡のことが出ていないので取扱いに困っているように思えます。「癸未年」とあるけど443年か503年か決められない、と言いながら、百済の斯麻王は521年に中国に朝貢しているし、などとグズグズ言うだけです。しかも日十大王と男弟王という兄弟執政と見られる特異な政治形態については、大津教授は全く興味を示されません。困ったものです。

●24.7.24

大津教授の『天皇の歴史 神話から歴史へ』では、「真人」について【天武天皇の謚号「天渟中原瀛真人」は仙境瀛州に住む真人(神仙)の意がこめられているとされる。】のように言われます。


しかし、天武十三年(六八五)に「八色の姓」を制定したと『日本書紀』にあります。その天武天皇の謚号が「天渟中原瀛真人」と「真人」入りなのです。真人が真人の姓を与えるという奇妙な状況です。


大津教授は、古代史研究者間にあっては有名な「天武の真人姓」問題について、八色の姓に「真人」が有ることについては何も述べていないのは問題から逃げているとしか思えないのは残念です。

24.7.26

『天皇の歴史 神話から歴史へ』という大津透さんの本には沢山の万葉集などからの和歌が引用されています。『鏡王女物語』ではいい加減な万葉歌もどきを乱発した寅七ですが、まともに万葉論をまとめなければならなくなりました。


大津教授は『万葉集』の巻一と巻二は公的な歌集であった、といわれます。 しかし、『万葉集』については公的な記録は全くありません。大伴家持によってまとめられた、という記録も「正史」にはないのです。それなのに大津教授は何を根拠に「公的な国家的な歌集」と言われるのでしょうか。

大津教授が言われるように「公的・国家的歌集」とおっしゃるのであれば、その根拠を示していただきたいものです。

たしかに、雄略と舒明を持ってきたのは、『日本書紀』編纂方針と関係がある、という大津教授の見方には一理あると思いますが、当方の捉え方は全く違います。

『日本書紀』は継体天皇の正当性を強調するために、武烈天皇を悪逆非道の天皇とし、応神天皇以来の武烈天皇までの天皇を悪行を強調しています。とくに雄略天皇は「悪しき天皇と謗られた」と書きます。

『万葉集』の第一歌が継体天皇と別系列の雄略天皇の女誘いの歌であり、第二歌が継体天皇系列の舒明天皇の真面目な国見の歌という配列に、時の権力者におもねった『万葉集』編纂方針が顕われている、とみてよいのではないでしょうか。

24.7.27

大津透『天皇の歴史 神話から歴史へ』という本には、大化の改新について高校の教科書と同じような叙述がされています。山川出版の教科書でも、評制度については木簡や常陸風土記にあるから、(日本書紀のきじゅつにはないけれど)実際に行われていた、という書き方です。


さて、どのような切り口で検討を進めるか、と考えています。一つは単独で飛び出してきた「大化」の元号問題でしょう。公地公民について九州王朝とかみ合わせるとその論点まで持ってくるのが大変面倒なようですし、元号問題と郡評問題に絞った方がよいのかな、と思っています。

●24.7.30

大津教授の本を何度か目の読み返しをしました。大津教授は普通、古代史で問題となっている事柄について、意識的にかどうか判りませんが、言及していない事柄が沢山目につきます。三世紀あたりまででも、次のような事が上げられます。

①『日本書紀』が引用する「一書」群、「日本旧記」なども、六世紀の創作として取り上げない。

②狗邪韓国について述べない。

③姉弟政権について述べるが、兄弟政権について述べない。

④邪馬壹国について書かない。

⑤倭人伝の里について述べない。

⑥北部九州の三種の神器を出土した弥生遺跡について述べない。

⑦銅鐸について述べない。

⑧古田武彦について述べない。

などなどです。まあ、この辺が批評の切り口にはなるのですが。

24.7.31

大津透『天皇の歴史 神話から歴史へ』という本の批評で、「磐井の乱」について手つかずでした。大津教授は、 【岩戸山古墳石人が磐井の裁判を再現していたように、国造は独自に裁判を行った。 臣・君の国造は大王家と対等の関係を持つ地方豪族だったのだろう。それに対し圧倒的に多い直姓の国造でこれは地方官であったのだろう。】というように述べています。

「筑紫君磐井は大王家と対等の関係 」ということは、大王家と同じ権力を持つ政権ということです。まあ継体紀を読むとそれに近いことが書いてあることには間違いありません。大津教授はあくまでも磐井という国造の罪が糾弾されて屯倉を差し出して罪を贖ったのだ、とされています。

もう一歩踏み込んで、「君」が付く国造は地方独立政権に近かった、とどうして表現出来なかったのかな、と思います。まあ、そうなると寅七もその批判の切り口を見つけるのにより苦労することになりますが。

●24.8.02

大津透『天皇の歴史 神話から歴史へ』という本の批評で、何があと抜けているかなあ、と考えて見ますたら、「仏教伝来」がありました。

大津教授は「仏教伝来」と『天皇の歴史』とはあまり関係ないかと思われるのでしょう、あまり言及されていません。

わずか、「仏教公伝」を教科書が言うように、『日本書紀』が記す五五二年に百済聖明王から伝えられた、とするのでなく、『上宮聖徳法王帝説』などによって、五三八年に欽明天皇に伝わったとすると、それには問題がある。五三八年は用明天皇の在世の時代だ、と指摘されるだけです。

この問題はスキップすべきか仏教公伝でなく仏教伝来の歴史について論ずべきなのか考えているところです。

●24.11.12

(八王子セミナーで)古田先生から大津徹教授の「天皇の歴史」の発表予定ついて皆さんに説明するよう求められ、クリスマスまでにはネットにアップします、と約束させられました。

古田先生の説に必ずしも100%乗っての批評でないところもありますので、先生に前もって原稿はおわたししていました。特に何もおっしゃらないので、このまま最終校正作業に入ろうと、思っています。

しかし、硬い文章だけの膨大な量の記事を、どのように読み易くするか、ここが難しいところです。


24.11.14

大津教授の『天皇の歴史』の校正を初めていますが、ルビを振る作業だけでも数日はかかりそうです。機械的な作業にはすぐ飽いてしまい集中力を持続させる体力の衰えを感じています。

そのことと関係あるのか、今日歯医者から電話があり、今日は診察予定ですが?ということで、すっかり忘れていて平謝りしました。老人力のつき方が加速しているようです。

24.11.25                           

大津教授の『天皇の歴史』の校正を初めています。この面倒くさい、理屈ばっかりの批評文をどれだけの人が目にしてもらえるのか分りません。

しかし、出すからには読みやすいに越したことはないか、と「振り仮名」を付ける作業も終わらせてからアップしよう、と思い直して作業にかかったところです。この批評文を、大津先生の講義を聞く学生さん達の耳に届けばよいのにな、と思いながら。

24.11.28                           

大津教授の『天皇の歴史01 神話から歴史』を大体まとめ終わり、チェックのためにもう一度大津先生の本を読んでみました。

大津先生は、他の方の意見を紹介する中に自分の意見を紛れ込ませられます。卑弥呼はマキムクにいた、というのが小林行雄先生の意見なのか、大津先生の意見なのか、文章になっているのに、判断に迷います。

などなどボヤキながら最後の校正を進めています。

24.11.30

今日の朝日夕刊に「東大語法」という囲み記事がありました。震災時の原発事故対応の発表が、その「東大語法」ということのようです。

安富東大教授によれば、「常に自分を傍観者の立場に置きながら、自らの論理の欠点を誤魔化しつつ自分の主張を正当化する論争の技法。」だそうです。正に大津教授の論法もその「東大語法」の典型のようです。

24.12.01                           

やっと『天皇の歴史01 神話から歴史へ』批評をホームページにアップしました。なにしろ、古代史全般に亘っていますので、量的にはかなりのものになりました。自分も校正で読みとおすにはくたびれます。小理屈的な論文の羅列ですから、読む人も大変でしょう。ゆっくり読んでみて下さい。URLは下記です。

http://sakura

ルビ振りが、どうも、ソフトにどこかバグがあるのか、折角HTML文書でルビをふっても、勝手に「エラーがありましたので修正しました」というメッセージが」出て、折角出来あがった文書を駄目にしてしまいます。

文句を言いたくても、ソフトメーカーは倒産しているし、なんとか「エラーメッセージ」が出ないように試行錯誤しながらのこの数日でした。もう少し、見にくいところが残っているかもしれませんが、逐次潰していきたいと思っています。

                   以上「ボヤキ集」を終わります。

後記

大津透 『天皇の歴史01 神話から歴史へ』の書評作業終了まで正味10カ月かかりました。1冊の本にこれほど長くかかったことはありませんでした。

他の本はある程度テーマが絞られましたのに、この本は古代史の問題項目の殆んどを含んでいましたので、結局古代史全体を取り上げなければならない羽目になりました。

ブログの読者の方々からもいろいろと貴重なご意見も頂きました。途中でもうブログは止めようか、と8月初めに中断した期間も、古田先生はじめ読者の方々からの励ましで、一月ほどの短期間で再開する気力が生じました。有難うございました。

ホームページに出してから、ホームページをプリントする方からのご意見では、どうもうまくプリントできない、ということもあり、WORD文書でのCD化を試みました。

そのCDにこの「ボヤキ集」も付録として添付しようか、と思っています。

             2013年1月18日  棟上寅七