『論語』「託孤寄命章」に見る「一倍年暦」の証拠
          (東京古田会ニュース No. 178 Jan. 2018 に 中村通敏名で掲載されたものです)

随分前の事ですが、『論語』の二倍年歴、について「小異見」を古代史の会報に出したことがあります。孔子の時代は寿命は50歳くらいであり、『論語』の有名な「吾、十有五にして学に志す」も、15歳で学問に志すのは遅すぎ、これが「二倍年暦」であったとすると7歳半であり納得できる、と古賀達也氏が主張されていたのです。(古田史学の会ホームページ「新古代学の扉」闘論 短里と二倍年暦「孔子の二倍年暦」 初出 古田史学会会報53号 参照)


これを読んだ私は、孔子のころの寿命は五十歳というところに引っかかりました。古代の縄文や弥生時代の日本の考古学関係の書物によれば、幼児期の死亡率が高いので平均寿命は低い(三十歳台)が、幼児期を生き延びた人の寿命は結構長く六十歳を過ぎる人骨お割合は十五%を超える、とあります。

そこで、「孔子の二倍年暦についての小異見」というタイトルで会報に投稿し、会報92号に掲載されました。主なことは、『論語』の世界で、寿命は五十歳と決めつけるのはおかしい、という主張でした。
その主張の基になったのは、松下孝幸氏の『日本人と弥生人』祥伝社1984 と中橋孝博氏の『日本人の起源―古代人骨からそのルーツを探る』講談社選書メチェ2005年 の二冊の本でした。中橋氏の生存者数と年齢推移の図も付けて論じました。次の図です。


その後なんの応答もなく過ぎています。一度三、四年前、八王子のセミナー古賀さんのお会いした時に私の小異見につぃする意見をお聴きしたのですが、「グラフというのは必ずしも実態にあっているとも言えないし、もっと何か具体的なデータがないかと探しているところ」ということでした。「小衣冠」は無視されて現在に至っています。この分なら、孔子の時代の人骨が大量に発掘されて、そのデータが出るまでは私の意見は「小異見」として葬られるようです。

このような、昔のことを振り返りながら、思ったことは、『論語』の中に「二倍年暦」の証拠を捜して論じている古賀氏の論の進め方について、他に検証する方法はないものか、『論語』の中に「一倍年暦」で書かれている証拠はないものだろうか、ということに思い至りました。
古田先生の悉皆調査と意味は異なりますが、改めて『論語』を読み直してみました。テキストは古賀氏が用いた『新釈漢文大系1論語』吉田賢抗著 明治書店 が、幸い福岡市総合図書館の蔵書にありました。最初から頁を繰っていき、
いい加減くたびれたころに「六尺」という語が目に飛び込んできました。「泰伯第八」にあって「託孤寄命章」として有名だそうですが浅学の寅七は知りませんでした。

原文「曾子曰、可以託六尺之孤、可以寄百里之命、臨大節而不可奪也、君子人與、君子人也。」
読み下し文「曽子曰く、以って六尺の孤を託す可く、以って百里の命を寄す可く、大節に臨みて奪う可からずや、君子人か、君子人なり。」
通釈「曽子言う、十五、六歳の幼弱のみなし子の将来を安心して頼める人、心配なく一国の精霊と運命をまかせ得られる人、そして危急存亡の大事に当たって、心を動かさず、説を失わない人、そういう人こそ君子人といってよかろうか。真の君子人である。」

その中で「六尺」について語句の説明もありました。
【「六尺」は十五、六歳以下のことで、身長で年齢を示した。周制の一尺は七寸二分(二十一センチ版)ぐらいだから、六尺は四尺三寸強(一メートル三十センチ弱)である。又年齢の二歳半を一尺という。】

『論語』にある「六尺」についての吉田先生の説明が本当なのかな、と手元の『学研漢和大字典』で引いてみました。「尺」では特にありませんでしたが、「六尺」を引いてみましたら、【六尺〈ロクセキ〉:年齢が十四、五歳の者。戦国・秦・漢の一尺は二十三センチで、二歳半にあてる。六尺之孤〈ロクセキノコ〉:十四、五歳で父に死別したみなしご】とありました。

吉田先生と藤堂先生の解釈は、「年齢」と「1尺の長さ」の二点で違っていますが、全体としては殆んど変わりません

「年齢」の違いは、中国人の年齢の数え方をどう見るか、ということで変わります。これは藤堂先生の方が正解でしょう。
「1尺の長さ」については、吉田先生の周尺=21.5センチと藤堂先生の戦国時代~漢尺の23センチと違います。

これを魏晋朝は周の古制に復したとされた古田説では、一寸千里の法から得られた里の値は約75メートルであり、1里=300尺ですから、1尺=約25センチとなります。しかし、この尺の長さのこの程度の差は、今回の問題では特に取り上げる必要もないので先に進みます。

何を言いたいのか、調べたいのか、というのは「六尺」の歳の子供の背丈です。
生まれた時が1歳と数えますが、これは一倍年暦ですと0歳児です。旧暦の正月が来て二歳となるのが中国流です。
二歳半で一尺ですから最初の一尺は一倍年暦では約1.5歳となります。(「約」と付けるのは、生まれた月によって満年齢(月数)は変わりますので)
あとの五尺は、一尺は2.5歳ですから、五尺では12.5歳となります。つまり「六尺」=約十四歳(一倍年暦)であり。藤堂説の14.5歳説は合っているようです。

第一、この「託孤寄命章」は、幼弱のみなし児に対しての対応と君子の資格的なことを説いている文章ですから、吉田先生の年齢に関する計算はちょっと大きめだと思われます。

その十四歳の身長は、というとこれは難しいものです。中国の古代人の身長の記録から年次別の身長データを見なければならないのですから。ただ十四現在の中国人の体格と日本人の体格はそれほど違っていません。一応ほぼ同じという仮定で進みます。
現在の日本人のデータを参考に見てみました。文科省の2015年度のデータによると、「六尺=十四歳」であれば、十四歳では162.8センチということです。成人男性の平均身長は172センチということですから、十四歳だとすでに九割以上成長をしていることになります。

これらのデータを頭に入れておいて、この「託孤寄命章」を「二倍年暦」で解釈できるか、検討してみます。

これを『論語』の世界は「二倍年暦」であった、としますと、約七歳でありながら身長は160センチ強であった、ということになります。これは常識外れの値ではないでしょうか。孔子は非常に背が高かったそうですが、「六尺=2歳半」という公理の場合には平均値が用いられることでしょう。

結論として、
現在のところ、『論語』の「六尺」が「二歳半」という意味を持っている以上、『論語』の世界では「一倍年暦」で叙述されている、と言えましょう。東京古田会の諸兄姉並びに古賀達也さんからのご意見をいただければ幸いです。