四季があるのになぜ二倍年暦が出来たの?(その2)原語篇    

 この中村通敏の論考は九州古代史の会会報『九州倭国通信〉No.201号 2021/1/15 に掲載されたものです。

はじめに

前回の結縄篇では、日本書紀に記載されている古代天皇の死亡時年齢記事は、当時の日本は「二倍年暦」の社会であり、それは水稲栽培の農暦と関係があり、その作業手順を暦として、「結縄」という情報伝達手段としたことから来たものではないか、という仮説呈示を行ないました。

ただ、二倍年暦になったのは、「結縄」の長さにある、という仮説にはかなり無理があると自分の説ながら思われました。

中国語の「年」と和語の「トシ」。この二つの言葉が意味するものは同じなのか、を調べてみたら、日本の古代天皇の異常な高齢記録のなぞ解きにも役に立つかも、と思われ、前回は取り上げなかった、「結縄」以外の、古代のもう一つの情報伝達手段、「言葉」について、その方面からのアプローチについて試みた結果を、前回の仮説の補論として呈示したいと思います。

その結果、前回指摘したその租税徴収期間が「二倍年暦」であった倭人国の「年紀」となった”という仮説を裏付けるものでした。

 

「トシ」の意味を確認する

水稲栽培が到来した当時BC10世紀当時にはまだ文字はなかったけれども「言葉」はあったのですから、もう一度「トシ」の意味から考えてみる必要があると思われました。   

私たち現代人は「年」を「トシ」と、何の疑問も感じずに使っています。勿論のことですが「年」は漢字です。「トシ」は和語です。「トシ」の意味に解くカギがあるのかな、と辞書などの説明を整理する作業を行いました。

 

作業A『古語大辞典』「語誌篇」松岡静雄1924年万江書院刊(1970年復刻版) で「トシ」の語源は、

【《原語》トはトミ(富)、トヨ(豊)等の語幹でタ(足)とも通ずる。シは食物を意味する原語である。漢字「食」は食物を意味する場合には祥吏の切、即ち音「シ」である。此の語はアジア諸民族に弘通したと見えて、国語においても、シネ(稲)、シシ(宍)、シル(羹汁)の形に於いてもちいられて居る。

 

《語義》食物豊足の意から収穫をトシといひ、穀禾は一年一回を例とするから、歴年の義に転用されたのであらう。されば、原義によってトシを稲と同義に用いた例もある。

 

《出典例》祈年祭祝詞 手肱土ニ水沫書キ垂向肢股ニ泥書キ寄テ取作ム奥津御年ヲ八束穂ノ伊加志穂ニ皇神等依サシ奉バ

 

作業 『広辞苑』(新村出)での説明は。

とし【年・歳】

①時を測るのに用いる単位。通常は一月一字タスから十二月三一日まで。

②惑星がその軌道を一周する時間。

③生きてきた年数。連霊。よわい。

④穀物、特に稲。また、そのみのり。万一八「我が欲りし雨は降り来ぬかくしあらば言挙げせずとも━は栄えむ」

⑤季節。時候。 ━有り [春秋桓公三年]豊年である。稲のみのりがよい。新勅撰冬「あらはれて年ある御代のしるしにや」

 

どうやら「トシ」という言葉には「収穫」とか「豊作」の意味でも用いられているようでした。

『広辞苑』で中国の史書『春秋』が出典例が出ているので「年〈ネン〉」についても確かめてみました。

 

作業 『諸橋轍次大漢和辞典』 「年」について、発音や出典例は省略し、その意味について紹介します。

年は秊の異体字である。禾+千 の秊と意味も発音も同じということが述べられ

🈩➊ みのる。みのり。五穀が成熟する。 ❷ 穀物 ❸ とし ㋑元日から大晦日まで。秊は熟の意で、穀物は年に一回熟すから転じていふ。(以下略)

 

どうやら和語「とし」も漢語「年」もその義はほぼ同じようで、「穀類の収穫」が本義で、365日を1年という時間単位の意味は派生義ともとれる辞書の説明でした。

念には念を入れようと、『広辞苑』にみえる『萬葉集』での出現例を調べてみました。

 

作業D 萬葉集第十八巻4124番歌『萬葉集 全訳注原文付』中西進著 講談社

原文「和我保里之 安米波布里伎奴 可久之安良婆 許登安氣世受杼母 登思波佐可延牟」歌人 大伴家持

訳:我が欲りし 雨は降り来ぬ かくしあらば 言挙げせずともは栄えむ)

解釈:我が待ち望んだ雨は降ってきてくれた。この調子だと仰々しく言い立てなくとも、今年も五穀豊穣になろう。

家持は、「トシ」=登思=年=秋の収穫 としているとみてよいでしょう。

                             

「トシ」と「年」のまとめ

これまでの経過からみて「トシ」という言葉の意味は、穀物・みのり・収穫という意味にとっても間違いではない、ということは確認できたと思います。

あらためて、BC5~10世紀の北部九州の社会的状況について思いを巡らせてみます。中国史書にみえる、倭人は百余国とも描かれているように、小さいクニがいわば群雄割拠していたのでしょう。これらのクニが統合されていく歴史と共に、収税システムも形を整え、「実り=収穫」の時を祝ったことでしょう。祝ったのは、生産者もそうでしょうが、支配者層であったのも間違いないことでしょう。

また、水稲が収穫の時を迎えたあとの「土地」の利用を「クニ」が考えることになるのは当然の成り行きでしょう。特に冬積雪の恐れのない地方では二毛作が発想されるのは当然の成り行きでしょう。

麦秋という言葉に表されるように、現在でも霜柱が立つ麦畑では麦踏み作業がローラーを付けたトラクターで行われ、初夏に収穫を迎えています。太陽が与えてくれる春夏秋冬の時間のなかで、2回の「穀物の収穫=トシ」を得ることができるのです。

もし二毛作が出来ない地域があれば、機織り作業や春野菜その他、後年「租庸調」という収税システムとして知られるように、「クニ」に「トシ(年貢)」を晩春~早夏に納めたのでしょう。このように二毛作が実施されていれば、当時の支配者層には、春夏秋冬のひと巡りに二回の収穫「トシ」がある事になります。

その「クニ」の王の何回目の「トシ」の状況についての記録は、前回(結縄によるのではと)述べたように、文字が伝わってくるまでは、「結縄」によってなされていたと思われます。

倭人の国人の「二倍年暦」は、例えば、「うちの長男は前のヌシ様の5回目のトシに生まれた」というような会話もなされ、「あのクニのヌシは三十回ものトシを取られた、たいしたものだ」などということなどが伝承として残ったのでしょう。

その後文字が伝わり、和語「トシ」に概念が同じような「年」という字が宛てられ、文字による記録も始まり、「クニのヌシのトシの回数」が「年紀」となり、『日本旧紀』『古事記』などに残され『日本書紀』にまとめられたのではないでしょうか。

以上です。この仮説はかなり蓋然性を持つ推理と言えるのではないか、と思うのですが如何でしょうか。

 

問題は

このように、倭人の国の「二倍年暦」は、所謂太陽暦の一年に二度「トシ=収穫」があることに拠るのではないかという纏めになりました。

ただこの説の問題は、「稲+麦など」の二毛作か、現在でも沖縄地方で行われている「稲+稲」の二期作か、の、いずれかが当時行われていた、ということの照明が必要なのです。

現在の中学校の教科書では二毛作は鎌倉時代頃より行われていた、という記述が見えます。中世の歴史に詳しい網野義彦氏は、二毛作は鎌倉時代から始まった。二毛作を行なうと連作障害で地味が落ちて収穫も落ちる。鎌倉時代には大年近郊では、下肥の施肥によってそれが補えることがわかり二毛作が行われるようになった。(日本の中世6『都市と職能民の活動』安易の善彦/横井清 共著 中央公論新社による)とあります。二毛作の始まりは平安時代に遡るかもしれぬ、ともありました。

二毛作による連作障害を防ぐには有機肥料の施肥が必要になります。草木灰・草葉刈敷・油粕・糠などの植物由来のものから、動物糞・動植物屑から作る堆肥・厩敷藁などの動物由来のものなどの施肥がいつから始まったのか、記録を探すのは不可能なことでしょう。水稲栽培された時期から「クニ」という集団が誕生するまで七、八百年の間に勤勉かつ改良意欲に富むわれらの祖先が二毛作を作り上げた、と思われるのです。

中世の歴史研究者も文献資料中心の研究ですから、二毛作の起源を推定するのは限界があるのです。また、中近世の農業をふくむ種々の情報記録文書などの文化の中心は、大坂の町人文化と江戸の武家文化によるところが大きいのです。しかし、このような農業関係のことになれば、当然自然環境に左右されるのですから、気候温暖で冬期にも積雪がほとんどない福岡平野などと、冬は池には氷が張り日中でも溶けない関東平野や奈良盆地などと同一にみることはできないと思います。

水稲栽培が北部九州に伝えられ、関東地方に、どれくらいの時間がかかって伝えられたか、について藤尾慎一郎氏の『〈新〉弥生時代』によれば、北部九州に伝来した水稲栽培が関東(赤坂遺跡)で栽培されるまでに7~800年かかった、と図で示しています。逆に考えると、関東地域で二毛作が始まったのが八世紀平安時代であったとしても、その7,800年前の一世紀頃には北部九州では二毛作は始まっていた、ということも言えるのではないかなあ、などと思ってしまいます。

稲の収穫後の農閑期に、「クニ」の地に所属する労働力を、後年の諸年貢「織布・製塩・薪炭・陶器・鋳物・根菜・干物・醸造等々」多種の「収穫物=トシ」を國主に納めていたと思われることも、「トシ=収穫」として数えられていた、という可能性もありましょう。

なぜ、日本の古代の天皇の死亡時年齢が異常に高いのか、の謎は簡単に解けるとは思いませんが、少しずつ解けかけているように思えます。今後も探究していきたいと思います。(おわり)