四季があるのになぜ二倍年暦が出来たの?(結縄篇)     

 (この中村通敏の論考は九州古代史の会の会報「倭国通信」2020年10月の200号にに掲載されたものです。2021年1月 201号に続編が掲載されています)


◆はじめに

 この「二倍年暦」という言葉は、古田武彦氏が『「邪馬台国」はなかった』1971年朝日新聞社刊で、『三国志』東夷伝倭人の条の記事の検討から生まれています

「一年に二回歳をとった倭人」というタイトルで次のように述べています。【裴松之が倭人伝中に引用した、『魏略』のつぎの記事である。 魏略に曰く「其の俗、正歳四節を知らず。但々春耕・秋収を計りて年紀と為す」

この文章は、すなおに理解すれば、倭人は「春耕」と「秋収」の二点を「年紀」とする、つまり「一年に二回歳をとる」という意味だ(安本美典『邪馬台国への道』もこの理解にふれている)。この解読の正当なことを示すのは、倭人伝のつぎの記事である。その人寿考(ながいき)、或は百年、或は八、九十年。つまり、倭人の寿命は平均「九十歳くらい」の長寿だ、というのである。従来は倭人伝全体を「誇張のプリズム」を通して見てきた。だから、「ああ、ここもか」で片づけられたのである。

二年後に、『失われた九州王朝』で、日本古代天皇の死亡時年齢が異常に高齢な例が多い謎について、前書でのべた「二倍年暦」という概念を導入すれば全て氷解すると説いています。【天皇の寿命の最高限度は百四十(『紀』)ないし百六十八(『記』)である。最高百六十余歳をリミットとしている。この数値の性格は、二分の一にすれば八十余歳という人間の長寿として自然〈ナチュラル〉的な数値に帰する、という点にある。】

 

では、「二倍年暦」なるものが、春夏秋冬の四季が存在する日本列島に、なぜ出来上がり、なぜ長期間存在し続けたのか、その点について古田氏は説明ができていないようです。

南方のパラオ諸島に現在でも残っている二倍年暦が、その源流ではないか。そこからすすめての南方民俗征服説(『古代史の未来』)とか、隋書に見える「夜」と「日中」との“変化”の反映」という発言(『真実に悔いなし』)など仮説とは言えぬ段階にとどまっています。

折角古代史の研究の道に踏み入れたからには、古田氏が提示した「二倍年暦の世界」について、その出現の原因および、その長期的な存在理由について、古代史研究者としては何らかの「解答」を世の中に提示する責務があるのではないか、という思いがします。

文字記録も伝承もなく、当時の文明程度と、現在に残る「二倍年暦」の「よすが」を拾い集めて推論するきり無いのが現状でしょう。また、古田氏が進めてきた仮説の検証も必要でしょう。「師の説に、な、なずみそ」と氏から聞いた覚えもありますので蛮勇をふるってみました。現在に残る数少ない関係情報を拾い集め、なんとか自分では合理的と思える仮説を得たので披露させていただきます。

まず古田氏の「倭人伝」にある裴松之の注「魏略によれば其の俗正歳四節を知らず但々春耕秋収を計して年紀となす」の解釈は正しくないと思われるのです。この文章は、倭人国には農暦が存在していた、それを基準にしてその国の「年紀」を定めていた、ということではないかと思います。

生じた源流について

生じた時代は、日本人の人類学的形質に大きく変化が生じたころ、縄文時代から弥生時代に移る時期であろうことは容易に想像できることです。

その変化を生じさせたのは、水稲栽培文明がわが国に伝わってきたからであろうとされています。それはBC十世紀までさかのぼるのではないか、と言われています。

その根拠は、列島に到来した水稲の起源は、最近の研究結果では、中国長江流域の湖南省付近とされました。その長江流域の草鞋山遺跡のプラント・オパール(植物の細胞内に形成される珪酸塩)を分析した結果、約六千年前にはジャポニカ米が栽培されていたことがわかったそうです。(Wikipediaによる)その、長江流域からのジャポニカ種の陸稲のプラント・オパールが、岡山県朝寝鼻貝塚から約六千年前のプラント・オパールが見つかった、という報告が岡山理科大小林弘明教授からなされています。

また、二〇〇三年に国立歴史民俗博物館が、縄文時代の遺跡から発見された土器に付着していた「ふきこぼれ」をAMSで検査したところ、稲作がBC十世紀にはじまっていたとみられる、と報告もされています。水稲栽培については、佐賀県の菜畑遺跡から約二千六百年前の水田遺跡が見つかっています。山崎純男『最古の農村 板付遺跡』新泉社によれば、福岡県板付遺跡の水田跡も、縄文末期突帯文土器単純期の時代、約二千数百年前と岡崎敬九州大教授が判定しています。遅くともBC六世紀頃には水田耕作が北部九州では定着していたとみてよいでしょう。

長江流域の水稲栽培がどのようなものであったか、直播き二期作だったのか、田植え方式だったのか、については不明です。おそらく、伝来の栽培手法を倭人国の気象に合わせた方法が、渡来民と縄文人との協力によって「豊葦原の瑞穂の国」独特の栽培法が編み出されたことと思われます。

その長江流域で発見された河姆渡遺跡は一九七三年に杭州湾沿岸部の地に発見されたBC五千~四千五百年の新石器時代初期の遺跡です。稲作が行われていた痕跡や摂氏千度の高温で焼かれた陶器も出土していますが、甲骨文字の痕跡は見つかっていず、無文字であった「河姆渡文化」と称されています。中国という大陸には、黄河文明、長江上流四川盆地に三星堆文明、中華流域に河姆渡文明、西方・北方牧畜民族その他の諸文明が多元的に発展していった、と言えると思います。黄河文明から押し出された長江文明の人びとは、黒潮に乗って北方へと長期間にわたり移動し続けたのでしょう。

以上の話を俯瞰しますと、河姆渡文明からの渡来民が、縄文文化から弥生文化への大変革を及ぼしたのは、菜畑遺跡・板付遺跡の資料からみても、BC十世紀~BC五世紀、縄文晩期あたりであったことは、そう的外れではないと思われます。

「二倍年暦」はなぜ必要だった?

古代の天皇の死亡時年齢が通常の年齢の約二倍である、という現代の常識からみると、信じられないような「年紀」が採用され、かつ長期間続けられたのかという謎について考えてみる必要があります。

一度定めたものがその不合理さを知りながら続けられた理由は、為政者側のエゴにあったことは容易に想像できます。後世、奈良時代に確立されたという「租庸調」という名の徴税システムは、原始時代の「クニ」の誕生以来の徴税システムが改良されたものでしょう。

その租税徴収期間が「二倍年暦」であった倭人国の「年紀」を、中華世界も採用している太陰太陽暦に基づいて変更しようとすると、納税者(民衆)にとっては、今までの一回の租税額が二倍になるのではという誤解を生むことでトラブルが発生することは予想されますし、又、徴収する側にとっては、収入時期が倍も間遠くなる、ということから、双方に不満が発生することでしょう。

この難題の解消は、何らかの、たとえば王朝の交代など革命的な事態が生じない限り難しかったのではないでしょうか。これはのちに述べる『二中歴』に見える「年始」の記事が参考になります。そこには「年紀」を「結縄」によるものから「太陰太陽暦」に変えたことを伝えています。この時期は武烈天皇に嗣子がなく越の国から継体天皇が呼ばれた時期です。政体の大変動があった時期と判断してよいかと思います。

縄文から弥生

ところで、縄文時代から弥生時代に我が国の人間の形質に、おおきな変化が生じたことは人類学者が認めるところです。

 山口県の土井ヶ浜人類学ミュージアム館長、松下孝幸氏の著『日本人と弥生人』によれば、“縄文人と弥生人は骨格上決定的に異なり、中国大陸系の多数の住民が渡来してきたことを否定することはできない”と説いています。

そのような大きな影響を与えたものは、渡来人との混血によるもの以外に、水稲栽培技術の到来であり、食生活の変換でありましょうし、社会的生活環境も、縄文時代からのものから根本的な変革が求められたのは必然だったことなどによるものでしょう。

水稲栽培には、灌漑用水路の確保、圃場の整備から播種・田植え・除草・刈入れ・乾燥・脱穀などの煩雑な作業があり、それぞれの気候と時期に応じた集団作業が必要になります。その結果、「クニ」・「首長層」などの出現は必然であったと思われます。特に水田整備・播種の時期を知るためにも季節の変化を事前に知る「農暦」の必要も必然的に生じたことでしょう。

現在でも伊勢神宮の『神宮暦』には、日の出や満潮時刻など天体と気象に関する情報、農事情報をまとめて毎年頒布され、農林漁業関係者や一般の家庭菜園やガーデニングにも利用されています。

「農暦」のために、太陽の動きを観察する役目も必要になります。太陽の動きは、三百六十五日六時間弱であり四年ごとに一日調整する必要も生じます。太陽観測も「クニ」の重要な仕事であったでありましょう。これについての史料は幸いにも『三国志』に記録されています。

◆「卑奴母離」・ヒヌモリ・「日守」について

三世紀のわが国には「卑奴母離」という役職が副官として配置されていたと陳寿は『三国志』に記録しています。その「卑奴母離」が配置されていたのは、対海国、一大国、奴国、不彌国の四ヵ国です。

「卑奴母離」は従来「ヒナモリ」と読まれ「夷守」とされてきました。たとえば、岩波文庫『新訂魏志倭人伝・他』石原道博では、“「夷守」であろう。火の守ではあるまい”としていて「日守」という解釈があることについては気付いていません。

小生は昨年古田武彦氏関係の古代史セミナーで、「奴」の読みについて「奴はヌしかありえない」ということを発表させてもらいました。「奴」という字を字音漢字というか仮借文字といいましょうか、漢文に倭人の言葉を表現する場合、倭人の「ヌ」という発音には「奴」もしくは奴由来の文字きり使えないのです。

なぜでしょうか。その「奴」を「ト」とか「ナ」に使ってしまうと、「ヌ」の発音に充てる漢字が存在しない、という簡単なことなのです。反論はまだ聞こえてきません。

「卑奴母離」は「ヒヌモリ」であり、「日(太陽)を見守る」の意と解してよいと思われます。のちに「日守」と書かれたと思われるその残影?が福岡県粕屋町の由緒だけは古い小さなお社、日守〈ひまもり〉神社の伝承に残っています。粕屋町のホームページは、次のように日守神社の由緒について述べています。

【神功皇后は、お産のために現在の宇美町に向かいましたが、その途中、現在の粕屋町乙仲原西区にある日守付近で休憩しました。

そして、“日を守りたまいて(太陽をじっとみて)”「今は何時ごろですか」と尋ねられました。この伝説から、休憩した場所を「日守〈ひまもり〉」と呼ぶようになり、神功皇后が腰掛けた場所を祭って日守神社ができたと言い伝えられています。】(粕屋町ホームページより)なお粕屋町にはもう一か所「日守八幡宮」という社も残っています。

倭人伝に見えるように、水稲栽培のための「農暦」のための太陽の観測と管理、民衆への広報という役目が「日守」に課せられていたのでしょう。

◆倭人国の「年紀」がなぜ太陽暦の半分となったのか

なぜ太陽年の半年を「倭人国の年紀一年」という単位としたのか?この謎を解くためには、水稲栽培文化の流入時には、流出源の長江文明にも受け入れ先の縄文文化にも、「文字」が存在していなかったことを考慮しなければ解けないと思われます。

では、「倭人の瑞穂の国」の水稲栽培に不可欠の「農暦」はどのような手段に依って記録され人々に知らせたのでしょうか。小生は次のように考えてみました。

わが国でも『古事記』を文章化するのに役立った、稗田阿礼などの暗記能力などに頼っていたという例とか、アフリカにはその部族の歴史を口頭伝承してきている、という事実も存在します。しかし、それ以上に確実に記録を残す方法として文字以前に用いられた技法に「結縄」があります。

この「結縄」の技術について世界各地でその痕跡をみることができます。漢字ができる前の中国でも『易経』(殷墟から発見された甲骨文字から収録された)に「結縄」が出ているのです。『易経』繫辞・下【上古結縄而治 後世聖人易之以書契】(Wikipediaによる)とあります。つまり漢字が出来る前は「結縄」で世を治めていた、と読めるのです。

 わが国の『二中歴』にも「年代暦 年始五百六十九年内丗九年無号不記支干其間結縄刻木以成政」とあり、九州年号が用いられる前は「結縄刻木」という技法によって政治をおこなっていた、と書かれています。

泉靖一『インカ帝国』岩波新書1959年や、アンリ・ファーブル『インカ文明』小池佑二訳文庫クセジュ1977年などに、その精緻な技術にスペイン人を驚かせたインカ帝国の「キープ」の詳細について報告していますし、栗田文子氏は琉球王国の「藁算」という「結縄」技法が近年まで行われていたことを、その「藁算」の丁寧な復元とともに、その内容の複雑さについて丁寧に報じています。(『藁算 琉球王朝時代の数の記録法』慶友社刊)

これらには、地域別生産物の量・各地域の人口・税金・各種の契約など多岐にわたっていたことが書かれています。この精緻な「結縄」技術の継承のための教育施設が存在していたことも報告されています。ただ、発見されている各種の「結縄」に「二倍年暦」に関係するような情報は見いだされていませんが。

結縄については、『隋書』俀国伝でも書かれています。六~七世紀の我が国に文字がなかった、とは『宋書』の倭王武の見事な上奏文が残っていますので、文字がなかったというのは信じがたいのです。しかし、『隋書』は北朝系の史書ですから、南朝系の『宋書』を取り入れることはできず、北朝系の史書として参考できるものは三世紀の『三国志』や5世紀の『後漢書』であり南朝系の『宋書』の「倭の五王」の記事などは無視されたからかもしれません。

以後は物証もなく、論証も難しく、小生の、合理的と思う推測、によるものであることをお断りして「可能性のありうる仮説」の一つとお断りして述べさせていただきます。

◆まとめ

BC十~五世紀の頃、まだ文字はなく、記録は「結縄」に依らざるを得ない状況であった。しかし「農暦」は存在し「結縄」によって「クニ」は政治を行っていたとおもわれる。

 その「農暦」はおよそ春の播種から刈入までの約百八十日の水稲栽培の各種の作業の開始日などを記録していたと思われます。「クニ」が次第に大きくなり支配者層の権力も強大となり、国家の租庸調などの記録をする「年紀」という「時間単位」が必要になったものでしょう。

冬至から夏至、そして冬至に戻る「三百六十五日」を一単位として記録をとるにしては、「結縄」一束で記録するには大きすぎたのではと思われます。その問題の解消のためにもっと小さな「時の長さの単位」が必要になったのではないか、と想像されます。では、その半分の「時の長さの単位」を持つ「農暦」がその「時の単位」の役割を果たせることに思い至ったものと思われます。このような経緯を経て「春分から秋分」約百八十三日が、太陽年の半分の「大王年紀」として採用されたのではないでしょうか。

古田武彦氏でもなしえなかった古代の二倍年暦の発生した理由に、錚々たる古代史の先生諸兄姉にはお目汚しかもしれませんが、あえて皆さんが避けていらっしゃるところに、一石を投じさせていただきました。頭の体操には役立つと思います、皆様方の仮説もお聞きしたいものです。  以上