多利思北孤が聖徳太子ではありえない 九州年号から証する

   副題:「聖徳」を九州王朝に取り戻したい        中村通敏

はじめに

本報告は“「多利思北孤」が「聖徳太子」でありえない。九州年号から証したい。”という視点からまとめてみたものである。論考をまとめている経過で「聖徳」を九州王朝に取り戻したい、という思いを強くし、副題とした。

その要旨は【百済の救援戦に敗れた九州王朝は、大和王朝側に吸収合併された。結果、大和王朝は、その業績・財産 ―「聖徳」・「憲法」・「釈迦三尊像」など― を取り上げ自家のものとしたこと】を、諸種の傍証から証したい、ということにある

古田武彦が提出した「古代に九州王朝が存在した」ということが、各種の傍証が提出されているにも関わらず、世の認証を得るにいたっていない。「九州年号」の検討から、その傍証の一つに加えることができないか という面からのアプローチの報告である。

今回のセミナーのタイトルは『隋書』に描かれた時代についての研究発表である。

『隋書』といえば「タリシヒコ」である。教科書では隋に使いを送ったのは聖徳太子だ。当時は推古天皇の時代だけれど、実質的な大王は摂政の聖徳太子だった、とされているのである。しかし古来この難問に挑んで、タリシヒコの謎を解いた、と自負する研究者下記のように多数だが、解けていない謎なのである。

「タリシヒコ」は誰か によって整理してみた。

*推古天皇であった。 坂本太郎(若年時)・井上光貞・吉田孝など多数。

*聖徳太子であった。 上田正昭・直木孝次郎・黒岩重吾・関裕二・扶桑社教科書など多数。

*一般名詞であり特定できない。 大津透・小島毅・兼川晋・岩波文庫(石原道博)・山川出版社教科書など。

*上記以外の者であった。 大山誠一(蘇我馬子)・小林久三(彦人皇子)・武蔵義弘(彦人皇子)

*大和朝廷とは関係ない豪族の王であった。本居宣長・古田武彦・坂本太郎(老年時)など。

*タリシヒコの存在を無視 太安万侶、舎人親王。

*タリシヒコは日本の史書に出ていないので特定できない。安本美典。

*タリシヒコを重要視していない。北畠親房・石母田正・家永三郎教科書・熊谷公男など。

*タリシヒコの教科書の説明では謎が残る。石川晶康。


 今回の講演者は大山誠一氏でありこのセミナーは「古田武彦記念」という冠が被っている。その両者がタリシヒコは聖徳太子ではない、というところで一致している、というのにも何かの因縁が感じられる。ただ古田武彦はタリシヒコではなく原文はタリシホコであると指摘している。

 この両者はタリシヒ(ホ)コが聖徳太子ではあり得えない、と言うところでは一致している。しかし、では誰なの?ということになると全く違う。大山誠一は蘇我馬子説で、古田武彦は九州王朝のタリシホコ大王という主張である。

 しかもその根拠は、と言うところでも両者が一致しているところが多いのである。特に、「聖徳太子関係の遺物は全て、聖徳太子の遺品ではありえない」点で一致している。

一致していないのは、それらの偽造品がどこから到来したものであるのか、と言うところである。

 その中でも有名な法隆寺関係の遺物についての見解は次の様である。大山誠一の主張は「法隆寺は一度焼けて再建された。その証拠は、再建されたその寺の建築様式が、その時代に合わない新しいものである。後年どこかの寺院を移築したものである、という主張である。

 この主張は古田武彦も同様である。法隆寺は被災の後に再建された。それは九州太宰府の寺を移築したのではないか、というものである。

 大山誠一は、現在の法隆寺の元になった寺を未だ突き止め得ていないようである。今回何らかの新発見の発表でもあればと願っている。

 古田武彦の側も、現法隆寺の基本尺が南朝尺であり他のこの時代の基準尺と異なることを、移設元の寺院が太宰府の寺院からではないかと説く川端俊一郎『法隆寺のものさし』や、木造建築の移築に伴う移築用の符牒の存在、その符牒と異なる方位で建てられている現在の法隆寺であり、木材年輪法やC14法による木材伐採年から、太宰府の観世音寺から移築されたものと説く米田良三『法隆寺は移築された』や、『日出処の天子は誰か』で大下隆司が現在の太宰府観世音寺に残されているバカでかい石臼「碾磑〈てんがい〉」や五重塔の心柱の基礎の直径が現法隆寺と同じサイズであることなどで、法隆寺に移築されたのはこの観世音寺からである、と論じている。

 これら研究者の証言があるにも関わらず、国内の考古学会に取り上げられるには至っていないのが現状であろう。

 蟷螂の斧かも知れぬが、今回「古代逸年号」について検討してみた結果、『二中歴』というものが九州王朝の実在を隠すために世に出たものであろう、という結果を得た。これが、九州王朝実在の微証になるのではないか、九州王朝の実在を証する一助にもなればという思いからまとめてみたものである。



本論 古代逸年号と聖徳太子

現在の6・7世紀の史料について

 現在、6・7世紀あたりの日本側の史料は殆ど残されていない。8世紀に編纂された『日本書紀』に時々浮上する神代記の「他家のモタラス一書群」や『日本世記』・『日本旧記』などだが、具体的な史料としては残っていない。

 九州王朝が存在していたのであれば、当然その帝王年代紀的なものが存在していたことは間違いないであろう。

 5世紀の倭王は朝鮮半島の国々の統轄権を宋朝に要求している。その国々はすでにそれぞれの「国の歴史書」が存在していたことは『日本書紀』多数の朝鮮半島の国々の史書からの記事の引用があることで明らかである。九州王朝も当然それらの歴史書に負けず劣らずの歴史書や帝王起居注的なものを作成していたことは間違いない。『日本書紀』に見える『日本旧記』もそのうちの一つであろう。

『隋書』に6~7世紀の日本列島について記事が「俀国伝」として残っている。その「俀国」から理解できることは、多利思北孤は隋帝宛ての国書に「大委国」と自署したものと思われる。我々も「ニッポン万歳」ではなく、「大日本帝国万歳!」と声をあげていた歴史を覚えている。

『日本書紀』の中にみえる『日本旧記』がいつまでの「大委国」の歴史を記していたのかは不明であるが、「大委国の年代歴」が文書として残されていたことは間違いないであろう。

 元明紀の禁書令や「日本紀講書」による種々の圧政にまけず、禁制をくぐって口伝で残された昔の年代歴に残された「年号群」が、中世に浮上した。その年号群から「聖徳」の二字がどのようにして消えたのかを調べてみた。


『日本旧記』は禁書であった

 これらの九州王朝に在ったと思われる大委国歴史書類は、近畿天皇家によって禁書となった筈だが、この書名『日本旧記』は『日本書紀』編集者のミスで残されている。それが欽明天皇紀に残されたクマナリの割譲記事である。

 1975年に古田武彦は『盗まれた神話』朝日新聞社1975年刊 で次のように『日本旧記』などについて述べている。

『日本書紀』に見える神功皇后の羽白熊鷲の討伐説話・景行天皇の熊襲討伐大遠征などは「九州王朝内部の発展史」であったことを論証し、その名は『日本旧記』であった、と『日本書紀』雄略紀21年3月の条に『日本旧記』によれば、という下記の注釈があることを述べ、原文と訳文を紹介する。(同書第四章 蔽われた王朝発展史 その名は「日本旧記」より)

【日本舊記云「以久麻那利、賜末多王。」蓋是誤也。久麻那利者、任那國下哆呼唎縣之別邑也。〔日本旧記に云ふ。「久麻那利を以て末多王に賜ふ」と。蓋し是、誤りならむ。久麻那利は、任那国の下哆呼唎県の別邑なり〕。〈雄略紀、二十一年頃〉】

 この記事自体の信憑性について古田武彦は詳細に論じているが、この件は、今回のワークにとっては、大和朝廷とは違う伝承を記していた『日本旧記』という書物が『日本書紀』編集者の手元にあった証拠となる、という意味で重要である。

 そのうえで『日本旧記』の成立時期についても古田武彦は検証のメスをいれて、次のように導き出している。



◆『日本旧記』の編纂時期

【雄略21年をAD480年ごろとすると、その後50年ごろ成立したと思われる。これは『百済記』『百済新撰』『百済本記』という史書の流れがそれぞれの最終引用記事年次から約50年後に成立したと思われることからの推測である。つまり6世紀中葉の成立であろう。

 よく似た名前の『古事記』も『旧事紀』は天地開闢から執筆時代までの全史をのべている。『日本旧記』も九州王朝の創始と発展の全史を含んでいたと思われる。】(同書 第四章 蔽われた王朝発展史より圧縮して紹介)

 ただ問題なのは、「成立時期を6世紀中葉」としたことに後述の古代逸年号「九州年号」と『日本旧記』の接点が見えにくくなったことである。なぜなら、「九州年号」は7世紀末ごろのまで年号が記されているのであるから。

 クマナリ割譲についての『日本旧記』についての論証は的を射ているが、「九州王朝出来事・帝紀・起居注などを記す書物は、『日本旧記』一冊に限ることは出来得ない。「書き継がれていた」とするのが、朝鮮半島諸国の同様な歴史書が存在していたのであり、大委国は宋朝に対して朝鮮諸国の支配権を要求していたことをみれば、この推測は当然であろう。

 古田武彦は1995年の「多元的古代研究会・関東」の新春講演会でこの件についても触れて次のように講演している。

【『日本書紀』には神代紀に十指に余る「一書」が存在します。一書という本の名があるはずはない。当然題名があるはず。その名は書かれていない。ほかに『帝王本紀』・『日本世紀』・『日本旧記』などの本が見える。『日本書紀』の編集者は当然それらの本を目の前に置いていた。それらがどうして大和の政権の書庫に保存されることになったのか。どうしてこれらの本を保存しておかなかったのか。保存していたら自分たちが困る本であったからが正直な答えであろう。これらの本は『日本書紀』編集者によって都合よく取捨選択されたあとは敢えて廃棄されたのであろう。】(「多元第5号」より引用)

『日本書紀』に取り込んだ後は、『日本旧記』などにあった九州王朝の王者の「起居注」や「年代記」なども抹殺されざるを得なかったのである。

 現在、古代逸年号研究では『二中歴』が代表的なものとされている。しかしながら平安時代末に出現した『二中歴』が果たしてタリシホコ王朝の「年代記」をそのまま表しているのか、今ではまだ幻の「九州王朝年代記」を正しく継承しているのであろうか、ということについては検討の余地があろう。

 各種の古代逸年号を再検討し、特に年号「聖徳」についての検討を行うことによって、『隋書』に見える「俀国の多利思北孤」が「聖徳太子」ではありえず、蘇我馬子にも非ず、「大委国のタリシホコ法皇」であった、と試みてみたその作業報告が以下である。



◆古代逸年号について関係学会の認識

 まず「古代年号」についての国史関係学会の認識についてみてみた。まず、年号論についての現代の権威者と目されている所功氏の意見はと調べてみた。古田武彦は古代史の権威者たちからは総じて敬遠されているのであるが、所功は古田武彦を自書で取り上げていた。

 古田武彦が『失われた九州王朝』で提起した鶴峯戊申の『九州年号』という古写本からの一連の古代年号を九州王朝の年号としたことについて、『年号の歴史―元号制度の史的研究』雄山閣出版1988年にて、古田武彦説を取り上げている。その所功の結論は「古田武彦は好太王碑文解釈については素晴らしい業績を残したが、九州王朝説は学問的に成り立たない」との意見であった。以下に関係個所を紹介する。

 第一章 中国と日本の年号 二 彼我の創建年号 中国での年号が帝王の即位からの年を数えることから始まったなどと述べて次のように続ける。

【わが国で公式に建てられた最初の年号は、『日本書紀』考徳天皇即位元年条にみえる「大化」だと古来いわれている。そして私もそれを基本的に認めてよいと考えている。(中略)ただ近年、一方で、大和朝廷とは別に古くより勢力を張っていた〝九州王朝〟が大化以前から〝九州年号〟を使っていたという異説(注4)が唱えられ、他方では、八世紀初頭の「大宝」こそ最初の公年号であって、「大化」や「白雉」などは後から追建されたものにすぎないという主張もみられる。

 このうち、前者は学問的にまったく成り立たないが、後者は考慮すべき鋭い指摘を含んでいる。】とあった。その(注4)をみると古田武彦氏『失われた九州王朝――天皇家以前の古代史』(昭和48年刊)参照  とあった。

 ついで第二章 まぼろしの〝九州王朝〟で15ページにわたって古田説批判を「はじめに」「出所不明の『九州年号』」「『海東諸国記』の〝古代年号〟」「九州年号解釈の矛盾」「古代年号の成立事情」と詳述している。

 この「はじめに」の文章に所功の本音がみえると思われる。次の文章である。

【以前『日本の年号』という小著をまとめるころ、たまたま店頭でみかけて興味深く拝見したのが古田武彦氏著『失われた九州王朝』にほかならない。かって私は古田氏の真摯な研究に感心したことがある。それはたしか昭和四十七年秋、東大の史学会大会において、高句麗好太王碑文(拓本)についての李進煕氏の臆説を、宮内庁書陵部にある酒匂景信大尉自筆の報告書「碑文之由来記」を発見紹介することによって、見事に論破されたときである。その精緻明快な論旨は、専門家をも納得させるに十分であった。右の著書(第三章Ⅰ)には、この件に関する検証の経緯も詳述されている。

 しかしながら、その好太王碑文にみえる四世紀の「倭」も、五世紀の中国南朝・宋について記した『宋書』などにみえる「倭王」も、六世紀の隋について記した『隋書』にみえる「俀国」も、すべて「近畿大和の天皇家ではなく、九州王朝の実在を示すもの」と主張される古田氏の「論証」には、当方の理解不足のせいか、とてもついてゆけない。少なくとも右の著書(第四章Ⅲ)で強調されている「九州年号の発掘」は、どうみても無理な解釈が多く、とても成り立たちがたいと思われる。】

 真底から近畿天皇家一元史観の元で培ってきた所功史観には「古田武彦の論理」での論述は心に響かなかったようである。



◆「九州王朝年代記」研究の歴史概観

 この古代の逸年号とされていたものを取り上げた鶴峯戊申『襲国偽僭考』の「九州年号」を古田武彦が『失われた九州王朝』朝日新聞社1973年刊で取り上げた功績は大きい。 古田武彦は概略次のように紹介している。

【鶴峯戊申は、これらの古代年号は『九州年号』という古書にあった、としている。また、同様の年代記が李氏朝鮮の『海東諸国紀』申淑舟1471年 にも存在しているし、国内にも如是院年代記・麗気記私抄などの古代逸年号記の存在と合わせて、鶴峯の「九州年号」は九州王朝の年号であった】と。

 古田武彦は『失われた九州王朝』で『海東諸国紀』についても次のように紹介している。

【第一 この本が、朝鮮の成宗の命によってつくられた正史に準ずるものであること。

 第二 この本の成立直前の時期の日本側所伝(『霊気記私抄』『如是院年代記』)と用字の違いがいちじるしいことから判明するように、鎌倉本――室町期の日本側所伝の写しとはみなしがたいこと。
 第三 したがって、世宗・文宗・端宗・世祖・睿宗・成宗の六代にわたる長年の間、李氏朝鮮の朝廷内にあって礼曹の職にあった碩学、申淑舟が、朝廷内(・ ・ ・)正規(・・)記録(・・)に依拠していると思われること】(同書第三章 九州年号の発掘 より)

 この古田武彦の意見は「14世紀末から19世紀末存在した李氏朝鮮の朝廷の記録」というものが存在していた、という仮定で成り立っている。論理的な推定といえるであろう。

 朝鮮半島の諸国は中国や北方民族の侵略を受け続けていたし、又、東方の「倭国」からの侵攻も度々受けていたことは高句麗の「好太王碑文」にも見えるように、歴史上明らかなことである。そのことを考慮にいれれば、14世紀以前の近隣諸国の情報も記録されていた、ということもあながち空想とは断定できないであろう。

 朝鮮半島は中華文明を受容する地理的な好条件もあり、文明度も一般的に倭国よりも進んでいたことは認めざるを得ないことであろう。

 それに民族独立の意識は高く、幾度もの外国から侵攻にも耐え、中国文明に屈することなく、独自の文字を考案するなど、倭国よりも優れた面が多いことも認めざるを得ないと思われるのである。



◆年号「法興」について

 ここで法隆寺の釈迦三尊像光背銘に見える「法興」という年号についてもまとめておく必要があろう。

 年号「法興」が見えるのは、釈迦三尊光背銘だけではなく、湯岡の温泉碑文にあったと伊予風土記に「法皇大王が法興6年に伊予の温泉に来た」旨の記事があることと、『和漢年契』という江戸時代の書物見える、古代逸年号に喜楽―端正―始哭(始大)法興という別系列の年号群に「法興」があることである。

 古田武彦は『失われた九州王朝』で    『襲国偽僭考』に「吉貴」の年号の所に前出の  喜楽~法興の別系列の年号群が存在していることをしめしている。(同書朝日文庫版401頁参照)

 ところで、古代逸年号の研究で優れた業績を上げている人物に丸山晋司がいる。1943年生まれで大阪学芸大学を卒業し、公立中学校教師。「市民の古代研究会」などに所属し古代史の研究に励む、という経歴の持ち主である。メインの著作は『古代逸年号の謎―古写本「九州年号」の原像を求めて―』アイ・ピー・シー1992年刊である。

 この古田武彦が示す「喜楽~法興」別系統の年号群の意見について、丸山晋司は、この別系統をしめす『和漢年契』この四個の年号の合計が10年とあることは「吉貴」の10年と合致している、ということだけである。と『和漢年契』の古代年号部分の検討に1章を割いて18頁に亘って述べている。

 この四個の年号はその『和漢年契』ではトータル10年で終わった、とされているのであるから、光背銘の「法興元丗一年」とこの年号群「喜楽~法興」とは本質的に大きな違いがあるのではないか、と思える。

 しかし古田武彦はその点には直接触れず、次のように解説する。【鶴峯戊申が依拠する『九州年号』の記述者はこの法隆寺の釈迦三尊中の「法興」年号を知らなかった。なぜなら伊予の温湯碑の「法興」は記していながら、この光背銘の「法興」にはふれることがないからだ。だのに、右のような対応と一致がある。これは偶然ならず。光背銘の「法興」年号が、この『九州年号』内に位置すべきものを示しているのである】。(『古代は輝いていたⅢ』1985年朝日新聞社刊 236頁)

 この古田武彦の主張には次の問題があるのである。『九州年号』の記述者は「光背銘に法興元31年」とあることを知らなかった、とする。しかし、それに記述者が言及すると、「4年号は10年で終わる」との整合が取れないので、知っていたが書かなかった、という解釈もできるのである。



◆二つの年代歴の併存

 古田武彦は「法興」は九州王朝に存在していた二つの年代歴群があったと『「九州年号」の研究』2012年ミネルヴァ書房 「11 「両京制の成立 ―九州王朝の都城と年号論で、九州年号の「定居」・「倭京」が九州王朝の都城の造成に関連していると思われる、ことを述べ、次のように続ける。

【『隋書』の一節「使者言う『俀王は天を以て兄となし、日を以て弟となす。天未だ明けざる時、出でて政を聴き跏趺して坐し、日出ずれば便ち理務を停め、いう我が弟に委ねん』と。」

 この不思議な「兄弟両治」制の痕跡は、九州年号群にも存在する。「兄弟」(五五八)だ。隋の高祖、文帝は「これ大いに義理なし」として、「ここにおいて訓えてこれを改めしむ。」とあるけれど、自国の”伝統ある制度”を、他国の統治者の一言で、簡単に廃止するはずはない。

 三国志の魏志倭人伝において、卑弥呼(倭の女王)が「弟王」と共同して統治に当たっていたこと、著名であるが、これも右の”伝統”の一環であろう。

(A)の太宰府の都城が、中国の都城制を受けつぎ、「紫宸殿―大(内)裏―朱雀門」を中核とする堂々たる一大都城であるのに対し、(B)の筑後の場合に、「正院」「正倉院」といった「院」制による名称を遺存していることが注目されよう。 両者、昼と夜、政治行政と宗教的祭祀、おのおの、その役割を、おのずから異にしていたのではあるまいか。】(同書167頁~)

 このような見解を後押ししてくれたのが、2000年に久留米の大善寺の「鬼夜」の祭りを拝観したことであった、と。同書に述べている。

【「鬼世の復活の儀式」という感想を古田史学の会の上城誠さんに話したら”夜は、兄(天)の宗教儀礼、昼は弟(日)の政治統治」という二元制が生まれたのではないか”というイメージを直ちに提起された】というエピソードが述べられている。(同書177頁)

『隋書』の“有名な記事”について「兄弟政治」というイメージから「両京」というのは飛躍があるのではないか。引用されている“有名な記事”にあるように、兄は「政を聴く」とあり、単に祭祀だけではなく、「政」の最終の決裁者であることはあきらかである。そのうえで「日中の具体的施政」については「弟」に任せる、と取れる記事なのではあるまいか。太宰府が首都で、筑後は別院的存在であった、とるのが適切なのではあるまいか。

 この「年号法興」は正確には「年号」ではなく”「法興法皇起居注」的なものに付けられた年代記の年次”であり、「九州年号」というものは「大委国」の国王(多利思北孤法皇の弟王)の施政のための「年号」であったのではないか、という仮説が生じるのである。

『古代に真実を求めて』古田史学論集第十八集 2015年明石書店 に、正木裕の、多利思北孤の太子利哥彌多弗利の年号「聖徳」(629年)は、利王子が父同様の菩薩戒をうけ、それが年号「法興」につながる「年号聖徳」である、と発展させられている。その年号「聖徳」が近畿天皇家に盗まれたとする。(同書143~152頁)この「二系列九州年号正木説」については、改めて後述する。


◆その他の九州王朝説と九州年号論議

 古田武彦が「九州王朝」の存在を『失われた九州王朝』で主張する前にも「九州王朝」・「九州年号」の存在を示した歴史家を取り上げた論考がある。

 古田史学会報65号2004年12月にて、冨川ケイ子が広池千九郎編『日本私学新説』明治25年刊 に収録されている二編の論考を紹介している。一つは今泉定介「昔九州は独立国にて年号あり」と飯田武郷「倭と日本は昔二国たり・卑弥呼は神功皇后に非ず」という論考である。この二つは『九州年号の研究』の中にも再録されている。

 九州年号に言及しているのは前者であり、その論考に『九州年号』に依拠して述べたとしていて、鶴峯戊申が同じく『九州年号』からの引用としているが、両者を比べると微妙に異なるが、その叙述から「今泉は独自に『九州年号』の写本をみていたとおもわれる」と冨川ケイ子は述べる。【今泉は明治中頃に見たという。今後の“発見”に期待が高まる】と結語している。残念ながらその期待は継続していただかねばならない現状である。



丸山晋司の古田説批判

 古代逸年号『二中歴』について、丸山晋司の研究が1989年の「市民の古代研究会」編『市民の古代第11集』に収録されている。古田武彦と丸山晋司両名の古代逸年号の研究について、ほかの研究者がそれぞれ意見を述べ、古田武彦も丸山晋司の「『二中歴』が国内での最古の史料」ということを認めている。

 結果的に、古田武彦は1993年の『失われた九州王朝』朝日文庫版において、九州王朝の年代歴は『二中歴』であったと、同書に「補章」を設けて弁明している。(後述)


 丸山晋司は『古代逸年号の謎』を1992年に出版。同書に見える調べ上げた主な年代記の作成された時期については、次のようである。

『二中歴』 鎌倉時代 1047年 平安中期

『如是院年代記』 鎌倉時代 1281年(塙保己一『群書類従』1779年に記載)


『和漢年代記』(建長寺蔵) 南北朝時代 1381年

『麗気記私抄』 聖冏 室町時代 1401年

『勝山記』(妙法寺記)室町時代 1466年

『海東諸国紀』申淑舟 室町時代 1471年

『皇年代記』一条兼良 室町時代 1478年

『興福寺年代記』凝然 江戸時代 1615年

『衝口発』籐貞幹 江戸時代 1781年

『和漢年契』高安蘆屋 江戸時代 1789年


 これらを眺めていると、『年代記』の著述された年代としては、『二中歴』が圧倒的に古く、丸山晋司の『二中歴』本源説が正しいと見えるのである。また、江戸時代の年代記には『二中歴』には見られない「聖徳」とか「聖聴」があることは『海東諸国紀』の影響か、とも見えるのである。

 しかし、古田武彦は丸山晋司の主張を「早呑み込み」したようである。両者の著述から読み取ったところをまとめてみると次のように言える。



◆古田―丸山論争

 丸山晋司の「古代逸年号」についての論述『古代逸年号の謎』は、副題―古写本「九州年号」の謎を求めて―にみえるように国内の史料収集、古来の研究者の論考などについての検討は多岐にわたっている。それぞれの史料について、実証を求める姿には敬服する。

 古田武彦は『失われた九州王朝』で鶴峯戊申『襲国偽僭考』の中の『九州年号』と申淑舟の『海東諸国紀』の古代逸年号についての記事を取り上げて「九州王朝の年号」であったと論じた。

 丸山晋司はその逸年号についての古写本の編集年代を調査し、『二中歴』が現在に伝わる「古代逸年号」諸記録では最古のものである、と論じた。

 しかし丸山晋司は、この『二中歴』の原型については現状では確定できないが、と前置きして、『二中歴』が依拠したであろう祖型と、『海東諸国紀』の年代歴との伝承関係について調べた結果を『二中歴原型』としてその「祖形案」を提示している。

 古田武彦は丸山晋司が説く「古田氏の諸古代逸年号の調査の不備」を認め、次のように、『失われた九州王朝』朝日文庫に「補章」で『二中歴』をもって「九州王朝の年号」とすることを表明したのである。
【本書中の力説点の一つ、九州年号の問題についても、新たな局面が出現した。『二中歴』問題である。

 本書では「善記(善化)~大長(大化)」の間、六世紀前半(「善記元年」は、五二二年)から七世紀末(「大長三年」は七〇〇年)までを、九州年号の時間帯とした。ところが、「九州年号」を伝える最古の文献『二中歴』のみは、右とは異なる年号群を記していた。

「継体元年(五一七)~大化六年(七〇〇)の百八十四年間、三十一年号がこれである。検討の結果、わたしはこの形をもって原型本とせざるをえない、との判断に達した。なぜなら、この文献『二中歴』の成立は、堀河天皇の康和元年(一〇九九)、平安時代の中葉末、他の諸種の「南北朝・室町期・江戸時代の写本群」より、はるかに早い時期の成立なのである。

 次に、他の多くの「異年号」「古代年号」「九州年号」群が「近畿天皇家の『天皇名』と共に掲載されて、年表ないし年譜化されている」のに対し、この『二中歴』は、近畿天皇家の天皇名とは別個に、切りはなされた形の“独立系”である。この点も、見のがせない。なぜなら、前者の場合、「継体天皇十一年(五一七)」が「継体(九州年号)元年」となるため、いかにも“形が悪く”なってしまう。だから「継体(九州年号)何年」の形が“切り捨て”られた。そういう可能性が大なのである。

 三つめに、『二中歴』の方は、十八個の項目に、近畿天皇家側の文書に見られぬ、独自の文面がある。たとえば、


 鏡当四年、辛丑、新羅人来り、筑紫より播磨に至り、之を焼く。
のように、現地(播磨)側伝承とも一致しているようである。

 以上のように、現在の写本状況からは、『二中歴』を「原型」として判断せざるをえないのである。この点、論争中にこの『二中歴』を扱われた、所功・丸山晋司の両氏に深く感謝したい。(所氏は、九州年号否定論。丸山氏は「旧形式〔『善化(善記)』〕型」の支持者である)。】(『失われた九州王朝』朝日文庫版 巻末「補章 二中歴」参照)




◆古田武彦の早呑みこみでは?

 しかし、古田武彦は丸山晋司の意見を読み違えていたのではないか、と思われるのである。丸山晋司は『二中歴』を以て、古代の王朝が用いた年号群であろうとは主張していないのである。

 丸山晋司は最終的に「終章」で原型案A表を提示している。そのA表の丸山晋司の説明は【西暦522年から700年まで、日本列島を代表しうる「権力」は左表Aのような年号を発布していた。これが、701年の「大宝」へとつながっていくのである。】(同書251頁)

 丸山晋司の言う『二中歴の原型案A』と古田武彦が当初依拠した『海東諸国紀』の年代歴とを比べてみた。(諸国紀の年号で*印が付けれ、太字になっているのが両者の違い)


[表2]原型案A表と諸国紀の年号対比表

A表    海東諸国紀

善記      善化*

正和      正和

教到      到*

僧聴      僧聴

明要      要*

貴楽      貴楽

法清      清*

兄弟      兄弟

蔵和*蔵知   蔵和

師安      師安

知僧      僧*

金光      金光

賢称      賢接*

鏡常      鏡當*

勝照      勝照

端政      端政

吉貴*告貴   吉貴

願転      転*

光充*光元   光元

定居      定居

倭景縄*景縄  倭

仁王      仁王

聖徳      聖徳

僧要      僧要

命長      命長

常色      常色

白雉      白雉

白鳳      白鳳

朱雀      朱雀

大化      大和*

大長      大長


この丸山晋司が示す祖形案は、『海東諸国紀』年代歴と基本的に同じではないか、と思われる。

 年号各個の字の異同は10個と、少なからず見える。(上記年号の太字化している字)しかし、全く違うという年号ではなく、年号の一字が異なっているのである。『海東諸国紀』と『二中歴』いずれかの数百年の間での「筆写時の誤り」や「誤刻」とみて理解しうるものばかりである。

 丸山晋司は、古田武彦が中国の史料から演繹した「九州王朝」自体を否定しているのではなく、その存在が日本の金石文に存在していないのであるから認められないと主張しているのである。

 それらの発言が同書に見える。たとえば序章「古代逸年号実在の論拠」を丸山晋司は次のように締めくくる。

【なおわたしは、古代逸年号を「九州王朝」の年号とする古田武彦の所説を正しいと思うものであるが、それゆえ、九州出土の六、七世紀の文字資料から、この年号群が発見されなければならない。現在のところ、そのようなものは発見されていないが、それが使用されていなかったことを証する資料も発見されていないのである。今後の発掘成果を息を詰めながら待つこととしたい。】(同書20頁)

 また、丸山晋司は終章で、論証を抜きにしてわたしの史料観から概観すれば、と前置きして、まず『二中歴』の祖形として〔A表 古代年号の原形〕をあげ、次のように述べている。

【古田武彦説くところの「九州王朝」がこれらの古代年号(=A表)を発布した「権力」であったと、思われる。すなわち七世紀がおわるまで日本列島の代表王権は、この年号をもった「九州王朝」にあったが、「大和朝朝廷」が徐々に力をつけ、特に「九州王朝」が「白村江の戦い」に破れたのちは、実質的に日本列島を支配していたようである。そして名実ともに支配権を確立したのが、「大宝建元」の年であった。その年――『旧唐書』は、「倭国伝」に換えて「日本伝」を書き始めている。】(同書257頁)



年号「聖徳」の行くへは

 古田武彦が「九州王朝年号歴」を『二中歴』とし、年号「聖徳」を外したことにより、古田武彦の「九州王朝説」を支持する人々には、『二中歴』の「年代歴」を「九州王朝の正しい年代歴」をベースとしての論考が、古田武彦説支持関係団体の出版物に見られるようになるのである。具体的には、年号「聖徳」は九州年号から排除されるか、別系統の年号グループとしての研究対象となっていくのである。

 2015年出版の『盗まれた「聖徳太子」伝承』古田史学論証第十八集 に見える正木裕の“盗まれた「聖徳」”の論考、をみてみる。そこには年号「聖徳」は存在するが、別系統の年号群に置かれている。

 正木裕「法興―聖徳の法皇年号歴」という論考で、年号聖徳は「九州王朝の年代表」には存在せずとする。多利思北孤の法皇としての年号「法興」を継ぐ、「利」王子の法号に由来する「聖徳」であり、国王の年号と法皇の年号の二つの年号歴が存在したという説を述べる。

 その利皇子が聖徳法皇となりその事跡が年号とともに近畿天皇家に盗まれた、と主張している。続いて正木裕は「利」王子が菩薩戒を受けたと想定しての仮想俀国史物語を展開するが、やはり何らかの「物的証拠」が必要と思われる。



◆年号「聖徳」の特殊点

 この年号「聖徳」が、なぜ・いつ・誰が・どのようにして「九州王朝祖形」から落ちこぼれ、最古の古代年号歴『二中歴』となって出現したのか。

 この基本的な問題については、結果論として「近畿天皇家側に厩戸皇子に聖徳太子の事跡をかぶせ、そのためには年号「聖徳」は抹殺されざるをえなかった」という推定結果論からの理由付け以外には、現状では具体的証拠を提示しての論議はみられないようである。


 今回の古代逸年号について、この「聖徳」について注意しながら調べてみていき、その中の久保常晴『日本私年号の研究』が多数の年代歴を一覧表にしていたのを俯瞰してみた。

 この久保常晴について丸山晋司は、年代歴をこれほど多く渉猟しえたことは評価しながらも、古代逸年号はすべて後代の偽作という久保常晴の見解は手厳しく批判している。

 しかし、久保常晴の一覧表は整理して自書に転載していたのである。久保常晴『日本私年号の研究』p125~127頁にまたがって「古代年号とその出典典籍表」を掲載している。126頁部分に「聖徳」があるのでその部分を下に添付する。

 この表の年号「聖徳」に注目すると、『二中歴』のみが「聖徳」の年号を持っていないのである。

 この年号「聖徳」についての論評は『市民の古代第11集』に斎藤隆一の「九州年号試論」に見える。斎藤隆一は次のように年号聖徳について意見を述べている。

【聖=高徳の僧。聖人。 徳=修行によって身に着く善行。教え。恵み。君子。  なぜ聖徳太子の死後、こんなところに同名の年号を偽作したのか、久保氏も困りはてたことだろう。

 古田氏は、『二中歴』解説で、「倭京」の注記にある「二年難波天王寺聖徳造」の聖徳が、後代の年代記の本文に紛れ込んだのではないか、と推測する。しかし殆どの史料が「聖徳」を持つので、これを混入とするのは、やはり無理であろう。

『二中歴』の中には、『紀』の影響と思われる部分がある。第一に「大化」の注記に「皇極天皇四年為大化元年」。第二に「朱鳥」年号をもつ。これらは、『紀』により発生した可能性が強い。つまり『二中歴』も『紀』に汚染されている文書なのである。

 したがって、聖徳太子を特に強調する『紀』の影響で、その死後に「聖徳」などという年号が入るのはおかしいと思い、取り払ってしまった可能性も又、すくなからずといえよう。


 さて、利歌彌多弗利も徳の有る行政で民衆から慕われて、この年から六年後に若くして没した。「聖徳」の諡はこの年号に因んで後におくられたものと思える。】

 この斎藤隆一解説の、最後の「利」に贈られた死後の諡が年号「聖徳」からでは、という説には、「徳の有る行政で民衆から慕われた」といえる何らかが、例えば九州年号の個々の年号から何かの微証でも嗅ぎつけられれば、と願うのみである。



『二中歴』は外からの力で汚染されていた

『二中歴』は外からの力で汚染されていたという証は斎藤隆一も指摘する様に数多くある。『二中歴』に数多い「注記」に見ることができる。

 その一つが年号「倭京」の注記「二年難波天王寺聖徳造」である。古田武彦は「後代に紛れ込んだものではないか」と推測しているが、『二中歴』以外の年代歴が年号「聖徳」を持っているのに、『二中歴』には存在していないことについては気付いていなかったのであろうか無言である。


『二中歴』は『日本書紀』・『聖徳太子伝暦』などに合わせて、「聖徳」年号を抹消する役割を担うこの注記は、それらに合わせるべく挿入されたとすれば納得がいく。

 外国史料『海東諸国紀』に見える年代記および、久保常晴が集めた数多い国内の「古代逸年号年代記」のすべてに古代年号「聖徳(聖聴)」が記載されているのに、『二中歴』だけには入っていない。

 この「事実」が示すものはなにか。丸山晋司は前述のように『二中歴』のもとになった「年代歴(A案)」を提示している。それは「年号聖徳」を『二中歴』加えたものであった。それは『海東諸国紀』に残されている年代歴の年号群と基本的に同じものと判断されるものであった。

 何故「聖徳」は抹消されなければならかったのか、は斎藤隆一が述べるように、近畿天皇家が多利思北孤王朝の優れた事跡をすべて「自家の物」にするために、斑鳩皇子に「聖徳太子」の衣を着せて、それに合わせた伝承を作り上げものであろう。

「太子」という衣を着せたことから、近畿天皇家が取り上げた種々の事跡が、多利思北孤の事跡ではなく、「太子」とあるからには「利太子」の事跡なのか、判別は現状確認できる史料では不可能であろう。

 古田武彦が中国史料にみえる日本列島の記事から演繹的に導き出した「九州王朝」の年代歴として、鶴峯戊申のいう『九州年号』と『海東諸国紀』を取り上げたのは正しかったのである。

 ただ、「九州王朝の年号歴」取り上げた資料に『二中歴』が含まれていない古田説の、その点を丸山晋司に突かれ、その立論の不備で自説を修正した。ただ、その丸山説『二中歴〔A案〕』を早呑みこみして『二中歴』を「九州王朝の年号群」としてしまったのである。

 古田武彦の古代逸年号についての最後の論考と思われる『九州年号の研究』古田史学の会編 ミネルヴァ書房 2012年 でも次のように述べている。

【九州年号論は日本歴史の骨格である。「九州年号」にふれることのない日本の歴史像は、魂の欠けた歴史、抜けがらの歴史にすぎない。明治維新以降の日本政府と日本の公教育は、「骨ずいの欠けた虚像」をもって「日本の歴史」と偽称し、全国民にこれを“押しつけ”てきたのである】と。

 以下、真実の日本国の歴史を九州年号と『日本書紀』の関係について詳細に31頁に亘って述べている。

 ただ残念なのは、その「九州年号一覧」に「聖徳」が抜けていることである。この古田武彦の判断が「古田史学」研究グループに起こした現象がこの『九州年号の研究』および、それから3年後の『古代に真実を求めて 古田史学論集第十八集 盗まれた「聖徳太子」伝承』古田史学の会編 に、九州王朝としての一連の年代歴に「聖徳」が見られない結果となったのである。



『二中歴』に「聖徳」がなぜないのか

『二中歴』の母胎は『九州王朝に存在した筈の帝王紀』であろう。しかし現在残る『二中歴』の姿は、その母胎とは思われない姿をしている。

 再述になるが、我が国の古代の記録『日本書紀』にたくさんの朝鮮半島諸国の史書からの引用がなされている。地理的条件から、我が国より中国文化の洗礼を浴びることが多かった朝鮮半島の諸国が、後輩の倭国の文明化に注目していなかった、というのであろうか?

 そうではあるまい、九州王朝が発足当時から朝鮮半島にいろいろと災厄をもたらしたであろうことは「高句麗好太王碑文」でも明らかである。その九州王朝が史書『日本旧記』類を著したのであれば朝鮮半島諸国は無視したのであろうか。なんとか手に入れたであろう、と思うのが理性的な判断であろう。


『日本書紀』を開くと古来朝鮮半島からおおくの技術者・仏師・王族などがわが国に渡来している。そのうちの多くは我が国の中枢の近くにいたことは間違いあるまい。単に「伝道」とか「親交」だけでなく“古来半島諸国に災難をもたらした倭国についての情報”も母国に伝えていたのは間違いあるまい。

『日本旧記』いうような歴史書が倭国にあれば、当然筆写されて母国に渡った、という推測の確率は高いと思わざるを得ない。岩波文庫『海東諸国紀』田中健夫訳注によると、次のようにある。

【日本国紀の記事は、申淑舟が日本で入手した文献、通信使等の日本渡航者、日本人で朝鮮に渡航した者等から得た文献等によるものと思われるが、その典拠はいずれも明確になしえなかった。このことは、一方では日本に埋もれてしまった文献の記事が朝鮮にだけ伝えられて残存したことをしめしており、『海東諸国紀』の史料としての価値の高さを物語っている。

 通交者に関する記録は承文院や春秋館の所蔵記録参考にしたものであろう。いずれにせよ、議政府領議政・領経筵・藝文館・春秋館・弘文館・観象監事・礼曹判書という申淑舟の地位は、正確な資料を最も的確に収集・把握できる立場であったと称して過言ではない。『海東諸国紀』の記事が長く尊重され、規範とされたのも故なしとしないのである。】(同書428頁)


 田中健夫はこのように『海東諸国紀』を高く評価するが、前述のように我が国側の記録『二中歴』との「年号名」の内の10個に及ぶ異同の内いくつかは「筆写時の誤り」も生じていたと思われる。

『海東諸国紀』で特に気になった間違いの文章が「日本国紀」の西海道九州に見える。【筑前州 山あり。海浜をへだつること三里。山頂に火井あり。日正照し、煙焔天に漲り、水沸きてあふれ、凝りて硫黄となる。】(同書164頁)とある。

 この「里」単位は日本の里を使っているので1里は約4キロであり、海浜から約12キロのところに活火山があることになる。地質時代ならともかく有史時代になってそのような火山は筑前には存在してない。これはおそらく『隋書』の俀国伝の阿蘇山の記事を誤って混入したものであろう。

 福岡~阿蘇山は約120キロ(30里)の位置にある。つまり三十里とあるべきが、どこかで「十」が落ちたのであろうか。朝鮮の里単位は日本の1里が10里ということであるので、そのことから換算間違いが生じたのかもしれぬ。

 ともかく、李氏朝鮮という半島を統一した国家の公式の史書『海東諸国紀』にみえるその日本の年代歴が、朝鮮半島に存在していた「倭国」・「日本国」関係の諸記録を総合して編集したものであろう、ということの検討は丸山の著作には見えない。にもかかわらず『二中歴』(丸山原本案)から『海東諸国紀』の年代歴になった、ともとれる丸山案には疑問符を付けざるをえない。

 両年代歴が、「聖徳」以外では、ほぼ同じ姿をとどめていた。大局的には両者とも母胎は「九州王朝の年代歴」であろう、という丸山晋司の考えもみえるのであるから、目くじら立てることはないかとも思える。

以上のことがらを理性的に判断すれば、平安末期ごろから大和朝廷の国史についての規制が緩やかになり、埋もれていた年代歴が、口すさびとして、浮かび上がってくる。それを好事家が寺社記録などから古代逸年号群として掘り出しを公表できる世の中になったのであろう。

 しかし、掘り出したものの、『二中歴』として世に出る際に『日本書紀』や『聖徳太子関係諸書』の記述に反しないように「聖徳太子信仰集団」の圧力が、「聖徳抜きの年代歴」となって世に出されたものであろう。

 なぜなら、聖徳太子信仰集団にとって、「年号聖徳」など彼らの依拠する文献に見えず、存在がありえない年号名であり、私年号としても説明不能の「年号聖徳」であったのであろう。


『二中歴』の果たした役割

 何故『二中歴』が九州王朝の実在の証拠となるのか。そこに至った思考の流れを整理して示すと次のようになろう。

      年号はその地域の王権の存在によって生まれる

      一連の年号群が存在すれは、その期間の王権が継続して存在したことを証明する。

      白村江の敗戦で近畿王朝が九州王朝を吸収する。

      歴史は勝者によって書かれる。『日本書紀』も例外ではない。

      そこには、「九州王朝」の存在をうかがわせる記事はない。

      『日本書紀』の描く歴史が唯一の歴史として300年ほど教育がなされた。

      平安中期に至り『日本書紀』『続日本紀』などの歴史教育は行わなくなる。

      その近畿王朝が「武」による統治組織部分が強大化し皇室の力が弱まる。

      年号歴について、お遊びでの口すさびで歌われていたのが、浮上してくる。

      われわれも小学生のころ「ジンム・スイゼイ・アンネイ・イートク~~と」お経のように口すさび、暗記量を競った記憶がある。

      40個に満たない年号群は口すさびに格好の題材であった。

      その口すさびに「ショウトク」があるのが聖徳太子信仰の人々の気にさわった。

      「聖徳」は九州王朝を吸収した折に取上げ、厩戸王子に被せた二文字であったのだ。

      口すさびが「古文書」として市中にあがってくると聖徳太子信者連には我慢することできなかった。

     平安中期に源為憲によって『口遊』用として『二中歴』が編集され市中に流された。 「聖徳」を外して。

⑯  「聖徳」を外した弁解に「倭京」の注記に「二年難波天王寺聖徳造」をいれた。



◆結論として。

『二中歴』の存在自体が、元号を持っていた古〈いにしえ〉の王朝の存在を蔽い隠すために、隠したい勢力によって作られたものであったことを示しているのである。

 逆説的にいえば、年号「聖徳」を持たない『二中歴』が堂々と『懐中暦』として存在しえたことが、「聖徳という年号を持っていた九州王朝の存在を示す証」なのである。

 しかしながら、古田武彦が『二中歴』=「九州王朝の年代歴」という説を唱えたことの影響は大きい。改めて年号「聖徳」を多利思北孤の王朝年代歴に取り戻したい、真実の古代日本の姿をみたいという思いでの本稿である。

「年号聖徳」の発見例も九州王朝のおひざ元でも皆無の状況である。多利思北孤は「年号」を持った「九州王朝」の統治者であり、近畿天皇家の聖徳太子や蘇我馬子ではなかったのである、という論証を確証にするためには、木簡などの金石文に年号歴関係の出土を待たねばならないのであろうか。

 近畿天皇家側が九州王朝から「聖徳」を取り上げたことの証に、本稿が多少なりとも役に立てれば、という思いと、九州王朝の年代歴に「年号聖徳」を正しい位置に取り戻したい、という二つの目的が達成できれば、と蟷螂の斧をふるってみた結果の報告である。

 人生の終に近づき、生きがいを与えてもらった古田師を批判する部分も多い論考になったが、師の教え通りに検討した結果であることを、師には理解してもらえることと思う。

                      2022.9.30