天孫降臨神話と宗像            中村通敏

 今の定説では、記紀神話は歴史的事実でない、という津田左右吉による記紀研究結果で統一されているようです。最近(2010年)に、現役の東大国史学教授大津透氏が『天皇の歴史01 神話から歴史』(講談社)でも同様で、『記・紀』の神話時代の説話は、八世紀の創作的作品とされています。一般的に、神功紀から遡って神武天皇までの記事は「観念的モチーフによる叙述」とされているようです。

 つまり、①歴史的事実でないから、雄略天皇以前の天皇は高校の教科書にも出ていないのだ。 『記・紀』は各地の神話を大和政権の側で再構築し、国生み出雲神話天孫降臨東征建国という大きな構想を作りあげたのだ。 応神天皇以前の『記・紀』の記述には天皇の系譜を含めて史実の記録と呼べる部分はなく、全く史料価値がないのだ。

 ということで定説は成り立っているようです。

『日本書紀』には、日向の高千穂に天孫降臨したニニギノミコトが、膂宍〈そじし〉の空国〈むなくに〉に向かって行く途中でコノハナサクヤヒメを見染める話があります。

 この説話について、これこそ造作の見本だ、天皇家がこのような片田舎の、痩せこけた土地から発祥するわけがない、と説いたのが津田左右吉氏です。

 ところが津田史学の後継者的存在の井上光貞氏の『日本の歴史 神話から歴史へ』(中公文庫 1973年初版)という本を読みますと、そこでの「神武天皇東征」に対する解釈には若干ニュアンスが違うのです。
そこでは、【神武天皇は実在ではない、という津田左右吉の「日向などの膂宍〈そじし〉の空国〈むなくに〉のような未開地が皇室の発祥地でありえただろうか」というように、神武東征物語は何らかの事実に基づくものではなく「天孫降臨」に続く「日本神話の一部」である。しかし考古学上の事実からみて、皇室及び大和朝廷が北九州となんらかの関係がありそうだ。】ということで、井上光貞氏は邪馬台国九州説であったようです。

 津田博士の「日向〈ひゅうが〉の膂宍〈そじし〉の空国〈むなくに〉」の基本的認識が正しいのか、という問題について今回考えてみました。

 津田博士の「このような宮崎地方という未開地が皇室発祥の地ではありえない」という認識は、日向=宮崎地方という固定観念から生じています。天孫降臨の地の高千穂を、宮崎県の高千穂や鹿児島県の霧島連峰に比定したこと自体に問題があるのです。

 天孫降臨神話は、外部からの日本列島(北部九州)への侵略譚に他ならないのです。『記・紀』が物語る神話の舞台は出雲を除き北部九州が殆どです。福岡県に「日向〈ひなた〉」も「高千穂」も「クシフル岳」も「空国〈むなくに〉」も存在します。

 この津田博士が引用する「日向の膂宍の空国」のフレーズは、二ニギの命が天孫降臨後に日向(糸島)から空国に向かう時の表現です。空〈むな〉国とは、出雲神話にもしばしば登場する古い国、宗像〈むなかた〉です。この地方には二ニギの降臨以前に天国〈あまくに〉から天下った事勝国勝長狭〈ことかつきにかつながさ〉がいた事が『日本書紀』に記されています。

つまり、当然の話ですが、二ニギは決して最初の降臨者ではないのです。空国(宗像)への先行降臨者に挨拶に出向く途中でコノハナサクヤに会ったという話です。

 そこでどうして宗像が「膂宍の空国」(痩せた背中の肉のような空っぽの国)という表現になったのか、ということですが、地形図を開いてみればその意味がよく分かります。

 宗像地方の地形は正に人が伏せた背中の形をしているのです。宗像平野の中心を流れる釣川を背骨に見立て、その両側の丘陵地を背筋に見立てる、古代人の表現力に驚かされます。

 同様な見立てをされた先達の古代史研究家がきっといらっしゃると思いますが、当方が調べたところでは分かりませんでした。もし先達の方がいらしていたら申し訳ない、と思いながら下図を付けて報告します。