推薦文  古田 武彦 

 【尚、この古田武彦氏による推薦文のネット公開に関しては、ご遺族古田光河氏の了解を得ていますことを記しておきます。】

驚きました。一読してひとたび驚き、再読して、さらに驚きは深まりました。三読すれば、さらに無限の世界が拡がるでしょう。

著者の中村通敏さんとは、歴史学上の本や論文を通して、繰り返しおつきあいのあった方なのですが、小説の世界にまで、これだけ自由自在の筆をふるわれるとは、全く予想しなかったのです。

わたしは論文などのなかで、しばしば次のような「せりふ」を使うことがあります。「それは小説にすぎない」と。

事実を積み重ね、人間の納得できる論理でそれを推し進める。それが学問です。歴史上の文献、また考古学的な出土物、さらの現地伝承など、いずれにせよ、眼の前にある「過去の遺物」を大切にし、それを自分勝手に変更しない。これを無上の「おきて」と考えてきたのです。ですから、研究者が勝手に、眼の前の文献を書き直したり、考古学上の出土物やその分布を無視したりしたとき、「それは小説にすぎない。」そう言ってきたのです。

 

では、小説は無価値でしょうか。いや、マイナスの意味、「ペケ」の世界なのでしょうか。とんでもない。全く逆です。小説こそ人間の独創や創造に必要不可欠の「思う」という、人間の大切な世界を養ってくれるものです。「考える」力も、そこから出てきます。

わたし自身も、青年時代に読んだ、日本や外国の詩歌や小説類、その読書を抜きにして、現在のような「学問」の世界を目指していたとは、到底考えられません。

たとえば、ゲーテの詩や「ファウスト」、たとえばシェークスピアの「リア王」、たとえば田宮虎彦の「足摺岬」など、わたしの空想と想像の世界を、限りなく、伸ばしてくれたこと、まちがいありません。

けれども、自分で「小説」を書くなど、とてもそんな力は、夢にもありませんでした。

しかし、中村さんは、ぐいぐいと筆を書きすすめ、一大小説世界を展開されました。畏敬の念を深くする他、ありませんでした。本当に驚いたのです。

 

日本の歴史の本にふれた人には、よく知られている言葉があります。

「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子にいたす、恙なきや。」

これは日本の推古天皇が中国の天市だった煬帝に贈った「国書」に書かれた言葉だとされています。本当でしょうか。

なぜなら、日本の歴史の古典とされている古事記や日本書紀には、右の「迷文句」は全く出ていないからです。

こちらの日本側から贈った「国書」なら当然、さしだした側、日本の天皇の「自署名」つまり“自分の名前”があるはずです。

確かに「それ」が書かれているのですが、それが「推古天皇」ではなく「多利思北孤(タリシホコ)」と書かれています。

推古天皇は女性ですが、この「タリシホコ」は男性です。「キミ」と呼ばれる奥さんがいる、と書かれています。

しかも、中国側(隋朝)の使者は日本列島に来て、彼(タリシホコ)に会って、会話しています。「まちがえた」どころの“騒ぎ”ではありません。

「事実は小説よりも奇なり」という言葉がありますが、どうも本当の事実は、中国側の歴史書、隋書の方にあるようです。

このようにして、明治維新以後、現在まで、教科書に書かれ、()まった「歴史事実」とされていた根本の事実には、大きな「?」がある。これが三十数年来主張してきた「九州王朝説」です。

わたしには「女性と男性が同一人」だとは到底信じられなかったのです。

中村さんは、この道理を久しく肯定して下さった方でした。

 

「では、なぜその“タリシホコ”が九州の王者だと判るのか。」

そのように「問う」方がありましょう。その通りです。しかし、その理由は簡単です。この「日出ずる処の天子」の「名文句」の直前に、「阿蘇山あり、その石、故(こ)なく、火起こりて天に接す。」とあります。有名な九州の阿蘇山です。「故なく」というのは“古い石がなく、絶えず新しい石を噴き上げている”という意味です。あの活火山、阿蘇山の噴火の実際を見ずには書けない、生き生きとした「達意の名文」です。

ところが、これに対して推古天皇のいた「大和(奈良県)」なら、出ていい「大和三山(香久山・畝傍山・耳梨山)もなく、大和盆地をしめす、「山迫りて、天狭し」といった形容も、全く「なし」です。それどころか、九州から大和へ至るための途中にある瀬戸内海をしめす、たとえば「一海あり、湖水のごとし」といった「せりふ」もまた皆無なのです。

やはり、この「タリシホコ」の都は、「大和」ではなく、九州にあった。そう考える他、道はない。わたしには、そう思われるのです。

 

「では、その九州王朝の歴史は、どうなっているのか。」

そういう質問がでましょう。当然ですが、残念ながら、その解答はストレートには出しにくいのです。なぜかといえば、ズバリ、九州王朝自身が作った「歴史書」が残されていないからです。

確かに、現在の日本書紀は、今問題の「九州王朝の歴史書」を再利用し、「リフォーム」して、近畿天皇家(大和朝廷)用に“作り直され”た形跡が十分です。

「リフォーム」といえば当世流行。“かっこいい”ひびきですが、残念ながら実はスッキリしていません。」なぜなら、いさぎよく「九州王朝」の存在を認めた上で、それを「リフォーム」に使ったのなら立派です。文字通り「安心:なのですが、実際はそうではありません。あたかも「九州王朝はなかった」という“立て前”をとり、はじめから「自分中心の歴史」があたかも一貫していたかのようにした、いわゆる「偽造」です。ハッキリいえば、「盗用」の形なのです。

それをスッキリととり除き、九州王朝そのものの歴史と、その「分家」だった筋だった、近畿分王朝との“かかわり方”を考える。これが今回の、中村さんの企てられた壮大なイメージだったのです。それが「小説」という形をとって、自由に、自在に、そして伸び伸びと書きすすめられているのです。

わたしには、敬服する他はありませんでした。

 

もちろん中村さんは「これがまちがいない史実だ。」そんなことを言っておられるのではありません。全くありません。

架空の人物を何名か“独創”し、彼等を登場させて、人間くさい恋や悩みがつらねられます。その人々の間で「歴史」が進行するのです。時代が次々と展開してゆくのです。見事な腕前です。

それだけではありません。それらの物語の節目々々に、自作の歌が“はめこまれ”ています。それも万葉風の「古代」めいた歌なのに、その「物語の中の登場人物」の恋や悩みや時代の移り行きに対する感慨などが生々しく“ひそめ”られ、歌われているのです。

小説家が自分の作品の中に、あたかも「昔から伝承された歌」の形をした、実は「自作のウタ」を“引用”して使う。これは「あぶない」方法です。うまく作ってあればあるほど、読者がそれにだまされやすいからです。

たとえば、深沢七郎の「楢山節考」には古い民謡が呪文のように散りばめられていて、それが「子が親を捨てにゆく」話が実際にあったかのような迫力を生んでいます。

しかし、実際はこれらの一見「古い民謡」とは、実は作者の深沢七郎が自分で作った「新しい民謡」だったのです。しかし、特別の「ことわり」がないために、本当に昔からあった民謡だと思い込んでいる読者も、少なくありません。つまり、「子が親を捨てる」という風習が信州(長野県)に実際に存在した、今でもそう思っている読者、また評論家さえいるのです。

これは「罪」なケースです。いうなれば、アン・フェアーな“やり口”です。

しかし、中村さんの場合は、全く違っています。ハッキリと、自作の歌であることをことわった上、他の方(上城誠氏)の「査閲」つまり“見直し”を受けたことまで明記しておられます。まさにフェアーそのものです。驚嘆しました。

これなら、あの折口信夫以上に、「古代風の歌」で満たされた「古代歌謡」つまり新万葉集をお出しになることも、ありうるのではないか、そういう」「畏れ」と期待すら、持たされました。

 

鏡王女と額田王、いずれも輝かしいイメージは残しながらも、その人生の輪郭のハッキリしていない、二人の女性。この恋物語として今回の物語は展開されてゆきます。

七世紀の後半、六六二年ないし六六三年に行われた、白村江の戦いで、敵軍の唐側の捕虜になった、筑紫の天子薩夜馬(サチヤマ)を中心軸におきながら、この物語は展開されています。

その上、イキ皇子という“独創の人物“を投入して、物語全体に”人間らしい息吹き“を与えようとしている。さすが「小説」の醍醐味です。

わたしは最近、この白村江の戦のときの「倭国の天子」は斉明(サイミョウ)天皇とされた、「九州王朝の天子」だと考えています。「サチヤマ」は、その摂政です。彼女の次代の「天子」になった人物と考えています。

しかし、それは「小説」の上では“些少のくいちがい”にすぎません。先ずは中村さんのくりひろげられる人間模様の絵巻物、それを繰り返し堪能させていただいています。

 

もう一つ、けっして忘れられない、この物語の特色があります。ノリキオ画伯の存在です。

まだお会いしたことはありませんが、中村さんの従来の作品、歴史学上の論稿にも、時々「姿」を見せていました。従来の作品に、その華やかなスケッチと美しい色彩感をもつ「画」が出されていたからです。

二〇〇九年の二月に原書房から中村さんが出した『七十歳からの自分史 わたしの棟上寅七』にも好筆をふるっていました。

先日、三・一一のさい、宮城県の被災地で長期間を生きのびた「祖母と孫」のニュースがありましたが、日常時でも「祖父と孫」のむつまじい共同作業は存在するようです。

 

最後に、わたし自身の思い出を書かせていただきます。

少年時代夢中になって読んだのは、ジャンヌ・ダルクとナポレオンの物語でした。歴史学などというものではなく、まさに子供向けの物語にすぎませんでしたが、わたしの心を完全に「占領」し、少年の心に「歴史をやりたい」という思いを結晶させました。それが八十四歳の今に至ったのです。

今回の中村さんの力作が、少年や少女の心の一端の灯火(ともしび)をつけたら、たとえそれが一人であっても、すばらしい人類の「事件」です。わたしはそれを疑いません。

二〇一一年四月二十五日