『東方年表』批判   

この論文は東京古田会ニュース(古田武彦と古代史をb研究する会の会報)第184号(2019年1月)に中村通敏名で掲載されたものです。 

◆はじめに

歴史上の事件について、語ったり書いたりするときに必要なものは、その歴史上の事件が起きた年代です。特に東アジアでは「年号」が用いられているところが多いので、調べるのも面倒です。

そういう時に便利な本があります。『東方年表』掌中版という本です。中国大陸、朝鮮半島および日本の王統について、日本の神武天皇が即位されたとされる皇紀元年(紀元前六六〇年)から、現代までの支配者の変遷について年表化されています。

また、付録として日本・中国・朝鮮・渤海・満州国の「帝王歴代一覧」、「年号索引」、「干支表」が掲載されている、という非常に便利なものです。

この本は一九五五年に大谷大学教授藤島達朗・同じく野上俊静両氏によって編さんされ、平楽寺書店から出版されました。編集に際して、同大学講師の畑中浄園・北西弘の両氏の協力によって完成した、と「はしがき」にあります。

ただ、神武天皇の即位を紀元前六六〇年というところから始められ、その在位が七十五年に及んだ、とされています。このように、日本については『日本書紀』の記述をそのまま年表にしています。

古代の歴史的事件の年代推定に際しては、特にその年表化されるにあたって、その根拠とされた文献や金石文などに注意を払わらなければならないことは言うまでもありません。

日本の所謂「欠史八代」は言わずもがな、中国や朝鮮の古代の事件を検討するに当たって、この『東方年表』に依拠するには、その年代比定について、その根拠を慎重に吟味検討する必要があるのは論を待たないことです。

『東方年表』の問題点は

中国の古代の王統については、諸説ありますが、『東方年表』がどの史料から各王の在位年を取り上げた、というような説明は一切ありません。中国の西周期の王統断代年表は『史記』にも記されていません。それなのに『東方年表』は、西周時代の諸王の在位年を記述できているのです。

しかし、現在でも確実と言われる「西周歴代王年表」は日本の学界で認められたものはまだないのです。それに、日本の皇統については、『東方年表』では、『日本書紀』のみによっていて『古事記』は無視されていますが、その理由は記されていません。

全体として、この年表が編集された、一九五五年時点での通説を編者が独断で取り上げていると思われるのですが、中国の西周期の帝王在位年については、その根拠がはっきりしないまま、版を重ねているのです。(小生の所蔵本には二〇〇七年五月二〇日発行第三十六刷とあります) 

この『東方年表』は、近年の考古文献学や考古天文学などの成果については全く取り上げられていず、昭和から平成に改元されたことが、唯一の第一刷からの基本的変更点なのです。

また、Wikipediaで「東方年表」を検索してみますと、注意事項として次のように述べています。

【年代の確定に当たっては、各史書が依拠している暦、太陰太陽暦とグレゴリオ暦かについての考慮は全くされていず、編者が依拠した書物に従って記載されていることにも注意を要する】と。

おそらく古田史学に関係される諸兄姉におかれては、このようなことは百も承知の事とは思いますが、今回中国の古代王朝の断代プロジェクトについて調べる機会があり、自分の浅学を恥じることになるかもしれませんが、気付いたことを報告します。

◆古代中国の帝王断代史における問題

東周以降の各王の断代史については、文字資料も多く、殆ど異論が出ないまでに統一されているのですが、それ以前の「西周期」には問題が数多く存在しています。

例えば、殷・周時代の金石文の研究者松井嘉徳京都大学東洋史学研究科卒島根大学教授を経て、現在京都女子大教授の『周代国制の研究』汲古書院 二〇〇二年刊では次の様に述べられています。

【青銅器銘もまた史料である以上、当然その年代を付されて考察の対象となるべきこと、多言を要しない。しかしながら、周知のように周代の開始について、学界は未だ確定した実年代を共有しておらず、従って歴代周王の在位年数についても、共和元(紀元前八四一)年以前の諸王に確定した年数を与えることはできない。西周期の青銅器銘には、例えば(例示の記述略)周王の在位年・干支が数多く記録されているが、周王の在位年数を確定できない状況下でその紀年に実年代を与えることは困難である。また西周期の暦譜を再現し青銅器銘の紀年をそれに当てはめようとする研究も数多く存在するが、これらの方法論によっても青銅器銘の紀年に実年代を与えることには大きな困難が伴う。以上の事から、本書では青銅器銘に実年代を与えることを断念し、それに代わる次善の策として、現時点でもっとも網羅的な青銅器銘の集成である中国社会科学学院考古研究所編『殷周金文集成』の断代案(以下『集成』)と、青銅器の形式学的研究である林巳奈夫『殷周時代青銅器の研究』など(以下『研究』)の断代案を採用することとした】

このように、西周以前の青銅器銘文の年代比定は難しく、一応現段階では「中国社会科学研究区員の断代案と日本の林氏の研究案を採用している、としています。

また、東京大学東洋文化研究所の平勢隆郎氏(注1)は次の様に西周時代の各王の在位年について、それを確定する困難さを述べます。

【竹簡などに見える天子の紀年記事は、その絶対年代を決めるには困難を伴う。例えば、『竹書紀年』の天文記事から、その絶対年代を推定しようとしても、その天文記事の解釈の仕方によっていくつもの解が出て来る。私は殷の滅亡を甲骨文の天文記事を検討して、紀元前一〇二三年という答えを出した。しかし、自分の研究ではそうはならない、という意見もいただいた。私は、一つの甲骨文だけではなく、いくつもの試料を並べて判断しているのだが、その試料の取り上げ方で答えは違ってくる】(「ひらせのホームページ」より)

夏商周断代研究プロジェクト

松井氏が周代の帝王断代年代決定の難しさと、中国科学技術院の年表完成を望まれたのですが、その後中国では、「夏・商・周断代研究工程」という国家プロジェクトを推進し、二〇〇〇年十一月に「夏商周年表」として発表しています。

このプロジェクトについてWikipediaでは概略次の様に述べています。

【中国古代の年代は文献資料でわかっている限りでは、周の共和元年(紀元前八四一年)までしかたどれない。このプロジェクトは、一九九六年五月に正式に開始され約二百名の若手主体の学者が参加した。一九九九年九月に、中国史学会、中国考古学界、中国科学技術史学会、政府担当部署の共催で「夏商周断代工程中間成果報告会」が開かれた。二〇〇〇年九月に、最終報告がまとめられ、政府のチェックを受け、二〇〇〇年十一月十日に、中心的学者李学勤・李伯謙・仇士華・席沢宗によりその内容「夏商周年表」が公表された。

この年表の作成にあたって、

①天文学的な手法

発掘された甲骨文や文献資料において、日食や月食が起きた記事を調べ、天文学的な計算によって、その日食や月食の年月日を算定する、

②考古学的手法

王侯の墓地の埋葬者をC⒈⒋年代測定法で調査し、おおよその没年を算出する、

③文献学的な手法

文献資料の暦法の違いを精査し、相互の矛盾を発見し、どれが正確なのかを判定する。

その結果夏王朝が開かれたのは紀元前二〇七〇年頃、商(殷)へ代わるのは紀元前一六〇〇年頃、周が殷に代わるのは紀元前一〇四六年、商の盤庚から帝辛までのおおよその年代を確定、周の王の在位年を具体的に策定、などを年表で表している】

この発表について、Wikipediaに注がついています。群馬県文書館古文書課主幹から高校教師を経て、中国安徽師範学校の客員教授から現在南京師範大学客座教授である小沢賢二氏の異見を上げています。

【中国のプロジェクトで周王即位を紀元前一〇四六年とすることについて、二〇一〇年に『中国天文学史研究』汲古書院 で、『竹書紀年』の紀元前一〇二七年とする記述を否定できないと主張。今回の中国のプロジェクトでは、周王即位を『国語』(周語)の歳星記事を根拠としているが、惑星の存在が認識されたのは戦国時代以後であり、『国書』の惑星記事は後代の創作】

日本における夏商周断代年表批判

日本におけるこの「夏商周断代研究工程」についての代表的な異見は佐藤信哉氏(立命館白川静記念東洋文学文化研究所客員研究員)の『周 理想化された古代王朝』中公新書二〇一六年刊 で見ることができます。

前出の松井嘉徳氏が西周を、前半Ⅰ期・Ⅱ期・後半Ⅰ期・Ⅱ期と区分けしていることを説明して、そのあと次のように述べえいます。

【なお、周王朝創立の年代や各王の在位年代については諸説ある。中国で国家プロジェクトとして進められた夏・商・周王朝の年表作成(夏商周断代工程)により、二〇〇〇年にそれぞれの在位年代などが発表されたが、これはあくまで今後の研究のたたき台であり、その後も新しい金文の発見を承けた研究の進展にその都度部分的な修正案が呈示されている。よって本書でも「共和の政」以前については、西暦による具体的な年代を上げていないことを、ここで特にお断りしておく】

此の佐藤氏の意見が日本の学界の考えを代表しているように思われます。

「夏商周断代年表」の周武王の例

中国の国家プロジェクトの成果がどのように一般では受け止められているのか、Wikipediaで見てみます。具体的に断代として、周初代王「武王」について見てみます。

Wikipedia中国語版 武王在位 紀元前一〇四六年~一〇四三年 

この年次の説明には、この研究プロジェクトには「竹書紀年」「古代の天文事象研究」や「ケンブリッジ大学の研究」も参考にしたと書かれています。ケンブリッジ大学の研究では、武王の在位は紀元前一〇四九乃至一〇四五年の即位で、紀元前一〇四三年に没した、とある、(原文:剣橋中国史推測其在位時間約為前一〇四九或前一〇四五年至前一〇四三 年)という意見も付け加えています。

Wikipedia英語版でも紀元前一〇四六年~一〇四三年です。

これは中国の夏商周断代表によるとの説明があります。但し論争は残っている、(These detes are those of the Peoples Republic of China’s official Xia-Shang-Zhou Chronology Project, although they remain controversial.)と但し書きがついています。

Wikipedia日本語版では紀元前一〇四六?年~一〇四三年とあります。紀元前一〇四六の後に「?」がつけられていることについての説明はありません。学界には平勢先生や小沢先生のような異説を唱える方も多いことからと思われます。

周王朝の始まりについては、議論があるようですが、武王の没年については、議論はなく一〇四三年で一致しているようです。ちなみに『東方年表』での武王の没年は紀元前一一一六年であり、Wikipediaとは七十三年異なっています。

この違いは、東周の時代の十三代宣王になりますと、その在位年は紀元前八二七~七八二年という在位年はWikipediaも『東方年表』も、全て同じ数字となり齟齬は解消されます。

まとめ

以上述べてきましたように、『史記』などの暦年記事や「年表」も見直されなければならなくなります。例えば周朝五代目の穆王について、『史記』には在位が五十五年にわたったこと、即位したのが五十歳であった、と書かれています。つまり百四歳生きたというように読めるのです。

これを中国の夏商周断代工程年表によればどうなるのか見てみました。即位が紀元前九七六年で紀元前九二二年に没したとあります。在位年数は五十五年と同じです。しかし、死亡時年齢は七十一歳として、百四歳説を否定しています。

以上、古代中国の帝王の在位年代について、中国の「夏商周断代研究工程」の成果を中心に述べてきましたが、これで全てが終わったわけではなく、日本の学者たちからも異見が多く述べられているように、絶対とは言えない、と思います。

しかし、今後私たちが古代中国の歴史に関係した研究を行うにあたって、その簡便性のために、素性の知れない『東方年表』による古代中国の年代を使うことは避けなければならないことは間違いないことでしょう。古田史学関係の研究者団体でも古代中国に関しての研究に当たって、この『東方年表』をその史料批判を行わないまま利用する例が見られます。(注2)その史料批判を行った上で行わなければならないことは論を待ちません。

また、『東方年表』は、便利さはあるのですから、中国古代帝王や日本古代天皇について、近年の研究成果を取り入れて、近く新しい年号となるのですから、いやでも版を改める必要がありましょう。この機会に近年の知識を取り入れた新版にするか、それが難しいようでしたら廃版にされるべきと思います。   おわり

 

参考資料

『周代国制の研究』松井嘉徳

『周―理想化された古代王朝』佐藤信哉

『史記』野口定男訳 平凡社

平勢隆郎(ウエブ)「ひらせのホームページ」

ウエブ辞典 Wikipedia 引用は、二〇一八年十一月二〇日での記事。

 

1:文中、平勢隆郎 としていますが、正しくは「勢」ではありません。「勢」の「坴」の部分が「生」だそうです。パソコンのIMEパッドに無く、「勢」を使っていることをお断りしておきます。

注2:この東方年表の「周王朝の在位年表」を用いて、【周王朝時代は2倍年暦のせかいであった】と論じた古賀達也氏の論文『論語】二倍年暦の論理(東京古田会ニュース179号 2018年3月がある。