角田彰男氏の「やまとの起源」について再びの疑問     中村通敏

 

小生が角田氏の“「ヤマト・倭・やまと・大和」の起源を解く”(会報148号)について問題にしたのは次のような点でした。

 まず、「邪馬壹国」は山の壱国であること。壱岐の都が「海都」であって、福岡方面に進出して、「山都」になった、とされます。その立論の起点、「海都」の読みや地名についての考察も無く、角田氏の感年条の産物ではないか、ということでした。

 第二点として「倭」の読みについて「ちくし」という読みについての意見がない、ということでした。

 第三点は、晋が滅亡して、魏に二心ない国「壹国」と付けた意味がなくなり「邪馬台(ヤマト)国」に変えた、とされるが、『後漢書』の邪馬臺国の意味について疑義があることをのべました。

 今回角田氏から会報150号に“壱岐の「海都」を視点にすると「ヤマト」名の起源は九州”と小生の疑問に答える、と云う形で意見を述べられています。有難く拝読しましたが、依然疑問は解けません。以下これらの疑問点について述べます。

 まず、「海都」について、角田氏が観念的に思いついたものでない、発掘調査による客観的な結論 と概略次のように述べられます。

【平成八年、原の辻遺跡で巨大な船着場遺構が発見され、国際的な交流・交易拠点「都市国家」であったということで国特別史跡に指定された。これを受け、原の辻遺跡は大陸交易ルート上の「海の王都」「海都」として全国に紹介された。従って「海の王都・海都」は、私が頭の中で観念的に思いついたものではなく考古学者たちが発掘成果を検討し原の辻遺跡の特徴について客観的に得た結論である。】

 この論理の進め方は、文章にはなっていても文意は通らないのではないか、と失礼ながら思ってしまいます。二〇世紀末に考古学者などがこの遺跡の表現に使った「海の王都・海都」を紀元前と思われる天孫降臨時期以前に同様に用いられていた、とはとても思えないのです。

 確かに、壱岐が邪馬壹国の原点であることは間違いないと思うし、海辺の都であったのも間違いないでしょう。しかし、「海辺の都」という認識があったとしても、「海都」という言葉があった、というのは飛躍に過ぎるでしょう。そこで止まるならまだしも、そこから「山の都」から「ヤマト」へと推論を重ねるのは無理があると思います。

 第二点の筑紫の読みに関連しては次のように述べられます。倭の音と訓については、平凡社大百科の説明を引かれて、「倭は大和」と説明されます。そして付け加える形で、【九州王朝説では倭(ヤマト)の起源は「九州・筑紫」なので倭は「つくし」も意味すると言えよう】と。

 角田氏は「九州の筑紫(ちくし)」の小見出しのところで、【6世紀以降に造られ、「ちくし」の最古の記録は隋書倭国伝の「竹斯」である。】とも言われます。

「倭=大和」は従来の歴史家の考えの集約でしょうが、“倭(ヤマト)の起源は九州王朝説では「九州・筑紫」だ”、というところが分かりません。九州王朝説の理解が小生と角田氏とでは違っているように思われます。

「筑紫」という文字が残されているのは「古事記」や『日本書紀』などが編纂された後でありましょうが、今に伝わる祝詞の出だしの、「かけまくもかしこきイザナギの大神、筑紫の日向のタチバナの」云々の天照大神などを産む禊の場の「筑紫」という言葉が6世紀までなかった、というのは私の理性として受け入れられません。

 古田先生が仰っていることを正否判断基準にするつもりはありませんが、倭の訓(よ)みとしては「ちくし」であったのではないか、という古田先生の説はどうなるのでしょうか。

 前回小生はこの点についても提起していますが、漢字の「訓(よ)」みについて考えさせられる古田武彦説であることは間違いないと思います。『まぼろしの祝詞誕生』で【『倭』という文字が史料にあるとき、それが『チクシ』を指すか、『ヤマト』を指すか、それを前後の文脈から判定せねばならぬ。】(同書p33~34)と、古田先生はまっとうな事を述べておられると思います。

 第三点の「邪馬台(ヤマト)国」については、まず「臺」が「ト」と読めるか、という点をどうクリアーされたのか、藤堂明保漢和大字典に依ったという説明なのか根拠を示して頂きたいものです。『邪馬一国への道標』古田武彦のp252~253に、「臺はトと読めないのに乙類のトに分類されているのはなぜ」、という古田先生の問いに対しての藤堂さんの弁明が詳しく出ています。角田氏がお読みになっていらっしゃらないのでしたらご一読されることをお奨めします。

 ところで、タイトルの“壱岐の「海都」を視点にすると「ヤマト」名の起源は九州”という言葉自体には、「なるほど」と思わせますが、基本的に“「海都」”を視点にヤマトを論ずることができない小生です。これ以上の討論は生産的にならないと思います。あとは読者諸氏の御判断にお任せします。

 上げ足取りになってもと思いますが、『隋書』倭国伝と書かれていて“俀国伝”でないところも気になりました。(以上)                                   2013年5月29日