『倭人とはなにか』に見える倭人伝解釈批判   会員 中村通敏  2017・4・21

はじめに

出野正・張莉共著『倭人とはなにか』には、倭人の源流かと思われる雲南省の「ビルマ族自治区」の西双版納〈シーサンパンナ〉調査旅行報告、倭人南アジア源流説、日本人や日本語の源流研究や、近年の日本語の形成の流れが報告されている。

しかし、この本の中心的な問題提起は「倭」と「倭人」はその概念が違う、というところにある。それによって析出される『魏志』東夷伝倭人条の解釈を呈示している本と言える。結果として、古田武彦説とは全く違う倭人伝の行路記事解釈となっている。今回、行路記事に絞って著者の呈示するところを検討した結果を報告する。ただ、紙面が限られているので、著者の大量の文章を私の理解で要約して文中に紹介している。この『倭人とはなにか』を読んでいない会員の方にも是非、この小論考と『倭人とは何か』とを読み比べていただき、再批判いただきたい。

① 著者の大前提「倭」と「倭人」の書き分けについて

著者は中国及び朝鮮の史書の「倭」に関する記述を渉猟し、『魏志』にある「倭」と「倭人」は書き分けられている、「倭」は朝鮮半島に存在した倭であり、「倭人」は日本列島に存在した倭人国である、と主張する。まとめとして『魏志』の倭と倭人の書き分けを次のよう言う。【『魏志』倭人伝には複合名詞として「倭国」「倭地」「倭水人」「倭女王」「倭王」「倭大夫」という語が出てくるが、例えば、この中の「倭国」は「倭」は漢字から見て同じだということにはならない。これらの中の熟語の「倭」は朝鮮半島における単独名称の「倭」とは意味を異にする。漢文は実に難解だが、緻密性があるともいえる。倭人伝に「倭人在帯方郡東南大海之中・・・」とあるが、この「倭人」は国名を表している。一つの漢字は基本義と拡張義があるので、そのことには十分注意を払うべきだ。熟語そのままの形で『魏志』の中でどのような概念として使われているかを問うのが正確な把握なのだ】と。

ここで著者は、倭人=倭人の国とするが、倭人伝全体を通して見える「倭人」とは、広義には、今、使訳が通じるところは三十国だが漢の時には百余国といっている「倭種の国々の人」ではないのか。

著者の根拠に、中国の史書に見える「倭」「倭人」「倭国」の記事や『三国史記』の「倭兵」・「倭人」の書き分けで、「倭兵」は半島の倭、「倭人」は「列島の倭」とする。しかし、『三国史記』には、単独語の「倭」が見えないことについては、著者は説明していない。

著者は、【『三国史記』『三国遺事』は、韓国では比較的正確な史料として位置付けられ、若干問題がある点もあると思うが、全体としては朝鮮半島の「倭」「倭国」と日本列島の「倭人」が矛盾なく使い分けられていることが大事なのだ。そして金石文「好太王碑文」にも同様使い分られていることを本論で実証した】と言う。

しかし、著者も書いているが「好太王碑文」には「倭人」「倭兵」以外にも「安羅人戍兵」という語が刻まれている。著者は、【朝鮮半島の倭の一部の「安羅」の兵であろう】、とするがその論拠については何も述べない。何か「先に結論ありき」の論述に感じられる。その傾向は、『後漢書』における「倭国」についての検討でも見える。『後漢書』には「半島の倭」についての「倭」はなく、すべて「倭国」となっている。著者は【『後漢書』の「倭国」だが、明らかに朝鮮の「倭」と日本列島の主たる勢力である「倭」を区別せずに書いているわけだから、通常の歴史文献の中では常軌を逸したものと言える】と書く。『後漢書』の成立は四三二年だ。『魏志』とは若干発表年次は遅れるが、同じ時期の東夷の状況を記している。そこには「倭」と「倭人」とが書き分けられていないことを「常軌を逸している」と一蹴してよいのか。

『魏志』の当時の洛陽の読者は、東夷伝を読み進み、馬韓あたりで「倭」が出て来て、そのあとに「倭人」の条が述べられるのだ。「半島の倭」と「列島の倭人」という認識が陳寿や後世の注釈者裴松之に果たしてあったのか?彼らは何ら注釈をつけていない。洛陽あたりの読者は当然「倭」と「倭人」は同種の民もしくは国という認識で読み進むのではないか。

② 漢文の読み方・漢字の解釈の主張と問題点

(ア)古田流の帯方郡より邪馬壹国に至るまでを一つの構文とするのは漢文の読み方ではない。一つの動詞で三百数十字もの述語があるような文章は中国文にはない。

(イ)「従郡至倭・・・其北雁狗邪韓国七千余里」で、まず文章は切るべきだ。また、その中の「循海岸水行歴韓国乍南乍東・・」の文章には、「水行」という動詞しかない。陸に上がったという記事がない。韓国を歴るに、はすべて水行によるとしか読めない。

(ウ)乍南乍東して其の北岸狗邪翰国に着くとある。半島の倭の北岸に到着したのである。列島の倭人国の北岸ではありえない。

(エ)南至邪馬壹国水行十日陸行一月と南至投馬国水行二十日は「対句」であり、どちらも帯方郡からの行路を示した記事である。

(オ)「歴」の解釈について

【「歴」は『説文解字』二上に「過也(過〈よぎ〉るなり)とあるので、「過」に置き換えることが出来る。そうすると「韓国を歴〈へ〉て」は船で韓国の地を過ぎて行ったと解釈することが可能だ。辞典には、「歴」に「空間を経る。ゆく。めぐる」の意味があり、「めぐる」が現実的と考えられる。すなわち、「歴」はいくつかの港を経由して目的地に行くことを意味する。古田氏は「歴」を閲〈けみ〉するととり「歴観」としたが、「歴観」は「歴」の派生義で、本義は「歴〈へ〉る」だ。派生義の一つを取り上げて、それを本義に置き換えるのは正しくない。漢字を解釈する上で原義と本義と派生義は明確に区別すべきである】と。

しかし、この文章は、「可能である」・「現実的である」と、我田引水しているともとれる主張ではないか。

(カ)「乍南乍東」の解釈について

【「乍南乍東」の「乍~乍~」の読みは、辞書によれば「二つの状態が交互に現れることを表現」】と著者は言う。しかも、【それならL字型の行路を最初は南に行き、然る後に東にいく水行の行路としてもなんの不思議もない】と続ける。四千里四方の韓の一辺(三百粁以上)を南へ行って、そこで東に向きを変える、という表現には「乍~乍~」は合わないと思う。著者も気になるのか、一回の回頭ではなく、沿岸を何回かは港に入って南下したとも次のように言う。【(歴韓国について)「韓国」は通常陸地だからといって、陸行したとは限らない。なぜなら、船で狗邪韓国に行き、いくつかの陸地に停泊したと解釈すれば、「歴韓国」の意味が通じるからだ】と言う。しかし、これは「倭人伝」の「乍南乍東」の記述を無視している。半島の西岸を南に航海し、何カ所かで港に入れば、出港時には「乍西乍南」が必要になるのだ。朝鮮半島の地図を見ればわかるが、西海岸は多島海と言われる海域だ。「乍南乍東」のみでは港伝いの航海はできないことは歴然としている。

③ 倭人伝の読み方は古田武彦の解釈と大きく異なってくる

著者の倭人伝の読みは次のような特徴がある。◆郡から倭に至る七千里の「倭」は朝鮮半島の倭◆韓国を歴るには水行により乍南乍東でのL字型に行路(時には入港)◆「其の北岸」は朝鮮半島にあった「倭」の北岸◆投馬国への行路記事「南至水行二十日」は、邪馬壹国への行路記事と同様郡からの直行行路◆邪馬壹国の所在については「書いていない

(キ)L字型行路で南下して東に回頭すれば、そこは馬韓国ではなく狗邪韓国である。「歴韓国」の倭人伝の記事に合わない。著者はこの肝心なことを見落としているのか、この件について、著者は何も述べていない。東夷伝韓の条には「南倭と接す」とあり、半島南岸部は「倭」の領域なのだ。著者は現実の地理には目が向いていない。

(ク)郡から海路で、半島の「倭」の国の北岸に到る、とは。

「従郡至倭」から「南至邪馬壹国女王之所都水行十日陸行一月」を一文とする見方もあるが、そうすると文章の文字数が三二二文字あり、一文としては長すぎる。「従郡至倭で始まる文章は、到其の北岸狗邪韓国七千余里で完結する文」であり、「到其北岸狗邪韓国」の「北岸」とは、中国の学者は「其(の)」は「朝鮮半島の倭(の)」、北岸は魏使の船から見た北岸と解釈する】と、「中国の学者」の意見が紹介されているが、具体的な「証言」は紹介されていない。そして次のように述べる。「到其北岸狗邪韓国」の「其の」は朝鮮半島の「倭」であり、「其の(倭の)北岸の狗邪韓国という地域」に着いたという意味である】と。

そう解釈するのも可能かもしれないが、不思議に思えるのが著者の「到其北岸」と「陸行」との関係の説明だ。【陸行の場合、内陸部から狗邪韓国に到達するのであり、そのまま岸に到達するのは船以外考えられない】とある。「陸地から海岸に到る」という表現は、中国人には理解できないことなのか。「陸から海岸に至った」と表現しても何ら違和感はないと思うが。

狗邪韓国の南岸に着いたのに、なぜ「到其北岸」と書いてあるのか、については、著者は、中国広東省の北海市という地名を例に挙げる。【中国大陸の南岸であるのに北海とされる。これはそこの地域の漁民からの目で見た表現である。なお、この「北岸」を日本列島の側から見た「北岸」と解釈する人もいるが、間に「大海」を挟んでいるので、朝鮮半島の岸を「北岸」とするのは中国語的な解釈からすればムリがあり、倭人の国の「北岸」は九州の地続きの「北岸」以外にはありえない。そうすると、魏使の船から見た「北岸」以外に説明のしようがない】と。

「其の北岸」が朝鮮半島の通常の意味での南岸を指していることは間違いない。それがなぜ「北岸」と形容されるのか。本当に「魏使から見た北岸、それ以外」の説明はできないのか。

「倭人国」についてどのように倭人伝では表現しているのか見てみよう。「倭人在帯方東南大海之中依山島為国邑」であり、また、「参問倭地絶在海中洲島上或絶或連周旋可五千余里」とある。ともかく、倭人の国は、郡から韓国を経て七千里で倭種の国狗邪韓国に着き、それからぐる~と廻って約五千里ほどの、島やその海の繋がりからなっている国だ、と記述している。また、対海国や一大国は、食料を得るために「南北に市糴〈してき〉する」とあり、倭人たちは、その島々とそれを囲む海を生活の場にし、海に生きる人々だ。そうすると、北海市の場合と同様に、領海を含んだ地域国家組織という目で見れば、その(海域も含む)地域の北岸、という表現になったのも自然であり、「倭人国」という領域の北岸となり解釈に何ら問題はない。

近年、中国の南シナ海での沿海各国との領土領海紛争が多発し、「九段線」なる中国の主張がマスコミ上でもよく紹介される。これもそういう見方が現在の中国でも生きているのであろう。

(ケ)著者の説によれば、女王の都まで「水行十日陸行一月」という陸行一月に該当する行路が存在しない。このことについて著者は次のように言う。

【「水行十日陸行一月」は、郡使たちが日本列島の人から聞いた情報とすれば別に不思議でもなくなる。もっとも、それが本当かどうか知る由もありませんが。漢文は非常に厳密にできているから、その真意をまず読み取るべきだ。漢文の文意からみると、「南至投馬国水行二十日」及び「従郡至倭循海岸水行歴韓国乍南乍東・・・・・其の北岸狗邪韓国」の意味するところは、明らかに帯方郡から狗邪韓国へは水行だったことに間違いないと思う。その上で「水行十日陸行一月」を考えてみたい。安易に「水行十日陸行一月」を正解として、それに合わない漢文を捻じ曲げて我田引水に読むのはよくない】

しかし、「その上で考え」た結果はどうだったのか。この本を読んだ限りでは「郡使達が日本列島の人から聞いた情報」以外の「陸行一月」についての解釈は見えない。「漢文は非常に緻密にできていますから、その真意をまずくみ取るべきです」という言葉がなにか空々〈そらぞら〉しく聞こえる。

(コ)倭人国への行路の説明が一文としては長すぎると言う。

【漢文は非常に緻密にできていますから、その真意をまず読み取るべきで、漢文で一つの動詞で三百二十二字もの述語を持つ文章はない】と。このように、述語の文字数で漢文か非漢文かという決めつけることに不安を感じる。古田武彦氏は、『漢書』などに見える行路叙述の四至文などを例にあげ、長文の「道行き文」として読み解いたのだ。

著者は、【不彌国の記事の後に「南至投馬国水行二十日」とあり投馬国の官名・戸数を述べ、続いて「南至邪馬壹国女王之所都水行十日陸行一月」と官名・戸数を記し、双方が同じ構成で対句として解釈すべき】と言い、【この二つは対句であり、邪馬壹国への行路記事は郡からの総行程であるのだから、投馬国への行程記事も同じく郡から投馬国までの総行程だ】、と主張する。

古来、投馬国への出発点は、不彌国や伊都国など諸説がある。郡からの直行説もある。しかし、対句とした場合、なぜ投馬国が先に示されるのか、ということが理解しがたい。これが、邪馬壹国が先に記述され、郡から都までの行程説明があり、その後に投馬国の行路記事が対句の形で出てくれば、著者の理屈は理解可能だ。しかし現実には投馬国への行路は不彌国の後、邪馬壹国の前に挿入されているのだ。形としては対句だが、投馬国の記事は挿入句として読み取るべきだろう。

(サ)「倭」の複合語の問題

例えば「倭地」については倭人伝に、その説明が「温暖冬夏生菜」とあるので、半島の倭の地ではないことは明らかだろう。ところで、「半島の倭」地を説明する場合の複合語はどうなるのか、著者の説から逆に演繹することは難しい。此の事も「倭」は半島の倭という仮説は合理的ではない、と言えるのではないか。

(シ)検討した結果

 行路記事は、①韓国を歴〈ふ〉るに、は「陸行」。②其の北岸は「倭人の国」の北岸。③投馬国への行路記事は挿入句、ということであり、古田武彦説に著者が疑問を投げかけた諸点はすべて誤りであることが分かった。しかも不思議なことに、邪馬壹国は不彌国と接していた、という古田武彦説の肝心ところの著者の考察は述べられていない。

【漢文は緻密だ。漢字は本義優先。行路記事は、長文でなく、切って読むべき】、と説く著者は、女王の都の所在地をどう解釈したのか。一言も言わない。木を見て森を見ず論の感しきりである。

今回「張莉・出野正」著のうち、第七章「中国・朝鮮の古文献に見る「倭」と「倭人」の使い分けについて」出野正 のなかで「倭人伝の行路記事」に関する論述をとり上げた。

そこには、古田説支持者にとっては耐えられない内容が山盛りであった。しかし、著書の「はじめに」には、【個人個人がもっている歴史観には微妙な違いがあり、その考えに同調できない方もおられると思いますが、それらについて、この後の論議によって解決していけばよいと思っています。私たちの考えが間違っているとわかれば、ただちに改める所存です】とある。

ということで、小生も遠慮なく、出野氏の倭人伝に関する論述にたいして遠慮なく批評させてもらった。結果は残念ながら、出野氏の主張「魏志では朝鮮半島の倭と列島の倭人とは区別されていた」、という仮説に瑕疵があったと思わざるを得ない。また、「倭人伝」の検証方法が、例えば「陸行一月」という記述を無視して、自分の「漢字の解釈」を優先しているのは、明らかに著者の行った倭人伝の検証の方法が間違っていると言えよう。今後、論議を深めるためには、著者の仮説を、著者自身が再検証する必要があると言えよう。今後の精進を待つということで結びとする。

 

後記

二〇〇六年三月に「新しい歴史教科書(古代史)研究会」を古田武彦勝手連的応援団としてホームページを開設した小生にとって、今回の『倭人とはなにか』の中の、特に、倭人伝解説は、「古田武彦説批判」が主眼の本のように思われました。

小生なども、古田武彦説を無条件に判断基準にするところがあります。今回の『倭人とはなにか』を批評するために、久しぶりに倭人伝に取り組むことが出来ました。そこで見えたことを他山の石とし、論語読みの論語知らず、にならないようにと改めて自戒させられました。

今回は倭人伝についての解釈を取り上げました。しかし、『倭人とはなにか』はたくさんの事柄を教えてくれる本でもあります。例えば、邪馬壹国が後漢書ではどうして邪馬臺国と表記されたのか、という張莉氏の解説などぜひ頁を繰って読んでいただきたいものです。

今回の本は張莉氏の論文『「倭」と「倭人」』(紀要第七集)を夫君出野正氏と共著という形で発展させたと言えるものでしょう。しかし、その結果は、古田武彦説とは大きく異なるものでした。張莉氏はその論文の「結語」で次のように述べています。

【邪馬壹国の卑弥呼から俀国の多利思北孤を一系列とする「倭国」と、神武―推古―天武の近畿大和勢力の日本がどうしても同じ系統であると思われない】と。そして、「あとがき」では、【いくつかの点では古田武彦氏と違う見解を述べているが、本稿を書くにあたり氏の著書をずいぶん参考にさせてもらった】とも書かれています。

日本のアカデミズムから疎外され続けている古田先生にとっては、私学ながらアカデミズムの一角を占める、白川静氏の漢字学の牙城ともいえる「立命館白川静記念東洋文字文化研究所紀要」に同志社大学准教授の張莉氏が、このように述べられたのです。古田先生が絶賛ともいえる言葉を八王子セミナーなどで述べられたのもむべなるかな、と思われます。

ともかく、この本のおかげで、基本的に古田説が正しいことを、再認識する機会を与えてくださった著者に感謝すべきと思っています。

小生は「棟上寅七の古代史本批評」というブログも開いています。昨年末から年始にかけて『倭人とはなにか』について七回、感想などを述べています。今回それをまとめたものです。そのブログ記事アップの都度、出野氏よりメールで小生の思い違いの指摘や反論をいただき勉強になりましたし、多元編集部からも、このように意見を述べさせていただく機会をいただけましたことを感謝し、著者たちに反論の場を当「多元」が提供されることを望みます。


「倭人とはなにか」の批評への反論への再批評  2018・4・16

 

「倭人とはなにか」の批評を「多元」誌へ出稿した文章について、著者の出野正さんから反論が「多元」誌に二回に亘ってなされました。

 

私が「今後、論議を深めるためには、著者の仮説を、著者自身が再検証する必要があると言えよう。今後の精進を待つということで結びとする。」と書きましたことを、「小馬鹿」にしたと取られたようで、わたしの筆の運びのつたなさについて、まずは著者にお詫びします。

私は、出野さんが、例えば「韓国を歴るに、乍南乍東・・」の解釈で、「漢字の本義で解釈しなければならない」と説かれ、論を進められています。その解釈によれば、魏使達は、韓国の西海岸を船で南下し、朝鮮半島を過ぎて東に回頭し、狗邪韓国に到り、その船に乗っていた魏使の目で見た「倭の北岸」に着いた、とされます。

この論は私からすれば、出野さんの「漢字の本義で解釈すれば」という仮説での論述であるととりました。

私の見方からすると、もう一つ、「漢字には沢山の派生義があるから、その派生義で解釈した場合はどうなのか。「本義で解釈した場合」と「派生義で解釈した場合」のいずれかが「合理的解釈」といえるか、という問題について、出野さんが全く考慮を払われていないようにみえるのが気になったのです。

勿論、後者は古田武彦さんの、「韓国内は、乍〈たちま〉ち南し、乍〈たちま〉ち東しての陸行で狗邪韓国に到着する」という説です。

『魏志』東夷伝倭人の条は、申すまでもなく陳寿によって書かれた同時代史です。魏朝が遼東での公孫氏との戦いの中で、東夷の国、邪馬壹国の女王が、はるばる朝貢して来てことに対して、その志を愛でて、たくさんの賜物を持たせた使節団の行路記事が、この「倭人の条」の中心であることは論を待たないことでしょう。東夷の女王国とはどんな国でどんなところにいるのか、については洛陽の人たち一様に知りたがったことでしょう。

陳寿が『魏志』東夷伝倭人の条を叙述し、洛陽の官人も納得し、後年裴松之が膨大な「注」を付けていますが、女王国までの行路記事については全く注をつけていないのです。

つまり当時の洛陽の官人たちは、女王国のありかについて、「会稽東冶の東、万二千里」と合わせて、理解できたものと私には思われます。

ところが今回の反論の中で出野さんは、「女王の都の所在地は私の論旨に関係ないこと」おっしゃられることに私は衝撃を受けました。

私の出野さんの「倭人とはなにか」についての論述についての感想の、あらためてのまとめとして、「木を見て森を見ず」の論考であり「今後、論議を深めるためには、著者の仮説を、著者自身が再検証する必要があると言えよう。今後の精進を待つ」と、前回同様のものになる、ということになります。  (以上)