槍玉その34 「卑弥呼の墓はどこだ」 文芸春秋 平成21年8月号 上田正昭・大塚初重・高島忠平

(発表から6年後、卑弥呼が「共立」されたことについての上田正昭先生の発言に関して、読者から調査不十分の指摘がありました。再調査の結果を加筆修正しました。棟上寅七 2015年12月24日記)

はじめに

この文芸春秋の座談会記事は、平成21年5月29日に朝日新聞が1面に大々的に報じた、「箸墓と卑弥呼 時期ピタリ」という記事に反論するために組まれたと思われる特集記事です。

その朝日新聞の記事は、国立民俗歴史博物館が、放射性炭素測定法によると箸墓築造の年代は3世紀に遡る、という結果をまとめた、という内容のものでした。

その記事をここに掲げておきます。
朝日新聞が箸墓は卑弥呼の墓?と報じた記事
箸墓は卑弥呼の墓?の記事(続)


この5月29日の「箸墓=卑弥呼の墓?」という朝日新聞の記事に噛み付いたのが、次の文芸春秋8月号の座談会記事です。

文芸春秋鼎談記事の見出し

文芸春秋社は三人の著名な考古学者さんの座談会を催して、朝日の記事の批判を平成21年8月号に載せました。


著者のプロフィール

そのご三方のプロフィールをお伝えします。

まず、この座談会を実質的にリードされるのは上田正昭先生です。
1927年生まれ、京都大学文学部史学科卒。
京都大学教養部助教授を皮切りに京都大学教養部長。京都大学埋蔵文化財研究センター長~大阪女子大学長~京都府埋蔵文化財調査研究センター理事長。
著書は1956年の『神話の世界』を皮切りに2008年の『日本人のの起源』まで古代日本史を中心に数十冊を出版されています。
その中には、1977年朝日新聞社の企画の『古代史の宝庫』で森浩一・古田武彦・間壁忠彦・岸俊男の各先生との共著もあります。上田先生は出雲を担当され、古田武彦先生は九州を担当されています。

大塚初重先生は、この座談会で、話題提供をしながら座談のまとめ役をされます。
1926年生まれ。明治大学文学部卒。明治大学教授~山梨県立考古博物館長を歴任、明治大学名誉教授。
古代史というと、西日本が中心となっていますが、東日本にも目を向けさせたいと努力されている方です。
著書もたくさん出されています。
1975年朝日新聞社の「日本古代史の謎」というゼミナールで講師の一人を勤められました。このゼミには古田武彦先生も八人の講師の一人で、”『「邪馬台国」はなかった』~その後”を話され、そのあとを大塚先生が”古墳はいつどこから”という話をされています。このゼミナールは一冊にまとめられ朝日新聞社から出版されています。

高島忠平先生は、この座談会では邪馬台国九州説の代表者的な立場での発言を求められています。
1939年生まれ。熊本大学法文学部東洋史専攻、1964年卒。
奈良国立文化財研究所~佐賀県教育委員会~名護屋城博物館長を経て、1999年より佐賀女子短期大学教授、現在同短大学長。
著書は、『日本通史 古代1 吉野ヶ里』(岩波書店)など吉野ヶ里に関する著作が多い方です。



何が問題なのか

この鼎談は、「朝日の記事」~「箸墓=卑弥呼の墓説」~「炭素14年代測定」~「邪馬台国論争」~「九州説と畿内説」~「纏向遺跡」~「多元的発展について」~「どうすれば結着するのか」 という流れで進んでいきます。

全体的に見て、(1)国立民俗歴史博物館が発表した箸墓の築造年代についての、炭素法の誤差に関する数々の疑問点の指摘、(2)朝日新聞が博物館の公式発表前に大々的に、あたかも箸墓が卑弥呼の墓と決まったかのように報じたことへの批判(歴博の意識的なリークではないか)については、当研究会としても大筋で特に異議はないのです。

問題が多いのは、「邪馬台国論争」以降の記事部分です。

何が問題なのかといいますと、邪馬台国論争について、ご三方が述べられるご意見、とくに上田先生の意見が、あまりにも独断に満ちているのです。

なお、それぞれの問題発言については、その部分のコピーを貼り付けています。又、全体の流れを確認いただくために、巻末にこの鼎談記事のダイジェストを載せていますのでご参照ください。

問題がある発言

 『魏志』倭人伝の解釈 会稽東治
 同上 漢字の読み方について、特に共立の解釈
 邪馬台国=ヤマトなのか
 『隋書』の邪靡堆は、近畿のヤマトの証拠なのか
 邪馬台国の決め手の出土品は
 謎の四世紀を強調されるが
 九州説の説明がおかしい

以上について当研究会の意見を述べていきたいと思います。

 会稽東治につい
文芸春秋鼎談記事01
上田先生の発言は、『魏志』倭人伝に「会稽東冶」と書いてある、と断定されています。

この点は、古田武彦さんが『「邪馬台国」はなかった』、の中で詳細に亘って検証を進められています。

三国志版本の中で、ショウキ本でもショウコウ本でも東治となっている。魏志の200年後に出た後漢書の版本は全て東冶になっているのに引っ張られて、後の版本の三国志の東治が東冶になったのではないか。

会稽東治の東となれば、正確に九州を指す。会稽郡東冶県の東となると琉球列島の方向となる、など詳細にわたって論証されています。(下図参照ください)
古田武彦「邪馬台国」はなかった、より転載
『「邪馬台国」はなかった』よりコピー

上田先生が”倭人伝に明記されている”といわれると、誰も何も言えなくなるようです。

『魏志』倭人伝の「会稽東治の東なるべし」という記事を、後漢書の「会稽東冶」が正しいとして、所謂原文を改定するのが考古学会の定説となっているのです。上田正昭先生も同様に100%原文が間違っている、ということをベースにした、当時の中国人の地理観だった、と述べられます。

これは、上述の上田先生の発言を読んでもらえるとわかりますように、邪馬台国はずーっと南の方、琉球列島あたりにあったという認識であった。それで、行路記事が、不弥国以降ずーっと南へというようになった。つまり、行路記事はいい加減なのだ、と言いたいかのようです。

この問題については、古田武彦さんが、原文改定の非を『「邪馬台国」はなかった』で述べられています。まだ読んだことのない読者がいらっしゃったら、是非読んでいただきたいものです。



 漢字の読み方について

上田先生は、倭人伝の中での漢字の読み方を、今の読み方で解釈すると間違う、と「長大」と「共立」について述べています。

この上田先生の「長大」という言葉の、『三国志』の中の用例について、古田武彦さんも同様に調べられています。古田さんも、『三国志』の用例からすると、「長大」とは三十台半ばを指す、とされています。(古田武彦『邪馬一国の証明』参照)

ところが、上田先生が続いて述べられる「共立」についての解釈は正しいのだろうか、上田先生の解釈に少し疑念を感じました。

上田先生の発言は『魏書』全体を調べて物を言え、みたいな感じですので、それならやってやろうかと、調べてみました。

結論からいいますと、当研究会が今回、三国志魏書を調べてみた結果、「共立」の出現は2例のみでした。(しかし発表後、読者の方からの指摘で3カ所と判明)10か所くらいは出てくるかと思ったのですが、予想外でした。

その使用例からみますと、上田先生の解釈はちょっと強引のようです(元の文は、上田先生の解釈のようにはとても取れないのです)。

悪く考えると、『三国志』の中では一般の受け取られ方と違う「長大」という語の使用例をまず見せておいて、次に「共立」も同じように私の説が正しいのだ、という、例えは悪いかもしれませんが、大道香具師の口説のようにすら感じます。

上田先生は、次のように言われます。「共立」は、魏書全体を調べると、「共立」は嫡子ではなく、庶子などに王位を継がせる場合に使っている。倭人伝の記述だけを読んでパズルのように自説を組み立てるととんでもない間違いを犯すことになると。

「共立」の使用例の調査結果を記します。
((c)を追加しました)

「共立」の使用例

(a) 東夷伝高句麗の条 原文「伯固死,有二子,子抜奇,小子伊夷模。抜奇不肖,国人便共立伊夷模王。」 和訳「伯固が死んで二人の息子が残された。長男を抜奇といい、弟を伊夷模といった。抜奇が愚かであり、すなわち国人は議して、伊夷模をに立てた。」

b) 東夷伝倭人の条 原文「其国本亦以男子王,住七八十年,倭国乱,相攻伐年,乃共立一女子王,名曰卑弥呼,」 和訳「その国ではもともと男子が王位についていたが、そうした状態が七、八十年続いたあと、倭国に戦乱が起こり多年にわたり相戦った。そこで国々は同して一人の女子をに立てた、その名を卑弥呼といった。」

(c) 東夷伝夫余の条 原文 尉仇台死,简位居立。无適子,有孽子麻余。位居死,诸加共立麻余。」
和訳 尉仇台が死に簡位居という王が立つ。嫡子が無く麻余という庶子がいた。位居が死ぬと、諸官は麻余を王に共立した。


以上とは別に、『魏書』を改めて通して読んで、使われてもおかしくはないかも知れない場面で、「共立」が使われなかった例がありました .

『魏書』武帝紀 原文 「袁与馥立幽州牧劉虞帝太祖拒之。」  和訳 「袁紹と韓馥と共謀して幽州の牧劉虞を立てて皇帝にしようと企てたが、太祖はそれを拒絶した。」


上田先生は、庶子を共立した扶余の例から、「共立とは庶子などを合議で王につけること」と定義するのはちょっと言い過ぎではないでしょうか。

卑弥呼の場合ももし上田先生の「共立」の定義に従えば、卑弥呼が庶子の類であったとしても、彼女には男弟がいますので、男子を差し置いて女性が共立される、という中国では見られない珍しい例です。陳寿や裴松之が何らかの説明があってもしかるべきところです。

高句麗の場合も庶子を王位に付けたとは思えませんし、卑弥呼の場合も「庶子を合議で王にした」例とはいえないと思います。

それなのに、「『魏書』全体を読んで検討すると「共立」は嫡子ではなく、庶子などに王位を継がせる場合に使っています」と発現されているのは、「庶子などに」と「などに」という言葉を付けているとはいえ、いくら古代史の権威の上田先生とはいえ言い過ぎではないでしょうか。

それにしても、高句麗での「共立」の意味は単に「兄でなく弟を皆で王位につけた」ということですから、上田先生の意味付けとは異なります(「庶子など」の「など」に入るのだと強弁されるかもしれませんが)。上田先生は「共立」の意味を「庶子による王位継承」と限定した方が、ご自分の「邪馬台国論」にとって都合がよいのかなあ、と勘繰りたくなります。

まあ、一度チェックしただけですから見落としはあるかもしれません。それにしても『三国志魏書』を通して読むのは草臥れました。また、ひょっとしたら、『魏書』とは魏の時代の書物全体、というような逃げを用意されていらっしゃるのかも知れません。しかし、この「卑弥呼が共立された」という記事は、後々の中国史書にもそのまま使われています。つまり、「共立」には時代を通して共通認識がある語、ととるのが理性的判断ではないかと思います。

読者諸兄姉がお気付きになられた「共立」の使用例がございましたらお教え下さい。(発表6年後の今回、東夷伝扶余の条での「共立」の見落としがあることを指摘してくださった読者の方に御礼申し上げます。)

 邪馬台国=ヤマトなのか
文芸春秋鼎談記事02

大塚さんや高島さんが、関東や九州の多元的な古代像を、という方向の話をしますと、上田先生は、出雲も確かに別の文化圏があったとされるのですが、その前説としてこのように言われます。

”最近の考古学の発掘成果からみると、弥生後期から古墳時代のつながりを、奈良盆地のヤマトか北部九州のヤマトかという論争だけを軸に考えていたのでは解き明かせない。”

邪馬台国論議はつまるところ、どちらのヤマトなのかとされるのです。邪馬台国=ヤマト国ということは自明のことと思われているようです。

邪馬台国問題の根源は、邪馬台国を「ヤマト」と読みたい、という願望にあります。

「臺」は「ト」は読めないことについては以前、槍玉その19「安本美典 虚妄の九州王朝」批判で、「邪馬台国」の読み方、「ヤマト」国は成り立つかで論じました。松本清張さん(槍玉その9)も魏志倭人伝の「邪馬壱国」は「邪馬台国」の誤り、とその理由も述べられませんし、言霊の力を云々される井沢元彦さん(槍玉15)も、邪馬台国と「臺」を使わず略字の「台」で通されます。

このように皆さん、邪馬台国をヤマトと読みたい、という願望をお持ちのようです。
詳しくは槍玉その19 安本美典「虚妄の九州王朝」批判(URL 
http://www6.ocn.ne.jp/~kodaishi/yaridama19.htm)をクリックしてご参照下さい。

これは次の「邪靡堆=ヤマト」発言にもつながっている問題です


 
隋書にある「邪靡堆」は近畿のヤマトの証拠なのか
文芸春秋鼎談記事03

上田先生がおっしゃっている「古い文献」とは何を指しておられるのでしょうか。

『隋書』には、その国の都「邪靡堆」とありますが、その国ははたして近畿のヤマトなのでしょうか。読み方は、ヤヒタイ、ヤマタイ、じゃひたい、じゃまたい、とは読めても「やまと」とは読めないのでは、と思います。

『隋書』では、その国の名「俀国(たいこく)」で都は「邪靡堆」と書き、魏志でいう「邪馬臺」のことと説明しています。国の名を「邪靡堆」と言っているのではないのです。普通に読めば、国の名は「タイコク」で、都は「ヤマタイ」ということだと思われます。(なお、この靡は摩の誤刻であろう、ということで考古学会の皆さんの意見は一致しているようです)

それはさておき、『後漢書』の委奴国の記事、『魏志』倭人伝の記事(これを問題にしているのですが)、『南斉書』、『宋書』、『梁書』にも全て古の委奴国を継承する王国の存在を記しています。

特に『隋書』には俀国(たいこく)伝としてその記述から九州にある(としか思われない)天子多利思北孤と名乗る天子の国が記されています。当時の近畿は推古天皇(女帝)である矛盾など上田先生の頭の中ではどのように整理されているのでしょうか?

『旧唐書』に「倭国伝」と「日本国伝」と二つの国を書き分けていることを、上田先生はどういう風に理解されているのでしょうか。二つの国には二つの首都があることは自明のことではないでしょうか。

尚、上田先生の発言中に”『日本書紀』には魏志倭人伝からの引用が3箇所ある”と言われています。しかし、これは、倭人伝からは2箇所と『晋書』(起居注)から1箇所、が正しいのです。大したことではない、と上田先生はお思いになっているのでしょうか?

何十年間も上田先生は教鞭を取っていらっしゃいます。折角大学に入って、理性的判断に悖る固定観念をお持ちの指導教官によって、育てられていく日本史専攻学生は、なんだか可哀相に思われます

 邪馬台国の決め手の出土品は

大塚先生が”考古学から見ると九州説の最大の強みは鉄。北部九州から弥生時代の鉄器は二千点以上出ているのに、畿内説の中心奈良県からは殆ど出てこない” と言われ、高島先生が引き続いて”鉄器がどれくらい出るのかは、当時の生産力・政治力・文化レベルを計る重要な要素。山陰や中部九州、長野・群馬からも相当の鉄器が出ているが、纏向遺跡からは殆どでていない” と、出土品からは邪馬台国は北部九州を示している、と指摘されます。

それに対して、上田先生は「九州説の弱点は邪馬台国のような強力な国が四世紀以降どうなったかを説明できないことだ。」というように話を逸らされて、都市牛利という倭人伝に出てくる人名から、市と王権の話に話題を変えられます。「纏向遺跡から発掘された土器も、ヤマト以外の様式の外来系のものが十五%を占め、広範囲の交易が行われていたことをうかがわせる。邪馬台国の王権は市と交易に深いかかわりを持っていたと考えられる。」というように。

これまでも、添付の朝日の記事に見られますように、纏向遺跡の発掘状況について、マスコミが報じています。木の仮面が出土したとか、紅花(絹織物の染料となる)の花粉が出土したなどを報じています。

朝日新聞ベニバナ花粉出土の記事

流石に、上田先生もこれは注意深く避けられたのではないかと思いますが、言及されていません。なぜならば、倭人伝に出てくる卑弥呼への下賜品や卑弥呼からの貢上品の絹織物が遺跡から出土するのは北部九州に限られているからです。

高島先生は、なぜこの絹の出土について言及されなかったのか、この鼎談の内の九州論者として出席されているわけですから、鼎の軽重を問われると思います。


 謎の四世紀を強調されるが

上田先生が、九州説の弱みは四世紀の邪馬台国がどうなったのか説明できないこと、とおっしゃるのに対して、高島先生は一言もそれについて反論されていらっしゃいません。つまり、容認されたかのようにとれます。

このいわゆる謎の四世紀について、いままで何度か取り上げて、古田武彦さんが、金印の委奴国以来の王国が連綿とつながっていた、その証拠を中国の史書の記述や好太王碑文から論証されています。この問題についての検討は、槍玉その6 高木彬光「古代天皇の秘密」で取り上げたものを以下に再録しておきます。

謎の四世紀について、高木彬光さんは、「中国の史書に、266年の邪馬台国の台与の朝貢記事より、421年の宋書の倭王讃の記事の間、邪馬台国や倭国の記事が無い。邪馬台国はこの間に消滅したか、他の国に吸収されたのだろう、という前提で論を進めています。そして、邪馬台国が狗奴国からの圧迫で、宇佐から近畿に東遷した、という説を展開されています。

これは、高木彬光さんに限ったことではありません。この四世紀の謎、つまり この歴史に邪馬台国とか倭国が中国の史書に現れない、ということに乗じて、「騎馬民族説」・「応神東征説」など数多くの説が誕生しています。

本当に倭国などの記事が、外国の史書などに出ていないのでしょうか。

4世紀前後の、倭国についての外国記事を中心に、年表にしてみました。

西暦

   記 事

 出典元

     記 事 内 容

266

壱与

晋朝起居注

朝貢記事

280

(呉滅亡)

三国志

晋による統一

316

(西晋の滅亡)

三国志

東晋・五胡十六国いわゆる南北朝時代に入る

318

(東晋成立)

三国志

367

卓淳国 通交始め

百済記

倭国使者 斯摩宿彌

372

百済王

銘文

嶋王から倭王旨へ七支刀献上

382

対新羅戦争

百済記

倭国 沙至比跪を派遣

391

高句麗ー倭 侵入 

高句麗王碑

以後 戦闘状態

400

倭・百済 新羅へ侵攻

高句麗王碑

度々の倭の侵入

402

倭ー新羅 講和成立

三国遺事

王子未斯欣 倭の人質

414

高句麗戦勝記念

高句麗王碑

広開土王記念碑建立

419

(仁徳天皇即位)

日本書紀

(即位年は推定)

420

(宋成立)

宋書

東晋滅亡

421

倭王讃

宋書

詔勅 倭よりの朝貢

479

(宋倒れ斉成立)

南斉書

倭国伝 漢以来の倭国の存続を記す

4世紀の中国は南北朝時代で各王朝がめまぐるしく興亡しています。

しかし、百済記や高句麗の有名な広開土王の碑文などに「倭国」についての記事は、れっきとして存在しています。

古田武彦さんは、その著書『邪馬一国の証明』の中で、「謎の四世紀」の史料批判 として 角川文庫版135~154頁 で詳細に考証を進めています。

それによりますと最も重要なのは、『南斉書』の倭国伝の証言とされています。

『南斉書』倭国伝 ”倭国。帯方の東南大海の島中に在り。漢末以来、女王を立つ。土俗已に前史に見ゆ。建元元年、進めて新たに使持節・都督、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・六国諸軍事、安東大将軍、倭王武に除せしむ。号して鎮東大将軍と為せしむ”         

つまり、倭国は、漢の時代の女王国の時代から、宋によって安東大将軍に叙せられた倭王武に至るまで、ひとつながりの王朝と認識されているのです。

倭国としては、戦乱の南北朝時代の終結、宋王朝の成立を見て、倭王讃が通交した、ということが上の表からみて、常識的に理解できます。

 九州説の説明がおかしい

この座談会で邪馬台国九州説について説明がされています。

主なものは、まず、大塚さんが「九州説は大きく二つに分かれていて、邪馬台国はヤマトに滅ぼされたか、東遷してヤマト政権をつくったと論じる」とくくります。

謎の四世紀で論じたように、九州には7世紀末まで連続した国家(委奴国~邪馬壱国~倭国~俀国など)と、中国の正史に記載されている国家が存在していた、とする九州説、古田武彦説、をあたかも存在しないかのように扱っているのは、一般読者をミスリードするものです。


結論として

この鼎談で上田先生が、「今回朝日が、箸墓が卑弥呼の墓に決まったかのように報じているが、国立民俗歴史博物館の報告は、炭素14測定法で箸墓の築造年代が、卑弥呼の墓の築造年代とほぼ同じ時期というだけ」と仰るのはその通りでしょう。

又、大塚先生が「弥生時代の環濠集落は、全国各地にある」という指摘ももっともなご意見です。

高島先生は、九州の鉄の出土から邪馬台国九州説を説かれていますが、もっとインパクトのある物証、例えば、倭人伝に書いてある「絹」や「錦」の出土は北部九州のみで、近畿地方には皆無であることなど指摘して欲しかったと思います。

この座談会記事で一番気になったのは、「古田武彦無視」の姿勢です。ご三方とも巧妙に古田説に触れないようにしているし、それを暗黙の了解としているようにさえ思われるのです。

倭人伝の邪馬台国への行路記事の読解法として、古田さんが提示した魏の短里説や道行読法も無視、邪馬台国博多湾岸国家説も無視、倭人伝に書いてある、「絹」や「錦」の出土は北部九州のみという指摘も無視です。シカトとかイジメとか子供の世界だけではなく、考古学会全般に亘っているようで暗然とさせられます。

朝日新聞の所謂進歩的論調を、己と対極にあるものとし、文芸春秋社が一種のライバル視していることは周知のことです。纏向遺跡調査報告を朝日の意図する方向へ、という流れに棹をさしたいという、文芸春秋社の気持ちだけが伝わった今回の記事でした。


なお、今回の朝日新聞の記事に反論したのは、この文芸春秋だけではありません。この文芸春秋の座談会記事に少し遅れて、安本美典さんが『邪馬台国=畿内説」「箸墓=卑弥呼の墓説」の虚妄を衝く』という本を、2009年9月に出されています。

安本さんのこの本は、「放射性炭素年代測定法が極めて精度が悪いこと」「箸墓は四世紀の築造であること」「安本さんの邪馬台国甘木説」という内容です。その中でも放射性炭素法の誤差幅の大きさということの説明に精力の大半を費やされています。

卑弥呼=天照大神説を唱える安本さんにとって、弥生時代が炭素法によっては早められるのは都合が悪いのではないか、と思われますが、どうでしょうか。

また、週刊文春が本年10月22日号で、朝日の記事について反論しています。特に炭素法による年代測定の誤差について警鐘を鳴らすという形をとっています。ほとんど、前掲の安本さんの本をなぞったような記事で、ご本人も沢山コメントをされています。

                                以上

【付録】

再燃 卑弥呼の墓はどこだ 文芸春秋21年8月号 ダイジェスト版 文責 棟上寅七

大塚: 去る五月二十九日の朝日新聞の「やっぱり卑弥呼の墓?」と記事には驚いた。普通は学会の発表があってから報道が流れるのだが、今回は順序が逆。日本考古学協会の発表は報道の二日後に行われた。発表者は春成秀爾らの国立民俗博物館の研究グループ。
(略)

箸墓は卑弥呼の墓なのか?

高島: 発表の要旨は二つ。一つ目は、箸墓の築造時頃使用されたとみられる土器付着の煤を炭素十四年代測定法で測定しその値と土器の形式と総合的に判断すると、箸墓は二四〇年~二六〇年代の築造であると推定される。二つ目は、その年代が卑弥呼が死んだ247年頃と合致するので、箸墓は卑弥呼の墓の可能性が高い、ということ。 炭素法は弥生~古墳時代前期の試料は、正確な年代を出しづらい。百年くらいのずれが生じることもあり私は採用していません。総合的な年代判断の一つの材料に過ぎない。

上田: 畿内説の私でも、箸墓の推定築造年代と卑弥呼の死んだ時期が同じというだけで、卑弥呼の墓と断定するのは時期尚早。箸墓の築造年代が今回の発表年代だとしても、文献との整合性を示す必要がある。ヤマトトトヒ百襲姫の墓である、と日本書紀にはある。

畿内か九州か、百年の論点

上田: 邪馬台国がどこにあったか、というのが古代史で重要視されるのは、それがヤマト政権の成立に関っているからだ。邪馬台国が畿内なら、四世紀から畿内で大きく成長していくヤマト政権にどのように繋がっているのか。邪馬台国が九州なら、四世紀の邪馬台国はどうなったのか。国家の起源を大きく左右する問題。

高島: 魏志倭人伝の邪馬台国までの距離と方位が曖昧なのが問題の発端でしょう。帯方郡から朝鮮半島をつたい、対馬・壱岐・九州北部までは特定できるのですが、その先の記述を鵜呑みにすると、九州北部に上陸してから、南に進んだことになり、邪馬台国は九州の遙か南方の海上にあることになってしまう。九州説にもいろいろありますが、伊都国以降は、記述を放射状に読むと、邪馬台国までの距離がだいぶ短縮されて、筑後山門説や肥後山門などが導き出されてくる。

大塚: 畿内説の多くは、行程を連続的に読み、方位が誤っていたとします。不弥国から「南」に「水行二十日」で投馬国、そこからさらに「南」に「水行十日陸行一月」で邪馬台国、とあるのを「東」の間違いとして、畿内に辿りついたと読みます。

上田: 魏志倭人伝には、倭国は会稽郡・東冶県の東にあると明記されています。つまり、中国人の地理観では、今の沖縄諸島がある南の方向に浮かぶ島国だと考えられていたので、南に向かうのは当たり前なんです。
倭人伝は、魏志全体から見なければならない。漢字が読めるからと云って今の私達の感覚のみで読んではいけない。例えば「卑弥呼は年已に長大」の長大は、陳寿が三国志で「長大」と記している人物の年齢は二十代か三十代。「倭国乱れ、乃ち一女子を共立して・・」の「共立」は、魏書全体を調べると、「共立」は嫡子ではなく、庶子などに王位を継がせる場合に使っている。倭人伝の記述だけを読んでパズルのように自説を組み立てるととんでもない間違いを犯すことになる。
古い文献は皆畿内説。七世紀の隋書には倭国の都が「邪靡堆(やまと)」にあり、それは、「魏志倭人伝」がいうところの「邪馬台」だと記されているし、七二年に完成した「日本書紀」では、神功皇后の条に「魏志倭人伝」が三箇所、引用されています。

高島: 日本考古学の知見では、弥生時代において北部九州が日本の中でいちばんの先進地域だったことは疑いの余地はない。いち早く各地に国づくりがされ、朝鮮半島や大陸の技術や文化を摂取できた北部九州に邪馬台国があったと考えるのが自然。

大塚: 考古学から見ると九州説の最大の強みは鉄。北部九州から弥生時代の鉄器は二千点以上出ているのに、畿内説の中心なら県からは殆ど出てこない。

高島: 鉄器がどれくらい出るのかは、当時の生産力・政治力・文化レベルを計る重要な要素。山陰や中部九州、長野・群馬からも相当の鉄器が出ているが、纏向遺跡からは殆どでていない。

上田: 九州説の弱点は邪馬台国のような強力な国が四世紀以降どうなったかを説明できないことだ。「魏志倭人伝」によれば、卑弥呼が死んだ後、卑弥呼の一族の娘台与(とよ)が王になったことは記されているが、その後のことは記されていない。梁書はその後に男王が立つ、と記している。四世紀からはヤマトを中心とする王権が他を圧倒していく。邪馬台国がそのままヤマト王権になったという単純な話ではないが、畿内に邪馬台国があったと考え、次のヤマト王権への繋がりを考えていったほうが理解しやすい。

大塚: 九州説は、大きく二つに分かれていて、邪馬台国はヤマトに滅ぼされたか、東遷してヤマト王権を造ったと論じる。

高島: 二、三世紀の北部九州の遺跡や墓の副葬品が貧弱になっていくことから、東遷説が唱えられたが、しかし、その時期北部九州の集落はむしろ発展している。吉野ヶ里遺跡も一、二世紀以降環濠集落の規模が一挙に巨大化していくし、市や倉などの機能も整備されていく。私は、筑紫平野の久留米から八女にかけての一帯が邪馬台国の有力候補と思う。朝倉市の平塚川遺跡のような大規模な環濠集落もある。これらが卑弥呼の死んだ三世紀以降全国的に消えていく。このことは、集落の規模を超えた、キビやヤマトやイズモやツクシといったより大きな政治圏が形成されたとみられる。そのような地域連合が抗争しながらまとまって行ったのではないか。

上田: 倭人伝によると、邪馬台国は二十一国を従え、人口も最大で、階級制度も成立している。このような強力な国がどうなったのか、説明ができない。

「卑弥呼の鏡」はどこに行った?

大塚: 魏志倭人伝に卑弥呼に鏡が百枚贈られた、とある。この「鏡」がこれまでの邪馬台国論争で非常に重視されてきた。一九五年代に「卑弥呼の鏡」と目される三角縁神獣鏡を材料として畿内説を説いた小林行雄氏の学説が出た。

高島: 三角縁神獣鏡には魏の年号銘を持つものがあったことから、卑弥呼に贈られた鏡とされたのだが、すでに四百枚以上出土している。卑弥呼と直接結びつけることは難しい。

大塚: 小林氏は九州から発見された三角縁神獣鏡には同笵鏡があり、卑弥呼に贈られた鏡をヤマト王権が受け継ぎ、服従した地域に下賜したものと論じた。王権から下賜されたのであれば大切に副葬されているかと思ったら、そうではないようだ。一九九八年天理市の黒塚古墳から三十二面もの三角縁神獣鏡が出たが、棺を囲むように無造作に立てかけて並べられていた。

纏向遺跡をもっと掘れ

大塚: 纏向遺跡は一九七一年から発掘が始まった。規模だけでなく歴史的にも重要な意味を持つ遺跡と考えられる。三世紀後半からヤマトを中心に巨大古墳が作られるが最初に現れるのが纏向なのだ。

高島: 石器も土器も驚くほど出る。九州ではあんなに出ない。ヤマトの豊かさを実感できる。纏向が邪馬台国であるかどうかは別にしても、ヤマト王権の揺籃の地として興味がそそられる。

大塚: 奈良には他にも重要な古墳群があるが、宮内庁が管理していて発掘が許されない。箸墓も一九九八年の台風で樹木が倒れ、土器破片が三千片以上出てきたのでそれらを宮内庁が調査をしたに過ぎない。四百ヘクタールの纏向遺跡の内発掘調査されたのは全体の一割にも満たない。このような段階で邪馬台国云々という結論は出せない。

上田: 倭人伝の記述は、最初は邪馬台国までの行程、二番目が風俗記事で、三番目が外交記事。行程だけが論じされるがもっとも信頼性があるのは外交記事だ。そのなかに「都市牛利」という副使が三回出てくる。都市は「市」を管理する職名だ。纏向のあたりは「和名類聚抄」によると「大市郷(おおいちごう)」であり、日本書紀にも箸墓は「大市」にあると記している。また、墨で「市」と書かれた土器も纏向から出土している。発掘された土器もヤマト以外の様式の外来系のものが十五%を占め、広範囲の交易が行われていたことをうかがわせる。邪馬台国の王権は市と交易に深いかかわりを持っていたと考えられる。

大塚: 箸墓から吉備の特殊器台という葬送用の土器も出土している。箸墓の築造には吉備の勢力も関っていて、古墳築造の背景にはかなり広範囲の政治的・経済的な交流がうかがえる。

上田: 箸墓の発掘調査を考古学会をあげて提案すべきではないか。

高島: 纏向からはまだ吉野ヶ里のような集落が出ていない。古墳も勿論重要だが、大規模な集落の発掘を全国で進めるべきでしょう。集落の全貌が明らかにされているのは吉野ヶ里の四十五ヘクタールくらいのものだ。

大塚: 考古学会には西日本中心の意識があるようだ。東京や千葉からも弥生の環濠集落が出ているし、長野県中野市柳沢遺跡から、銅鐸や銅戈が出ている。弥生時代の北九州・近畿の祭具が千曲川の流域から出たりしている。邪馬台国ばかりを問題にしていると大事なことを見逃しかねない。

高島: 発掘調査からはそれぞれの地域が独自の発展を遂げていることがわかる。東国にしても弥生時代に政治的にも経済的にも文化的にも相当な蓄積があったからあれだけの古墳群が造れた。これから全国で発掘調査が進めば、より多中心的な古代の日本像が浮かび上がってくるだろう。

上田: 最近の考古学の発掘成果からみると、弥生後期から古墳時代のつながりを、奈良盆地のヤマトか北部九州のヤマトかという論争だけを軸に考えていたのでは解き明かせない。たとえば、出雲の荒神谷。加茂岩倉から銅剣銅鐸銅矛などが一緒に出土し、従来の近畿を中心とした銅鐸文化圏と九州・瀬戸内を中心とした銅剣銅矛銅戈文化圏というのは崩れ、出雲を中心とした文化圏を画かなければならない。それでも、邪馬台国は先ほど述べたように、単なる地域連合ではなく、他の国々とは別格のかなり強力な王権だったと考えるべきだ。

大塚: どうすれば邪馬台国論争の結着がつくのだろうか。

上田: 「親魏倭王」という魏から貰った金印が出たらきまるか、というとそうではない。金印は移動する。遺跡そのものの規模や性格・構造などが大事。繰り返すが、文献との整合性を持つ古代史像の提起をしてもらいたいもの。

高島: 「封泥」が出れば私は決まりと思う。贈り物は卑弥呼の前で開封されるので「封泥」が出れば邪馬台国に近い。普通は残らないが火事に遭うと残ることがあり中国では何千と出土している。

大塚: 邪馬台国の位置やヤマト王権の成立過程を明らかにするのであれば、周辺の河内・山城などとあわせて発掘調査すべきでしょう。纏向遺跡は国家的プロジェクトとして二十年ぐらいかけて掘るべき。

上田: 邪馬台国論争は古代史への魅力的な入口。論争結着のためには、歴史学や考古学に加えて、様々な学問の知恵を持ち寄ってより深く掘り下げていかなければならない。邪馬台国をめぐる研究は、まだまだ意義深く面白いものになっていくと思う。
                      【以上ダイジェストおわり】


今回、上田正昭京都大名誉教授は、「今回朝日が、箸墓が卑弥呼の墓に決まったかのように報じているが、国立民俗歴史博物館の報告は、炭素14測定法で箸墓の築造年代が、卑弥呼の墓の築造年代とほぼ同じ時期というだけ」と仰るのはその通りでしょう。

又、大塚初重明治大名誉教授が「弥生時代の環濠集落は、全国各地にある」という指摘ももっともなご意見です。

高島忠平佐賀女子短大学長は「九州の鉄の出土から邪馬台国九州説を説かれていますが、もっとインパクトのある物証、例えば、倭人伝に書いてある「絹」や「錦」の出土は北部九州のみで、近畿地方には皆無であることなど指摘して欲しかったと思います。

この座談会記事で一番気になったのは、古田武彦無視の姿勢です。ご三方とも巧妙に古田説に触れないようにしているし、それを暗黙の了解としているようにさえ思われるのです。

倭人伝の邪馬台国への行路記事の読解法として、古田さんが提示した道行読法も無視、邪馬台国博多湾岸国家説も無視、倭人伝に書いてある、「絹」や「錦」の出土は北部九州のみという指摘も無視です。シカトとかイジメとか子供の世界だけではなく、考古学会全般に亘っているようで暗然とさせられます。

朝日新聞社の論調を己と対極にあるものとし、一種のライバル視している文芸春秋社が、朝日の纏向遺跡調査が、朝日の意図する方向へ棹をさしたいという、文芸春秋社の気持ちだけが伝わった今回の記事、というように受け取れました。


 ダイジェスト終わり

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