槍玉その15  『逆説の日本史 古代黎明編』  井沢元彦 著 小学館 1993年10月刊  批評文責 棟上寅七

著者について

この逆説の日本史の奥書(第23刷 2005年3月 )によりますと、次のように、現在もこの『逆説の日本史』を週刊誌上で、13年間も連載を続けていらっしゃる、当代随一とも称されます、現役の売れっ子小説家です。

井沢元彦(いざわ もとひこ)  作家。

1954年2月、愛知県名古屋市生まれ。
早稲田大学法学部卒業。
TBS
報道局記者時代の80年に、『猿丸幻視行』第26回江戸川乱歩賞を受賞。現在は執筆活動に専念し、独自の歴史観で『逆説の日本史』を週刊ポスト』にて好評連載中。
著書に『逆説の日本史』シリーズのほか、『天皇になろうとした将軍』 『虚報の構造オオカミ少年の系譜』 『逆説のニッポン歴史観』などがある。

この逆説の日本史シリーズは、右下の写真に見られるように、どこの書店の歴史本のコーナーでも一番目立つ本です。 

フリー百科事典Wikipedia によりますと、もう少し詳しい経歴が次のように出ています。

(前略)31歳で退社後、執筆活動に]専念する。小説家としては、推理小説、ことに歴史上の謎を題材に取りつつ現代の殺人をからめた「歴史ミステリー」という分野で多数の作品を発表している。初期はファミコンゲーム『ドラゴンバスター』の小説版やファンタジーも手がけていた。
某紀伊国屋書店日本史コーナー

1992年から執筆中の『逆説の日本史』を中心に独特の歴史推理を展開する。著作では日本の歴史社会を「言霊怨霊穢れ」への無意識の信仰という特徴から観察し、現代社会・政治に対しては保守的な持論を持つ。

「歴史学会の権威主義」「史料至上主義」「呪術的側面の無視ないし軽視」という『歴史学会における三大欠陥』を徹底的に指摘しながら通説を批判する。NHKのテレビ番組『歴史発見』でレギュラーのコメンテーターを務めていたこともある。

新しい歴史教科書をつくる会に所属し、朝日新聞など左派系と言われるマスコミの報道姿勢や、太平洋戦争を中心とした歴史認識問題などに関して活発な発言を行っている。また、SAPIOなど保守系オピニオン誌へ頻繁に寄稿している。

保守的な論調が敬遠されたためか、近年では東京でのテレビ出演は少なくなっているが、関西でのテレビメディアの出演はつづいている。
(後略)


この本の内容について

この本を読んでいらっしゃらない読者のために簡単に説明いたしましょう。
この本、『逆説の日本史 古代黎明編』の表紙には、”封印された[]の謎”とあります。

この古代黎明編全体の約二分の一を割かれて、「倭=和=わ」 の精神 ということを力説されます。
序論で、井沢さんの歴史観が述べられます。

史料至上主義・権威主義・呪術的側面の軽視が、現在の日本歴史学会を蓋っていて、真実の歴史が曲げられていることを述べられます。

第一章 古代日本列島編で、和の精神・怨霊信仰が古来日本人の行動の規範であったこと。

第二章 大国主命編で、怨霊信仰の例として、出雲神話を解説されます。

第三章 卑弥呼編で、天照大神のモデルは卑弥呼説を述べられます。

第四章 神功皇后編で、邪馬台国東遷説、宇佐神宮=卑弥呼の墓所説を述べられます。

第五章 天皇陵と朝鮮半島編で、日本人のルーツと韓国の古代の歴史認識について述べられています。


批評する立場

井沢さんの歴史観の怨霊信仰や言霊の力などということは、どうも寅七の体質になじめません。小説でもこのほうの系統、昔では横溝正史・今だと鈴木光司などの、ホラーサスペンスはどうも苦手です。

井沢さんの歴史観を批判するのではなく、本に書かれていることを、「常識」に照らし合わせて、見ていきたいと思います。


言葉、について

先述しましたように、この本の半分を占めている「
」について、言霊を云々する方が、そんな基本的なことを無視して、と驚かされるのが、倭の由来です。

倭国とは、中国人から国の名を聞かれ、自分の意味で「わ」と言ったので「倭」国になったのであろう、と推論し、そこからスタートします。

しかし、漢委奴国王という金印が下賜されたのがAD57年です。この「委奴」国というのが、その読み方には各種の論議がありますが、「倭種」の国であることに異議をさしはさむ人はないと思います。

委奴国が正式国名ではないか、と思うのですが、倭奴国の倭を略した、と言うのが「通説」ともなっているようです。この通説に対する批判もあるのですが、一応それは置いておき、「倭」が略されて「委」と金印に彫られたのであれば、当然のこの字の読みは、倭=委であったと取るのが自然だと思います。

倭の字を古代中国では何と読んだか、倭=委であったのか、委は「わ」と読めるのか、などが当然湧いてくる疑問です。

この本の後半に、古代中国の文字の発音について、注意を払うべき、(p249)と主張されていますが、井沢説の肝心の「和」の大もと、「委」及び「倭」についての考察は全くなされていないのは理解に苦しみます。


寅七は、調べて見ました。

中国の古代の倭の音は、若しくはであり、であり、とは読めない、ということが判りました。

上古の音韻問題について、古田武彦さんは、『「邪馬台国」はなかった』朝日文庫p314~320で詳しく述べています。そちらをご参照いただくと、委がヰでありワとは読めないこと、倭の上古音はヰまたはワ、ということがお分かりいただけると思います。

つまり、一番最初の国名の「倭」のスタートから間違っています。これから倭大和和の精神輪の精神などと自説に強引に誘導されます。

井沢ワールドで遊ばれるのはそれはそれで結構ですが、全く根拠のないお遊びの説法です。このお遊びの説法に、この分厚い本の半分近くを付き合わせられる善良な読者はたまったものじゃない、と同情します。


言葉邪馬台国について

この本には、全て邪馬台国と書かれています。歴史書と名付けるのであれば、『後漢書』では、邪馬臺国とあるが、略字を使って今は、邪馬台国と書かれていることが多い、とか何とか説明があってしかるべき、と思います。

言霊の力を云々される井沢さんが、正字のを使わず、略字ので話を進めるからには、眉に唾を付ける必要があるようです。


寅七が思うには、邪馬臺国はヤマダイコクであって、ヤマトコクとは読めないのです。それを井沢さんは充分承知の上で、邪馬台国と、これならば「ヤマトコク」と読もうと思えば読めるので、使っていらっしゃる、と思われます。つまり、推理小説家の得意のトリックを使っていらっしゃいます。

まして、『魏志』倭人伝には、邪馬国、與、とでなくである、などこれっぽちも触れられません。

井沢ファンには申し訳ないですが、これも反史料第一主義の表れ、というよりは、知識ある読者に対しては侮辱であり、予備知識の無い方を、取り込むための、知識の意識的な隠匿、という言い方が、当を得ているのではないかと思います。

井沢さんは、邪馬台ヤマト大倭大和 と一直線の解釈です。
『魏志』倭人伝や『後漢書』倭伝にも大倭なる語が出てきていて、タイヰ と読むのが妥当か、と思われるのですが、このこともまた、反史料至上主義を貫く為か、無視されています。

その他にも、今までの槍玉に上げた方々と同様に、国を無造作に国と読んでいます。(の読み方については、
道草その17『”奴”をどう読むか』の中で書きましたので、そちらをご参照下さい)

このように、井沢さんは、ご自分がこのように読みたい、と思うについては、何の説明も無く、思うように読んでいらっしゃいます。

しかし、その一方、(p249)では、古い時代の発音を大事にしなければ、など、言動不一致もいいところの説を述べられます。寅七が同様な意見を言ったら、周りは、いよいよ分裂症がひどくなった、ととることでしょう。


言葉四拍手について

井沢さんが、強引に自説に誘導されるもう一つの例が、出雲大社について述べられていらっしゃることです。

第二章の大半を使って、出雲大社が、オオクニヌシの怨霊を封じ込める為の祭殿である、と論じられます。小説家としての推論であればそれはそれで結構ですが、証拠として出雲大社の四拍手がそうだ、と仰います。

寅七は随分前のことですが、あるところの地鎮祭に招かれ四拍手を経験したことがあります。その時に不思議に思ってお聞きしたら、祭主さんが黒住教の熱心な信者さんだから、ということでした。

インターネットで調べてみました。

今、神社の参拝作法は、二拝二拍手一拝ですが、このように統一されたのは明治初期の神仏分離によるもので、それまではマチマチだったそうです。

今は、出雲大社や、宇佐神宮などが四回拍手するのが目立つようですが、先に言いましたように、黒住教や天理教も四拍手だそうです。

また、天皇家でも八開手とよばれる作法(8回の拍手を四度繰り返す)を今でもされるそうです。

『続日本紀』延暦十八年正月の条に、【帝、大極殿にましまして、朝を受く。四拝を減じ再拝となし、手を拍たず。渤海国使在るを以ってなり】、とあり、外国の客が朝賀に参列していたので、日本的作法を取りやめ、中国式に再拝に止めた、ことが記されています。

井沢さんは、こう主張されます。四は死に通じる。オオクニヌシの怨霊を封じ込める為の作法だ、と。(後で、宇佐神宮の謎を説明されるときも、卑弥呼の墓所が宇佐神宮だから四(死)拍手だ、と主張されています)

「おいおい、ちょっとこれ強引過ぎるのではないかい」、というのがこの部分を読んだ時の感想です。

オオクニヌシの時代、つまり、1,2,3,4を、イチ、ニ、サン、シ という漢字読みでなく、ひい、ふう、みい、よ、と数えていたであろう時代に、つまりを意味していたはずはないでしょうに。3~4世紀ごろか、漢字が輸入されて以後、4=よ=四=シ=死 と、4=死と、4が不吉数とされるようになった、と思うのがもっともでしょう。

「倭」「和」でも強引でしたが、この、4拍手=死拍手 は、もっとひどい論の展開だ、と云えましょう。

(寅七注:黄泉(よみ)、夜(よる)など、闇を意味する面もあるかもしれません。しかし、言霊の力を説かれる、井沢さんは、この方には論を進めていません。もし、この方向に井沢さんが、言及していたら、寅七も対応にちょっと詰まったかもしれません。)

肝心の井沢さんの卑弥呼論に入る前に、井沢説というものが、基礎が全く無く、それこそ空中楼閣であり、この調子での卑弥呼論でなければ良いがなあ、と思って読んでいきました。


井沢さんの卑弥呼論

井沢さんは、卑弥呼の死について、魏志倭人伝の記事を引いていらっしゃいます。卑弥呼以って死すの記事から、卑弥呼が殺された、という説です。これは、松本清張さんが唱えたのと同じ説であり、槍玉その13 歴史から消された邪馬台国の謎 の豊田有恒さんも同様です。

以っての解釈について、『
槍玉その13』で述べましたことは次のようなことです。

以って死すについて。棟上寅七の古代史本批評のブログ20069.29より再録。

HPのために、豊田有恒さんの本を読んでいます。魏志倭人伝の中の、卑弥呼以って死すというところの解釈で、豊田さんは、「理解できない、謎」とされています。
中国語の「以」を、辞海という4500ページもある辞書を引いてみました。

17ほどの意味がありました。その中で、一番この文章を理解できるのは、以って瞑すべしで使われる場合と同じと思います。
つまり、それで安んじて死ねた(魏帝の応援を得る事ができて)、ということで、何ら謎ではない、と思いました】


井沢さんは、松本説に乗って、その上で、皆既日蝕の責任を取らされ殺された、とのべ、皆既日蝕とアマテラスの岩戸隠れの神話と結びつけ、卑弥呼=アマテラス説を唱えられます。

常識的に見て、アマテラスは神話時代、縄文時代後期の人物と思われますし、卑弥呼は248年に死亡と記録されている、歴史上の人物です。

井沢さんが主張される、卑弥呼死亡の原因ともなったという248年の皆既日蝕が、実際どのようなものであったか、調べる必要があります。

井沢さんは、斉藤国治という天文学オーソリティの本を参考にされた、と書いていらっしゃいます。
インターネットで検索してみますと、沢山の方が、この弥生時代の皆既日蝕について発表されています。

大まかに云いますと、248年9月の皆既日蝕は、九州地方では皆既でなく90%くらいの食、で、早朝であった(つまりあまりインパクトを与える日蝕ではなかった)。 むしろ247年3月の日蝕は、九州地方では皆既日蝕で、日の入り時間であったので、壮絶な天体ショーであっただろう、ということです。

つまり井沢さんは、ここでも一種の文字催眠的トリックを使っていらっしゃるようです。斉藤国治さんという、権威ある天文学者の、権威ある書物に従って、コンピューターによる解析結果が、九州地方の劇的な皆既日蝕であった、とたたみかけるように論を進められています。

太陽を使った呪術巫女、卑弥呼がその日蝕の責任を取らされた、と話が進んで行きます。これから先は、井沢ワールドで、まともな常識ではついていけません。


言葉一字姓について

最後の章、第五章 天皇陵と朝鮮半島編は、井沢さんの人気の基とも云える、直言的韓国・朝鮮評論をちりばめています。一種の対韓フラストレーションが溜まっている日本人に、溜飲を下げさせる、論評です。

しかし、ここにも井沢さんの、都合が悪い史実の隠匿があります。

棟上寅七の古代史本批評で2006年11月23日のブログ
中国風一字姓」で述べたことですが、ここに再録します。

【井沢元彦さんは逆説の日本史で、宋書の記事にある倭の五王を、通説通りに、崇神天皇や仁徳天皇に比定されています。
ここでは、そのことは一応置くとして、この倭王たちの名前は、讃・珍・済・興・武 と全て一字です。

韓国の一字姓について、井沢さんは次のように云われます。
「韓国は、ある時期に古来の長たらしい姓を捨て、中国風の一字姓を採用した。今は、その古来の姓について、韓国内に全く記録がないし、韓国人はこのことに触れたがらない」、と。

しかし、この日本も、倭の五王 讃・珍・済・興・武 の名だけでなく、日本書紀孝徳紀にも出てくる韓智興・趙元宝・高黄金など、一時期中国風の姓名を目指した時期があった、であろうことについては、目をつぶっていらっしゃる。

これは、公平な立場とは云えないのじゃないかなあ、井沢さんの著書に対し、韓国の人たちの反撥があると聞きますが、(ご本人も書いていますが)当然かな、と思いました



結語として


この『逆説の日本史 古代黎明編』に限っても、まだまだ沢山、これは、常識に反しておかしい、と云いたいことは沢山あります。

何度も云いますように、まず、基本のところで、根拠のない仮説を立て、我田引水の論証を引く、というのですから、批評すること自体なんだか馬鹿馬鹿しくさえ思えてきます。

言霊とか力説される方の、言葉への無神経さが目立つ本でした。

逆説とは、「一見真理に背いているように見えて、実は、一面の真理を表している表現」(大辞林)だそうですが、この『逆説の日本史 古代黎明編』からは、このような、一面の真理を窺い知れるところは全くありません。
『逆説の日本史 古代黎明編』というよりは、『妄説の日本史 古代黎明編』とした方が実体ではないのか、というのが当研究会の結論でした。

                       この項終わり      
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