槍玉その33 『倭国と日本古代史の謎』 斉藤忠 学研M文庫 2006年6月刊  批評文責  棟上寅七

著者は 

文庫本のカバーにある著者紹介では、次のような方です。

1957年、埼玉県生まれ。早稲田大学政経学部卒。フリージャーナリストとして活躍、また、長年、古代史とキリストの研究を続ける。主な著書に『日本考古学人物事典』(学生社)『解読された「聖書」とイエスの謎』(日本文芸社)ほか多数ある】ということです。

斎藤忠という同名の考古学者がいらっしゃって、こちらも多数の考古学関係の本を出されていますので、ちょっと紛らわしいところもあります。(巻末にこの件の詳報を、補遺 二人の斎藤忠 として掲載しています)


この本の内容

この本のはじめに、とある前書きを、縮めてその概略を紹介します。著者の執筆の意図、古田武彦説との係わり、などが説明されています。

【我々が学校で教わった古代史では、大和政権が各地の豪族を従えていき、律令国家として完成させる。まさに予定調和史観である。奈良・平安朝の律令国家は強大な国家体制である。私有土地制度を廃して公地公民とするなど、とてつもない強権発動が必要だったはず。確かに、大和王権内の骨肉の争いは描かれるが、天皇とそれを囲む権力者集団の交替は一切無し。しかし、強力な権力は、権力集団の交替を伴う壮絶な闘争の結果生まれるものである。天皇氏の威徳だけでそれが可能になったとでも言うのだろうか。

日本はその国の始まりについてあいまいである。姑息な何かが国家の始まりにおいてあったのではないか。私は日本国創成の復元作業に精進してきた。そしてよき先達、古田武彦氏に巡り会った。氏はかって倭国があり、日本とは別物で、701年をもって後者にとって替わられたと唱える。これなら筋が通る。

予定調和史観の源泉『日本書紀』の持つ内部矛盾、外国史料と考古学上の成果との食い違い、から再構築していくと、政変、戦い、謀略、歴史改竄といったことが次々とあぶり出てくる。歴史から消された帝王や王朝が、国家に対する裏切りや内通が浮かび上がってくるのだ。

結果、思いもよらない史実が次々と浮かび上がってきた。なお本書は古田武彦氏の説をベースにした各論が多い。参照した氏の著作を巻末の参考文献でまとめて紹介している。是非目を通していただきたい。理解がふかまろう】


内容そのものについては、この本の目次をご覧いただけるとすぐお分かりになるかと思います。古田武彦さんの多くの著書に準拠した記述となってはいます。当研究会がこれは一寸と問題があるのでは?とチェックしたところを朱書してみました。

目次

第一章「古代国家発生」の謎ーー倭国九州王朝興る
倭人、前11世紀に周と国交を持つ~弥生時代の列島は周制で秩序立っていた~金印を受けた委奴国は村落国家などではない~倭国大乱は王朝交替を招いた戦乱~邪馬国ではない~女王国への行程記事は正確~「魏志倭人伝」の考古学的物証は北九州に集中~卑弥呼の初遣使は239年ではない~列島には倭国以外にも複数の王国があった~畿内銅鐸圏にあいた穴、奈良盆地の謎~神武天皇は一地方官に過ぎなかった。

第二章「古代王権の発展」の謎ーー倭国九州王朝の隆盛と大和王権の勃興
前方後円墳は北九州で生まれた~畿内には都市が生まれなかった~倭五王は大和王権の王ではない~朝鮮半島に倭国領あり~埼玉・稲荷山鉄剣銘文は関東王権の存在証明~4世紀は空白の世紀ではない~継体天皇は新王朝の開祖ではない~磐井は倭国王であり、雄略と継体は反逆者

第三章「律令国家の形成」の謎ーー天子を称し、憲法を定めた俀王・多利思北孤
日出づる処の天子は聖徳太子でない~中国の天命を相対化し、天子を称した?王~日出づる処の天子の国は俀国~官位十二階は聖徳太子によるものではない~憲法十七条も俀王タリシホコが制定~大和王権側は隋・唐と屈辱外交~法隆寺は北九州で創建された~天皇号は大和王権の称号ではなかった~大化改新の始まりは645年ではない~大化は日本最初の年号ではない~大化改新は実在したのか?

第四章「律令国家の確立」の謎ーー倭国滅び、日本国建つ
白村江の戦いは663年ではない~大委国、唐と天命を巡って激突~白村江の敗戦原因は背後の裏切り~白村江の戦いは太平洋戦争に並ぶ重大事件~敗戦後、渡来した唐の要員は古代版GHQ~壬申の乱は易姓革命だった~天武天皇は天智の弟ではなかった~藤原鎌足は九州王朝の臣下だった~律令制の本格制定者は大和朝廷ではない~太宰府は日本列島の首都だった~九州王朝は九州から畿内へ東遷した最後の九州王朝の天子、高市天皇

第五章「律令国家の成熟」の謎ーー日本国、倭国を消し去る
大宝は日本国朝廷最初の年号~武則天(則天武后)に歓待された遣唐使~「日本はもと小国、倭国の地を併す」の謎~藤原京を廃し平城京を造営した本当の狙い~エミシ王国と隼人王国の実態~記紀は民族創成の歴史書ではない~東歌や防人歌は関東王朝の文学~風土記は単純な各地の地誌ではない。

終章 日本国、列島の主となる
桓武の父、光仁が天皇に擁立された謎~謀反者はエミシ側でなく朝廷側。


この本を槍玉に上げる理由

斉藤忠さんの『倭国と日本古代史の謎』を読んでいて、感じたことは次のようなことです。

日本古代史の通史としての読み物で、これほどはっきりと多元史観に基づいて書かれたものは、古田武彦さんの諸著作以外では珍しいと思います。古田先生も古田史学の会の会報で添付コピーのようにその点を評価されているようです。

古田武彦さんの勝手連的応援団としての当研究会としては、別に異議を唱えることもないのかも知れません。槍玉28のいき一郎さん、槍玉29の大芝英雄さん、などを取り上げたときに次のように書いています。

【九州王朝説の提唱者ともいうべき古田武彦さんは、あくまでも、文献や出土品など考証できることは立証し、出来ないことは仮説として結論を保留するという態度です。しかし、それに飽き足らない方々が、いろいろな仮説を立てられます。検証も出来ない説が多いのですから、普通の常識人には「やはり九州王朝説はいい加減なものだ、古田武彦も同じだろう」と思われることでしょう。つまり、これらと古田説とが、十羽一からげに怪しげな説、と取られてしまう恐れがあります。マイナーな本ですが、きちっと評価をしなければならない、という思いが槍玉に上げる理由です】

今回もそのような意味で取り上げてみたいと思っています。

古田武彦さんの斎藤忠評価
古田史学会報の「小郡の飛鳥の視覚実験」の報告記事の蛇足として古田武彦さんが、斎藤忠さんの著書について、付け加えられていました。

この本の問題点

斉藤忠さんの『倭国と日本古代史の謎』を開いてみて、当研究会としては、古田武彦さんの古代史史観をかなり読み込んでいるつもりですが、この本はよく分からないところが多く、違和感を感じるところが多いのです。しかし、槍玉に上げるには、どのあたりに違和感があるのか、そこを理性的に説明できるのか、最初は大変だなあ、と思ってはじめたものでした。

4世紀のころまでは、まあ、古田武彦さんの著書をなぞっている感じですが、5世紀の頃から斎藤さんの独自色が出てきます。違和感を感じるその大元を探ってみましたら、次の三点が浮かび上がってきました。


雄略天皇と継体天皇が同時代人という斎藤仮説

斎藤さんは、仁徳天皇は『日本書紀』の記す399年歿ではなく、大仙古墳の築造時期からみると、もっと遅くて480年代とされます。従って、仁徳の孫の雄略天皇も活躍の時代が繰り下がり、外国資料で没年がほぼわかる、継体天皇と同時期の人である、とされます。

その根拠は何か、ということですが、大仙陵の陪塚から出土した埴輪が、理化学的年代測定法の一つである熱ルミネッセンス年代測定法により、480年代に焼かれた埴輪である、とされたことからのようです。

大仙古墳からは、いろいろの出土品、武具やガラス加工品など、が出ているようです。先月の久留米大学の市民講座で古田武彦先生も、「大仙陵から小銅鐸が出土していたり、詳しく本格的調査をする必要」などを説かれていました。

雄略と継体天皇が同時期の人物であるという斉藤説の根幹は、陪塚の埴輪の製造年代測定結果に全面的に寄りかかっているようです。

大仙陵の近くには陪塚であろうとされる古墳が15基あり、果たしてこれらが大仙陵と同時期の陪塚であるかどうか議論があるそうです。それに、熱ルミネッセンス年代測定法にも誤差その他の問題点もあるようです。斉藤忠さんが、仁徳天皇の没年を480年代にしたい、という無意識の願望が、「陪塚出土の埴輪480年製造」というデータを、これ幸いと採用されたのでなければよいのですが。

理化学的年代測定法には、放射線同位炭素法や年輪年代法以外に、加速器質量分析法、熱ルミネッセンス法、ウラン・トリウム法、フィッショントラック法、電子スピン共鳴吸引法、など、当研究会が初めて目にした測定法がいろいろあることに驚きました。だとすれば、もう少し古墳の築造時期など科学的に特定できそうなものでしょうに、という感想をもちましたが、それぞれの測定法を調べてみますと、いろいろ問題があって新石器時代以降の考古学に適用するにはまだ問題があるようです。


ネットで少し、熱ルミネッセンス年代測定法のことを調べてみました。「佐土原町文化財調査報告第10集」(1996年3月)に、奈良教育大学物理教室の長友恒人氏が、「下村窯跡 熱ルミネッセンス年代測定」という報告をされていました。そこに、須恵器9個を、熱ルミネッセンスによる年代測定をした結果が、報告されていました。9個の内5個は異常値を示したので外したとされ、4個の得られた年代値が示されています。1200、1210、1320、1460年前という結果です。平均値は1320年前で最大値と最小値の差は約10~11%です。

奈良教育大学紀要で市川・長友両氏の、「熱ルミネッセンス年代測定法による土器の年代測定」という報告もされていました。結言としておおよそ次のように述べています。

【熱ルミネッセンス年代測定法は、C-14法に比較して土器を測定対象に出来るという利点を持つ。しかし、土器という複雑な組成をもったものを試料とし、現象が環境に支配され易い物性的なものであるため、この方法による誤差要因は、10個以上考えられる。熱ルミネッセンス年代測定法(TL法)による誤差は試料によって異なるが、約±10%程度であり、考古学への寄与を考えると、±5%程度まで高めることが望ましい】 と。

斎藤さんが例として取り上げている、大仙陵の陪塚から出土した埴輪も、約15~1600年前に焼かれたものでしょうから、±150年ほどの誤差があるデータということを頭において、斉藤さんも論を進めないと、方向を誤るのではないか、と危惧します。

斎藤さんはこのように、仁徳天皇の活躍時期を80年繰り下げて話を進めるわけですが、そうなるとどういう結末になるかといいますと、雄略天皇と継体天皇が同時期の人物、ということになるのです。磐井の乱の当事者も雄略であり、後にその事跡を継体が奪った、ということになるわけです。

まあ、果たして仁徳天皇の陪塚であるかどうか、という疑いもある陪塚の一つから出土した、埴輪の製造年代から紡ぎだされた一つのお話として、聞き置くしかありません。磐井の乱の評価は、「磐井は九州王朝の大王であり、大和の継体天皇でなく雄略のいわばクーデターにより、一時的にせよ大和王権が九州を版図に加えた、とされます。

しかし、このような大和が筑紫を滅ぼし、列島を統一したというような革命的大事件であれば、『百済本記』の「日本天皇皇子ともに死す」の記事以外にも、近隣諸国の記録に残っていそうなものですが。


なぜタリシホコが復権できたのか

6世紀末にタリシホコ大王が天子として君臨していることは『隋書』の記事からも明らかです。斎藤さんは、磐井の乱のあと、九州は大和政権の版図に入ったとされます。その九州から、いかにしてタリシホコが復古出来たのか、の説明が見あたりません。これは、読者に対してサービス不足といえましょう。説明が出来ないのであれば、斎藤さんの仮説に無理がある、ということにもなるのではないでしょうか。

磐井の乱以後、後あまり時間をおかず(約半世紀後)、タリシホコが天子として復権した、と斎藤さんは主張されます。これ程の大事が何故できたのか?ということが斎藤さんのこの本を読んでもよく分かりません。この疑問についての斎藤さんの意見を探し出してみました。

斎藤さんは、第二章「古代王権の発展」の謎、倭国、一時大和王権の傀儡に堕す というところに次のように書いています。

【『日本書紀』が継体天皇の死について引用している『百済本記』の「日本天皇および太子・皇子、倶に死す」の記事は、磐井とその子供達のこと】 とされます。【磐井には沢山の王子がいたであろうし、その中の葛子を傀儡として立てたのであろう】、とされます。結局【磐井の乱とは、大和王権によって倭国九州王朝の大王と王子らが倒され、実権を一時的にではあれ奪われた事件であった】、とされます。

これは、古田武彦さんの『失われた九州王朝』1974での、磐井の乱の解釈と、前段はほぼ同じと言ってよいでしょう。後段で古田武彦さんは、結局は筑紫側は負けなかったのであろう、とされています。(後年に古田さんは、磐井の乱創作説に変わっておられますが)

また、第三章「律令国家の形成の謎」のところで、6世紀中庸に太宰府に瓦葺屋根の殿舎が造られた、という考古学的発見に関して、それが九州王権が復権した証拠とされます。
これらの説明だけで、タリシホコが何故復権できたのか?という答えには到底なりえない、と思います。もう少し合理性のある仮説なり見解を提示してもらいたいものです。


壬申の乱は九州王朝復古なのか

斎藤さんの壬申の乱についての解釈がユニークです。斉藤さんは、白村江の敗戦後、天智天皇の近江朝が九州王朝を吸収したことに、唐から帰国したサチヤマが怒り、大海人皇子に命じて大友皇子を抹殺した、とされます。

なぜそのようなことが出来たのかというと、大海人皇子はタリシホコの数多い子供の一人であり、サチヤマの弟(つまり大皇弟)であり、唐の進駐軍郭務悰の引き揚げを待って兵を挙げた、とされます。つまり、壬申の乱は九州王朝の復古であった、とされます。この本には、血統(男女を問わぬ)=王朝、という観念に束縛されているところが、あまりにも目に付くようです。

斎藤説は、全体の流れ、白村江の敗戦による倭国の滅亡大和王朝による倭国吸収を唐が認める、というその流れを根本的に否定するものです。10年に亘り倭国復活などの動きを監視したであろう数千人に上る唐(および新羅)の進駐軍を、無能力集団と決め付けるに等しいことになります。

斎藤さんが参考図書として上げられている小林恵子さんは、大海人皇子は斉明女帝と高向玄理の子、漢皇子であり、郭務悰の援軍によって大友皇子をやっつけた、とされますが、それ以上の奇を衒った特異の説をぶち上げた、ということかなあ、としか思えません。

その後、光仁天皇から桓武天皇となって九州王朝の血統が完全に消える、ということを詳しく述べています。しかし、その大元(おおもと)が、”天武天皇はタリシホコの息子である”、という仮説から生み出されているわけです。その大元の仮説に、もう少し理性的に納得できるような説明が欲しいものです。


結論として

多元的史観に基づいた古代通史として、古田武彦さん以来の出版物かなあ、と思います。その意味では価値ある出版物でしょう。

中国史書など外国文献に依拠した、4世紀ごろまでの部分は、殆ど古田武彦さんの『「邪馬台国」はなかった』『失われた九州王朝』『盗まれた神話』三部作に負ぶさっていますが、その分、論理の一貫性は保たれているようです。

問題点を三個挙げましたが、それらの問題点に共通しているのは、斎藤説の根拠となる基本の所の検証が不十分のまま、お話を紡ぎ出されていることです。「古代通史」というのはちょっとオコがましいのでは、という感じを持ちました。

最初に、この本を槍玉に上げる理由を述べました。この本も、いろいろな仮説を立てられていますが、検証も出来ないまま進められますから、普通の常識人には「やはり九州王朝説はいい加減なものだ、古田武彦も同じだろう」と思われる恐れがあります。

斎藤さんはこの本に続いて『失われた古代日本皇帝の謎』という本を、同じ学研M文庫で出しています。

「前書を発展的に改めた点もある」とはじめにで書かれていましたので、本槍玉に上げた問題点が書き直されているかと読んでみましたが、そのような節は見えませんでした。むしろ、【私は前書で、天武天皇と高市皇子は九州王統出の君主だったことを証した】というように、既に証明済み、という態度で進まれています。

斎藤さんはこういうことも言っています。【『日本書紀』を腑分けして、再構築したら歴史改竄などが炙りだされてくる】、と。しかし、腑分けした対象がたまたま病変体であったら、再構築されるものは、異常な歴史となる危険性も孕んでいます。

この斎藤さんの本は、古田武彦さんの「古代史」とは異質の、貝を以って海を測る、お話といえましょう。しかし、古代史の疑問点をご自分で仮説を立て、それを江湖に問う、という精神は見上げたものだ、と思います。

この本を読まれて、まだ左の「日本古代新史」を読んでいらっしゃらない方は、是非読んでいただきたい、こちらの方が、斎藤説より合理的な古代通史ですよ、ということが結論です。

(古田武彦著 『日本古代新史】1991年4月 新泉社刊)




◆補遺 二人の斎藤忠

もう少し「斎藤忠」について調べてみたいとネットで検索しましたら、別人の考古学者斎藤忠さんの著作などが沢山ヒットしました。

『日本考古学用語小辞典】、『日本古代史人物事典』などは若い方の斎藤忠さんのようです。斎藤忠(OLD)さんは、考古学会の泰斗の方で、その数十冊以上の著書の多くは、雄山閣、吉川弘文館など考古学関係学術所の出版で名の知れた出版社から日本考古学史など出されています。が、学生社からも幾冊か出されています。(そのうちの一冊が下の写真の「考古学とともに七十五年」です)。

斎藤忠(YOUNG)さんも、著書を学生社から出されているようです。同じ名前で同じ出版社から考古学関係の本を出されるのは紛らわしいことこの上なし、です。斎藤忠(YOUNG)さんは本名でしょうが、なんとなく偶然にしては出来すぎている感じさえします。
学生社をネットで検索しますと、三笠宮崇仁殿下の『わが歴史研究の七十年』や森浩一さん、上田正昭さんなどの著書も出版されていて、いい加減な出版社ではないようです。学生社から出ている『日本考古学年表』というのはOLDかYOUNGのどちらの手になる本なのか、手に取ってみなければ分かりません。ネットで買う人には判別が難しくても、実際書店で手に取ってみれば、その奥書などで、OLD OR YOUNG の区別はたやすいことでしょう。

つまり、二人の斎藤忠さんで頭を悩ませるのは、ネット販売が招いた事象なのでしょう。ご本人達には迷惑な話かもしれません


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