槍玉その42 『父が子に語る日本史』 小島毅 2008年5月 ㈱トランスビュー    批評文責 棟上寅七


著者について

本の奥書によれば次のような説明です。
小島毅(こじま つよし) 1962年生まれ。東京大学卒。専門は中国思想史。

現在、東京大学准教授。「日中歴史共同研究」委員、日本学術会議連携委員を務める。専攻分野での著書は『中国思想と宗教の奔流』(講談社)、『朱子学と陽明学』(放送大学教材)など。一般読者向けの『義経の東アジア』(勉誠出版)では躍動する日本中世像を巨視的なスケールで描き出し、その破壊的なギャグと共に衝撃を与えた。以後も、『近代日本の陽明学』(講談社)、『靖国史観』(ちくま新書)、『足利義満』(光文社新書)と問題作・話題作を次々と発表している。


上記のうち、気になるのが「日中歴史共同研究」委員です。
この本では、隋書に記載されている俀(タイ)国の天子を名乗る「多利思北(比)孤」が煬帝に出した、「日出づる処の天子云々」について、『俀(タイ)国の「多利思北(比)孤」』との関係について、全く説明がないのです。日本書紀にある「東の天皇敬して西の皇帝に云々」の国書も又出ていません。このような歴史認識で、日中歴史共同研究がまとまるとは到底思えませんが。政治家が使う「両論併記」でまとめるつもりなのでしょうか。

現在、週刊新潮に「日本史教科書」再読ドリルというコラムで小島さん流の日本史について語られています。その内容や、著書などの表題を拝見しますと、中世のことに知識も興味もおありのようです。

ご本人は【僕がこんな本を書いてしまうと、たぶん、いろんな人から批判されることだろうと思います。「日本史」の専門家でない、それどころか、「歴史学」の研究者ですらない人間が、日本の歴史を教科書と違う枠組みで語るなどというのは、実は傲岸不遜なことなのです】(p8)ともおっしゃっています。

私は古代史の専門家ではないよ、と逃げを前もって打たれているようにも思います。確かにこの本を読んでいますと、日本書紀や古事記も、小島さんが直接読まれて理解しようとされるのではなく、神皇正統記での北畠親房の解釈によっての知識、本居宣長の古事記観、など後世の史書類に基づいて、古代史の歴史観を形成されているように思われます。

小島毅さんは、この本を書いた目的を次のように書いています。【この本は、君のように将来の社会を担っていく若い世代の人たちに、現時点での研究成果を紹介しながら、日本と日本を取りまく地域の歴史について、僕なりに整理したかたちできちんと説明しておくためのものです。将来書き改められる事柄も多いでしょう。人によっては価値評価の分かれる記述もあるでしょう。でも、とにかく、時間の流れを通じた全体像を提示したいという思いから書きました。そういうつもりで読んで下さい。

果たして現時点での日本史の研究成果が、充分に紹介されているのかどうか、小島毅さんの本を読んでいきましょう。小島さんの意見について分かりやすいように「青書き」していきます。


この本の内容について

小島毅さんの、この「父が子に語る日本史」は平易かつ興味を持つように工夫されています。この本の中でも、【いろんな逸話を盛り込んで面白く工夫した】p7 と述べられています。確かに、この種の本では出色の出来となっているといってよいと思います。

この本は四部構成になっています。

第一部は「剣の章」で、剣にちなんで切り口として、頼山陽の日本外史を紹介し、日本を日本だけの歴史を語ることの問題点について述べられます。

第二部は「心の章」で、宗教・信仰という切り口で、記・紀を取り上げます。そこに書かれている歴史は歴史でなく、編集者がそうだったらいいなあ、と思って作り上げたお話、と述べられます。

第三部は「宝の章」で、日本の国家の形成がどのようにされてきたのか、を紹介されます。

第四部は「鋤の章」で、鎌倉時代からの歴史をもう一度掘り起こしてみた、と、武士が権力を握り、十九世紀の尊王攘夷思想となったと述べられ、最初の章の頼山陽と話が繋がり、物語を終えられます。

普通、日本史についてのいわば解説本は、日本書紀の記事による古代史の基本知識によって、説明される方が多いのですが、小島毅さんは、「北畠親房の神皇正統記」や「水戸光圀の大日本史」や、「頼山陽の日本外史」によって(北畠や山陽の判断などによって)説明され、彼らの考えを批判的に述べられます。

その、北畠親房・水戸光圀・頼山陽を批判する立場の歴史観の根底にかなり大きな問題が存在すると思います。

それらの問題点については、各章にわたって同一の問題点が出てきますので、問題点を先にあげてそれについての著者の記述を具体的に取り上げていく形で進めたいと思います。

以下、小島パパが息子さんに語った日本史について、寅ジイが感じたことを小島ジュニアに語る、という形で述べてみたいと思います。


まず、この小島パパの「父が子に語る日本史」という本を読んで、寅ジイが感じた、この本に流れる歴史観について違和感を感じたことを、お話してみたいと思います。

小島パパは、【日本神話は歴史的事実ではない。でも昔の人たちを理解するためには、私たちも知っておかなければならない】(p50)と語りかけます。

つまり、日本の史書の神話は、8世紀の史書編集者の創作であり、歴史的事実ではない、という歴史観に小島パパは立っていらっしゃるようです。

また、日本史の範囲について、【現在の日本が過去も日本ではなかった】、ともおっしゃいます。東北のアルテイを例に引いてかなり長く喋られます。一方で、琉球国の歴史は、ちゃんと隋書などに出てきているのに、ほとんど喋られません。

寅ジイが小島パパの日本史についてのお喋りに違和感を持ったところは、大きく分けると次の二つになるようです。

A) 叙述が必ずしも正しい、とは思われないところ。(『父が子に語る日本史』に誤りがあるのではないかな、と思われる部分)

B) 当然小島ジュニアに説明があって然るべきことの説明がされていないと思われるところ。つまり『父が子に語っていない日本史』部分。

もう少し詳しく説明しましょう。A)の問題点と思われるところは、

 「日本神話は歴史的事実でない。」と断定されています。 

 「日本書紀は卑弥呼を神功皇后に仕立て上げている」、とおっしゃるところ。

 「大陸からの文化の移入について」の意見について。

 「倭の五王は大和朝廷の天皇のだれかであり、倭王武は雄略天皇である。」と断定的におっしゃるところ。

 「多利思北(比)孤の国書問題」についての説明。

 「大化改新について」の説明。

 「日本国号の起源、天皇の起源、天皇の姓の問題」


B)の、「説明が抜けている」と思われるところ。

 琉球の無視 【江戸時代には、沖縄は「琉球国」という別の国でした・・・】などとおっしゃるところ。

 聖徳太子架空説について

勿論、小島パパは、【僕は日本史の専門家でもないし、僕なりに整理して説明するもので、将来書き改められる事柄も多いでしょうし、人によっては価値評価の分かれる記述もあるでしょう。】(p9) とおっしゃっています。この寅ジイも小島パパにとっては、「価値評価」判断が異なっている人たちの部類に入るのかもしれません。しかし、小島ジュニアには、価値判断の異なる意見も是非聞いてもらいたい、と僕は思います。


まず、小島パパの  「日本神話は歴史的事実ではない」という見方について小島ジュニアに、寅ジイの見方を伝えたいと思います。

ーa)神話に出てくる年数を見ただけでも「歴史」ではない】、という小島パパの見方について

紀元節神話とは、と、小島パパは【神武天皇が即位した日を紀元節として祝うのはいわば宗教である】(p52) とされます。寅ジイも、確かにそういった面はあると思います。しかし、小島パパは、神話全面否定というか、小馬鹿にしたような筆致が寅ジイには気になりました。

たとえば、【
神皇正統記によると、ニ二ギの尊は30万8533年にわたって天下をおさめ、山幸彦は、63万7892年、ウガヤフキアエズ尊は83万6043年間天下を治めた。】(p54)とか、 【神武は51歳で父を亡くしているから、ウガヤフキアエズの83万6000歳を過ぎてからの子供】(p56) と書きます。

小島ジュニアは知っているかも知れませんが、古事記にはこのようなそれぞれの治年についての伝承は記されていません。山幸彦が580年治めた、神武は137歳生きたとだけあります。日本書紀では、ニニギの降臨から神武即位まで、179万2470年たった、と述べていますが、山幸彦、ウガヤフキアエズがそれぞれ何年治めたとは書いていません。

北畠親房が『神皇正統記』で、どのような根拠で、それぞれの治世を決めたかは知りませんが、この小島パパは、「
神話はこのようにとてつもなくいい加減な数字をいろいろ書いてある」ということを、強調するために使っていらっしゃるようです。

神武天皇や、天照大神を実在した、と思っている方は結構いると思います。しかし、古事記や日本書紀が語る、神話伝説を歴史事実と思っている人は現在殆どいないでしょう。しかし、小島パパは、「
歴史的事実と思っている人がいる」、ということで話を進められているようです。

寅ジイには、「私たちの祖先が語り継いできた、神話が語る伝承の中に、歴史的事実も含まれているのではないか」、と思うのは間違っているとは思えません。ギリシャ神話を神話の中に歴史的事実がある、とトロヤの遺跡を発見したシュリーマンを、小島パパはどのように、「父としてわが子小島ジュニアに語る」のでしょうか。小島ジュニアさん、是非パパに聞いてみていただきたいものです。


ーb)「古代の年数について」の小島パパの考えについて

小島パパは、【天の神の子孫がどうして人間になったのかとか、八十万歳で子供ができるのかとか、なんで突然寿命が短くなったのかとかいった、「合理的」な質問はすべて無用です。】(p56) とも言われます。

小島パパは近代的合理精神に満ちていらっしゃるようで、縄文時代の人々がどのような「数の観念」、「暦や年齢の数え方」を持っていたのだろうか?という点には考えが及ばないようです。

寅ジイは、第一、縄文時代の数の数え方を、8世紀の日本書紀の編集者が理解できなく伝承通りに記した、という解釈はできると思います。「万」という数を表す観念が違っていた、という可能性を否定できないと思います。例えば、中国でも、昔は万の万倍が億という大きな数を表したそうですし、億の億倍が兆だったそうです。今では億の万倍が兆、というように時代によって数の観念は変わっています。

そして、第二に、魏志倭人伝には、「倭人は90歳まで生きる」旨の記載があります。これも倭人が「90」と答えたのでしょうし、年暦の考え方が独特であったからでしょう。それが、後世になって、中国の暦式の年齢計算が用いられるようになったので、【突然寿命が短くなった】という現象が生じたのでしょう。

このようにも考えられるのではないか、というのが寅ジイの考えですが、小島ジュニアはどう思いますか。やはりパパのいうように「非合理的」と断定するのに賛成されますか?


ーc)応神天皇以前は平和的に権力継承がなされた、という小島パパの見方について。

小島パパは、【応神天皇のあたりから、この「宗教」(注:記紀が伝える伝承を歴史的事実とみる立場)が伝える古い記録に、皇位をめぐる血生臭いドロドロした争いが描かれるようになって、にわかに人間(?)らしくなってくるのも、かなりな程度、歴史的事実を反映しているからだろうと推測されます。】(p59)

このように、応神天皇以前の天皇の継承は血なまぐさくないと述べられますが、記・紀で果たしてそのような世界が描きだされていますでしょうか。小島パパは、神武没後の皇位継承をめぐる血なまぐさい話はお読みになっていらっしゃらないのでしょうか? 

これについては、寅ジイは、自分のホームページ 
http://www.torashichi.sakura.ne.jp/michikusa09kodaikouikeishou.htmll で整理してみたことがあります。その中から小島ジュニアに、いくつかの伝承説話を紹介しましょう。

まず第二代天皇とされる、綏靖(すいぜい)天皇のところの古事記の記述を見てみます。果たして小島パパがおっしゃるように、「
応神天皇以前の権威継承は血なまぐさくなかった」と言えるのでしょうか?

当芸志美美命(タギシミミノミコト)は、神武天皇の長男で、神武天皇の死後、父の后の伊須気余理比賣を娶った。
(イスキヨリヒメ)
伊須気余理比賣(イスキヨリヒメ)には3人の王子がいた。
当芸志美美(タギシミミ)その3人を殺そうとしたので、伊須気余理比賣イスキヨリヒメがそのことをわが子の三王子に教えた。
三人の内、一番下の、沼河耳(ヌカワミミ)が、すぐ上の兄、八井耳(ヤイミミ)に武器を持って当芸志美美(タギシミミ)を殺したらよい、といったが、八井耳(ヤイミミ)は、いざとなると、手足が震えてどうも出来なかった。沼河耳(ヌカワミミ)がそれを見て、兄の武器を取り上げ、自分で当芸志美美(タギシミミ)を殺した。
兄たちは弟沼河耳(ヌカワミミ)を天皇にし、自分たちは臣下として弟を助けることにした。
これが建沼河耳命(タケヌカワミミノミコト)綏靖(スイゼイ)天皇である。』

では、第十代崇神天皇の場合はどうでしょうか大毘古(オオビコ)から、遠征先で少女が「天皇が危ない」というような歌を歌っていた。これは建波邇安(タケハヤコヤス)が反乱をおこす兆しではないかと邪推し、大毘古(オオビコ)国夫玖命(クニブクノミコト)をつけて征伐させた。

その次の垂仁天皇の場合も、すんなりといっていません。
異母兄妹の沙本毘古(サホヒコ)沙本毘賣(サホヒメ)と垂仁天皇との話です。
天皇は沙本毘賣(サホヒメ)と結婚した。沙本毘古(サホヒコ)が、「兄の自分と天皇とどちらが好きか」と聞きます。
「兄が」、と答えた沙本毘賣(サホヒメ)に、沙本毘古(サホヒコ)は小刀を渡し、「これで天皇を殺せ、自分と二人で天下を治めよう」、といった。
沙本毘賣(サホヒメ)は実行できず、天皇は沙本毘古(サホヒコ)を攻めた。
妊娠中の沙本毘賣(サホヒメ)も兄と一緒に稲藁の城に立て籠もっていた。
3年かかりで攻め、稲藁に火をつけ兄妹を焼き殺したが、子供だけは助かった。

ーd)第十六代仁徳天皇はその名のように慈愛溢れるよい天皇だったか

小島パパは、【応神天皇が亡くなると、そのあと二人の兄弟が天皇の位の譲り合いをします。(中略)そして結局弟のウジノワキイラツコは自殺して兄を即位させました。これが仁徳天皇です。この称号でおわかりのように、この人がまた慈愛にあふれたおお大王で、庶民が生活に困窮していると知って税金を何年も集めなかったそうです!】(p92)と小島ジュニアに言います。

古事記や日本書紀を小島パパはお読みになっていらっしゃるのか、と疑いたくなります。 即位以前の大雀命(オオササギノミコト)(のちの仁徳天皇)の行跡はとても慈愛に満ちていたとは思われません。

古事記では次のように伝えています。

応神天皇が亡くなり、遺命で(宮主矢河枝比賣(ミヤヌシヤカワエヒメ)との間の子)宇遅能和紀郎子(ウジノワキイラツコ)が即位ということになったが、(入日賣(イリヒメ)との間の子)大山守命はひそかに兵を集めた。
(オオヤマモリノミコト)
大雀命(オオササギノミコト)は異母弟の宇遅能和紀郎子(ウジノワキイラツコ)に知らせ、異母兄大山守命(オオヤマモリノミコト)を宇治川の渡しで伏兵を用いて殺した。
大雀命(オオササギノミコト)宇遅能和紀郎子(ウジノワキイラツコ)がお互いに皇位を譲りあっていましたが、宇遅能和紀郎子(ウジノワキイラツコ)が病で死に、大雀命が即位し仁徳天皇になりました。


仁徳天皇は応神天皇と
中日賣(ナカツヒメ)の間に出来た子である。
父の応神天皇と宮主矢河枝比賣(ミヤヌシヤカワエヒメ)との間に出来た子供に八田若郎女(ヤタノワキイラツメ)女鳥王(メドリノミコ)がいる。
また、糸井比賣(イトイヒメ)との間に出来た子に速総別王(ハヤブサワケノミコト)もいる。
仁徳天皇は、速総別王(ハヤブサワケノミコト)を使者に立てて、女鳥王(メドリノミコ)を娶ろうとした。
女鳥王(メドリノミコ)は、自分の姉の八田若郎女が既に后となっているし、本妻の(ヤタノワキイラツメ)石之日賣命(イワノヒメノミコト)は嫉妬深いので、仁徳天皇の所に行きたくない、むしろ、速総別王(ハヤブサワケノミコト)、あなたのといころに嫁ぎたい、といった。
仁徳はそれを知り、軍を興してこの二人を奈良の宇陀に追い詰め殺しました。

●④「倭の五王は大和朝廷の天皇のだれかであり、倭王武は雄略天皇である。」と断定的におっしゃるところ。

倭王武と雄略天皇関係年表

西暦  中国史書の記事  日本書紀の記事   備考

456              雄略天皇即位    日本書紀     
462  倭王武即位                 宋書
477  倭王武朝貢                 宋書
478  倭王武上表                 宋書
479              雄略天皇歿     日本書紀
479  倭王武授号                 南斉書
480              清寧天皇即位    日本書紀
485              顕宗天皇即位    日本書紀
488              仁賢天皇即位    日本書紀
498              武烈天皇即位    日本書紀
502  倭王武授号                 梁書
507              継体天皇即位    日本書紀 


上表の食い違いについて、小島パパは恐らくご存知だと思います。ですが、小島ジュニアには語ってくれていません。

『日本書紀』が伝えるように、西暦479年に雄略天皇が亡くなった年に、宋朝が倭王武に授号しているのは、遠隔の地であり、あり得ることかもしれません。しかし、雄略天皇の歿後、それも23年後に倭王武は、梁の武帝から「鎮東大将軍倭王武、進めて征東将軍と号せしむ」と、授号しているのです。

間に四人の天皇(大王)が即位しているのに、それを無視して、23年前に亡くなった雄略に授号するなど、いい加減な中国の情勢把握力であった、と小島パパは中国との歴史認識についての会合でも主張されるのでしょうか。

この中国の皇帝から、朝鮮半島を含めた支配権を認められた、これらの重大ニュースを、正史の日本書紀に書き落とす、などあり得ることでしょうか。やはり、大和朝廷の伝承には「授号はなかった」から書かなかったのでしょう。史料から見れば、明らかに雄略天皇と倭王武は別人といえるでしょう。小島ジュニアに是非この点について、「日中歴史共同研究」委員の小島パパに意見を聞いていただきたいものです。

やはり、この中国史書の『宋書・南斉書・梁書』と『日本書紀』の矛盾点については、少なくとも、「問題点はある」「わからない」などと「小島パパは小島ジュニアに語って」あげなければ、将来「ジュニア」が恥をかくことにならないか、と寅ジイは心配です。


次は  「多利思北(比)孤の国書問題」についての小島パパの見方の問題です。

まず、小島パパがこの本でおっしゃっていることを見てみましょう。

聖徳太子という人について伝えられている物語の多くは、後の時代からの創作で、実際にいた厩戸王という人物とは関係ないとされています。(中略) そうしたお話の一つに遣隋使の件があります。中国の統一国家である隋の皇帝に対して、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙なきや」という有名なあの書簡です。この事実は、中国の歴史書『隋書』に載っていることなので、まあ、おそらくは事実に近いのでしょう。ただ、問題は、それをどう評価するかです。日本で作成した『日本書紀』のなかでは、多少文面を変えてこの手紙を紹介し、「隋と日本が対等であったことの証拠」としています。(中略)『日本書紀』が遣隋使を対等外交のように描くのは、一種の虚勢であって、書いている本人たちも自分たちが同格だとは信じていなかったでしょう。】(p28~30) とおっしゃっていますね。

寅七ジサマが感じるのは、この国書問題については、小島パパの認識誤認があるのではということです。

なぜなら、日出づる処の天子云々は、阿毎多利思北(比)孤が煬帝に出した、と『隋書』にあります。小島パパは、「多利思比孤」という日本の天皇の誰かが出した、というように話を進めていますね。そこで、まず、(ア)「多利思北(比)孤とは誰のことなのか。」ということを抜きにして話を進めるのはおかしい、と小島ジュニアは思いませんか?

その上、この国書が記載されている『隋書』には「俀(タイ)国伝」というところに載っているのです。同じく『隋書』には「俀(タイ)国」と違う「倭国」からも使いが来ていることを書いてあります。小島パパは、(イ) 「隋書がいう俀(タイ)国とは何か。」という説明を小島ジュニアにしなければ、教科書の記事の単なる押しつけになります。

もっと詳しくいうと、小島パパがいうように、(ウ) 『隋書』の国書と『日本書紀』の国書は「多少文面を変えた」位似ているのか、ということです。

このような問題を整理してはじめて、小島パパが主張される、(エ) 【『日本書紀』は「対等外交」と表現しているのか。】ということが妥当な解釈といえるか、ということの当否が問えると思います。

(ア) については多言を要しないでしょう。国書を出した多利思北(比)孤は、『隋書』によれば?彌という妻がいる男王であり、利歌弥多弗利という王子がいる、と書かれています。
当時の大和朝廷は推古天皇(女帝)で、厩戸王が皇太子です。おまけに隋の使者が当人と会っているのです。一般的には、厩戸王が摂政であり、倭王として対応した、と説明されますが、なぜ、多利思北(比)孤・雞彌・利歌弥多弗利の3名の国の中心人物が日本の正史に記載されていないのか、説明できないでいます。

この問題について、小島さんは山川の教科書の遣隋使についての注として、【隋書に見える王の名前「多利思比孤」が、「何天皇をさすか不明」となっています。】(p80)といわば逃げています。少なくともこれらの問題があることを、「父は子に語って」ほしいものです。

(イ) 俀国王の阿毎多利思北(比)孤と隋書にあります。その国について、九州関係の自然や地理の記述がほとんどであり、近畿地方の国とは常識的には思えないのです。小島さんは、この『隋書』に出てくる「俀(タイ)国」について全く説明をしていません。

『隋書』によれば、俀(タイ)国は、金印をもらった委奴国の後裔の卑弥呼の国の後継国という説明がされています。小島パパは、「邪馬台国探しは知的遊戯」と揶揄されていますが(週刊新潮2010.9.9「日本史教科書再読ドリル」)、真面目に検討されなければならない問題でしょう。

(ウ) 600年に俀(タイ)国の多利思北(比)孤の遣使があった、と『隋書』に記されています。注意しなければならないのは、『日本書紀』にある小野妹子の最初の遣使は607年で、7年のずれがあることです。

『隋書』が、問題の「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙なきや」の国書を多利思北(比)孤が出し、煬帝が「以後このようなものは私のところに持ってくるな」と怒らせたのは、607年のことです。

『日本書紀』によれば、608年に隋からの使者裴世清が来て、隋からの国書を推古天皇が受け取った、としています。それには「皇帝、倭王に問う。朕は、天命を受けて、天下を統治し、みずからの徳をひろめて云々」とあり、その返書が 『日本書紀』にあるように「東の天皇敬して西の皇帝に曰す。使人裴世清等至りて、久しき憶い、方(ミザカリ)に解けぬ云々」です。この文章のトーンは、長らく望んでいた通交が初めてできた、という喜びを表している、といってよいでしょう。

煬帝を怒らせた多利思北(比)孤の国書と、推古天皇の返書は全くそのトーンが異なります。小島パパがいうように「多少文面を変えた」というものではありません。天子を自称する多利思北(比)孤の国書と推古天皇の国書は「全く別の国書」というのが、理性的な判断と思いますが、小島ジュニアは、パパの方がやはり正しい、と思われますか?

(エ) したがって、『日本書紀』の国書や遣唐使などの記述に、「対等外交」という点は見受けられないのです。中国の皇帝が「天命を受けて天下を統治しているのだ」、ということを唯々諾々と認めています。「対等外交」な考えを表しているのは、俀(タイ)国の天子を名乗る、阿毎多利思北(比)孤だ、ということで、聖徳太子や厩戸王とはまったく関係ない話なのです。

小島パパが、『隋書』の記事を無視し、『日本書紀』の中に、間違った国書を取り込み、「遣隋使を対等外交のように描くのは、一種の虚勢であって・・・」(p29)と、日本書紀の編集者を責めるのは、お門違いも甚だしいと、寅ジイには思われます。

特に『隋書』に大業4(608)年、俀国とその後ついに絶つ、と国交が途絶えた、と記録されています。しかし、615年、630年と遣唐使犬上御田鋤を派遣したことが『日本書紀』に見られます。

このことは、「俀国」とは「多利思比孤」の国であり、「大和朝廷の国」ではなかった、という論理的帰納となります。すくなくともこのような問題があるということを、「父が子に語ってあげて」ほしいものです。

この「俀(タイ)国」問題についてよく勉強されないと、その後の史書『唐書』の日本伝・倭国伝という二つの国の記述も理解できないでしょう。小島パパが理解できていないのであれば、それはそれで、「7世紀あたりの中国の正史の記述には理解できないところが多い」と「父が子に語って」あげるのは、何ら恥ずかしいことではないと思います。

『宋書』の倭王武問題同様に、小島パパは「日中歴史共同研究」委員なのですから、中国の委員からこの「多利思北(比)孤」問題の見解を求められたとき、どのように説明されるのでしょうか。日本人の恥でなく歴史研究家としての恥ではないでしょうか。


  大化改新について

大化2年646年の「改新の詔」は『日本書紀』に出ていて、他に史料はないので、従来これが史実だ、とされてきた。しかし、郡司を設けるとしているのに、当時は「郡」ではなく「評」が使われていたことがわかり、改新の詔は646年よりもっと後に出されたものというより、日本書紀の編集者の創作によるものと考えます】、というように述べられます。(p97~98)

そして、山川出版の教科書の大化改新の説明を引用します。【山川の教科書でも、改新の詔の一部を史料として掲載し、本文では次のようにこの間の経緯を説明しています。〈646(大化2)年正月には、「改新の詔」で豪族の田荘・部曲を廃止いて公地公民制へ移行する政策が示された。全国的な人民・田地の調査・統一的税制の施行が目指されるなか、地方行政組織の「評(こおり)」が各地に設置され、大規模な難波宮が営まれた。】(p100)

小島パパは、大化改新について、特に「評」についての説明を直接せず、山川教科書の断定的な評の記事の紹介で逃げています。(もしくは、教科書の記述が正しいと信じていらっしゃる。)

この「評」と「郡」の変更がいつなされたのか、なぜ『日本書紀』に「評」を置くなどという記事がないのか、ご自分がわからないならわからない、問題がある、などと「父が子に語る」べきではないでしょうか。

「評」という統治組織があったことは、栃木県にある、17世紀に発見され現在国宝となっている那須国造碑に、「評督」という役職名が残っていますし、701年の大宝以前の木簡は「郡」でなく「○○評」という地域名が書かれていることは、日本古代史の研究者の間ではよく知られています。

それなのに、『日本書紀』になぜ「評」を置くという記事がないのか、ここから「大化の改新」に対する種々の研究がなされているわけで、山川教科書の断定的な解説は、正確ではないといってよいでしょう。

これらの現象が示すものは、大和朝廷に先立つ政治勢力の地方行政組織が「評」であり、それを大和朝廷が「郡」に改めた、という仮説が、すべての疑問を氷解させます。

なお「評督」の上司は、『宋書』の記事にあるように、中国の皇帝から、倭の五王たちに与えられた、「都督」でありましょう。これで、初めて、小島パパが【大和朝廷は、東アジアの国際情勢のなかで生まれ育ちました】(p81)とおっしゃるように、東アジアの中の日本列島の政治情勢が、統治組織として具体的に表れている、といえましょう。


  日本国号の起源、天皇の起源、皇族の姓について

この小島パパが小島ジュニアに語る日本史には、以上に挙げた事以外にも、たいしたことではないのかもしれませんが、事実誤認というか、古代史の文献の読み込みが不十分なところをいくつか見かけます。

たとえば、小島パパは、【皇族には今でも姓がありません。】(p33)とおっしゃいます。

ところが、先ほど来からの「多利思北(比)孤」の煬帝を怒らせた話より7年前の、最初の俀(タイ)国の記事に、「俀(タイ)王あり、姓は阿毎、字は多利思比孤、阿輩雞弥と号す。」とあります。つまり、俀(タイ)王が小島パパがおっしゃるように、大和朝廷の天皇の誰かであろう、とされるならば、その天皇は「阿毎」(アマもしくはアメでしょう)という姓を名乗っていたことになります。

このことは、頭脳明晰な小島パパにしては、うっかりミスとは思えません。もし、俀(タイ)国が大和朝廷の国を示すものであったら、その国王の姓は「アメないしアマ」という姓を持っていたことになるし、大和朝廷の大王に姓が今に至るも「ない」とおっしゃるのなら、俀(タイ)王は大和朝廷の大王に非ず、という帰結になります。パパの立派な血を引いて、おそらく聡明な小島ジュニアでしょうから、この論理の帰結を受け入れていただけるものと思います。

次に「日本」の国号や「天皇」の起源についての小島パパの説明を見てみましょう。

「日本」という名前は、西暦七世紀のころに天皇の政府が決めたものです。「天皇」という称号も同じころに使われるようになります。】(p6)

天皇は4,5世紀の大和朝廷成立のなかでようやく登場するようになります。ただし、その時点ではまだ天皇でなく大王(おおきみ)と呼ばれます。当時まだ天皇という称号はなく、大王と呼ばれていたからです。そしてくどいようですが、これが歴史的事実です。僕はその事実を尊重する立場です。】(p50)

厩戸王のころは、まだ「日本」という国号はなく】(p81)、【645年の大化改新で倭国の歴史が終わり日本国誕生の物語が本格的に始まる】(p95)

このように、ところどころに挿入されている「日本」国号についての小島パパの「日本」という国号についての認識のようです。

これについて、中国の史書になぜ「日本」が「倭国」から「日本」と名乗るようになったか、が記載されているのです。

ところが、この史書『旧唐書』という中国の正史には、「倭国伝」・「日本伝」と日本列島に二つの政治権力が存在していたように叙述されているのです。これに踏み込みますと、紙数がいくらあっても足りません。ぜひ『旧唐書』の「倭国伝」「日本伝」の二つの国の記事を自分の目で読んでいただきたいと思います。「倭国伝」が『隋書』にいう俀(タイ)国であり、「日本伝」が大和朝廷を表していることがわかることと思います。

また、日本書紀にも百済本記からの転載記事として、【「継体紀」に日本天皇・太子・皇子ともに死す】というように載っています。これは、もとの『百済本記』が現存していませんので、はたして「日本天皇」とあったのか、「倭天皇」とあったのを『日本書紀』編集者が「日本天皇」と書き改めたのか、という問題は残ります。

しかし、日本国号や天皇という称号の始まりについて、このような問題がある、ということを、小島パパは小島ジュニアになぜ教えてあげないのでしょうか。まだまだ、日本の古代史には、「山川教科書」ですっきり片付いているのではない、ということも「父は子に語って」もらいたい、と寅ジイは思うのです。

特に、小島パパは、「日中歴史共同研究」委員です。日本の成り立ちについて、中国側は、自分たちの正史の記事が正しいものとしての歴史認識でしょうから、日本側としても、中国の史書で、「日本」がどのように取り上げられているのか、もし日本の史書類と照合してみて「中国の史書の記述が誤っている」と思われるのなら、ちゃんと筋道の立つような論理を組み立てていかなければ、「日中歴史共同研究」の日本側の委員としての見識を問われることになります、そこを寅ジイは心配しています。


  琉球の無視

この小島パパの「父が子に語る日本史」の本の中で、沖縄についてどう述べているのかをみてみます。そこには、【江戸時代には、沖縄は「琉球国」という別の国でした・・・】(p5)と、もう一か所、【琉球国だった沖縄にとっては、京都で起こっている事件と同様、もしくはそれ以上に、北京で起こっている事件が大事でした。】(p11)というわずか2箇所だけでした。

おまけに13世紀の蒙古軍の襲来について、、【2000年の歴史の中で、中国側がこれだけ大規模な攻撃をしかけてきたのは空前絶後です。】(p159)とも述べています。

現在でも尖閣列島(魚釣島)について中国側からその帰属が問題提起されています。「日中歴史共同研究」委員でもある小島パパの琉球の歴史認識について少々危ういものを感じるのは杞憂でしょうか。

なぜなのかといいますと、中国の正史『隋書』には、その「琉求国伝」に、【大業4(608)年に羽騎尉朱寛という武将を派遣し、慰撫させたが流求は従わず、其の布甲を取って還った。また、大業6(610)年に琉求国に侵攻し都の宮室を焼き、数千人の国人を連行した】、とあります。この琉求国は台湾のこととする学説もあるようですが、この琉求国が現在の沖縄を指すことは、ほぼ間違いない事でしょう。

隋書「夷番伝」に 大業4年のところに、もう一つ大事なことが書かれています。琉求国からの戦利品「布甲」を丁度来国していた、俀(タイ)国使に見せたら、これは「夷邪久国(屋久島か?)」人が用いるものだ」と云った、と書いています。さらに、この年に、俀国は隋朝と国交を絶った、とも書いてあるのです。

つまり、隋朝の琉求侵攻が俀国との断交となった、ともとれる大事件であったのです。しかし、『日本書紀』には何事も書かれていませんし、608年9月に小野妹子を派遣し、「東の天皇敬みて西の皇帝に白す・・」の国書を持たせています。その後も614年に犬上君御田鋤を派遣していて、大和朝廷は隋朝とは断交などしていません。

このことからも、「琉求国」侵攻事件は、「俀(タイ)国」と「大和朝廷」が別の政治権力であった、という証明にもなる、重大な事件と云えましょう。

博学の小島パパですから、恐らくご存知のことでしょう。しかしなぜか問題視されていないようですが、中国の正史に記載されていることです。問題点としてテイクノオトしておくよう「わが子小島ジュニアに語って」おかなければと思います。

「日中歴史共同研究」委員の小島パパが、近世の日本の中国侵攻だけに目を奪われることなく、過去における大陸側からの侵攻についても、ちゃんとした歴史認識を持ってもらいたい、と寅ジイは希望します。


  聖徳太子架空説について

小島パパは、聖徳太子架空論として矢沢永一氏の『聖徳太子はいなかった』と、田中英道氏の『聖徳太子虚構説を排す』を例にあげてどちらが正しいか、と問いかけます。

小島パパは、【僕が聖徳太子擁護論に対して感じる違和感は、聖徳太子を英雄として誉め称えることで日本国民としての自信を保持しようとする、その姿勢です。】ともおっしゃいます。

その言葉には同感するところがあります。しかし、聖徳太子実在論者の根拠の法隆寺釈迦三尊像光背銘を否定して、だから、実在しなかった、というだけでなく、「別の人物像を聖徳太子に擬した」という第三の説があることも、わが子に問題点として語っておいていただきたいものです。

たとえば、釈迦三尊像光背銘の196字の銘文に「法興元三十一年」・「鬼前太后」・「上宮法王」・「干食王后」など日本書紀など史書に見えない文字があり、どうやっても、推古天皇・厩戸王とは結び付けられないのです。だから、「聖徳太子はいなかった」という短絡的な結論は論理的にもおかしいわけです。詳しくは、古田武彦『法隆寺の中の九州王朝』朝日文庫1988古代は輝いていたIII に譲ります。


 その他の雑感

この小島パパの本を読んでいて、5箇所にわたって、自分の家系(桓武天皇系の小島家)、奥様の家系(かの有名な藤原家)を誇らしげに述べていらっしゃいます。【わが小島家は桓武平氏です。新潟県の本家にある系図には、ちゃんと最初に葛原親王の名が記入されています。】p38というように。このようなところが、鼻に付くというのは名もなき民草出身の寅七ジイの僻みかもしれません。

家系がはっきりしている、ということは、それだけ昔から上層階級に属していたのだ、ということを誇っていらっしゃるのでしょう。小島パパの歴史観の言葉の数々とは裏腹の、万世一系思想にも相通じる歴史観を持っていらっしゃるのかも知れません。

【徳島市内にあるお殿様たちの墓地に立つ石碑には、「源を姓とし、蜂須賀を氏とす」(原文は漢文)と刻まれています。まあ、愛知県の無頼の親玉だった蜂須賀小六が、将軍足利家の親戚たる源氏だとは、にわかには信じられませんけどね。】(p187) というところにも「衣の下の鎧」が見えているようです。

万世一系ということであれば、生物学的には、現在生きているということは、皆万世一系の血統でしょう。2000年間は80世代ぐらいかと思いますが、現在私達が生きているということは、両親の両親そのまた両親、と、1世代25年として、2000年間に約80代の繋がりがあったわけです。2の80乗程度の数の祖先が各人に存在するわけです。

計算は大変ですが、インターネットで「2の乗数」を検索したら、1,208,925,819,614,630,509,412,352 という値を得ることが出来ました。祖先の人数は 1.2億の一億倍の百万倍という天文学的数字になるのです。蜂須賀小六も10代も遡れば、源氏の誰かの遺伝子を充分に受け継いでいることでしょう。an>

●最後に 小島パパは一生懸命にわが子小島ジュニアに、日本人としての歴史観を伝えようと努力されています。

小島ジュニアは良きパパを持って幸せと思います。
【日本史の専門家でもない自分がこのような本を書いたのは、司馬遼太郎のような歴史小説家のほうが、歴史学者よりも多くの読者を獲得し、強い影響力をもっているという事態に対して、僕は大変な危機感を持っています。】(p8)と、この本を書かれた動機を述べていますが、日中関係の古代の史資料について読まれていないか、教科書程度の知識でよい、と思われたのか、東アジアの古代についてこのような認識不足では、小手先の弁術だけをいかにふるっても、司馬遼太郎さんにはとても太刀打ちできないでしょう。

豊かな家庭に育った方が教養・教育を受ける機会に恵まれ、長い年月が経ってみると、小島パパのような、頭もよくて博学で、程よいところでの正義感の持ち主で、人当たりもよい、という人材が輩出するようになるのだなあ、という感慨を持ちました。

ただ頭の良い方に多いと聞きますが、知ったかぶりでの持論の展開や、論語読みの論語知らずに堕さないように、というのが寅七ジイが小島パパに贈る言葉です。
知ったかブリの歴史授業(知ったかブリの歴史授業 by ノリキオ)

小島ジュニアも現世の巷に溢れる、B級文化に溺れることなく、小島パパの期待に応えて、この「寅ジイが小島ジュニアに語る」日本史を考える精神を汲み取って、たとえパパのいうことでも、納得ができないところを自分で考える精神を持つように、成人してもらうことを期待します。 なお、この文章を書くにあたって参考にした図書を記しますが、小島ジュニアが読んだら、語呂合わせの年代記憶術などの無味乾燥と思っている日本史にも、きっと新しい興味がわき出てくることと確信します。                            以上


  参考図書 『「邪馬台国」はなかった』 古田武彦 ミネルヴァ書房 2010年刊
       『失われた九州王朝』 古田武彦  ミネルヴァ書房 2010年刊
       『盗まれた神話』 古田武彦  ミネルヴァ書房 2010年刊
       『法隆寺の中の九州王朝』 古代は輝いていたIII 朝日文庫 1988年刊 

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