槍玉その45 『倭人伝を読みなおす』 森 浩一 ちくま新書 2010年8月刊   批評文責 棟上寅七


はじめに
週刊朝日記事 足立倫行
今回森浩一さんの『倭人伝を読みなおす』を、批評の対象にあげる直接のきっかけとなったのは、週刊朝日の記事からでした。

週刊朝日の記事は2011年9月23日号から10月21号に亘って5回連載された、「週刊ノンフィクション劇場 倭人伝を歩く」というシリーズです。

この連載は、ルポライターの足立倫行さんが、森浩一さんの『倭人伝を読みなおす』を軸に、現地を歩いてのルポ記事というスタイルになっています。

足立倫行さんは、当研究会で以前2回登場頂いています。槍玉その27『姿を見せてきた邪馬台国』、および、槍玉その36『覆るか日本書紀』です。どちらも週刊朝日の連載記事でした。

槍玉27の足立さんのルポ記事には、取り立てていう程のタネ本はありません。週刊朝日編集部がこの企画を取り上げたのは、当時、講談社が出した宮崎康平さんの「まぼろしの邪馬台国」(文庫本再版)がヒットし、いわば、あやかり商法での企画であった様です。

しかし、槍玉36では、大山誠一さんの「聖徳太子はいなかった」説がタネ本となっていました。今回は3匹目のドジョウ狙いでの森浩一さんの『倭人伝を読みなおす』を取り上げたのでしょう。しかしこの本は他の新聞社(西日本新聞社)の連載記事の新書本化なのです。朝日ともあろう新聞社が、そのような本を取り上げるのは、あやかり商法にどっぷりと漬かっている姿をみたような感じがしました。

以前当研究会が取り上げた週刊朝日連載記事批判の記事は、上記の、槍玉その27、及び36にリンクを張っておきましたのでクリックしてみてください。URLは下記です。


今回の週刊朝日の連載記事は、森浩一さんの著作に沿っての紀行文であり、第一回には森浩一さんとの対談が出されています。

その記事では、森浩一さんの邪馬台国論が基本にありますので、週刊朝日の記事を批評の対象にするのではなく、足立倫行さんの紀行文は必要に応じて参照することとし、森浩一さんの『倭人伝を読みなおす』を批評の対象とすることにしました。

当研究会もこの機会に、あらためて倭人伝を読みなおしました。お陰さまで、今回の批評文が森批判にとどまらず、通説一般に対しても批判の目を広げさせていただきました。


ところで、この『倭人伝を読みなおす』は、あまりにも「倭人伝」全体を森浩一さん流に解釈しています。つまり、この本を批評するには「倭人伝」全体にわたって検討する必要があります。読者の理解の便宜のために、この槍玉45の全体の流れ、つまり「目次」的なものを示しておきます。

(I)、森浩一さんとは

(II)、森さんが「倭人伝」で描き出す古代史のストーリー

(III)
この本に書かれていないこと
 「倭人伝」に関係あるのに森浩一さんが語らないこと。01倭人伝に出てくる「絹」「錦」「金八両」02、三種の神器。03、銅鐸文化。04、吉武高木遺跡・平塚川添遺跡など。05、崇神の東征。06、狗邪韓国と任那。07、里についての考え。08、古田武彦。

(IV)、「倭人伝」の解釈上の問題点として沢山の先人が挙げている事柄についての森浩一さんの見解。
これらがまあ本論です。A.倭国とは。B.倭国への行路。C.倭人の国々。D.倭人伝の里について。E.倭人伝の誤記誤写と言われる箇所について。F.文字の読みの問題。G.邪馬台国の東遷。H.森浩一さんの注目すべき意見。

(V)、検討し残した問題

(VI)、結論

このような順序で当研究会は検討を進めていきます。



(I)森浩一さんとは


佐原真さんが2002年に亡くなった後も、考古学に関して積極的に発言されていて、いわば泰斗とか、東遷説の重鎮(週刊朝日の記事)とか世間にはみられているようです。

経歴はこの『倭人伝を読みなおす』の裏表紙に肖像写真と共に掲載されています。(右下参照)

寅七の小さな書棚にも、1972年岩波新書の『古墳の発掘』はじめ五指にあまる本があります。考古学者森浩一がどのように古代文献に取り組み、考古学と総合した古代学説としての「倭人伝」について述べられるのか興味がありました。

古代史の文献研究から入られ、考古学にも一家言を持たれる同年代(森浩一1928年生、古田武彦1926年生)の、古田武彦さんについても何か一言あるのかな、ということにも興味がありました。しかし、その期待は見事に裏切られました。全く古田のフも出てきませんでした。

このお二人は恐らく対談などされているのではないかな、シンポジウムなどで一緒にお喋りされているのではないかな、と調べてみましたら二つ見つかりました。

一つは、1976年の9月から11月に亘って開催された朝日新聞社のゼミナールシリーズです。『古代史の宝庫』という本にまとめられていました。

その本には、森浩一「古墳と生産文化」、古田武彦「九州」、間壁忠彦「吉備」、上田正昭「出雲」、岸俊男「畿内」という錚々の方々がそれぞれ詳しく論じています。しかし、お二人が意見を交換するというものではありませんでした。

対談形式の記事は『東アジアの古代文化1980年早春号』という雑誌に載っていました。それは、日本古代の石造遺物特集号でして、森浩一・古田武彦対談がなされています。これは鳥取県の「岡益の石堂」という日本古代の石造遺物を中心話題としてご両者が意見を交わされています。

基本的には両者の意見は対立しているところは少なく、お互いを立てた発言をされています。ただ、鳥取県の「淀江の石馬」について、両者の意見が異なっているくらいです。主題の「淀江の石馬」ではなく、福岡県の岩戸山古墳の石馬が南朝文化の影響を受けたものではないという森さんに対して、古田武彦さんが反論されているところだけぐらいです。

その後、このような対談があったのかどうか、古田先生にお聞きしましたが、記憶には無い、というようなことでした。どうやら、古田さんは歯に衣着せず「論理ののおもむく処へ」と意見を述べられますが、これが既成学界の反撥を受けている風潮を見て、森さんも意識的に近づかないように用心されているように思われます。
森浩一 略歴
その様なことも含め当研究会は、森浩一さんの最新の古代史史観をよくあらわしていると思われる今回の『倭人伝を読みなおす』を検討することは、森さんが考古学や古代史に興味のある一般読者に影響を持つ方であることを思えば、批判検討する意義があるのではないかと思い取り組んでみたものです。



(II)森さんが「倭人伝」によって描き出す古代史のストーリィ

●森浩一さんの「倭人伝」観は

ところで、この『倭人伝を読みなおす』という本で森浩一さんが読み取った「倭人伝」はどのようなものだったか、それをまず読者の皆さんにお伝えしたいと思いいます。

森浩一さんは邪馬台国東遷説 所謂「邪馬台国九州(山門)」説で、且つ、「北部九州から畿内に東遷」説という考えの方です。一見したところ、森さんの考え方にも当研究会の立場と共通部分もあるかと思われました。

果たしてそうなのか、共通部分かなと思えたところを上げてみます。


この本の中でも、「纏向遺跡は卑弥呼とまず結びつけるより、崇神天皇などとの関連を考えるべき」 と次のように言っています。

第1章 倭人伝を読むにさいして (第1回)纏向遺跡は卑弥呼の宮殿と決まったのか というタイトルで次のように述べています。

【史料に纏向が出てくるのは記紀では垂仁天皇と景行天皇だ。磯城の纏向に宮殿があったとある。纏向に弥生遺構が出たとすれば、日本書紀に宮殿を構えたという記述のある、三世紀~四世紀の崇神・垂仁・景行の宮との関係をまず検討すべきだ。

それを無視して卑弥呼と関係付けるのは、日本の史書の軽視・無視だ。日本神話にも史実を反映した部分があると考え、以前『日本神話の考古学』を書いた。又、考古学が一つの遺跡から割り出せる年代は時間幅の中でしかいえない。高松塚古墳を考えても8世紀初~50年の幅でしか押さえられない。纏向を三世紀前半に絞って強弁するのは学問の進め方としては異常。このような状況がこの本を書いた動機だ。】と。

しかし、森さんは、【台与は東遷しヤマトに居住した】とも言われるのです。このところの論理の整合が、森さんの頭のなかでどのように納まりをつけておられるのか、不思議に思えます。


また、「3世紀の倭人世界=無文字ではない」 ということについても次のように言っています。

序文の「はじめに」で、 【3世紀の倭人世界=無文字ではない 大平洋戦争敗戦後の劣等感による】(p13)とか、第一章では、 【日本の学会にはまだ弥生時代や古墳時代を無文字社会とみなしている人がいる】(p35)とか書かれています。 

また、伊都国の役割で、【倭人伝で伊都国の役割を説明しているが、倭王は文書を送っていた、と読める。この時代は無文字社会ではなかった】(p107)とまともな解釈をされています。

ただ、通説の「6世紀、百済からの文字伝来」の批判として、「大平洋戦争敗戦後の劣等感」に森浩一さんは原因を求めています。そういう現象はあったでしょうが、根本原因は『隋書』の「俀国伝」の記事にあると思われます。

そこにある有名な「無文字唯刻木結縄敬佛法於百済求得佛経始文字」という『隋書』の記事が、百済からの仏教渡来と共に初めて文字が日本に入って来た、という定説を支えているのでしょう。

古田武彦さんは、この『隋書』の性格を見なければいけないと言われています。『隋書』には、『宋書』に記載してある倭の五王との文書外交文書の存在も抹殺しているのです。『日本書紀』と『隋書』とは、『宋書』については同じスタンスなのです。

【『隋書』は北朝の唐によって編纂されたもので、当時の状況から「俀国」について蔑視・敵視していた。南朝の宋と倭王武との文字交流があったことは疑いないことだ。あくまで、「中国偽りの南朝との文字外交はなかったとみなし、あったのは、仏教興隆という私的な交流の中での「文字伝来」とするイデオロギーに立つ叙述である。この『隋書』の記事を「ありのままの史実」と錯覚したのが日本の通説だ】(『なかった 第六号』p52)。

森浩一さんともあろう方が、この『隋書』の「無文字唯刻木結縄」を知らぬ筈がありません。この点に触ると古田武彦さんの説にいやでも関わってくるので、意識的か無意識的かは分かりませんが忌避されたのでは、と疑いたくなりました。

森浩一さんは、 【卑弥呼の宮殿では中国語が使われていたのではないか】(p35)という説はもっともだということまでおっしゃっています。しかし、それは言い過ぎでしょう。壹与の代になっても、魏へ「訳を重ねて」朝貢した、ということと矛盾します。ここで図らずも、森浩一さんの「恣意的」な『倭人伝を読みなおす』立場が現われているようです。


「森浩一 倭人伝」

まず森浩一さんが読み取った「倭人伝」はどのようなものであったか、を纏めてみます。そしてその後に、それぞれの問題点を取り上げて行きたいと思います。

この森浩一流に屈折させられた「倭人伝観」によってこの『倭人伝を読みなおす』は叙述されます。古代史資料や論文もその観点から取捨選択されていますので、注意を要します。

(a)「倭人伝」が「倭国伝」でないのは、倭国が統一されていなかったからである。

(b)魏に使訳を通じるところ30国というのは、女王国に属する国々プラス狗奴国である。

(c)魏は倭人を倭国として統一させたかった。

(d)倭人伝が描く倭国は九州島である。

(e)行路は帯方郡から海路で狗邪韓国に至った。狗邪韓国は倭国の一部である。

(f)対馬~壱岐と経由し、呼子の近傍で上陸した。末盧国は唐津あたり。伊都国は糸島市(前原)あたり。奴国は春日市。不弥国は宇美町。投馬国は宮崎県妻町か。狗奴国は熊本県南部。

(g)しかし、投馬国と邪馬台国の出発点は帯方郡とも読める。そうすると、投馬国は北部九州となる。

(h)旁国の最後に挙げられている二つ目の「奴国」は、奴国(春日)の分国であろう。立岩遺跡の飯塚市か。

(i)女王国の南に狗奴国がある。その境界迄が12000里であり、倭人伝の記述通りに計算すると不弥国までが10700里だから、女王国の奥行き幅は1300里。

(j)女王国は北部九州、八女あたりか?。吉野ヶ里ではない。吉野ヶ里は旁国の弥奴国。

(k)景初二年の遣使は三年の誤り。会稽東治は会稽東冶のあやまり。

(l)伊都国に常駐していた「一大率」は帯方郡から派遣されていた。

(m)邪馬壹国は邪馬臺国のあやまり。減筆によるもの。

(n)「卑弥呼以死」とは、卑弥呼が自死を強いられたことを意味する。実権は難升米に移っていた。

(o)卑弥呼の後に立った男王は狗奴国王卑弥弓呼。その後に立った台与がヤマトに東遷した。

(p)この筋書きを立案推進したのは張政。この功により張政は帯方郡太守に出世した(張撫夷)。


以上のような「倭人伝」の筋書きを、森浩一さんは読み取られたわけです。それらについての問題点について整理して、(IV)項で検討していきます。

この項でまとめた森浩一さんの「倭人伝」のストーリィが、この本の基準ともなっているのです。



(III)この本に書かれていないこと(朱書:当研究会の意見)

この森浩一さんの『倭人伝を読みなおす』に、書かれていてもおかしくない事柄で書かれていないことがあることに気付かされました。読者諸兄姉におかれても、下記の事柄の説明がなされていないことを念頭において読んでもらいたいものと思います。

01・倭人伝に出てくる「絹」「錦」「金八両」(これらは森さんの邪馬台国筑後山門説にプラスにならないのでしょうか、ほとんど喋られていません)

02・三種の神器(出土品の銅鏡・銅剣については語られるが、勾玉についてはあまり語られないのはなぜ?筑後山門に出土しないからでしょうか?

03・銅鐸文化 (女王国と狗奴国とが「素より不和」の解釈に入れたくないから?狗奴国の項で述べます。)

04・福岡県の吉武高木遺跡・平塚川添遺跡など (奴国=春日市説に障害となるから?)

05・崇神の東征 (台与の東遷との関連の有無、日本書紀の崇神+武内宿彌の東征との関連について、古代学者であれば何か一言あってもよいと思うのですが。)

06・狗邪韓国と任那(倭国の領域との関連で述べます。)

07・里についての考え (具体的な長さに踏み込むと、末盧国・伊都国・奴国・不彌国の関係が説明できないから?)

08・古田武彦 (なぜか、を考えていきたい)

以上の書かれていないことについての問題については、該当する各項目で言及していくつもりです。



(IV)、「倭人伝」の解釈上の問題点として、沢山の先人が挙げている事柄についての森浩一さんの見解。

まず項目を上げておきます

A。倭国とは。倭国の範囲。今使訳の通じるところ30国とは。

B。倭国への行路。韓国内→狗邪韓国まで。乍南乍東の意味はなど。

C。倭人の国々。01.狗邪韓国 。02.奴国と狗奴国。03.女王国。

D。倭人伝の里について。

E。倭人伝の誤記誤写と言われる箇所について。01.景初二年は三年の誤り。02.邪馬壹国は邪馬台国の誤り。03.、会稽東治は東冶の誤り。

F。文字の読みの問題。01.奴の読みは。02.邪馬壹国→邪馬台国の読みは。03.壱与の読みは。04.卑弥呼の読みは。

。邪馬台国の東遷。01.卑弥呼以死とは。02.大いに冢を作るとは。03.卑弥呼の後に立った男王とは。04.台与が東遷。張政が果たした役割は

H。森浩一さんの注目すべき意見。01.減筆文字。02.一大率は帯方郡が派遣。03.喪葬令。04.前方後円墳について。05.翰苑の史料批判。



A.倭国とは。倭国の範囲。
今使訳の通じるところ30国とは。

森浩一さんは、まず読者に議論を持ちかけるかのように、または、読者の知識を試すかのように、【卑弥呼は「倭国王」ではなかった】、とおっしゃいます。

しかし、『魏志』全体を読めば、『魏志』斉王紀の正始四年のところに、「冬十二月、倭国女王俾彌呼、遣使し奉献」 とあります。魏朝はちゃんと「倭国女王」と認識している証拠でしょう。森さんは、読者がこの記事を知らない、(まさか、森名誉教授が忘れていた、ということはないでしょうが)と多寡をくくっているのでしょうか?

もう一つ忘れてならないのは、「倭人伝」に記されている、卑弥呼が貰った「親魏倭王の印」です。この「倭王」「親魏倭王の印」についての「倭王」の意味について森さんはあまり深く考察されないようです。

森浩一さんは、【「倭人伝」だけを読んだのでは駄目だ、『三国志』全体を読まなければ倭人伝を理解できない】 という意味の事をこの本のなかで何度も述べています。そして「倭人伝」となったのは「倭国」として統一されていなかったからと言われます。卑弥呼の国は「女王国」で「邪馬壹国」ではない、と言いたいようです。

国邑をなすという意味は、小国家都市と言う意味、などとも言われます。「女王の都する所」と書いてあるのは、つまり小地域、地方だ、とされた松本清張さんの論理の受け売りのような気もします。松本清張『古代史疑』には、次のような文章があります。【卑弥呼とは誰か。女王国は国家の連合体だ。「邪馬台国」は女王の都する所、「邪馬台国」はつまり地方】(同書107p)

このように「倭人伝」とあって「倭国伝」となっていないことに注目した先人が松本清張さんです。

松本清張さんは【陳寿は南朝鮮にあるほうは「倭」とし、日本列島の倭国伝は「倭人伝」と題名し両者の混同を避けた】 と言うような事を『古代史疑』で述べられています。森浩一さんもその轍を踏まれているように思われます。

森浩一さんの考えによると、【倭王であっても倭国王ではなく、狗奴国をも含めた時に倭国王。これは魏の方針】(p43)だそうです。この「倭国王」の森浩一定義は、中国の正史の記述とは異なっています。『宋書』では倭国伝ですが、「倭王」と「倭国王」とは同意義で”倭王世子興”とか、”武を倭王に除した”、など「倭王」の記述が続出しています。


●倭人伝の国々は九州島内であり、狗奴国を含め30国とされます。

「九州島内」という命題ですが、たしかに、「倭人の国は東の海の山島に依り、周旋五千里」というような記事がありますから、そういう理解もできないわけではないのですが、詳しく検討してみる必要がありそうです。

また、「30国」についての森浩一さんの主張には、狗邪韓国はどうなるの、という大きな問題を含んでいます。これについては、後で検討します。(C。01.狗邪韓国参照

倭国が九州島内と森さんは断定されます。確かに「倭地を参問するに・・・周旋五千里なるべし」とありますから、ほぼ九州島を指していると言えるでしょう。しかし、東に海を渡って千里のところに倭種の国あり、とか、女王国から四千里にして侏儒国あり、とか記しています。『後漢書』には20ヶ国からなる東鯷国もあると書いてあります。この東鯷国について森さんは、九州西部地方の国とされます。(p12)どうやら五島列島を指しているようですがよく分かりません。東鯷(人)の発音は東夷と同じという 言語学者森博達氏の教えを紹介されています。 

ですが、東鯷国の20国と倭人伝の30国の関係については何も述べられていません。

周旋5000里という言葉の意味について、一般的には、周旋を周囲と同意味にとっているようです。佐伯有清『魏志倭人伝を読む(下)』(p58~62)で、「絶えるが如く、絶えざるが如く、うねうねと続いている貌をいう熟語が”周旋”であり、倭の領域の始まる地点から、その領域の尽きる所までの距離を言ったのである」という論者の説明をあげていますが、「倭の地を参問するに」という文で始まっているので、この論者の説明に疑問がある、と書いています。そして、周囲5000余里という端的に解した説は当を得ていると考える、とされます。

古田武彦さんは、【周旋はどちらも”めぐる”という意味で、海上に散らばる島々を巡って5000里の距離にある、ということ。帯方郡から邪馬台国まで12000里で、狗邪韓国までが7000里だから、残り5000里ということ】 と言われています。この点からも狗邪韓国は倭国でなければ計算が合わない、とも言われます。(上記いずれも『倭人伝を徹底して読む』朝日文庫p174~176による)

倭国と倭人国という問題と、周囲5000余里だと九州島の表現としては小さすぎるという問題があります。倭人伝全体の構成から判断することでしょうが、「これぞ真実」と一刀両断は出来ないでしょうが、少なくとも論理的に受け入れることができるか、ということで判断しなければならないことでしょう。


もう一つの30国問題ですが、「元は百余国」とあるのです。【漢の時に百余国あり、今使訳の通じるところ三十国】 と倭人伝にあります。この文章から判断すると、「漢という統一された王朝時代には百国以上が朝貢していた。今、魏の時代では、三十国が朝貢してきている」ということと思います。

この文章から、魏の時代のみならず漢の時代も大陸に朝貢していたのは九州島に限定することは出来ないと思います。むしろ、条件的には日本海沿岸地方などは、同時期に大陸と交易していたと思うのが自然と思います。

昔は百余国という小国分立だったが今は三十に統合された、と取ることも出来るでしょうが、そうならば若干の補足ががあってもしかるべきではないか、と思います。

「使訳の通じるところ」という意味では、「魏に朝貢しているところ」というのが常識的な判断かと思うのですが、森さんはそうではないようです。狗奴国は女王国と対立しているが、魏と反対の立場でなく、魏も両者を纏めようとしているとして、狗奴国を「使訳の通じるところ」に含められます。

森浩一さんは「百余国」については述べられません。話の筋から読み取ると、当然百余国も九州島内の国々と言うことでしょう。しかし、森さんの言うように倭国は九州島の範囲内という限定は、どういう論理に基づいているのか分かりません。第一、朝鮮半島にある狗邪韓国は倭国の一部と書かれていますし、「倭人伝」では女王国の境界について述べた後、東に海を渡って千里のところにまた倭種の国がある、とも述べています。

さて、狗奴国が「使訳の通じる国」の一つであるのか、これは大きな問題です。

魏朝にとって朝貢してくる国が「使訳の通じるところ」ということでしょうが、この認識が森浩一さんにはないようです。

「素(もと)より和せず」と「倭人伝」書かれている邪馬壹国と狗奴国の間柄です。親魏倭王の卑弥呼と狗奴国が天敵のような関係は、森さんが再三書かれているように、「倭人伝」だけを読んでは理解できない、東アジアの状況から判断すべきでしょう。当時魏と対峙していた呉国の影響があった、特に呉国は水軍が強大で、山東半島を越えて再三遠征軍を送っていますし、蓬莱島で兵士の徴発などもしています。

当然、その影響も考えなければならないでしょう。また、考古学者森浩一としては、西日本には殆んど出土しない「銅鐸」が近畿地方では数多く発掘される、異なる同時期文明圏の存在にも目を向けるべきでしょう。

東アジアの政治情勢・考古学遺物出土状況の両面から、この邪馬壹国VS狗奴国の不和問題を考えなければならないでしょう。発掘屋さんの意見であればともかく、考古学者の意見であるとすればかなりお粗末な意見ではないでしょうか。

古田武彦さんも以前は、【100余国が、統合されて30国になった】、と(「失われた九州王朝」) されていました。しかし、使訳通じるところ30国と狗奴国との関係が説明できないからでしょうか、近著『俾彌呼ひみか』ミネルヴァ書房 2011年では、【漢の時には100余国、つまり130~140国あったのが三国志の時代に魏に「使訳の通じる国」、親魏倭国は30国で、その他の国々」は狗奴国など「親呉倭国」か「日和見倭国」であったろう】、と説明されます。この方が理解しやすい解釈と当研究会は思います。

B。倭国への行路。韓国内→狗邪韓国まで。乍南乍東の意味はなど。

●まず韓国内の行路問題です。


女王国への行路は、帯方郡から海路でまず狗邪韓国に至った、と森浩一さんは断定されます。。

つまり、朝鮮半島の西海岸の多島海を沿岸沿いに南下したというように取られています。この西側海岸は干満の差が大きい地域であることは昔も今も同じでしょう。ソウル郊外のインチョン付近では、干満の差は7m前後、最大10mにもなるそうです。干潟はインチョン空港付近で3キロ以上になるそうです。一日2回その様な干満差のある処を行くよりも陸路を選択するのが常識的判断と思います。

干満の差が大きく、多島海と称される岩礁(満潮時には暗礁にもなる)が多い朝鮮半島西海岸を、皇帝からの贈り物や高官を船で運ぶより、より安全な陸路をなるべく辿るのが当時でも常識的判断であったのは間違いないのではないでしょうか。

「倭人伝」には「循海岸水行歴韓国乍南乍東到其北岸狗邪韓国」とあります。こつまり”海岸に循(した)がって水行し、韓国を歴(へ)るに「乍南乍東」で其の北岸狗邪韓国に到ったした、”という表現なのです。森さんはこの点にはなにも言及されていません。

しかし、右下韓国の地図を見て貰うとよくわかると思いますが、西側海岸を「南へ行き、東へ行く」というような行路の取り方は無理なのです。半島は西に出っ張った形状をしています。南へ行き西へ行くということを織り交ぜたら可能かもしれませんが、「乍南乍東」のみでは不可能です。

右下に朝鮮半島の古代地図と「乍南乍東」での海岸航路は無理であることを図示してみました。併せて陸路の場合について、GOOGLE地図で道路の現況を観察してみました。古代の道路については勿論不明ですが、韓国の道路事情、平方キロあたりの道路延長は、北部九州よりもかなり密であるように見取れました。

朝鮮半島の古代史によると、半島内で沢山の戦が戦われています。当然陸路も通じていたことでしょう。なにも不安な船路に頼らなければならなかった、ということはないでしょう。

この韓国内陸行問題については、『「邪馬台国」はなかった』(1970年朝日新聞社刊 古田武彦)で指摘されています。森浩一さんが知らない筈がありませんが、頬かぶりです。

この問題については以前豊田有恒さんの『歴史から消された邪馬台国の謎』(槍玉その13)でも検討しました。「野性号」という古代船の実験に関連して述べています。再掲しておきます。

野性号実験の失敗と行路記事解釈の間違い

豊田有恒さんは、魏使が帯方郡から朝鮮半島の南端部の狗邪韓国まで、全行路水路をとった、とみておられます。 野生号の実験プロジェクトもこの説に従って行われました。

郡から狗邪韓国間(現在のソウル~プサン間)を、朝鮮半島の西岸沿いに、全て船で行ったとされています。常識的に考えれば、古代の中国人は船旅より陸路の方を選んだと思うのですが。(結果的に、釜山から対馬を目指したのですが、東に流され、大型船で曳航されて対馬に着きました。)

また、倭人伝の記事には、「韓国を経るに、たちまちし、たちまちす」、とあるのです。

右下に掲示しましたが、朝鮮半島の地図をよく見てみますと、西海岸を南に下っていく場合、南~西、南~西と下ってきて南端部に至って始めて東に行くことになります。西海岸を南→東という行路は、海岸に行き当たるので、とれないのです。たちまちし、たちまちす、は陸路でなければそのような表現に合わないのです。
乍南乍東の航路図
船舶技術が発達した後世の常識で考えられた、全行路水行説と思われます。なぜこのような非常識な水行行路説が通説になったのでしょうか。

この通説に従って1975年に野性号という古代船を復元して、倭人伝のルートを手漕ぎ船で渡ろうという実験が行われました。

その実験に豊田さんは実験船に同乗の機会があったそうですが、釜山から対馬への行路の結果は、失敗に終わったそうです。

その出発点、釜山が間違っていた、もっと西から出発して、絡東江の水流に乗るべきであったと反省されています。

まして中国の海についての知識のない高官が初めての東夷の国を目指す場合、当然、海路は極力避け、陸をどうしても行けない場合は、潮流を利用した、最も苦労の少ない行路を取ったでことでしょう。朝鮮半島南岸から対馬に向かうには、釜山でなく、もっと西の麗水あたりの海岸から出発したと思います。

そのような常識的判断が欠けていたのが野性号実験失敗の原因ではないでしょうか。(実験船は、ソウルから朝鮮半島西海岸沿いに釜山まで来ました)


●何故「乍南乍東」の韓国内陸行が大事なことなのか。

このことを説明しないと、大したことでもないのにコダワリ過ぎ、という声が聞こえてきそうです。

「倭人伝」の行路記事で、投馬国の説明の後に、「南至邪馬壹国女王の所都水行十日陸行一月」とあるのですが、これが不彌国からの旅程なのか、投馬国からの旅程なのか、という昔から論争のもととなっていたのです。

ある人は、投馬国から水行十日陸行一月の遥か南洋に邪馬台国を求め、またある人は不彌国から水行十日あるいは陸行一月とか、陸行一月は一日の誤りとか、百花繚乱的に各説が発表されています。

この、「南至邪馬壹国女王の所都水行十日陸行一月」を、郡から邪馬壹国の総旅程ととらえると、後に出てくる女王国までの総里程12000里と相応する、という古田武彦説が1970年に発表されたのです。

もし、韓国内陸行とすれば、あと、対馬、壱岐、唐津~不彌国の陸路が計1カ月、水路は帯方郡から韓国に水行し、狗邪韓国~対馬~壱岐~唐津の水行区間が計10日間、と全てが無理なく説明できるのです。

つまり、古田説を批判するのならば、この韓国内陸行を潰せばよいわけです。しかし、それが論理的に出来ないので、「古田説無視」という態度をとられているとしか考えられません。



C.倭人の国々 01、狗邪韓国 。02、奴国と狗奴国。03、女王国。

01.「狗邪韓国

森浩一さんが「狗邪韓国は倭国の一部である。」と書かれているのはまともな解釈に立っているように見えます。【「その北岸の狗邪韓国に至る」とあった。文中の「其北岸」は「倭の北岸」であることは明らかである。p59)】ところが、詳しく見ていきますとどうもそうではないようなのです。

30ヶ国の倭人国の説明で、巧妙に狗邪韓国は女王国の範囲に含まれない、と言っています。

【女王国とは九州北部の27国の総称で女王卑弥呼が君臨していた。卑弥呼のいた邪馬台国もそのほぼ中央にあったとみると総数28国、さらに投馬国や狗奴国を加えての30国を「今使訳の通じる所三十国」としたのであろう。】(p42)と書いています。

よほど注意深く読まないと、この説明で、狗邪韓国は倭国ではない、とされていることに気付かないことでしょう。

森さんは【狗邪韓国は釜山の西の金海市。】(p57)とも断定されます。このような認識で行路を推定すると、対馬海流に逆らえず野性号の実験の失敗、などの結果を生むことになるのでしょう。


森浩一さんは、第2章第八回の「倭人は狗邪韓国を支配していたか」で、【狗邪韓国に倭人が住んでいたとはいえ、狗邪韓国全域を倭人が掌握していたのではない。(p59)】とか、【韓伝の弁辰十二国の、弁辰狗邪国は狗邪韓国であろう。(p60)】とか言われるのです。

この文章の意味するところは何だろうか、と考えていますと、【韓伝では弁辰狗邪国と倭人の関係は述べられていない。(p60)】と断言され、又、【対馬が倭の境界(p79)】、とも言われるのです。

どうやら仰りたいのは、”「倭人伝」には狗邪韓国は倭国の領域、というように書いてあるが、実体は韓国の領域であった、陳寿の認識が誤っていた”、ということのようです。

韓伝の弁辰12国のうちの瀆盧国についても述べられています。【倭と界を接した瀆盧国は巨済島や巨文島か。】と述べています(p60)。しかし、そうすると狗邪韓国と対馬の間に瀆盧国があることになり、倭人伝の記載と矛盾します。巨済島や王文島には倭人的な出土品も多いと書くのですから、むしろ、巨済島や王文島が狗邪韓国(の一部)という理解の方が倭人伝に書いてあることと矛盾しないと思います。

しかし、東夷伝韓伝では、「韓は帯方の南に在り、東西、海を以て限りと為し、南、倭と接す」とあります。「接する」という場合は、海を隔てて接することをいう言い方はあるのでしょうか。あれば“女王国はは中国の大陸に「接している」”ということになります。そういう例はありえないと思います。つまり韓国と女王国とは陸地で接しているわけです。

ともかく、狗邪韓国についての森さんの説明は、鵺(ヌエ)的です。大学教授を長年された方が書かれたにしては理解しにくい文章です(大学で教わったお弟子さん方もさぞ苦労されたことでしょう)。


古田武彦さんは、全体の流れから倭国・卑弥呼・韓国について三国志の書かれている内容の順序に従って読めば理解できる、と言われます。

【中国の読者は、まず「倭国女王俾弥呼」という言葉にぶつかります。“三国の時代に「倭国」という国があり、そこの女王俾弥呼が使を遣わしてわが国に奉献して来た”という基本観念が頭に入れられる。

そして最後の夷蛮伝にきて、韓伝に入ると、倭の話が出てきて、「韓は帯方の南に在り、東西、海を以て限りと為し、南、倭と接す」とあって、読者は「ああ、あの帝紀に出てきた俾弥呼の国たる『倭国』のことだな」と当然理解するはずですし、また筆者もそう理解してほしい、と思っている、と考えなければならない。

すると韓地が接しているのは「俾弥呼の倭国」ということになります。「接する」というのは、陸地の上で接していることなのです。それは、大陸国家に住む中国人の概念からしてみても当然のことです。】と。

森浩一さんは、狗邪韓国について、その後の姿と思われる「任那」については全く語られまさん。三国志の後の四世紀について史料が無いことが、卑弥呼の国と倭の五王の国との連続性にいろいろと歴史上の推測・創造が溢れる余地があるようです。

しかし、「任那」については、四世紀に建造された高句麗の好大王碑に「任那」という国名が刻まれています。また宋朝から倭の五王への叙爵「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王」記事があります。森浩一さんも考古学者であれば、この「任那」が狗邪韓国の後の姿か否か異見を述べてしかるべきではないか、と思います。しかし、此の事に言及することは、狗邪韓国は女王国の一部ではない、とする自説に反するから取り上げないと思われます。



2.奴国・不彌国・狗奴国

当研究会がみるところ、森浩一さんの説明で、倭人伝の記述と合わせるのに無理されていると思われるのが、奴国以下の国々です。

森浩一さんは何のためらいもなく奴国=那の津=春日市の須玖岡本遺跡とされます。

考古学者として、春日市域の遺跡の絢爛たる出土品を、だから昔から金印を漢朝から貰えるだけの「倭の奴国」として知られていた、と理由付けされます。

北部九州で弥生時代の先端的な出土品が多い所、それが「倭人伝」のいう「邪馬壹国」と考古学者であれば、当然の帰結になるのではないかと思うのですが、森さんは通説「奴国=那の津」に惑わされ迷路に向かわれたようです。
北部九州遺跡と地名
国の説明図が出ています。(p118 図12) しかし、博多湾にそそぐ河川といいながら、室見川の記入がなく、流域の吉武高木遺跡の記入もありません。勿論、それらについての説明もありません。

左の図はこの本に「奴国の主要な遺跡と周辺の歴史的地名」の図として出されているものに、室見川と吉武高木遺跡を朱で入れてみたものです。

この問題については、あとで「C。03 女王国は北部九州、八女か?」の項でも検討します。



●「二つの奴国」及び「狗奴国=熊本県南部説」について

森浩一さんは、【奴国が二回出てくるが、最後に出てくる奴国は、奴国の分国とみられる。飯塚の立岩遺跡では甕棺墓が採用され銅鏡も副葬されている。旁国の最後に挙げられている二つ目の「奴国」は奴国(春日)の分国であろう。】(p139)といわれ、この分国は立岩遺跡のある飯塚市あたりであろうとされます。

この推論は、「倭人伝」の記事、「(旁国の)奴国が女王国の境界でありその南に狗奴国がある」という「倭人伝」の記述と整合しません。ですから、森さんも説明を避けています。

森さんは、「飯塚と熊本とが南北に接している」ことを説明する義務がある、と普通人の寅七には思われるのですが、大学名誉教授の森さんには、そのような義務があるなど思いもよらないことのようです。

しかし、森浩一さんが狗奴国として熊本県南部に注目するのは、免田町の才園古墳から出土した金メッキ鏡や特殊な形状の免田式土器などからのようです。それらが示すのは「呉国との交流の存在」とされるのです。

しかし、鏡は伝世したとされますが、才園古墳は6~7世紀の築造とされています。そうであれば、被葬者は倭の五王の時代と重なり、倭国と宋朝とが密接な関係があった時代です。江南の地との密接な交流は何も免田地域に限らず、例えば福岡県の岩戸山古墳でも石馬などに顕著にみられることです。中国の南朝文化の影響が九州一帯に遺存されていることは何も不思議ではないと思います。

しかも、金メッキ鏡は才園古墳だけでなく、福岡の一貴山銚子塚古墳や大分の日田のダンワラ古墳でも出ているのです。(他に岐阜の城塚古墳からも出土)。

これらのほぼ同時代の九州地域の金メッキ鏡について何らかの考察をされた後、才園から出た金メッキ鏡を3世紀の狗奴国と結びつけて論じる、というのは、寅七レベルならともかく、が考古学専門の大学名誉教授としては、当然取るべき道筋であろうと思います。
才園古墳出土黄金鏡
その様な考察をされることなく、6世紀?才園古墳の金メッキ鏡=3世紀の狗奴国王への下賜品と持ってくるのは飛躍過ぎの論考でしょう。

しかも、「会稽東冶の東」は狗奴国の位置を示しているのではないか、とまで言われます。これについては、「会稽東冶問題」で後述します。

ともかく森浩一さんの「狗奴国」についての説明を聞いてみましょう。

★狗奴国と、その後の姿とみられる熊襲について説明しておこう。(p148)

★熊本県の白川・緑川あたりを境として考古学的な様相も一変する。青銅器の武器類の出土も少なく、合口甕棺も少ない。鉄鏃は鋭利で大きい。弥生式土器の中でも品がよい免田式土器を出土する。才園古墳からは金メッキした神獣鏡(呉鏡か)が出土した。(p149)

つまり、後世でも「熊襲」という異文化を保持していた集団の祖先が「狗奴国」である。その証拠ともいえる弥生時代の考古学的出土品が北部九州と異なっている。三国志時代に呉から伝わったと思われる鍍金鏡もでている、とここは考古学者らしく物証を示されて論じられます。

しかし、熊本県南部を狗奴国と推定されるのでしたら、福岡県南部や、近隣の鹿児島・宮崎地区の出土品の比較をして、そのうえで立論して頂きたかったと思います。後の日本書紀に見える「熊襲」関係の記事から無理やり関連付けされているようです。

この金メッキ鏡と「倭人伝」の記事との関連は全くないのでしょうか?卑弥呼は魏朝から、沢山の下賜品を受け取っています。そのリストのなかに「金八両」があります。卑弥呼がこの金をどのように使ったのか、考古学者森浩一氏には何も興味が起きなかったのでしょうか?不思議です。

一昨年「一貴山黄金鏡里帰り運動」を当研究会は企図しましたが、その折の目的の一つに、金メッキの成分分析で、他の黄金鏡成分の比較や金の産地特定などが出来ないだろうか、ということもありました。考古学に素人の我々でも興味を持つ金メッキ鏡に対して、「呉国からの渡来鏡」と片付ける考古学者森浩一氏には失望させられます。


●狗奴国の位置についてもう少しみてみます。

森浩一さんは、中国の別の史書にある記事について、意図的ではないかもしれませんが、伏せていらっしゃいます。

5世紀に范曄によって書かれた『後漢書』倭伝に次の記事があります。
【女王国より東、海を渡ること千余里、拘奴国に至る。皆倭種なりと雖も、女王に属せず】(原文「自女王国東度海千餘里至拘奴国雖皆倭種而不屬女王」)

この『魏志』倭人伝より百五、六十年後に書かれた拘奴国情報には、女王国から海を渡って東へ千里に拘奴国がある、と書いてあるのです。明らかに本州乃至四国方面であって、南九州ではあり得ないのです。

では、『魏志』倭人伝の「女王国の境界の、その南にある狗奴国」と言う記事との整合性はあるのか、と問う人もいらっしゃるでしょう。もし、女王国の境界の国、二つ目の奴国、が福井県など日本海側であったとすれば、その南つまり、奈良大阪方面が狗奴国となり、『後漢書』の記事と矛盾しません。古田武彦さんは二つ目の奴国は能登(ノの入口)ではないか、と推定されます。(『俾弥呼』p124)

もう一つこういう考えも出来るでしょう。1世紀ごろと推定される神武の東征で奈良の一角に居を構えることに成功し、祖国と同じ「奴国」と名乗っていた、と言う可能性も否定できないでしょう。その神武の後継者の国の南、河内あたりが狗奴国と仮定すると、倭人伝の記事とも『後漢書』倭伝の記事とも矛盾しません。

また、『古事記』が語る神話では、出雲と伯耆の国境の「根の国」に葬られたイザナミにイザナギが会いに行きます。根の国=ヌの国とすれば、これまた、その南は岡山方面をさし、狗奴国を吉備あたりとなれば『魏志』・『後漢書』の記述と矛盾しません。

森浩一さんの狗奴国=熊本県南部では、『魏志』・『後漢書』のその位置の記事と合わないのです。ですから、森浩一さんは二つの史書共にその位置が合わないことを読者に知られたくないために、『後漢書』の記事を隠すのでしょう。

もう一つ、森浩一さんは、考古学者らしくもない、弥生文化の一つの特徴「銅鐸文化」について語られません。この銅鐸文化圏と銅矛文化圏との争いが「女王国と天狗奴国とが素より和せず」の根本原因ではないか、とする学説も普遍的なのですが、なぜか考古学者森浩一氏は無視されます。

大阪府の「東奈良遺跡」では銅鐸の鋳型が多数出土しています。古田武彦さんは、『後漢書』の記述のように、女王国から東に千里という位置に注目されます。この千里が漢の里の長さであれば、東奈良遺跡のある近畿地方の狗奴国ということに至らざるをえない、と言われます。(俾弥呼p144)

03.女王国は北部九州、八女か?

森浩一さんの女王国等のありかについて。

森浩一さんは、邪馬台国のありかについて、「ヤマトの地名が残る福岡県の旧山門郡に注目する」といわれますが、強力にここだとは言われません。

この『倭人伝を読みなおす』のニュアンスからすると、女王国と邪馬台国とは違うのではないか、と言いたいのかなと思われます。

なぜなら、【狭義の女王国については倭人伝には具体的な位置の分かる記述がない(p114)】というように「邪馬台国」と女王国を書き分けているのです。

週刊朝日の連載記事で足立倫行さんは、連載の最初に森浩一さんに「九州勢力の東遷ということになると、森さんが邪馬台国と考えている筑後国山門郡が主力ですか?」との問いに次の様に答えています。
【いや、主力が伊都国であったのか奴国なのか、あるいは山門郡の邪馬台国か、それは分かりません。】と。

森浩一さんは、具体的な女王国のありかについてはこの本では述べられません。

本の最初の「はじめに」のように、【ことわっておきたいのは、邪馬台国がどこにあったかとか卑弥呼とはどんな女王だったかだけに関心を持つ人は本書は読まないほうがよかろう。というより読んでほしくないのである。(p15)】、というのはそのための伏線だったのでしょうか。

仕方がないので、森浩一さんの倭人伝の国々の在りかについての見方を拾ってみます。
森浩一さんが描く北部九州の国々
近傍の国、例えば”奴国”について「奴国は伊都国に近接していた」(p114)と書かれています。

「奴国と狗奴国」のところで、森さんの奴国の地図に距離や室見川を記入した地図を載せましたが、「倭人伝」には、奴国は伊都国の東南100里と出ています。末盧国(唐津)~伊都国(前原)間が500里とありますので、伊都国~奴国間はその五分の一の距離です。

森浩一さんがこの『倭人伝を読みなおす』で、出てくる国々について説明される位置を、地図に落としてみました。(左図参照下さい)

三国志に出てくる「里」の単位の長さについてはいろいろ説がありますが、それを一応置いておいても、倭人伝の記事には具体的な数字があります。直線行路とするかどうかによって100里の違いはありますが、全体から見たらさしたる距離の違いではありません。

末盧国~伊都国500里。伊都国~奴国100里。伊都国(若しくは奴国)~不彌国100里。という距離です。この距離は陸地を歩いているので、極端な誤差はないと思われます。

左図の唐津~糸島間が500里です。糸島と奴国の国邑と森さんがされる須玖岡本遺跡までは、左図で見られるように、唐津~糸島間とほぼ同じか若干短い距離です。とても同区間の五分の一という距離ではありません。

その糸島と須玖岡本遺跡の間に存在しているのが、早良王墓などの吉武高木遺跡です。距離の点からいえば、奴国の国邑としてピッタリの位置です。

同じような位置関係のおかしいのが、不彌国の位置です。森さんは宇美町としながらも博多湾岸から新宮方面まで含めます。森さんは、不彌国は奴国から100里の位置、つまり連続行路を取られています。(p129)

放射説行路の糸島~宇美町間と取るにせよ、連続行路の須玖岡本遺跡~宇美町間と取るにせよ、唐津~前原間の五分の一には合わないのです。

また、不彌国は他の国々と異なり、単位が「戸」でなく、千余「家」となっています。(一大国も三千許家と同じ) これは租税徴収の単位が異なっていたからという古田武彦さんの解釈が説得力があります。

不彌=うみ国であれば、元来「海国」であり、博多湾岸、能古島・志賀島一帯の船による交易などを主にして人種も雑多であったのではないか、と古田武彦さんは云われます。理に適った推論と思われます。


奴国=那の津という呪縛から逃れることができないので、【何故陳寿は邪馬壹国への行路を書かなかったのか】、などと的外れの取り方になるのです。【女王国については倭人伝には具体的な位置の分る記述がない。対馬からの六国の位置はきちんと書かれているのに奇妙である。】(p114)と陳寿のせいにされます。


「倭人伝」に出てくる構成国の一つに投馬国があります。この国についての森浩一さんの言い方は、【「倭人伝」の一般的な見方は宮崎県だが、陳寿が書き誤ったのではないか、北部九州説もある】、などとうやむやにしておきたいのではないかと思われます。

森浩一さんは、【投馬国の候補地は数か所ある。そのなかで宮崎県妻付近とする説は南という方向、20日とする距離感、西都原古墳群からも検討に値する】(p137)と始まって、「倭人伝」の読み方の解説が始まります。

【女王国以北は戸数などを記載できたが、その他の旁国は遠絶で詳しく述べられない、としている。投馬国は南なのになぜ戸数など書かれているのか。これはつまり、投馬国の記事を挿入する位置を陳寿が誤ったのではないか。自分もよく追加の文章を挿入することがある】 と自分も後で文章を挿入したりするので、陳寿も後で文章を挿入して、その際挿入する位置を誤ったのではないか、と陳寿とご自分と同等の誤りをする人物とした論を展開されます。

そして、【水行20日の投馬国への出発点を帯方郡とすれば、投馬国は北部九州という説も成り立つ】(p177)とされます。

この説は奥野正男氏が唱えた説だそうです。(p177) この説には、かなりの倭人伝研究者にも同調される方が出ているようです。古田史学の会会報106号に会員の野田利郎氏が 全行程水行20日で北部九州の投馬国に着く、とされる説を発表されています。しかし、これでは不彌国の位置を、狗邪韓国からの行程でわざわざ記す必要はなかったことになります。

森浩一さんは女王国のありかに関連して、水野裕さんの意見を紹介し、面白い計算をされています。

【(狗奴国の記事のあとの)「自郡至女王国万二千余里」の女王国は、水野裕氏は文脈から女王国界と元あっただろうと述べておられる。従る(ママ)べき意見である】(p140)

そして、【帯方郡から女王国界が一万二千余里あることになる。帯方郡から不弥国までが一万七百余里であった、ということは狗奴国との境まで不弥国から千三百余里しかないことになる】(p141)という計算になるのです。

ちょっと分かりにくいと思いますが、不弥国を過ぎて女王国の境(狗奴国との)までが1300余里ということのようです。

「倭人伝」の行路記事が、女王国の入口や都の位置でなく、狗奴国との境までを記載している、というのは強弁過ぎるでしょう。おまけに森さんが主張するように、二度目に出てくる奴国が飯塚あたりとすると、「その南の狗奴国」は、1300里当りという距離感から朝倉・八女方面となるのですが、その矛盾には頬かぶりです。



●森浩一さんの、「邪馬台国」についての意見

森浩一さんは、いわゆる「邪馬台国」についての意見は5通りあると書きます。(p174)

①北部九州。

②卑弥呼の時代は北部九州、台与の時代はヤマトに遷った。

③ヤマト。

④もともと邪馬台国はなく、女王国。

⑤北部九州とヤマト以外。   

森さんは、【このうち③は考古学資料から成立は難しいとぼくはみている】 と言われます。

ところが、「北部九州」とはどの範囲を言うのか」、についてははっきり言われません。

奴国とされる範囲には、須玖岡本遺跡だけでなく、比恵遺跡、板付遺跡、平塚川添遺跡(これは甘木ですが)など沢山ありますし、何よりも太宰府遺跡があるのです。これらのエリアこそが邪馬壹国ということは、鏡・剣・勾玉の三種の神器、青銅器工房や絹や錦などの出土品から見ても明らかなことだと思われます。

古田武彦さんが【女王国は博多湾岸から福岡平野に広がるエリアで、春日市の須玖岡本遺跡が中心であろう】、とされていることは日本古代史の世界では有名ですが、ここでも森浩一さんは古田武彦隠しをなさっていて、古田説のフの字も出てきません。



森浩一さんは絹や鉄の出土について語りたくない?

森浩一さんは不思議なことに、倭人伝の記述にある絹や錦についてあまり語られません。【考古学と文献学を総合して古代学と私は言いたい】、とおっしゃれているのに何故なのでしょうか。

森さんは絹についてご存知ないのではないのです。『語っておきたい古代史』という著作では、絹についての第一人者とされる布目順郎さんとの交流を語っておられます。そこでは、弥生時代の遺跡からの絹の出土は北部九州のみで近畿地方では出ていない、と語っておられるのです。

それならば、「倭人伝」に記載のある絹・錦について、邪馬壹国との関係について一言あってしかるべきではないでしょうか?

下の図は布目順郎氏が『絹の東伝』という本で掲示した「北部九州、絹の分布図」を、古田武彦さんがその著『吉野ヶ里の秘密』(カッパブックス1989年刊)で引用されているのを孫引きしたものです。

これらの、出土地の中心的な位置にある「須玖岡本遺跡」のみが、中国産倭国産の双方の絹を出土しています。森浩一さんは、【須玖岡本遺跡は奴国の国邑】という説です。

そうではなく、「そここそが邪馬壹国があったところ」と云う推論は、「古代学」として妥当ではないでしょうか。しかし、邪馬台国近畿論者の怒りを買いたくないのか、この「絹と邪馬台国」の論理をつかいたくないのでしょうか?

同様に、邪馬台国九州説の一つの論拠となっているのが、「弥生遺跡からの鉄の出土」問題です。近畿地方の弥生遺跡から「鉄」が出ない。倭人伝には「鉄をあたかも通貨の様に鉄を使っている」と書かれています。絹と同様にこの「鉄と邪馬台国」の論理を使いたくないのは、森浩一さんの「邪馬台国=筑後山門」説に不利だからでしょう。だとすれば、学者としてあるまじき態度といえるでしょう。

同様に、邪馬台国九州説の一つの論拠となっているのが、「弥生遺跡からの鉄の出土」問題です。近畿地方の弥生遺跡から「鉄」が出ない。倭人伝には「鉄をあたかも通貨の様に鉄を使っている」と書かれています。絹と同様にこの「鉄と邪馬台国」の論理を使いたくないのは、森浩一さんの「邪馬台国=筑後山門」説に不利だからでしょう。だとすれば、学者としてあるまじき態度といえるでしょう。

絹出土分布図 布目順郎氏作成

足立倫行さんも、出土品と邪馬台国の関係について疑問に思われたようです。

週刊朝日連載ルポ「倭人伝を歩く」第4回(2011年10月21日号)で「旧山門郡の一帯には邪馬台国痕跡なし」と報告しています。

みやま市歴史資料館の田中康信さんは、足立さんの「旧瀬高町あたりに邪馬台国の痕跡はない?」との質問にこう答えた、と書きます。

【残念ながらそう思いますね。弥生時代の遺跡そのものは点在しているので、倭人伝に言う国程度のものが存在していたかもしれない。けれど、青銅器類もあまり出ていませんし、邪馬台国級の拠点集落があったという考古学的根拠はありませんね。ただ、最近は発掘らしい発掘もされていないので、「可能性がまったくゼロ、ではない」と付け加えたのが救い】、と書いています。

足立倫行さんも、邪馬台国=山門説は、将来出るかもしれない、という期待感で支えられている、といっていて、森浩一さんがまともな考古学者であればとても支持出来る山門説ではありえないのです。


●森浩一さんは三種の神器についても語らない

北部九州の弥生時代の王墓とされる、「吉武高木遺跡」→「三雲遺跡」→「須玖岡本遺跡」→「井原遺跡」→「平原遺跡」という年代順の遺跡からは、いずれも銅鏡+銅剣+勾玉のいわゆる「三種の神器」が出ています。

森浩一さんは、勾玉については全くと言ってよいほどこの本では述べられません。【春日丘陵では青銅の鋳物とともにガラスの勾玉や管玉を大量に作っていた。】(p127)と述べるだけです。

倭人伝の末尾のところに、壹与が魏朝への献上品リストがあります。その中には「青大勾珠二枚」があります。縄文時代からわが国では糸魚川流域の翡翠を勾玉に加工して魔よけ乃至宝飾品としていたことは有名です。

森浩一さんは【「青大句珠二枚」は不明だが南島産のゴホウラ貝の加工品ではないかと思う。】(p074)とされます。翡翠をお守りにする風習は現在の中国人社会にも残っていることは有名です。贈り物をするのに、先方に好まれるものを贈るのが常識と思います。森さんはその点から、ゴホウラ貝が当時どのように中国で珍重されていたかを説明しないと、読者は納得できないでしょう。

伊都の三王墓や須玖岡本遺跡からの出土品について、森浩一さんがこの本で書き上げた物は次の通りです。

【中国製銅鏡・倭鏡・銅剣・銅矛・銅戈・巴型銅器・銅釧・小型銅鐸・鉄剣・鉄刀・ガラス製璧・玉類・各種鋳型。】

特にガラス製の勾玉が大量に作られている工房跡などがあったといわれますが、翡翠製の勾玉からガラス製の勾玉へと進化した姿、なのかどうかとかなどの評価を森さんがされていないのは残念です。

古代学者と自称されるのでしたら、当然『古事記』や『日本書紀』に出てくる、「三種の神器」と北部九州の王墓との関連について何らかのコメントをされても然るべきと思うのですが、全くありません。意識的に避けられたのではないか、それはなぜなのでしょうか。

やはり、この三種の神器がらみの遺物が全く筑後方面から出土していないし、自説「邪馬台国=筑後山門説」を支えてくれないからなのでしょう。



D。倭人伝の里について

森浩一さんの、「里」とか距離についての認識はどのようなものなのか、この『倭人伝を読みなおす』のなかの記事を拾ってみました。

今まで述べて来たように、末盧国~伊都国500里、伊都国~奴国100里」という「倭人伝」の記事の「里数」については、森さんは全く考慮を払っていないようです。

里についての森さんの発言の主なものと、当研究会の意見(内朱書部分)、は次の様です。

★卑弥呼の墓は径百余歩である。一歩は六尺、約1.4mだから直径145mほどの低墳丘の古墳または円形周溝墓になりそうである。(p165) (G.02「大いに冢をつくる」の項で述べます)

★「女王国東渡海千余里復有国皆倭種」。これがヤマトなど近畿勢力の及んだ範囲についての東遷前の知識かと考える。千余里はヤマトの中心まででは短すぎるが、ヤマトの勢力の範囲の西の境なら矛盾しない。(p170) (何を言いたいのか。千里とはどれくらいの距離なのか。どうやら末盧~伊都間の倍と見ているのだと思われます。そうすると、東夷伝短里説を取られているようですが、古田説に関わってくるからでしょうか、言及されません。

★帯方郡から倭までは船でやってくる。七千里は日数で割りだした里数。三世紀からず~とこの航路。(p56) (だとすれば、1里はどれくらいの距離になる、と何故言えないのでしょうか。前述の韓国内行路 参照下さい

★対馬国の方四百里とは長方形の一辺を云ったのであろう。(p69) (韓伝にはその国の大きさを「方四千里としてあることは伏せられています。それはともかく、その様な例があるのだろうか。陸路横断してその幅などから方四百里と推定したのではないだろうか? しかし、対馬の島の幅が400里という数字自体は認めているようです。だとすれば、いわゆる短里説論者になるのですが、言い切る自信がないのか、古田武彦説同調者と思われたくないためなのか、どちらでしょうか

★末盧国まで一万余里だった、この数字を覚えておいて欲しい。(p89) (この文章意味は?投馬国北部九州説の布石のようですが。)

★末盧国と伊都は五百里、かなり近かった。(p94) (では、東南百里の奴国や同じく百里不弥国は物凄く近かったことになるが。)

★不弥国まで帯方郡から一万七百里になるがこの距離はすぐ後で重要になる。(p129) (次の狗奴国の位置に関係してくるようですが。)

★帯方郡から女王国界が一万二千余里あることになる。帯方郡から不弥国までが一万七百余里であった。ということは狗奴国との境まで不弥国から千三百余里しかないことになる。(p141) (ちょっと分かりにくい説明ですが、不弥国を過ぎて女王国の境(狗奴国との)までが1300余里ということのようです。女王国の入口でなく、狗奴国との境までを記載するというのは強弁でしょう。それに二度目に出てくるの奴国が飯塚とすると、「その南の狗奴国」は、1300里当りという距離感から朝倉・八女方面となるのですが。森さんは熊本県の中部までは女王国とも言われていて、すっきりしません。
     

森さんの頭の中にある「里」の概念がはっきりしません。一般的には、「魏志の里について」次のような理解のようです。(Wiki)

【畿内説・九州説どちらだとしても「魏志倭人伝」の距離(里数)が過大であるという問題については、「短里」の概念が提示されている。
「短里」とは尺貫法の1里が約434mではなく75~90m程とする説である。古田武彦などは、魏・西晋時代時代には 周王朝時代に用いられた長さに改められたとした。
しかし、生野真好による『三国志』全編の調査では、「短里」で記述されていると思われる記述は「魏志」と「呉志」の一部に集中しており、「蜀志」には全く見られない。また、「魏志」のうちでも後漢から魏への禅譲の年である西暦220年より以前の記事には「短里」での記事は見当たらず、220年以後の「魏志」に集中して現れる。
安本美典らの説では、「短里」は 東夷伝のみに見られ、他の箇所では存在しないとしているが、実際は中華中原に関わる部分にも頻出する。ただし、220年以後の記述であっても従来通りの「長里」でないと解釈できない部分もあり、「魏王朝=短里」という単線的構図は成立しない。】(Wikipedeia 邪馬台国 距離の計算 2012.01.09)


古代学者と自称される、森浩一さんが何故、この魏志倭人伝の里について、ご自分の意見を言われないのか、不思議です。考えてみますと、倭人伝の研究について多数の著書があり、その道の権威ともみられていた、佐伯有清さんも、「倭人伝の里」については歯切れが悪いようです。

【帯方郡から狗邪韓国までの里程七千余里の一里は、魏の時代の単位によると今日のおよそ435㍍とみられる。七千余里をはじめ、以下にみえる「千余里」も、いずれも実際の距離数とあわない。】と書かれてその他の里数を全く無視されています。『魏志倭人伝を読む(上)』吉川弘文館(p45)

これは、魏の時代も1歩が6尺であり、300歩が1里という概念から来ている。1尺が24㌢だとすると1里はその1800倍で435㍍になるわけです。ところが、1歩が6尺であるかどうか、そこが問題の様です。古田武彦さんはその著『「邪馬台国」はなかった』で、魏志の里の記事から演繹的に1里=75~90㍍という値を得られ、周代の周髀算経という書物から谷本茂さんが75~76㍍という値を得られ、それを基に「魏の短里」という概念を提示されました。魏が漢時代の里単位から、周時代の里単位へと復古したとされたのです。

それに依りますと、「倭人伝」の記事の里数は現在の実体の距離と違わない結果となります。佐伯有清さんが言うような「実際の距離数とあわない」ことはないのです。森浩一さんは、佐伯有清さんが言っているのだからその轍に乗っているようです。ですから、森さんの行路問題の解釈が支離滅裂となっているのでしょう。



E。倭人伝の誤記誤写といわれる箇所について


(01)。景初二年の遣使は三年の誤りとされます

森浩一さんは、倭人伝が卑弥呼の遣使を景初二年としていることについて次のように説明されます。

【景初三年の遣使としているのは『日本書紀』が神功皇后の三九年の条に引く『魏志』であり、このほうが本来の『魏志』の文章を伝えているとみられる。『魏志』は日本でも早くから読まれていた。】(p48)

しかし、森浩一さんはこの本で「倭人伝」の参照原本として、乾隆四年の「乾隆欽定本」を上げているのです。(p37~40)そこには「紵」が、糸扁に右の旁が、ウ冠の下が「丁」でなく「一」となっているのです。これを減筆の例と挙げられます。他の版本、「紹興本」(南宋紹興年間(1131-62)、刊行された)、「紹煕本」(南宋紹煕年間(1190-94)の刊行とされる)、には全て「紵」とありますし、異字体として辞書にも見えません。これは誤刻と取るのが学者としての判断であるべきでしょう。

しかし、森さんは数ある倭人伝関係の史資料の内から、わざわざ「乾隆欽定本」を上げています。ところが、皮肉なことにそこには景初「二」年とあるのです。だとすれば、森浩一さんはなぜ、「乾隆欽定本」に逆らって「三」年とされるのか、その理由を説明する責任があると思います。

しかし、森さんは口をつぐんでいます。当研究会が推し量るに、「乾隆欽定本」に「紵麻」の紵が左下図のような異常な字が使われていることに、森さんが着目したからでありましょう、「これれは使えるぞ!」「減筆の例に!」と。

それは、中国の辞書にもみられない異字体で、誤写ないし誤刻は明らかだ、と思われるのですが、それは森さんにとって持ってこいの「減筆の流行」の例であったのです。(この減筆問題は後で改めて論じたいと思います。)

紵の異体字前述のように、森さんが参照原本として全文掲示されている、「乾隆欽定本」には、卑弥呼の魏朝への遣使の時期は、景初「二」年とあります。

それがなぜ、景初「三」年に増筆されたのか、古代学者森浩一の見解は、【日本書紀の編集者が参照したであろう魏志の記事が三年であった】と、「二」を「三」とされるのです。「倭人伝」より五世紀も後の、日本書紀編集者が、どのような史料を参照したのか分からないのに、中国の史書を後世の日本の史書の記事に基づいて修正する、これでは中国の歴史研究家は納得できないことでしょう。

おまけにこの『日本書紀』に引かれている『魏書』の記事には、難升米を難斗米としているように、問題がある史料なのです。

又、森浩一さんは折角、参照原本として「乾隆欽定本」を上げているのであれば、そこにある景初二年をそのままにしておいても何ら差し支えないと思います。差し支えがあるとすれば、古代史関係の学会が「二年は三年の誤り」としている不文律に触れる、ということなのでしょう。

景初二年は誤写・誤刻ではなく、それが正しいとされる古田武彦さんの説明を紹介しておきます。

まず、日本書紀の記事について、その間違いを指摘されます。【日本書紀の「明帝景初三年六月」というのはおかしい。明帝は景初三年一月に死んだ。明帝の景初三年六月はありえない表記だ。】(『「邪馬台国」はなかった』古田武彦より。(赤太字は当研究会による)

年号などの史書の記載方法に疎い我々には、もう少し突っ込んだ説明が必要かと思い調べてみました。

魏志では、景初三年一月に明帝が死に、翌年が正始元年になっています。だとすれば、景初三年六月という表記は存在したと言えます。事実魏書「三少帝紀第四」に「景初三年十二月」の詔勅の記事があります。つまり、次の皇帝、(斉王)景初三年六月として表記されるのが筋であり、日本書紀が書くように明帝景初三年六月というように「明帝」が頭に付くことはあり得ない、ということでした。

佐伯有清『魏志倭人伝を読む』にも、日本書紀が引用する「魏志」には誤りがあると指摘していました。【日本書紀神功皇后摂政三十九年の条に引用されている『魏志』には、「大夫難斗米」に作る。「斗」は「升」の誤記であろう。】(同書p68) と。このように、日本書紀の引用する『魏志』の記事の正確性には疑問があります。

古田さんは『「邪馬台国」はなかった』で、【景初二年にはまだ公孫氏との戦いは終わっていなかった、その時点での卑弥呼の遣使だから魏の皇帝は非常に喜んだ】と説かれます。【戦争が終わってからの遣使なら、あれほどの下賜品を与える理由がないのではないか】と。 説得力がある説明と思います。

森浩一さんは、考古学者らしくなく、「倭人伝」が記す魏と倭国の交互の贈物についてあまり言及されません。勿論、卑弥呼のささやかな献上品と、魏朝からの豪華な下賜品との差については、全く言及されていません。

森浩一さんの景初三年説には、説得できる根拠がなく、日本書紀の編集者の判断に責任を被せるという姿勢には、古代学者と自称する資格があるのか疑われます。


(02)。邪馬壹国は邪馬臺国の誤り

森浩一さんは、邪馬壹国は邪馬臺国のあやまりであり、それは「減筆」によるもの、とされます。

この「減筆によるもの」という説明が『倭人伝を読みなおす』には数多く出てきます。その内最大のものは、「邪馬壹国は邪馬臺国のあやまり」を「減筆」のせいとされるのです。

つまり、臺を壹としたのは当時の「減筆の流行」によると言われます。これは、森浩一さんの独創かどうか知りませんが(おそらくドナタかの受け売りでしょう)、森浩一氏が史家としての鼎の軽重を問われなければならないくらいの暴論でしょう。三国志で臺を壹と減筆していた例があったとは、今まで聞いたこともありません。(書き間違えた説はありますが)

邪馬臺国→邪馬壹国を、「国名の減筆の例」として挙げていることについての傍証としたいのでしょうか、志賀島の金印についてで次のような説明があります。
【金印の読み 漢委奴国王 は木簡で伊委之(イワシ)と委がワと読まれたと思うので、「漢の倭の奴国王」でよいと思うが、中国での公式の使用において国名を減筆した例があるかどうかの検討が必要となる。】(p123)

そのくせ魏志に初めて出てくる「卑彌呼」は人扁つきの「俾彌呼」なのですが、これはどうしてなのか、「減筆」の例として上げても良さそうなのに、森さんは何も言いません。森さんは、「倭人伝」だけを読んでは理解できない、と次の様に言われているのです。【著者の陳寿は自分よりものちの時代に『三国志』を読む人は、最初から順々に読んでくれることを前提に書いている。】(024)と。

読者が魏志の本文のところのに、人扁つきの「俾彌呼」の遣使記事があることを気づかないとナメてかかっているようにもとれます。人扁が取れた「卑彌呼」となぜそうなったのか、魏志本文には「倭国女王」と出てくるので、「狗奴国抜きで倭国王」等あり得ないという森さんの立場としては、そこに読者の眼の焦点を向けたくなかったからではないか、と思われます。

これは、【「俾彌呼」は倭国から魏朝への国書に書いた自署名で、「卑彌呼」は陳寿が用いた「卑字」であろう】と、とされる古田武彦さんの推論が正鵠を射ていると思います。

この「減筆文字」の延長で、壹与と臺与問題も述べられます。【今日みる倭人伝では臺与でなく壹与にしている。この壹は臺の減筆を示すのであろうから、イヨとするよりトヨと発音したものとみられる。(p168)】これは無茶苦茶、暴論に過ぎるのではないでしょうか。三国志の中には「臺」は沢山用いられています。「倭人伝」以外で「臺」が「壹」と減筆されている例を上げてみられたら如何でしょうか。

その上で、「臺」が「ト」と読むことが出来る、ということを論証しなければならないでしょう。「減筆」で、「壹」の読みを「ト」と、読みまで変えてしまうとは、大した大道香具師ぶりです!



(03)会稽東治は東冶の誤り

通説では、魏志倭人伝の記事の中の、「会稽東治」は「会稽東冶」の誤りとされています。陳寿も 会稽山の東と書いていれば問題なっかと思いますが、「東治」が付いています。

今回の森浩一さんの本では、この問題について、通説に乗って、なおそれを自説に我田引水よろしく、会稽東冶は狗奴国の位置を示したものだ、と発展させられます。しかし、この問題を検討しましたら、森さんの説では自分の「狗奴国=熊本県南部説」を否定する皮肉な結果となりました。

【倭人伝では「黥面文身」の記事のあとに「その道里を計ると、まさに会稽東治(冶)の東にある。」の一文がある。会稽は浙江省で、東治は普通東冶と書き浙江省より南の福建省の福州市のあたり。そして、「倭人伝では帯方郡から狗邪韓国、対馬国、一支国などとリレーでバトンタッチをするように九州北部まで説明してきていて、わざわざ会稽東治(冶)からの必要はない】、というように書いています(p146~147)

この森浩一さんの文章からは、「会稽~東冶の東」と倭人伝にある、と見ているのか、「会稽郡東冶県の東」と見ているのかはっきりしません。

もし前者であれば、これは現在の紹興市(会稽県)~福州市(東冶県)間、約450kmという区間になるのです。「その東」という方向指定して、これではあまりにも幅があり過ぎて、「その道里を計るに正に・・・・べし」という地点指定の文章にはなりえないのは明らかでしょう。

しかし森浩一さんは【狗奴国は倭人伝のころから東シナ海の行路をひらいていたのであろうか。熊本の八代だったか、宮崎の串間だったかの研究は今後に待たれる。東シナ海航路があったから、狗奴国の位置が会稽東治(冶)の東に当る」という知識が中国に伝えられたのであろう。(p151)】と書かれていますので、後者、つまり「会稽郡東冶県の東」というような認識であろうか、と思います。




会稽東冶の東を地図で見ると

もし後者であれば、森浩一さんは、会稽郡東冶県はあったか?という疑問に答えなければならないと思います。

森浩一さんは【倭人伝が史料として重要なのは同時代史料だからだ。卑弥呼の遣使は陳寿の幼少時代である。後漢書はこの200年後に書かれたので後世の知識が入っているので注意がいる。】(p23)というようにおっしゃいます。

しかし、 会稽郡東冶県はあったか?という疑問に森さんは答えていません。【漢の時代にはあったが三国志の時代にはなかった。陳寿が執筆した晋の時代にもなかった。建安郡東冶県であった。】とは、古田武彦さんが『「邪馬台国」はなかった』で検証されています。森さんがおっしゃるように、同時代史料ですから、晋の皇帝に献上する歴史書に、陳寿が書き間違えるのはあり得ないと思います。

この議論を一応棚上げするとしても、森浩一さんが言うように、「会稽郡東冶県の東」が正しいのであれば、範囲はぐっとせまくなります。「会稽東冶の東」は何処を指すかというと、琉球列島を指し示すことになります。

つまり「会稽東冶の東」という表記が正しいとすれば、狗奴国は琉球列島にあったと云うことになり、狗奴国=熊本県南部説は成立しない事になり、ご自分の仮説が否定される結果になります。(左図参照)


しかし会稽東冶が道理に合わないとすると、会稽東治とは何か、会稽郡に東治という地名がないから、みな解釈にこまり、後漢書に范曄が「会稽東冶」と書いてあるのに皆飛びついて「魏志倭人伝の治は冶の誤記」が定説化されたのでしょう。

「会稽東治」という表記は何を意味しているのでしょうか。 陳寿も「会稽東治」である特定の地域を示すのなら、会稽山の方が分かり易かった、と思います。それを「会稽東治」とわざわざ書いた意味について、『「邪馬台国」はなかった』で古田武彦さんは概略次のように説明します。

【まず、「会稽東治」の直前に、禹の東治・会稽王の教化という故事が書いてあることに注目すべきで、「会稽東治の地」という表現を陳寿がしたのであろう。

「夏后少康之子封於会稽断髪文身以避蚊龍之害」の会稽を受けてのものだ。「夏后少康の子、会稽に封ぜられ、断髪文身、以て蚊龍の害を避けしむ」と会稽王が地元漁民の教化した故事に絡ませていっているのだ。

会稽王の東方の治績という意味であろう】と。

「倭人伝」で陳寿が、海南島の風俗・習俗が似ている、と書いていることも、女王国が南方にある、と理解されるようです。朝日新聞2011年1月19日西部版に編集委員中村俊介氏の「倭人伝」の解説記事が出ています。

「倭人伝の筆者が位置を間違えた」という記事です。引用するには結構長文ですので、紹介は省きますが、天下の知性紙ともあろう朝日が、堂々とこのような認識を示すのは恥ずかしくないかと思いました。

それにしても中国語は難しいものです、陳寿が「会稽王東治之地」と書いてくれれば、200年後、後漢書に范曄が「会稽東冶」と書くことはなく、後世の日本の古代史研究者を悩ませることもなかったでしょうに、などと思ってしまいます。


F。文字の読みの問題。01.奴の読みは。02.邪馬壹国→邪馬台国の読みは。03.壱与の読みは。04.卑弥呼の読みは。05.森浩一さんの表音文字の読みの基本

01.奴の読みは。

森浩一さんは「奴」の読み方について、無条件に「奴=ナ」とされます。

「奴」は、ドやヌとも読まれていたことについて常識的には当然ご存知の筈です。また、長い考古学研究生活のなかで、古田武彦さんが「倭人伝のなかの奴の読みは、ヌ若しくはノ」と主張されていることも当然ご存知の筈です。

森浩一さんは、難升米は奴(儺)国の人は、という項目で難=儺だから奴=ナというように言われます。

森さんは言語学者森博達氏の説を伝えます。【森博達氏は音韻の研究から、奴が儺、さらに那となるとみている。たしかに儺を減筆すると難となるから、難升米は儺の升米か奴の升米であったとみてよかろう。】(p117)

しかし、肝腎の「奴がナと読めるか」という問題は無視されています。これについては棟上寅七が古田史学の会 論集古代に真実を求めて 第12集 で、「奴をどう読むか」という論文で、「奴はナと読めない」と論証しています。リンクを張っておきますので参照してください。

奴をナと読めなければ、森浩一さんの「奴国」についての文章は全て空中に霧散するのです。


02.壱与の読みは。

この壹与の読みについて森さんはかなり持って回った説明をされます。この「壹」の読みが「邪馬台国」の読みと深く繋がっているので、自然そうなるのでしょう。

卑弥呼が死んだあと男王が立ったが殺し合いで千人余が死に、十三歳の卑弥呼の宗女壹与を立てて収まった、というところの森さんの説明のところで読みが出てきます。
【(倭人伝)には「復立卑弥呼宗女台与年十三為王国中遂定」とある。今日見る倭人伝では台与ではなく壹与にしている。この壹は臺の減筆をしめすのであろうから、イヨとするよりトヨと発音したとみられる。】(p168)

この森さんの文章を理解するのにはかなり苦労させられます。「減筆」については既に述べているように、かなりいい加減というかでたらめな立論です。森さんの論理の進め方は、本来は臺与であったのが、減筆で壹与と書かれたのだ。臺はトと読めるから、臺与は「トヨ」の発音を表記したものである。したがって、減筆によって壹与と書かれたものは本来は臺与(トヨ)であるから、壹与とあってもトヨと読んでおかしくない。つまり「壹=ト」である。とこのような流れなのです。

この論理の展開に、森浩一教授のお弟子さん達は唯々諾々と従っているのでしょうか? 空恐ろしい感じさえします。この論理が次の邪馬台国=ヤマト国へと繋がって行くのです。


03.邪馬壹国→邪馬台国の読みは。

これは、壹与の読みに関係している、と森さんは言います。【邪馬台国は普通ヤマタイ国とよませている。しかし女王の台与をトヨと読ませることを応用するとヤマト国でもおかしくない。】(p172)

どうやら森浩一さんは長年の古代史研究の成果で、邪馬台国=ヤマトと身に沁みわたっているようです。昭和38年に筑後瀬高町の車塚古墳を訪れたときの感想が次のように書かれています。【(車塚)古墳のとなりの畠で仕事をしている夫婦に”ここの地名は何ですか”と尋ねると”ヤマトです”。ぼくは身体から血が引くのを感じた。ここに邪馬台国があったかどうかは別にしても、北部九州にヤマトの地名があり、土地の人の発音で確かに聞いた。(中略)瀬高町の調査によって車塚古墳の周囲には弥生の大集落がまだ埋まっていることが確かめられている。】(p173~174)

邪馬台国筑後山門説は古来から唱えられてきました。何も森さんが瀬高の地でヤマト(山門)という言葉を聞いて、血が引くような事でもないかと思います。新井白石の「外国之事調書」で筑後山門説を唱えた事は著名です。

このような森浩一さんのヤマト国の読み方について、臺がトと読めるか、いや読めない、と説かれた古田武彦さんの論証を知った読者には、きっと憐れみを込めて微笑むことでしょう。

この問題については、「槍玉その19 虚妄の九州王朝 安本美典」のなかで「(2)邪馬台国はヤマト国と読めるか」で検討して、読めない、と結論を得ています。リンクを張っておきますので参照してみて下さい。


04.卑弥呼の読みは。

森さんは卑弥呼に無造作に(ヒミコ)とルビを振っています。同じように狗奴国の官の狗古智卑狗に(クコチヒク)ルビを振っています。卑弥呼をヒミコと「狗」を「コ」と読んだために、「狗」を「ク」と読むことにしたのでしょう。そのような表音文字的に使われた文字を無原則に読みたいように読むのは、学者としては如何なものかと思われます。

卑弥呼の読みについては何も書かれていませんので森浩一さんの他の著作を当ってみました。

【卑弥呼ですが、発言はわかりません。西暦三世紀の中国語の正確な発音は分かりにくいので、一応「ヒミコ」と発音いたします。「ヒムカ」あるいは「ヒメコ」という人もあります。読み方は大体その三種類ぐらいです。】(『語っておきたい古代史』p61)

ここでも古田武彦さんの「ヒミカ」説は無いものとされています。この『倭人伝を読みなおす』でも、古田武彦説を取り上げたくないという意識が、森浩一さんの中で働いているのではないかと疑われます。

森さんは【ぼくはある時期から松本清張氏を歴史好きな作家とはみないで、古代史の学者として見はじめた。】(p106)と言います。しかし松本清張の古代史に関しての代表作『古代史疑』を詳しくは読んでいないようです。卑弥呼=ヒミカ説は松本清張も次のように述べているのです。

【ヒミコもトヨもヒメコソも地名からきているのではないか。卑弥呼はヒミカではないか。ヒミカ→ヒムカ(日向)となる。当時の九州のどこかにヒムカという地名があったのではないか。そのヒムカに住んでいた巫女グループがヒミカと呼ばれ、その長が女王として、魏志の「鬼道に事え、能く衆を惑わす」という見聞になった。】『古代史疑』(p146)

古田さんは松本清張とは違った理由で【卑弥呼はヒミカと読むべき】と主張します。【「呼」の読みには「コ」と「カ」がある。日甕ヒミカ「太陽にささげる酒や水の容器」は彼女の「鬼道に事える」仕事にピッタリの名だ。】(『俾弥呼』p35~36)と。


05.森浩一さんの表音文字の読みの基本

ともかく森浩一さんは「倭人伝」のなかの表音文字の読みについては、「奴」や「臺」、「卑弥呼」についても、あまり関心を払っておられないようです。

この本の中で次のように自分の読み仮名の基本について述べられています。【畏友の森博達氏は、現代の中国語や朝鮮・韓国語を話し、さらに古代の日本語にも造詣が深い。ぼくは倭人伝の人名や地名の発音は森氏の解釈が学界の到達点と考え、人名や地名に振り仮名をつける必要がある場合は従っている。】

全ての責任は畏友に押し付けるのでは、古代学を主唱される資格はなさそうです。



G。邪馬台国の東遷。01.卑弥呼以死とは。02.大いに冢をつくるとは。03.卑弥呼の後に立った男王とは。04.台与が東遷した。05.東遷に果たした張政の役割は。

01.卑弥呼以死とは。

森浩一さんは、【卑弥呼以死とは、卑弥呼が自死を強いられたことを意味する。実権は難升米に移っていた】、といわれます。

倭人伝のなかの「倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼と素より和せず。倭載斯烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説かしむ。塞曹掾史張政を遣わし、因りて詔書・黄幢を齎し、難升米に拝仮し、檄を為して之を告諭せしむ。」のところの解釈です。

これは「卑弥呼と狗奴国の男王卑弥弓呼とは元来仲が悪かった。(その理由についての記述は「倭人伝」には書いてありませんが)。卑弥呼の部下を帯方郡に派遣して戦の状況を報告した。郡太守は魏の朝廷に伝え、塞曹掾史張政を遣わすことにし、詔書・黄幢を難升米に拝仮し、檄を作って告諭した。」という文章だ、ところまでは異論はないように見えます。

問題はそのなかの、「詔書・黄幢を難升米に拝仮し、檄を作って告諭した」ということの内容の解釈です。森浩一さんは、【卑弥呼から難升米に実権が移っていたと読み取れる】、といいます。

週刊朝日2011年9月23日号で足立倫行さんの問いに、森浩一さんは次の様に答えています。

【”黄幢”は中国皇帝が部下に与える権限の印ですから、それが難升米に授与された2年前から、すでに代表者は卑弥呼から難升米に代わっていたんです。】

しかし、森浩一さんは、卑弥呼が「親魏倭王」の金印を魏朝からもらっていることについて、何も述べないのは何故でしょうか?

狗奴国との対立について、足立倫行さんの問い「魏が卑弥呼を見限った理由は、やはり狗奴国との戦争ですか?」に森さんはこう答えています。【そうですが、卑弥呼にはそもそも九州島を倭国としてまとめる力量がそもそもなかった。狗奴国との対立の遠因は景初3年に卑弥呼が単独で魏に遣使してしまったことだと思います。】

【倭人伝の”卑弥呼以て死す”は通説では理由がわからず”すでに死す”だとされてきた。しかし僕は直前の文を受けた”もって死す”だろうと思う。つまり”張政は檄をつくって難升米に告げ諭した。その結果、卑弥呼は死亡した”のだと。中国史書における”以死”の用例を研究した本がありますが、それによると刑死・戦死・自殺・遭難など”非業の死”ばかりです。”以死”は自然死ではない。(週刊朝日2011年9月23日号)

森浩一さんは『倭人伝を読みなおす』では、次のように説明されています。【市井の古代史研究家阿部秀雄氏が「郡使が檄をつくって難升米に告げ諭した結果、卑弥呼は死亡した」、という説を出した。その後、毎日新聞学芸部長岡本健一氏が「以死」の用例を検討した結果、”非業の死を遂げたものばかり”であった】(p159)、とまとめています。ここでもご自分の意見ではなく、阿部さんや岡本さんが言っていることに同意する、というスタイルです。

当研究会も以前、槍玉その13 豊田有恒さんの『歴史から消された邪馬台国の謎』で、「以て死す」の検討をしています。結果は、【それで安んじて死ねた(魏帝の応援を得る事ができて)】、ということで、以て瞑すべし、と同様な意味で読むのが妥当、という結論でした。

「以て死す」、自体の解釈、殺されたのか、自死したのか、満足して死んだのか。「以て死す」それ自体の解釈で、次の様に展開が森浩一流になって来ます。

森さんは、難升米に実権は移っていたと次のように書きます。

【正始六年倭の難升米に黄幢を賜うことになった。黄幢とは皇帝が部下に権限を与えるしるしである。この記事によって狗奴国との解決に魏は卑弥呼を見限り、難升米を当事者としたことが推測される。(中略)卑弥呼には九州島を一つにまとめる力が不足していると魏は考えた節がある。】(p154~155)

しかし、卑弥呼は普段から男性とは接触しない慣習もあったようです。卑弥呼には男弟がいたと、「倭人伝」は書いてていますが、彼は魏朝から位を貰っていないようです。それらをを考慮すれば、難升米が率善中郎将という魏の官吏でもあり、実務的なことは難升米が代行していたということは充分あり得ることでしょう。


02.大いに冢を作る、とは。

「為檄告諭之卑弥呼以死大作冢」の部分について、【卑弥呼の墓が墳でなく冢であるのは留意してよい】(p158)、【張政が難升米に”檄”を作って告諭した。そのことによって卑弥呼は死んだ”とよむべき】と森浩一さんは書きます。(p160)

墓が高塚古墳ではなく、規模の小さな冢となったのはそのせい、と言わんばかりです。しかし、【径百余歩。一歩は六尺、約1.4メートルだから、直径145メートルほどの低墳丘の古墳または円形周溝墓になりそうである。】(p165)と一見矛盾しているような説明をされます。その矛盾点を埋めるために、【冢が径百余歩とあるのは、多くの殉葬者を埋める空間が必要であったであろうから、冢の径というより墓域(墓田)の広さであろう。】(p165)という解釈を述べられます。

何もこのような苦しい解釈をしなくとも、魏朝の1歩がいかほどの長さだったか、そこを検討されれば氷解する問題なのです。この問題を検討された古田武彦さんの魏の短里の論証によって、1歩は約25cmとなります。『ここに古代王朝ありき』 古田武彦p21~29

この長さの単位での「歩」と「里」の関係について、近著『卑弥呼』(p258)で次の規定を紹介されています。【「古は、三百歩、里と為す。」(穀梁伝、宣、十五)  「周制、三百歩、里と為す。」(孔子家語、王言解)】

この概念を適用すれば、卑弥呼の墓、径100余歩は径30メートル程のいわば常識的な古冢の大きさになるのです。森さんは、古田武彦さんの説を余程毛嫌いされているのでしょうが、学問の大道を見据えて論議していただきたいものです。

森浩一さんは、【卑弥呼は自然死ではなく強圧的に自死させられた可能性が強い。悲運の死をとげた卑弥呼にたいする鎮魂のためにに百余人の奴婢を生贄として捧げたのであろうか?】(p166)と締めくくられます。

卑弥呼が自殺するようにしむけられ、後に書きます様に、森さんが言うように、【戦いの当事者敵国の狗奴国王が卑弥呼の跡をついで即位した】、ということであれば、当然卑弥呼の墓など大々的に造る筈もないと思うのが当たり前でしょう。このこと一つをとっても森浩一さんの倭人伝講釈のいい加減さが分かっていただけるでしょう。



03.卑弥呼の死後後に立った男王は

森浩一さんは、【「更立男王国中不服更相誅殺当時殺千余人」素直に読むと張政は狗奴国の男王を卑弥呼のあとの倭国王に任命したと読める。】(p161)と書かれます。その少し前に、卑弥呼と狗奴国男王卑弥弓呼が素より不和、とあるので、その男王は狗奴国王のこととで、張政が任命したと読める】(p161)

【僕は、それが狗奴国王だと思う。王の名は卑弥弓呼、官の名は狗古智卑狗。そこまで名前がわかっていた、ということは、魏の帯方郡は彼らを知っていた。そうであれば、魏は狗奴国とも外交関係があったということになります。倭人伝が”男王”と書いた1行前に登場するのが狗奴国王の卑弥弓呼。だから素直に読むと、張政は卑弥呼の後の倭国王に狗奴国王の男王を任命とした、となる。】と書かれます。


森さんは自説に不利なのでしょう、「倭人伝」にある、男弟が卑弥呼を佐けて国を治めた、という記事を無視されています。戦いの相手だった狗奴国王が跡を継いだという無理をされなくても、、卑弥呼というカリスマ女王が没して、弟が後を継いだがうまくいかなかった、と取る方が素直な読み方と思います。

ともかく、森さんは、狗奴国+女王国で「倭国」が成立した、と言いたいようです。森さんはまた、【卑弥呼が死んだあと、中部九州の狗奴国の力が北部九州に及んだとみられる。伊都国や奴国よりも、力の弱い旁国に狗奴国の勢力が浸透した節がある】(p167)(太字朱書は当研究会による)と森さんは「節がある」という言葉がお好きなようです。

節がある」という言葉でご自分の願望的見方を述べられます。やはり、「がある」のならそのを具体的に示さなければ古代学専門学者と名乗る資格はないでしょう。

ついでに「節がある」と言う言葉の文章を、『倭人伝を読みなおす』の中から拾い上げてみます。一番最初に出てくる「女王国では云々」の「節がある」の例は、「節がある」どころか、倭人が漢字を理解し使用した実情を記述しているのです。その後に使われる「節がある」というフレーズがあたかも、それと同様に実情を窺わせる、と云わんばかりの書きっぷりです。

★女王国では漢字を理解していた節があると倭人伝からは読み取れる。

★卑弥呼には九州島を一つにまとめる力が不足していると魏は考えた節がある。】(p155) そして、次の文章は、「節がある」ではなく「みられる」と、見て来たような話になってくるのです。【この回(正始八年)の遣使の目的は、狗奴国との対立が激しくなったことに加え、卑弥呼が倭の宮廷の大夫たちからみはなされつつあることと、実力者が難升米になったことを魏に報告したとみられる。】(p156)と。

★卑弥呼が死んだあと、中部九州の狗奴国の力が北部九州に及んだとみられる。伊都国や奴国よりも、力の弱い旁国に狗奴国の勢力が浸透した節がある。(p167)

その様な「節がある」論法で、卑弥呼亡き後を、次のように森浩一さんは描き出します。
【狗奴国王とみられる男王が倭国王になると、争いが起こり千余人が死んだ。そこで「復立卑弥呼宗女台与年十三為王国中遂定」とある。張政らは檄を以て告諭した、とあり、台与を立てるのに力を貸したのも張政であろう。】(p168)

★【魏の意向を前提としての張政の倭国対策は、狗奴国と女王国とを一つにまとめて倭国とすることにあった節がある。】(p169)

★晋の起居注に台与を「倭女王」と書いてあるのが注目される。魏の意向を前提としての張政の倭国対策は、狗奴国と女王国とを一つにまとめて倭国とすることにあった節がある。(p169)

★推測だが、泰始二年の(張政を送り届ける掖邪狗の)遣使では倭地での張政の功績を中国側に伝え、張政は帰国後に帯方郡の太守に抜擢されたとみられる節がある。(p180)

このように森浩一「倭人伝」ワールドに読者を誘導されます。



04.台与がヤマトに東遷した。東遷に果たした張政の役割について。

森浩一さんは、東遷したと簡単に言います。北部九州から近畿へ都が遷るという大事業が、魏(晋)の 張政の立案で成功した、ということですが、もしそうなら晋書に特筆大書されるのではないか、と思うのです。くわしく見ていきたいと思います

森浩一さんはこの本の第30回で、「女王台与の都が邪馬台国か」という項を立てられて次のような発言をされています。

★【ぼくは台与のときにはすでに政治の拠点をヤマトに遷したとみている。】(p132)

★張政は十九年も滞在していたのはなぜか。台与が大使節団をつくって張政を送り届けたのはなぜか。よほどの大仕事を成し遂げたからではないか。】(p156)

★【北部九州東遷説に関係しているのではないか。これが81歳になってぼくが到達した考えである。】(p157)

★【僕は東遷説。張政が立案者。250年代の可能性が高い。門脇禎二氏は長らく邪馬台国ヤマト説であったが、氏の死の直前の著作『邪馬台国と地域王国』には「大和説への決別ー九州説への転換」の章がある】(p175)

東遷説の根拠は、弥生時代の北部九州の埋葬文化が奈良に100年遅れで見られる、ということのようです。この森浩一さんの推論が正しければ、壹与はヤマト政権の立役者という理屈になります。

足立倫行さんも次のように質問します。(週刊朝日2011年9月23日号)【遷都という重大なことが、どうして魏志倭人伝には一言も書かれていないのですか?】

これに対して森浩一さんは次のように答えています。【それは、中国では洛陽や長安などの遷都が何度もあり、遷都自体、重大視されていなかったせいだと思います。朝鮮半島においても、高句麗や百済でも遷都は珍しくなかった。新羅の場合はずっと慶州で、やや事情が違いますが。】

しかし、森浩一さんは「女王国」の領域は九州島内、とされていたのです。それが東に今までと倍以上に版図を拡大されたのでしたら、足立さんがおっしゃるように記録されていて当然でしょう。

森さんは東遷とされる根拠として、そして、考古学的な副葬物や埋葬文化が北部九州から近畿地方へ伝播した、とみられることをその物証とされます。

【(茶臼山古墳に銅鏡が埋納に関して)銅鏡を墓へ納めることは近畿地方の弥生時代には皆無といってよい。平原と茶臼山とは100年程の隔たりはあるとはいえ、北部九州からの風習の伝播とみるほか説明することはできないだろう。平原同様茶臼山でも銅鏡は粉砕されていた。この視点からも北部九州とヤマトとの関連が強まった。】(p201)

【東遷を果たした女王台与は、奈良盆地東南部の山門に邪馬台の字をあてたと推定される。】(p203)

また、北部九州の弥生文化とヤマトの前期古墳文化との連続性を考える材料として、【支配者層の墓への銅鏡埋納、さらに故意に銅鏡を粉砕してから埋葬することもあること、埋葬に朱を用いる事など上げられる。】(p202)

森さんはこの本にはあからさまには書かれていませんが、心情的には台与=神功皇后説のように受け取れます。森さんは伊都国について、【伊都の土地の倭人伝以後の歴史として見逃せないことがある。神功皇后は・・・・】や【神功皇后は『日本書紀』には生まれた地を筑紫の宇瀰としている。福岡県の宇美町であろう。】(p103)などと書きます。神功皇后は実在で、少なくとも3世紀以降の人物、と森さんはされているように受け取れました。

森浩一さんは、東遷の筋書きを立案推進したのは張政であり、その功により張撫夷と名前を変え帯方郡太守に出世した、とされます。

この仮説の当否については、張撫夷という太守の墓が帯方郡治近くから出たこと以外、史書に全く出てきていませんし、森浩一ワールドのお話として聞きおくしかありません。


H。森浩一さんのその他の注目すべき意見。01、減筆文字。02、一大率は帯方郡が派遣。03、喪葬令。04、前方後円墳について。05、翰苑の史料批判。

01.減筆文字

この「漢代より流行した減筆」という論拠を用いて、邪馬台国を邪馬台国、壹与をトヨと読むなどという論を、森さんは81歳までの勉学の結果として展開されています。

【後漢から三国時代にかけての中国では漢字の画数を減らす流行があった。例えば會を会としたり、功を工に、鏡を竟にしたりする減筆の流行である。この流行は文字を石や金属に刻んだり鋳出するときに多用され、新中国の成立後にあらわれた簡化字運動の先駆となった。】(p28)

金石文に多用された減筆が「倭人伝」でも多用された、とおっしゃりたいようです。

既に各項目の中で「減筆文字」について森さんの意見を紹介しています。がそれ以外での減筆についての発言を拾ってみます。

ただ不思議に思いますのは、「減筆文字」の例として取り上げておかしくないと思われる例を森さんが取り上げていないのです。森さんは、【倭人伝だけを読むのではなく魏志全体をはじめから読んで行かないと理解できない】、というようなことを言われています。(p23~倭人伝とはどんな本か)

にもかかわらず、倭国王「弥呼」と魏志本文では人扁つきの「俾」が使われていて、あとに出てくる「東夷伝倭人の條」では人扁が取れた「弥呼」になっています。これは、俾弥呼は倭国からの国書に記された自署名で、卑弥呼は陳寿が用いた卑字ではないか、という古田武彦さんの説(邪馬一国の証明角川文庫)に関係してくるので触れたくなかったのかと思われるのです。

森さんが参照原本として全文掲示されている、「乾隆欽定本」の原文の最後に、森さんは次のように「注」を入れられています。

【追記 九行目の邪馬台国の壹は臺の減筆文字であり、十八行目のは紵の減筆文字とみられる。】(p40)

志賀島の金印「漢委奴国王」の読みについても「減筆」に関係があると次のように言われます。【読みは二つの説に分れた。「漢の倭の奴国王」と「漢の委奴国王」とである。漢代ごろの金石文には、減筆文字がよくあるから委は倭の減筆文字とみるのである。それにたいして委はそのままに「イ」と発音させ「漢のイト国王」とする説がある。福永光司氏(道教研究家 東大教授)は「イト国王」説であった。】(p121)

しかし、この件について森浩一さんは、【公式の使用において国名を減筆した例があるかどうかの検討がいることになる。】(p123)と書きます。しかし、森浩一さんは別なのころで、【「邪馬壹国」は「邪馬臺国」の減筆】としているのに矛盾していることにお気づきになっていらっしゃらないのは、オン年81歳になられている方ですから許してあげなければならないのかな、と思ったりします。

この減筆につては各項目の中で書きましたのでので、これ以上改めて記すことはやめておきます。


02.「一大率」は帯方郡が派遣。

この「一大率」は伊都国にいたので当然女王国から派遣されていた、と従来解釈されていました。ところが、松本清張さんが、『古代史疑』という本で異見を述べました。松本清張さんの意見は次のようなものでした。

【まず「一大率が女王国以北を検す」ことについての各説を紹介。そして、誰が一大率を置いたのか、主格が見えない。私は、帯方郡から派遣された軍政官と考える。】『古代史疑』p199~ 

続けて、【だから諸国が一大率を「畏怖」したのだ。「国中に刺史のごとき有り」の国中とは、中国のことだ。「刺史」は一大率の下の警察官のようなものだ。帯方郡より派遣された張政は、一大率を勤めていたと思われる。「女王国以北」とは治外法権の一大率の管轄区域であった。市場に対し「大倭をして之を監せし」めたのも一大率である。魏の滅亡と共に一大率は引き上げ、以北の国々も女王国に復帰した。】と、推論を述べられました。

森浩一さんは、松本清張さんの推理力に共感されているようです。この『倭人伝を読みなおす』のなかでの「一大率」についての記述は、「松本清張流の一大率論」を発展させ、「一人の大率」として説明されています。一大率についての森さんの説明をあげてみます。

 ★・一人の大率を帯方郡が派遣し検察していた。(p30)
 ★・一人の大率は公孫氏が派遣したことになる。(p90)
 ★・女王国より北は一人の大率を置き諸国を検察する。(p105)
 ★・大率という官名は中国の正式の官職にはない。これが中国の刺史のようであるという。(p105)
 ★・この大率については、女王国ないし邪馬台国が派遣したとみる人が多かった。松本清張氏は倭人伝全体の流れから、帯方郡の重要さにかんがみ、魏ないしは帯方郡が派遣したとする解釈を出した。従うべき意見であろう。(p105)
 ★・鮮卑伝での裴松之の注に二十余邑を束ねた大人(タイジン)のなかに大帥となる者がいた、とある。率と帥は発音がどちらもソツであって、ともに軍をひきいるの意味である。このように鮮卑で使われた大帥が公孫氏勢力でも用いられ大率としたとみられることは念頭においてよかろう。(p106)

石原道博編訳の岩波文庫の魏志倭人伝では、【女王国から北には、とくに一大率(王の士卒・中軍)をおき、諸国を検察させる。(中略)国中に刺史(政績奏報の官)のようなものがある。】(p82)と書いています。が、「一大率」は女王国の役職と見ているのは間違いない書き方ですし、一大率と刺史を同じとは解釈していません。まあこれが一般的な見方のようです。

古田武彦さんは、『「邪馬台国」はなかった』での解釈、【一つの大きな率(軍団)という意味であろう】(同書コレクション版p308)を次のように進化させられているようです。(注:2008年出版の『奪われし国家君が代』には【伊都国には帯方郡治から一大率(駐留軍司令部)が派遣されていたとありますから云々】(p156)とありますから、後年又考えを変えられたのかも知れません。直接お聞きしましたが明確なご返事はいただけませんでした。この書物のこの部分はご自分の直接著述ではないと思われる「節」があります。2015・1029)

近著『俾弥呼』では、「一大率の真義」という項を立てられ5ページに亘って述べられています。中心的には【「一大率」は「一大国の軍団を率いる将」を示す以外ありえない。この直前といっていい場所に、歴然として「一大国」の国名がでている。同書p138】ということで、一つの大きな軍団から、一大国(壱岐国)の軍団長と解釈を進められています。

森浩一さんは、【一大国は一支国とも書かれ壱岐島のことである。(p29)】と、一大国を一支国と読み変えてしまっているので、「一大国」と「一大率」の関連が目に入らなかったのでしょう。

しかし、森さんが言うように魏の官吏が常駐(公孫氏時代より)していたのであれば、倭人伝の書き方も変わっていたのではないか、というのが常識的な判断でしょう。また、陳寿も魏の天子にこの書物を上奏しているのですから、魏の官吏の職名などについて書き間違いとか、公孫氏の官職名がそのまま使われていた、などと書いたことになれば、それこそ大問題となることでしょう。

『古代史疑』のなかで松本清張さんが、何度も【倭人伝の記事はいい加減】と書いているのですが、一大率が魏から派遣された軍司令官であるなら、この「倭人伝」の記事はいい加減なものである筈がありません。松本清張説の一大矛盾と言えるでしょう。

森浩一さんも、松本清張さんの後車の轍を踏まれているようです。この「一大率」に対する認識、「魏から派遣された官吏」が、60年にも及ぶ森浩一さんの古代史探究の成果だとすれば、ちょっと可哀想な気さえ起きます。



03、喪葬令。

森浩一さんは「古墳学者」らしくこの『倭人伝を読みなおす』でも、 「第29回・卑弥呼の冢と殉葬」という一章を宛てて詳しく述べています。

★【「倭人伝」記事の「大作冢」は大きな冢を作るのではなく、「大いに冢を作る」である。】(p163)

★【同じく「其死有棺無槨封土作冢」とある。ここでも冢をつかっている。】、【弥生時代の北部九州ではまだ古墳と言えるほどの墳丘をもった高塚古墳はない。】(p163)

★【漢代の中国では墓を身分ごとに規制する際重視されたのは墳高である。日本では、延喜式では古墳の高さを書いていない。唐の喪葬令では墳高を明記している。】(p164)

しかし森浩一さんは肝心の魏朝の規制については書かれません。古田武彦さんは『邪馬台国」はなかった』第四章邪馬壹国の探究 五 卑弥呼の遺跡で大意次のように書かれています。

【魏の景初元年、明帝が七廟の制を定め、陵墓の正制を厳正ならしめたことが明帝紀の裴松之注に書かれている。卑弥呼は生前「親魏倭王」の称号を与えられている。したがって王墓クラスであったはず。同時代の帯方郡主 張撫夷の墓も30m程であるから、ほぼ同程度ということ。】

考古学者で文献は不得意、なのかもしれませんが古田武彦さんの第一書を読んでいないことはないと思われます。この『倭人伝を読みなおす』の読者が、古田武彦さんの本を読んでいるとは思っていない?と、読者の皆さんを馬鹿にしているのでしょうか。


04、前方後円墳について

1965年に森浩一さんが書かれた『古墳の発掘』(中公新書)は版を重ねています。若き考古学者森浩一さんはこの本によって世に知られたといってもよいでしょう。ただ、この本が出されたころの「前方後円墳」についての森さんの考えは、「まだ固まっていない」、と書かれています。

その意味からも、今回の本で「古墳」についての発言に注目しました。この『倭人伝を読みなおす』での森さんの、弥生後期から古墳前期についての墓制の発言は次の様なものです。

★【糸島の三王墓の年代は倭人伝にいう女王国の年代に近い。奈良盆地南部にある初めての巨大な前方後円墳、箸墓古墳は平原古墳より半世紀ほど後であろう。】p100

★【糸島には古墳時代前期の前方後円墳が数多く築造されている。九州で古い前方後円墳が数多くみられるのは、ほかに福岡県の宗像がある。】(p100)

★【伊都国の王都ゾーンとみられる三雲遺跡群では三つの王墓の存在があきらかになった。このような王墓は春日市の須玖岡本の甕棺墓がある。】(p108~)

★【超大型の内行花文鏡は初期のヤマト政権の前方後円墳や前方後方墳でも貴重視された。下池山・外山茶臼山・柳本大塚古墳の三基。】(p111)

★【宇美町の光正寺古墳。53mの古墳時代前期の前方後円墳。台与の墓とみてもよいように思う。】(p131)

★【伊都国でも末盧国でも古墳時代前期前方後円墳を築造し続けた。】(p132)

★【末盧国の国邑の近くに古墳前期の前方後円墳、久里双水古墳が造営されていた。】(p133)

★【投馬国の候補地は数か所ある。(中略。)さらに付近にある西都原古墳群からも検討に値する。この古墳群は一つの古墳群としては全国でもっとも前方後円墳の数が多く、無視出来ない。】(p137)

★【奴国が二回出てくるが、最後に出てくる奴国は、奴国の分国とみられる。飯塚の立岩遺跡では甕棺墓が採用され銅鏡も副葬されている。】(p139)

★【筑後の山門郡は邪馬台国九州説の古くからの候補地である。(中略。)車塚へ行ってみた。墳形は森におおわれていたが、小型の前方後円墳のようである。】(p173)

★【奈良の茶臼山古墳は古墳時代前期の巨大前方後円墳の代表例。ただ、円筒埴輪を使っていない。】(p197)

★【円筒埴輪の起源は吉備(岡山)。つまりヤマトの古墳時代前期の古墳文化は、各地で発生した墓作りの流行を総合して創りだしたものである。】(p197)


熊本の才園古墳出土の金メッキ鏡鏡のところで述べましたが、同様に金メッキ鏡を出土した、糸島の一貴山古墳という前方後円墳については一言も述べていません。

しかし、上記のような森公一さんの記述から、【「前方後円墳」という特異な形状の墓の源流は北部九州にあって、それが中国地方を経由して近畿地方にも伝わった】、という仮説を組み立てることも可能の様に思われました。とても森浩一さんに、そのような学会の定説、「前方後円墳の全国展開が大和政権が確立された証拠」、に逆らうような仮説の提示はとてもできないことなのでしょうが。



05、翰苑の史料批判。

「倭人伝」に書かれている21の旁国の一つ斯馬国の説明に『翰苑』を引用されます。西谷正さんの、七世紀の『翰苑』に邪馬台国の在りかについて、その読み方を紹介し、【注目してよい】(p96)とされます。

「注目してよい」ということはどういうことなのか、「同意できる」ないし「同意できる部分がある」ということかな、と思います。ところが、森浩一さんが紹介する文章が理解しにくいのです。【『翰苑』のいう「邪届伊都傍連斯馬」 は、”邪(は)伊都に届(いた)り、傍(近く)は斯馬に続いている” 】と読み下されます。

最初の語”邪”は「邪馬台国」を示すのか、それとも旁国の「伊邪国」かはきめにくいけれど、邪は伊都に届き志麻の近くである、と読みたいようです。しかし、この『翰苑』の文章は、倭国についての概観を述べていて、「旁国」について述べているのではないのです。原文は次のようなものです。

【(卷第卅 蕃夷部 倭國) 憑山負海 鎭馬臺以建都 分軄命官 統女王而列部 卑弥娥惑翻叶群情 臺與幼齒 方諧衆望 (中略) 邪屆伊都 傍連斯馬 中元之際 紫綬之榮 景初之辰 恭文錦之獻】

森浩一さんの西谷正さんを介しての説明よりも、古田武彦さんの読み下しの方が読者の方々にはすんなりと理解できるかなと思いますので紹介しておきます。

【(倭国は)山をよりどころにし、海に接したところに、要害の鎮を置き、そこを「馬台」と称して都を建てている。(中略) 卑弥呼は妖しい術によって民衆を惑わしている、とみえるがこの倭国の民の心には叶っているようだ。臺与は幼年で即位したが多くの人の望みにかなった。(中略。) (倭国の都は)ななめに伊都に届き、その向こうに斯馬に連なっている、(という地理的位置に存在している)。(倭国は後漢の)中元年間に金印紫綬の栄を受け、魏の景初年間にあや錦を恭しく献上するといった(ふうに中国の天子との交渉の淵源は古い)。】(括弧は寅七が挿入)

森浩一さんは、『邪馬一国の道標』古田武彦(1978年 講談社)に出ている読み下し文も当然ご存じとは思うのですが、ここでも”古田隠し”が行われているようです。

この件について「宮崎康平さんのまぼろしの邪馬台国批判」で取り上げた事を思い出しました。(槍玉26)宮崎さんは「斯馬国」を肥前杵島とされていました。そこでの当研究会の意見は次のようです。

【斯馬国について、この本では、唐の張楚金という人が書いた、「翰苑」という太宰府の西高辻家に伝わる古文書の話が出てきます。そこに、邪馬台国の位置についての記述があるのです。その記事というのは「邪屈伊都傍連斯馬」というものです。

漢文の読みについてウンヌンするのはやめておきますが、伊都国と斯馬国が近くにあることをうかがわせる記事なのです。詳しく知りたい方は、「邪馬一国の道標 古田武彦著 1978年 講談社」をご参照ください。第四章 四~七世紀の盲点 のなかで、―『翰苑』をめぐって― という項をたてられ、この「邪屈伊都傍連斯馬」を詳しく説明されています。

伊都国と斯馬国の関係について、宮崎さんも、翰苑の記事を引き合いに出して、博多湾の伊都と斯馬の関係で説明しています。ところが、この斯馬国比定の場面では、前に述べられたことを全く無視されています。杵島山が伊都と関連がある、とはいかな宮崎さんでも主張するのにはためらいがあったのでしょうか。

しかも「翰苑」は、魏志倭人伝が書かれた3世紀末よりもず~っと年代が下って、660年ごろに書かれています。斯馬国とあっても果たして同じ国を指しているのか、ということも検証の要があろうかと思います。

なぜなら、倭人伝の斯馬国は、旁国の一つとして、遠方にあり詳しくはわからない国の一つとされます。しかし『翰苑』が描く斯馬国は、糸島半島の国である可能性が高いのです。伊都国に隣接するシマ国であれば、不弥国や奴国と同様に戸数など述べられてもおかしくないと思われるのですが、倭人伝では詳しい事情の判らない国の一つに斯馬国は上げられているのです。】

この件での森浩一さんの「邪屈伊都傍連斯馬」の説明は、「倭人伝」の読み方が断章取義であるのと同様に、森全体を見ず木だけを見ていて、西谷正さんへの「ヨイショ」そのものではないか、という気がします。



(V)検討し残した問題

ところで、まだこの『倭人伝を読みなおす』で森さんが説明されている事柄の中には、検討すべき沢山の問題が残っています。

三国志版本・拝仮・黄幢・使大倭・戸と家・難升米・都市牛利・真珠鉛丹・朱・三種の神器・神武東征・神功皇后征韓・崇神東征・巴型銅器などなどです。

これらに話を進めますと、「森浩一ワールド倭人伝」全体の見解の批判が散漫になりそうなので、一応ここらで纏めて、後日に譲ります。



(VI)結論として

この『倭人伝を読みなおす』は次のような言葉で締めくくられています。森浩一さんが宗像大島に行く機会があり、その帰りに小倉の松本清張記念館を訪れた時の感想です。

【松本清張さんは九州で育ち、鋭く倭人伝の問題点を照射したことは本書でも述べた。(中略) 最後の大作『神々の乱心』を執筆中のころと思える清張さんの述懐が会場に掲げてあった。 「本当の瑞々しい作品は若いときには書けない」 『倭人伝を読みなおす』の執筆を終えた直後でもあり、清張さんが晩年に本心を吐露されたこの言葉の前でぼくは立ちすくんでしまった。「瑞々しい作品」はぼくには書けないだろうが、「悔いのない作品」ならぼくにも書けそうである。】(p212)

このような思い入れのある森浩一さんの最後の?著作に対して、棟上寅七の各項目の批評した言葉はあまりにも失礼かもしれません。

各項目で、次のような形容をしています。

論理の整合が、森さんの頭のなかでどのように納まりをつけておられるのか、不思議に思えます。

図らずも、森浩一さんの「恣意的」な『倭人伝を読みなおす』立場が現われている。

森浩一さんも松本清張さんの轍を踏まれているように思われます。

発掘屋さんの意見であればともかく、考古学者の意見であるとすればかなりお粗末な意見ではないでしょうか。

古田説を批判するのならば、この韓国内陸行を潰せばよいわけです。しかし、それが論理的に出来ないので、「古田説無視」という態度をとられているとしか考えられません。

狗邪韓国についての森さんの説明は、鵺(ヌエ)的です。大学教授を長年された方が書かれたにしては理解しにくい文章です。

「邪馬台国=筑後山門」説に不利なので、この「絹や鉄の出土問題」を取り上げたくないのでしょう。学者としてあるまじき態度といえるでしょう。

将来出るかもしれない、という期待感で支えられている、と言っていて、森浩一さんがまともな考古学者であればとても支持出来る山門説ではありえないのです。

森浩一さんは、佐伯有清さんが言っているのだからと、その轍に乗っているようです。ですから、森さんの行路問題の解釈が支離滅裂となっているのでしょう。

森浩一さんの景初三年説には、説得できる根拠がなく、日本書紀の編集者の判断に責任を被せるという姿勢には、古代学者と自称する資格があるのか疑われます。

「減筆」で、「壹」の読みを「ト」と、読みまで変えてしまうとは、大した大道香具師ぶりです!

臺がトと読めるか、いや読めない、と説かれた古田武彦さんの論証を知った読者は、きっと憐れみを込めて微笑むことでしょう。

(ふり仮名について) 全ての責任を畏友に押し付けるのでは、古代学を主唱される資格はなさそうです。

森さんは、古田武彦さんの(魏の短里)説を余程毛嫌いされているようですが、学問の大道を見据えて論議していただきたいものです。

(大いに冢を作るについて)このこと一つをとっても、森浩一さんの倭人伝講釈のいい加減さが分かっていただけるでしょう。

このように森浩一「倭人伝」ワールドに読者を誘導されます。

(国名の減筆について)オン年81歳になられている方ですから許してあげなければならないのかな、と思ったりします。

「一大率」に対する認識、「魏から派遣された官吏」が、60年にも及ぶ森浩一さんの古代史探究の成果だとすれば、ちょっと可哀想な気さえ起きます。

(前方後円墳について)とても森浩一さんに、そのような学会の定説に逆らうような仮説の提示はとてもできないことなのでしょう。

(翰苑の記事の読み方)「倭人伝」の読み方が断章取義であるのと同様に、森全体を見ず木だけを見ている。

森浩一さんが「悔いのない作品」をお書きになれたのかどうか判りません。そのような思いのあるように思える著作に対して、申し訳ありませんが、これらの感想片言隻句集で結語とします。真実の古代を求める古代学の後輩の、自戒も込めた言の葉としてご寛恕ください。

                                  (以上)

参考図書

『魏志倭人伝 他三篇』 石原道博編訳 岩波文庫 1951年
『古墳』 森浩一 中公新書 1940年
『東アジアの古代文化』22号 大和書房 1980年 
『「邪馬台国」はなかった』 古田武彦 朝日新聞社1971年、ミネルヴァ書房 2009年
『古代史の宝庫』 森浩一・古田武彦・間壁忠彦・上田正昭・岸俊男 朝日新聞社 1977年
『邪馬一国の道標』 古田武彦 講談社1978年 
『ここに古代王朝ありき』 古田武彦 朝日新聞社 1979年
『古代史疑』 松本清張 中央公論 1986年
『風土記にいた卑弥呼』 古田武彦 朝日文庫 1988年
『吉野ヶ里の秘密』 古田武彦 カッパブックス 1989年
『正史 三国志1 魏書I 今鷹真・井波律子訳 ちくま学芸文庫 1992年
『倭人伝を徹底して読む』 古田武彦 朝日文庫 1992年
『よみがえる卑弥呼』 古田武彦 朝日文庫 1992年
『日本書紀(二)』 坂本太郎他 校注 岩波文庫 1995年
『魏志倭人伝を読む(上)(下)』 佐伯有清 吉川弘文館 2000年
『語っておきたい古代史』 森浩一 新潮文庫 2001年
『邪馬台国浪漫譚』 原田実 梓書院 2004年
『記紀の考古学』 森浩一 朝日文庫 2005年
『真実の歴史学 なかった 6号』 古田武彦直接編集 ミネルヴァ書房 2009年
『古代に真実を求めて 14集』 古田史学の会編 明石書店 2011年
『俾彌呼ひみか』 古田武彦 ミネルヴァ書房 2011年


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