八)鏡王女 母となる 

 やがて(つき)()ちて、ややこが()まれました。(さいわい)いお(ちち)はたっぷりと()て、乳母(うば)必要(ひつよう)でなく、下女(はしため)(ちか)づこうものなら、()られるのではないか、と(おも)ったり、ムツキ(注801()えも自分(じぶん)でしようとして女中頭(じょちゅうかしら)から(なしな)められたりもしました。

(てん)からのみ、とってメグミと勝手に呼んでいましたら、鎌足どのが、「殿名付になっていただいた。はサダメとメグミで定恵(じょうえ)ということになった」といました。きっとみメグミとんでいるのをおきになって、お父上相談されたのでしょう。

それにしても、まだ当歳(とうさい)注802)にもならぬミドリ定恵(じょうえ)とは、と(いぶか)しくいましたら、中大兄皇子殿のご意見で、僧籍(そうせき)将来れたい、その定恵(じょうけい)とのご沙汰(さた)だったそうです。 は、明日(さだ)まらぬ戦乱ですから、仏門るのもこれもめかもしれないといました。 

鎌足殿においして、いのしない、山城(やましろ)注803)の田舎小屋てていただき、定恵(じょうえ)多賀(たが)(やっこ)たち五人生活をさせていただくことになりました。

子供勝手つものか、と簡単っていたのですが、いざまれてきたら、可愛くて可愛くて、本当れてもくない、という気持ちがよくわかりました。(おおかみ)子供てているときには、づいても、たとえでも容赦(ようしゃ)なくすそうですが、そのような気持ちになっていたようにします。 

鎌足どのも(まつ)(ごと)でおしいのでしょう、滅多にはおえになりません。まれに父上えてくくらいが変化といえば変化です。

多賀飛鳥かけたに、与射(よさの)女房(にょうぼう)からいたでは、父上部屋じこもって、をしたりおまれたりで、昼夜区別もつかない生活をされている、というでした。

是非山科(やましな)注804)のにおかけになるようえましたら、んでおかけさいました。

しおせにはなりましたが、わらぬ瀟洒(しょうしゃ)注805)な父上です。それから一度くらいは、おえになるようになりました。しかし、定恵(じょうえ)他人(さわ)らせたくないような様子られると、もおっしゃらず、たちを見守るかのように、やかにひと(とき)注806)ほどごされてっていかれます。 

和歌(うた)修行何処かにんでしまい、定恵(じょうえ)定恵(じょうえ)であっというに、三年月日れました。

定恵はわがながら子供でした。がシッカリしてくるころには、定恵定恵一筋血道(ちみち)注807)が(のぼ)った状態ではなくなり、お父上んで定恵胡坐(あぐら)れ、(せん)()(ほん)などであやしますと、いたことにすぐえてしまいました。

父上は、安児(やすこ)子供以上だ、とって、いらっしゃるたびに、定恵に、えて下さった以上熱心さで、五経(ごきょう)注808)を中心えてくださいます。

また、定恵しい文言(もんごん)注809)をがりもせず、おとなしくいているのにもかされました。

父上時折筑紫(ちくし)加羅のおをされることもありますが、どは和歌選集のおで、父上大伴家基(おおとものいえもと)とで、和歌集選歌されていらっしゃるようです。最近は、いの挽歌(ばんか)注810)がい、といていらっしゃいます。

どうやら宇佐は、中大兄皇子にもお目見えして、その才能められたようです。中大兄皇子は、からくりとか細工とかがおきなので、宇佐こうで智識りたかったからでしょう。


 飛鳥は、多賀時折仕入(しい)れてきてしてくれます。

額田王中大兄皇子って三年ち、筑紫(ちくし)朝廷のご意向で、王位すことになり、無冠()となられたとか。それでも、みなは額田王(ぬかだのひめみこ)していて、御殿内歌人としての評判は、ますますくなっているそうです。

にもいましたように、額田王(ぬかひめ)は、っていましたが、蘇我大夫(そがのたゆう)孫娘の、御智(おち)(ひめ)注811)が夫人として入内(じゅだい)されてから、どうも大奥内(おおおくない)では以前のようには、しっくりいかなくなったとか。 それで、中大兄皇子弟御大海人皇子(おおしあまのおうじ)同情されている、と人口(じんこう)膾炙(かいしゃ)注812)している、とかきました。

  あかねさす (むらさき)()()標野(しめの)()

野守(のもり)ずや (きみ)(そで)()る (注813

 

紫草(むらさき)(にほ)へる(いも)を (にく)くあらば

 人妻(ひとづま)ゆゑに われ(こひ)めやも (注814

 

なかでも、この相聞歌(そうもんか)はちょっといすぎではないか、と御智姫柳眉(りゅうび)注815)を逆立(さかだ)てられ、「額田王(ぬかだのひめみこ)」と以後ぶことはならぬ、「采女(うねめ)注816)」とせよ、と女王に、ねじこまれたそうです。

御智姫(なだ)(かた)っていたところ、大海人皇子から、「殿のためにいている褒美を、おねだりしてよいか」と、采女額田(ぬかだ)所望(しょもう)注817)があったそうです。どうやら、()るに(びん)注818)の額田王(ぬかひめ)が、今ならチャンスとばかりに、大海人皇子知恵したものとにはわれます。

ともかく、五年後に、じように、額田王(ぬかひめ)中大兄皇子からることになりました。これもかの所縁(ゆかり)ばれているからなのでしょう。その御智姫もめでたく懐妊され、悋気(りんき)注819)も以前よりまり、()ちて「ささら注820)」を出産されました。

その「ささら」は、大海人皇子のお(きさき)になられるわけですが、まさかそのようなことになろうとは、お母様からわった易占(ふとまに)方術(ほうじゅつ)注821)でもることはできませんでした。 

 この五年の間、百済の義慈王も、国内の治世に意を注がれたそうで、百済・日の本連合と新羅との間には小競り合いはありましたが、小康状態を保ち、束の間ではあったにせよ、平和な世に戻っていました。

 幸山大君も一貴皇子がなくなられた時の興奮も収まり、後の、政治・軍事の体制を整えられ、兄の玉島王も(ひと)(かど)の将軍位を賜った、鬼太も徒士頭(かちがしら)に取り立てられた、とお父上からお聞きしました。

 新羅の方も戦争スキの王家で、ゴタゴタ続きでしたが、金春秋という傑物が摂政となってから、落ち着いてきたそうです。その金宰相が幸山大君と話し合いをしたいと、と言ってきたけれど、一貴皇子の戦士の一件があるので使者を追い返されたそうです。その話を鎌足殿が聞かれて、中大兄皇子と相談して、大君に「話を聞いてみても損はないでしょう、こちらも戦力を蓄える時間が必要ですから。もし何かあれば、その金春秋を(むかはり)として押さえたら良いわけですから」と、了解を頂いて、金宰相を飛鳥に呼ばれることになったそうです。

 お父上の言葉ですと、「中大兄の日の本に追いつけ追い越せ策は実った」そうです。満矛(みつほこ)大君さまの時代は、モロコシに追いつけ追い越せと、学問僧を送って学ばせ、父上もその一人であったわけです。その後は、加羅の王家の争いに巻き込まれたというのか、出しゃばったというのか、その方面に力を注ぐ有様。というようなことを、鎌足どのは、金宰相の渡来話にかこつけて、珍しくわたくしに愚痴っぽくおっしゃいました。

 新羅の金宰相が飛鳥に来る話を聞かれて、父上の鏡王は、何も仰いませんでした。もう私の役目は終わったようだ、と安心されたのか、最近の不摂生がたたったのか、床に着かれることが多くなり、山城の里にお見えになることもなくなりました。

薬師(くすし)の見立てでは(きも)の病ということで、(ぎゅう)(おう)という薬をお飲みになられていくらか顔色もよくなられたのだけれど、ご飯は召し上がらずに、お酒ばかりで、日に日に痩せていっておられる」という与射女房殿から連絡がありました。お見舞いに行かねば、と思っているところに、追っかけて、また、与射どのから「中大兄王子様がお見舞いに見える」という連絡もありました。
 久し振りに飛鳥に出かけることにし、もう数えの六歳になった定恵(じょうえ)も伴い、初お目見えもさせようかしら、と連れて行くことにしました。考えてみると、この五年間はまるでアワビのように、殻に閉じこもって、定恵にへばりついて生きていたような気もします。

 久し振りにみる飛鳥のお父上の館は、苔むした(いおり)に似て来て、物寂しくさえ感じられました。昔、若く下たちが集まって、放歌高吟した時代があったとはとても思えない(おもむき)です。

 父上は見る影もないほど(おも)変わりされていて、私は涙が出て止まらず、お父上の方が私を気遣ってくださいます。「心配するな、寿命(いのち)は尽きるときに尽きる。幸い宇佐岐(うさぎ)が帰ってきてくれたのも、天の配剤というものであろうて。中大兄殿もいろいろ気遣ってくれて、遠い国からの底野迦(ていやか)とかいう秘薬を届けてくれた。これを頂くと病気を忘れて、天人(てんにん)になったような心地がする。中大兄殿に頼んで今、墓を宇佐岐が工人頭(たくみがしら)となって造らせているところじゃ。大まか出来たら、蓮台(れんだい)にでも乗せてもらって一度見に・・・・」

「何故又そのようなお墓を?」「知らぬかの? 生前に墓を造るのは寿墓(じゅぼ)といって、造ることで長生きするという言い伝えがあるのじゃ」ということです。


 屋敷の片隅にこざっぱりとした小屋が立っていて、そこが宇佐岐たちの住処(すみか)でした。「今日は鏡王の言いつけで、近くの山に行っている、夕刻には帰る」と、花子(コッジャ)と名乗った宇佐岐の妻が言います。

 言葉はたどたどしいのですが、言うことの内容は、きちんとしています。百済でのお話を聞かせてもらったり、コッジャは、いつもヤスコ姫様のお話を聞かせていただいていたから、初めて会ったとは思えないくらいだ、とも言ってくれます。

 定恵もコッジャにすぐ懐いて、どうして」コッジャという名前なの、など聞いています。暗くなって宇佐岐はかえって来たようです。

 父上の今に仕事の捗り具合を報告し、傍らに付き添っていた私には、平伏して、
「お久しゅうございます。お元気の様子なによりでございます:」と言っただけで引き下がって行き、何か肩をすかされた気がしました。

「宇佐岐はなかなかの絵師じゃ。いや絵師以上邪。天井には天文の図を、と言うと、すぐに呑み込んでくれるし、東西南北に神獣を置きたいと言うと、それぞれに見事な絵を描いてくれた。作事場において石壁に描き写さねばならぬゆえ、仕方ないが、仕事が済んだらその絵をこの部屋の周囲に張り巡らせたい、と思ったほどじゃ」と父上はおっしゃいます。

 お墓に飾る絵をお今に置くのは、どうか、と思いましたが、父上がそうなされたいのならそうされるのが一番でしょうから、何も申し上げませんでした。石棺(いしのひつぎ)は もう筑紫から運ばせることもない、わしは大和の土になる運命であろうから、こちらの石を探させた、などとも 仰っています。

石棺【石棺のイラスト挿入】

「もう筑紫にはお帰りにはならないのですか?」と、かねてお聞きしようと思っていたことをお尋ねしました。

「うむ、寶女王(たからのじょおう)幸山大君(さちやまおおきみ)とうまく行き始めているし、わしの知識もほとんど大和一統の若公卿達に伝授した。帰りたいといえば帰してくれるかもしれぬが、もうわしもこのありさまだ。幸山大君も一貴殿亡きあと、高良(こうら)の偉賢王を養子に迎えて、北の大分(だいぶ)君と南の高良君とでうまくおさまっている。いまさらわしが何を言うこともない、人生いたるところ青山あり、じゃよ」

 言葉を継がれえて、「あと、その墓に入るまでに何とかしたいのが、大伴殿と進めている万葉集じゃ。まあ、こればかりは、終わりがないといえばない仕事ゆえ、致し方ないことではあるが」 ま、若い人たちに任せることにしよう」

 「どうじゃな、最近の作歌は?」と、急にお尋ねになりました。 これに対して答えようもありません。「このところ定恵の養育にかまかけて、まるで鮑貝(あわびがい)みたいになってしまい、歌を(うた)う気分にはなっていません」と正直に申しあげました。

あわび貝

「鎌足殿もよく辛抱しておまえに尽くしてくれる、と感心している。もう一貴殿への義理は果たせたと思うがのう。お前を昔から心憎からず思っているのに、経緯(いきさつ)はともかく夫婦の仲なのに触れようともしない、私みたいな我がまま男にはできない、天晴(あっぱ)れな男じゃ」と申されました。

 しかし、定恵の顔を見ていると、一貴さまの面影が浮かんできます。

 この五年名ばかりの夫婦なのを、鎌足どのには申し訳ないことと思ってはいました。言い淀んでいますと、話を変えられて、「して、定恵はどうじゃな?相変わらず書経に興味をもっているかの?」

「父上がお貸しくださった、四書五経(ししょごきょう)を何度も飽かず読んでびっくりします。誰に似たのかわかりませんが、和歌(うた)の道には興味示しません。私のあの年頃は、お父様がおっしゃるように、指を折りながら、五、七。五、七、七と三十一文字の言葉を探して遊んだものでしたが」

「ふーむ」と父上はおっしゃったきりで、話はそれで終わりました。 

 二日ほどして、寶女王名代(みょうだい)として中大兄皇子がお見えになりました。お付きの人を入れたら五十人位の、大掛かりの行列でした。思いがけなくも鎌足どのも一緒にみえられました。

 中大兄皇子は定恵を引見(いんけん)されて、「噂で聞いていたが、このように幼い子が、文字を既にほとんど覚えているというのは驚きだ。このように賢い子であれば、すぐにでも向こうの言葉も覚えるであろう。きっと役に立つ学問僧となろう」と、びっくりするようなことをおっしゃいました。


 皇子のお話しでは、日の本の遣唐使船は、幸山大君の意見で中止されたそうです。それを聞かれた中大兄皇子が、「大和はまだ遅れているので、こちらの責任で船を調達して大唐に行かせたいので、お許しねがいたい」と、お願いしたところ、幸山大君も、今は大和のン頼みを無碍にはことわれないからと、しぶしぶながら許可されたそうです。



 その夜、しみじみと定恵の寝顔を眺めていましたら、鎌足どのが寝間にはいって来られました。この子がいなくなる、と思うとさびしくなります、と申し上げましたら、すまむ、このわしが何もしてやれず、と抱きしめてくださいました。

 もう私も、中老とでもいわれる二十七歳です。もう殿方(とのがた)のお肌に触れることはないもの、と思っていましたので、すっかり(のぼ)せたような気持になりました。どなたかにすがりつきたいような気持のところにお見えになり、はしたなくも私の方からおすがり申し上げてしまいました。

 御笠の都近くでお父上の肩車で裾をはだけた恥ずかしいところをみられたことから始まって、大君の居間で墨を摺っていたときに声をかけられたときの驚きなどが走馬灯のように頭を駆け巡り、そなたが本から好きじゃった、とささやかれて体が燃えた感じがして思わず声を上げてしまったようです。鎌足どのは、なにもたしなめられず、又強く抱きしめてくださいました。

 このとき二人目の子、明日香媛が宿ってくれました。

 鎌足どのによって再び生きる気持ちを授けていただいたように思います。山城へはそのまま帰らず、鎌足どののもとで過ごすことになりました。


 やがて定恵が学問僧の一員として唐へ旅立ち、明日香媛が誕生しましても、落ち着いた気持ちで過ごすことができました。鎌足どのの大きなお心にすがって、女が幸せに生きる(すべ)を知らず知らずに学んでいたのでございましょう。短歌も再び浮かぶようになりました。

 けれどもう、額田王(ぬかたのひめみこ)と張り合って和歌を競う気持ちは失せていました。このころの歌で好きなのは、故郷の吉野の川を思い浮かべて、鎌足どのの、大きく流れ静かに浸みゆく愛、を詠んだ次の和歌(うた)です。
 

   
   み吉野の 樹の下隠り ゆく水の
 

     われこそ()さめ 御思(みおもい)よりは (注822 

 幸い父上も、中大兄皇子が援護kぅより到来の秘薬底野迦をくださったのがよく効いて、床から離れることもできるようになり、再び和歌選歌三昧をされ、穏やかに過ごされています。

                 (その九につづく)  (トップページに戻


その九に続く
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